まど みちおさん、百歳の詩 ― 2025/02/01 07:08
2010年に、NHKスペシャル「ふしぎがり―まど みちお・百歳の詩」を見て、「等々力短信」にこんなことを書いていた。
等々力短信 第1007号 2010(平成22)年1月25日 まど みちおさん、百歳の詩
まど みちおさんがいる丘の上の病院に、見覚えがあった。 隣が遊園地で、ローラーコースターが上下する。 開院時に見学した友人の経営する病院だ。 3日放送のNHKスペシャル「ふしぎがり―まど みちお・百歳の詩」は、昨年11月に百歳を迎え、その病院で詩や絵を描き、周辺や屋上を車椅子で散策するまどさんの生活に密着した。
散歩の途中で拾った松ぼっくりから既に種子の飛び散っているのや、池で魚が跳ねてつくる波の輪や、自分の耳から生えてくる長い毛に驚き、不思議がって、日記に記す。 それが詩のタマゴになる。 耳の長い毛は、猫とか犬の代表になって、詩に書いてみる。 蟻も忙しいね、ひとしずくの涙みたいな(大きさの)もの、いじらしくなる。 申し訳ありませんという気持になる、こっちは馬鹿でかくて…。
「生きがいっていうものは、そういうもの。 生きていると、詩にしたい材料は見つかる。 どんな人でも、これで十分ということはありえないのですから」
「人間はなぜ詩を書くんか。 人間はなぜ息をするんか。 息をしないと死んでしまいます。 私は、詩を書かないと死んでしまう……ほどではございませんけども(笑)、息の次に大事なものがあります。 言葉でございます。 そういうものがどうしても出てくるのでございます」
故郷の徳山(現・周南市)の高校生が「幸せ」って何かと、百歳に尋ねる。
「現在を肯定的に見ることの出来る人は幸せ。 『全部に感謝しながら』という感じで、暮らしていくのが…自分は幸せ、他の者も幸せになるんじゃないかと思います」
七つ違いの妻・寿美さん(93)は、認知症の症状が出ているというが、テレビで見る限りは対話もしっかりしている。 まどさんが30歳の時、お見合い、ひと目惚れして結婚、以来七十年。 「寿美のアルツハイマーにはへこたれる」、食べきれない出前を頼み、鍋を焦がす。 でもそれを「アルツのハイマ君」と呼び、自分も同じ方に靴下を二足履いたりするからと、「トンチンカン夫婦」という詩に書く。 「おかげで索漠たる老夫婦の暮らしに笑いは絶えず、これぞ天の恵みと、図に乗って二人は大はしゃぎ。 明日はまたどんな珍しいトンチンカンを、お恵みいただけるかと、胸ふくらませている。 厚かましくも、天まで仰ぎみて……」
小林一三の「逸翁美術館」 ― 2025/02/02 07:41
自分が書いたものの中から、阪田寛夫さんと庄野潤三さんを探していて、最初に見つけたのは「新日曜美術館」が、池田にある小林一三の「逸翁美術館」を取れ上げた時だった。
「呉春」という酒と俳画家<小人閑居日記 2002.10.22.>
一昨日、池田の猪肉の牡丹鍋に「呉春」という酒が出てきた。 神吉拓郎さんは、その「ことしの牡丹」という掌編で、池田は灘よりも歴史が古く、米は備前の幻の酒米といわれる赤磐雄(あかいわお)米を使い、水はどことかの伏流水を使っていると蘊蓄を並べているが、「呉春」が絵描きの「呉春」と関係があるかまでは知らないと、登場人物に言わせている。 実は私、たまたま、これは知っていた(オホン)。
先々週の「新日曜美術館」は、池田にある小林一三の「逸翁美術館」を取り上げた。 蕪村の書画も、逸翁の新茶道も、なんとも面白い。 さっそく、書棚から阪田寛夫さんの『わが小林一三 清く正しく美しく』(河出書房新社)を出して、ぱらぱらやっていると、こんな話があった。 箕面有馬電車を開通させた小林一三は明治42年秋以来、池田に住みついた。 池田に稲束家という旧家があり、土地の老舗や造り酒屋など上層商人の「倶楽部」のようになっていて、一三もそこへ顔を出していた時期があった。
稲束家は慶長年間(17世紀初頭)の文書も残る豪商で、甲字屋の屋号で造り酒屋を営むほか、田畑山林家作を持ち、蕪村が活躍した18世紀後半には金融業を営んで大いに栄え、画家・俳諧師・力士も出入りし、書画持ちとしても聞えが高かった。 呉春は蕪村に画を学んだ数少い弟子の一人で、俳諧を能くし、(松村)「月渓」の号で俳画俳文を書いた。 呉春は、29歳から十年間弱、池田に住み、甲字屋稲束家の庇護を受けている。 呉春の号も、池田の呉服(くれは)の里にちなむ。 一三が通っていた頃の当主稲束芝馬太郎は、呉春の画を「最も多く蔵している人」として知られていたという。
