原田宗典さんの「読書ということ」 ― 2024/11/16 07:08
私は、原田宗典さんという作家を知らなかった。 当然、作品や本も読んだことがなかった。 岩波書店の『図書』9月号で、「読書ということ」というエッセイを読んだ。 「日曜日、高校時代からの友人、HとNと三人で、久しぶりに会った。」と始まる。 新橋の方にある煙草が吸える喫茶店に行って、原田さんが文学と煙草は似ている、という話をしたら、Nがこう言った。 「そういえば最近さあ、電車の中で本を読んでる人、増えたと思わない?」 「そういえば今日、半蔵門線の中で、七人掛けの席に座っている人のうち、三人が本を読んでいたなあ」と、原田さん。 三人が本、二人がスマホ、残りの二人は目をつぶっていた。 本がスマホに勝ったという気がして、何だか嬉しかった、と言う。
原田宗典さんは、二十年ほど前、早稲田のカルチャー講座で、三カ月だけ講師を務めたことがあって、小林秀雄の話ばかりしていた。 すると、生徒の一人がやってきて、こんな話をしてくれた。 「今日、ここへ来る時、地下鉄の中で小林秀雄の文庫本を読んでいたんです。そしたら、僕の目の前に座っていた老紳士が『君、小林先生の本を読むなら、座って読みたまえ』と言って、席を譲ってくれたんです」
Hは、最近二十歳の頃に読んだ本を再読していると言って、鞄の中からトインビーの歴史学の本を出し、「この年になって読むと、また全然趣きが違うんだよなあ」と言った。 Nは、最近大江健三郎の『性的人間』を四十年ぶりに読んだが、「まったく何も覚えてなくて、こんな話だったのか、と驚いたよ」と言う。
三人でそんな話をしているうちに、原田さんの脳裏には、読書とは何か、という素朴な疑問が浮かんできた。 同時に、それに対する答えらしきものも彷彿とする。
名文家として知られる英文学者の福原麟太郎の随筆に、こんなのがあった。 自分のもとには毎日、毎週、毎月沢山の本や雑誌が送られてくる。 とてもじゃないけどそのすべてを真剣に読む時間はない。 だから自分は、一応読み始めて、面白くなくなったらすぐに放り出して、別の一冊を読むことにしている。 一冊の本を読み終えることが読書ではない。 本を読んでいる時間を指して、読書というのだ。
最後に原田宗典さんは、もう一度言う。 読書とは、一冊の本を読み切ることではない。 読んでいる時間を指して、読書というのである。
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