「紫式部」『源氏物語』の誕生、「越前紙」2024/11/12 06:54

 石神主水さんの『時を掘る』、『夏潮』2023年11月号は「紫式部」。 <禅寺の犬おとなしき落葉かな>という高浜虚子の句で始まる。 この句は紫野の大徳寺で詠まれ、その大徳寺塔頭の真珠庵にある井戸は、紫式部産湯の井戸とされている。 出生は天禄元(970)年から天延元(973)年の間と推定されている。 父は藤原為時で「式部丞(シキブノジョウ)」であったことから、後年「藤(トウ)の式部」と呼ばれる。 「紫」に変ったのは、式部の死後で、紫野で生まれたという逸話が背景になったという説もあるそうだ。

 長徳4(998)年に、藤原宣孝(ノブタカ)と結婚し、娘の賢子(のちの大弐三位)が誕生する。 しかし長保3(1001)年4月に、宣孝が急死し、その秋ごろから『源氏物語』を書き始めたという説がある。 そして、寛弘2(1005)年12月29日には、一条天皇の中宮彰子(藤原道長の長女)に仕えるべく宮廷に召し出されることになる。 途中、宮仕えを退いた時期もあったようなのだが、寛仁2(2018)年ごろに、再び彰子に出仕したようだ。 史料で確認できるのは、寛仁3(2019)年正月5日に取次ぎ女房として登場するのを最後として、それ以後の活動は認められない。 なお『源氏物語』の完成は、寛弘7(1010)年夏ごろとされており、宮仕えの合間を縫って完成されたと考えられている。 寛弘5(1008)年11月1日の『紫式部日記』(現存写本は「紫日記」)に、藤原公任が紫式部を「若紫」と呼ぶ記事があり、『源氏物語』の存在を示す初出であるということから、11月1日を「古典の日」とすることが法制化されたそうだ。

 『時を掘る』、2023年11月号は「越前紙」。 紫式部は生涯に一度だけ都を離れたことがあり、長徳2(996)年の夏、父の藤原為時が、春の除目(ジモク・『時を掘る』、2023年1月号は「除目」)で越前国の国守に任じられたので、父とともに国府があった現在の福井県武生市へ行った。 この時の逸話として、『日本記略』には、一度は淡路守に任じられたものの、右大臣であった藤原道長が参内して、藤原為時を淡路守から越前守に変更したことが記されている。 その背景には、前年に越前の隣国若狭へ北宋の商人朱仁聰が来着する事件が起こっていて、交渉相手として漢文の才を持つ為時が選ばれたとする説もある。

有力な天延元(973)年生誕説をとると、数え24歳のころになる。 『紫式部集』に、<こゝにかく日野の杉むら埋む雪小塩(ヲシオ)の松に今日やまがへる(ここ日野山の杉木立を埋めるように雪が降り積もっていることよ。都の小塩山の松にも今日は雪が散り乱れているのだろうか)>という和歌があり、遠く越前から都を恋しく思う心が表れている。

 越前といえば、その特産の一つが紙で、越前和紙とも呼ばれ、とくに奉書紙とよばれる上質の楮で漉かれた紙は、公家や武家などの公の用紙として重用された。 越前紙は、楮、三椏、雁皮などの植物を材料として、その靭皮(ジンピ)繊維を主原料に、溜め漉き(漉舟に、水、紙の原料をいれ、それを金網ですくい上げて漉く方法)や、流し漉き(漉舟に、水、紙の原料、ネリ(トロロアオイ)を入れ、次に漉簀で数回すくいあげて漉く方法)などで作られる。 紫式部がその工房を訪れたのかどうかわからないが、越前紙を使う機会はあったのではないか、と石神主水さんは書いている。