小林一三・蕪村コレクションの初めと、「呉服」 ― 2025/02/03 07:00
小林一三・蕪村コレクションの初め<小人閑居日記 2002.10.23.>
池田(地元ではイの音にアクセント)「逸翁美術館」の小林一三コレクションには、茶器はもちろん、有名な蕪村とともに呉春の書画が圧倒的に多い。 だが蕪村蒐集の始まりは、池田の稲束家ではない。 それよりずっと前、一三が27歳で結婚した時、俳諧の宗匠だった妻コウの養父から結婚祝に贈られた二幅の短冊が最初で、これを契機に蕪村蒐集が始まるのだ。 この結婚にも、一つの事件があるのだが、それはまたの機会にしたい。 今も「逸翁美術館」にある二幅は、
「ほたむ(牡丹)散てうちかさなりぬ二三片」
「春の夜や宵暁の其中に」
「牡丹」の句は、小学校か中学校の「国語」で習った記憶がある。
二幅の短冊が蒐集の契機ではあるが、蕪村への関心は、阪田寛夫さんによれば、一三の慶應在学中の根岸の里へのあこがれに始まり、正岡子規の蕪村評価から廻り廻ってのことだという。 満15歳の春先から19歳の年の暮までの一三の慶應義塾生時代は、当時の学生としては破格の年二百円の仕送りを本家から受け、寄席や芝居や小説にうつつをぬかしていたらしい。 文学を通じて親しくなった先輩高橋義雄の世話で三井銀行に就職が決まり、明治26年正月から勤めるはずが、小説関連ということで都新聞入りも天秤にかけ、なかなか出社しないのを、旧友の横沢というのが叱りつけて無理矢理4月から銀行に通わせるようにした。 三井銀行本店へは、本家の次男小林近一の下根岸町の家「笛川居」に下宿して通った。 根岸御行の松の小林家から鉄道馬車の終点上野公園へ出るには、子規の家の近くを通ることになる。 一三は入門したわけでもないのに「(子規の)新派の俳句から教育されて一足飛びに蕪村宗になった」と、「蕪村の話」「蕪村の手紙」という文章に書いているそうだ。
「呉服」の懐は深い<小人閑居日記 2002.10.24.>
呉春の号が池田の呉服(くれは)の里にちなむ、と書いた。 余談である。 呉服と書けば、誰でも「ごふく」と読むだろう。 織物の総称、反物、布帛のこと。 絹織物。 そして「服」がついているから、和風の着物全体をいう感じを持って、使っていた。 だいぶ前に、司馬遼太郎さんの『街道をゆく』のテレビで「中国・江南のみち」を見ていて、呉服の呉が中国の国名から来ていることを、初めて知った。 ずっと「呉服」という言葉を使ってきて、その由来など、考えたこともなかったのである。
『広辞苑』(第四版)で「ごふく」【呉服】を引くと、最初に「呉の織り方によって織り出した布帛。くれはとり。」とある。 不親切な説明で「呉の織り方」とは何なんだ、と誰でもわからないだろう。 しかたなく(閑人以外は、わからないまま、やめてしまうかもしれぬ)「くれはとり」【呉織】を見ることになる。 (ハトリはハタオリの約)「(1)大和朝廷に仕えた渡来系の機織技術者。雄略天皇の時代に中国の呉から渡来したという。(2)呉の国の法を伝えて織った綾などの織物。」
『街道をゆく』「中国・江南のみち」に、「呉(ご)と呉(くれ)」「呉音と呉服」という章があるので、くわしくはそれを読んで頂きたい。 「奈良朝(あるいはそれ以前)このかた、日本との海上交通の中国側の基点は浙江省の杭州湾であった。日本へもってゆく高価な品物の筆頭は、各種の絹織物であった。それらはすべて呉(いまの蘇州市)の工場でつくられる。」
小林一三の、三井銀行大阪支店、名古屋支店時代 ― 2025/02/04 07:05
昨日「小林一三が27歳で結婚した時、俳諧の宗匠だった妻コウの養父から結婚祝に贈られた二幅の短冊が最初で、これを契機に蕪村蒐集が始まるのだ。 この結婚にも、一つの事件があるのだが、それはまたの機会にしたい。」とあったが、おそらく書いていなかった。 その機会が、22年後に来るとは面白い。 あらためて阪田寛夫さんの『わが小林一三 清く正しく美しく』で、そのあたりを読んでみたい。
