阪田寛夫さんと庄野潤三さん2025/01/30 07:05

 ここ数日、自分が書いたものの中から、阪田寛夫さんと庄野潤三さんを探していた。 庄野潤三さんが亡くなった2009年9月のこの日記に、庄野潤三さん、三枚のお葉書<小人閑居日記 2009. 9.24.>を見つけて、手掛かりを得た。 私は庄野潤三さんの本を愛読し、『インド綿の服』と『夕べの雲』について二編ずつ「等々力短信」に書いていた。 第481号「南足柄通信」1988(昭和63)年12月5日、第482号「ダッド&マム」同年12月15日、第499号「青い鳥」1989(平成元)年6月15日、第500号「ささやかな楽しみ」同年6月25日である。(平成2(1990)年12月5日刊『五の日の手紙2』所収)

 『インド綿の服』はエッセイ集、多摩丘陵生田の庄野家の近くから、南足柄の山の上に越して行った娘さんの五人家族との、8年間の生活と交情が、主に娘さんの愉快な手紙を紹介し、庄野さんが解説する形式で語られる。 『夕べの雲』は昭和41年読売文学賞受賞の小説、『インド綿の服』の娘さんがまだ高校2年生だった頃の話で、二人の弟さんたちと、生田の豊かな自然のなかで縦横の活躍をする。 そこには何でもない一家の日常生活が描かれているのだが、それが何ともすばらしい、平凡な人生をみつめる温かい目に共感するのだ。 巻末に、庄野さんは、この小説で「いま」を書こうと思った、「その「いま」というのは、いまのいままでそこにあって、たちまち無くなってしまうものである」と、書いている。

 阪田寛夫さんは、『わが小林一三 清く正しく美しく』のプロローグに、「私の下の娘が現在宝塚の生徒であり」、「没後二十六年経った今なお「校長先生」と呼びならわせるほどに、小林一三の生涯と分かちがたく結びつくこの団体の行動の規律が極めて厳格で、モットーが「清く正しく美しく」であることは(中略)「父兄」の一人として日頃よく承知している」と書いている。 その「下の娘」さんは、花組のトップスター大浦みずきとなり、庄野潤三さんの本には、夫妻や家族で観劇に行く話がよく出てくる。

 阪田寛夫さんは庄野潤三さんの、帝塚山学院小学校と大阪府立住吉中学校の後輩で、朝日放送でも同僚だった。 阪田寛夫さんに『庄野潤三ノート』(2018、講談社文芸文庫)という、庄野潤三さんの最高の理解者としての作品があるそうだ。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
「等々力」を漢字一字で書いて下さい?

コメント:

トラックバック