小林一三は、慶應義塾の先輩で文学を通じて親しくなった高橋義雄(箒庵)に就職の世話になり、三井銀行入社の保証人になってもらった。 高橋義雄は時事新報記者だったが、パリ万国博覧会からの通信を大阪毎日新聞に寄せて帰朝後、明治24年1月、井上馨の推薦で三井銀行近代化の最初の布石として、中上川彦次郎より先に送り込まれていたのだ。 小林一三は、明治25年12月に慶應義塾を卒業、高橋の紹介で26年1月から三井銀行で働く約束だったが、小説家になりたいので都新聞に入る話もあって、銀行から早く来いと催促されても、ぶらぶらしていて、4月4日付辞令「十等席、小林一三東京本店勤務申渡」で秘書課に勤め始める。 高橋は、大阪支店長になっていた。 半年後9月、満20歳の小林一三は、大阪に転勤する。 着任後一、二年で、三井銀行の信用により、末席ながら地元財界の宴会に連なれるようになった。 高橋が三井呉服店(三越)の建直しに東京へ呼び戻され、岩下清周が支店長として赴任、「事業と人という取引関係」を重視する、この人との出会いが一三の後半生を大きく決めることになる。
明治28年9月から翌年9月岩下清周が積極的な融資拡大で中上川彦次郎の不興を買い左遷され退職、大阪北浜銀行創立に関わるまで、一年間の岩下清周支店長在任の疾風怒濤時代に、一三は初めて存分に力量を発揮したが、ちょうどその期間に可憐な愛人ができた。 数え年で、一三24歳、愛人は16歳、「明眸皓歯、鼻は高く、色は白く、丈はすらりとして品位高雅」。 銀行では店内粛正に、池田成彬が支店次長として乗り込んできて、一三は貸付係から預金受付に廻された。 岩下の北浜銀行へ行くことは、永久に大阪に在住することになるので踏み切れず、大阪でできた愛人をそのまま結婚相手にする決心もできず、悶々として、高橋義雄に東京本店転勤を頼む。 だが、明治30年1月、慶應出身の平賀敏が支店長の名古屋支店へ転勤となる。 名古屋は宴会が多く、三井系の銀行、物産、製糸場、それぞれの書生上りの社員たちが宴会に精を出し、花街での遊び方も派手だった。
名古屋転勤で絶縁すべく大決心した愛人だが、未練にも恋々たる恋文を出してしまい、土曜の夕方名古屋5時発の急行列車で5時間かけて大阪へ行き、日曜の夜行の最終時間まで遊んで月曜日早朝名古屋に帰って素知らぬ顔で出勤したり、逆に彼女を名古屋の下宿に呼び寄せて、逢瀬を楽しむ生活に逆戻りしていた。 いつまでも下宿住まいでは結婚もできないと、北鷹匠町に新築の家を借り、女中まで雇ったところが、16歳の愛人は大阪から飛んで来てしまう。 それがしばらく続くと、また「堅実なる家庭への望みに」良心の懊悩が始まった。 銀行の月給と賞与のほかに、本家から毎年千円ほど仕送りを受け、名古屋時代はさらに要るだけをねだって、少なくも今の金で一千万円は使えたという浪費ぶりだった。
小林一三が慶應義塾を出て、明治24年4月から三井銀行本店へ通ったのは、神田明神下から下根岸町の新居「笛川居」に移った小林近一の家に下宿してだった。 小林近一は本家の次男(一三の亡母の従弟)、のち銀行頭取もつとめ、慶應義塾在学中の保証人だから、一三にとっては東京の「おじさん」だった。 目と鼻の先の上根岸町に、文科大学中途退学直前の正岡子規が引越してきたのが前年2月で、根岸御行の松の小林家から鉄道馬車の終点上野公園に出るには、子規の家の近くを通ることになる。
79歳で明かした小林一三の結婚の事情 ― 2025/02/05 07:14
平賀支店長が大阪に栄転したのは明治32年2月で、「大阪へ行くとすれば、細君を早く貰ひ給へ」と、堅気の娘との結婚を条件として一三を大阪へ呼び戻してくれるという。 親切な平賀は、北浜銀行専務として活躍している岩下清周にも一三の身の上をはかってくれたらしく、岩下から美しい娘の写真が送られて来たが、この縁談も先方から断られた。 二度見合にも失敗した、愛人のことが知れ渡っているのだ。
窮するとすぐ代案を出す捻り出す特技を持つ一三は、そこで根岸の小林家に周旋を頼んで東京で見合をしようと考えた。 二人の候補者の写真が届くと、一日だけ休暇を取って上京、その一人と見合・即日婚約した。 平賀支店長の条件が満たされて、早速大阪転勤が実現、一三が名古屋にいたのは足かけ三年だった。 高麗橋一丁目の社宅が空くまでの約束で、大手通りにある友人の持家を借り、「お針さん」と呼んでいた名古屋の女中ともども新居をととのえ、東京の根岸小林家の大広間で結婚式を挙げた。 相手は、一三が79歳になって初めて「自叙伝」で発表した事実では、小林近一夫人の妹が嫁いでいる商家の取引先の「ういういしい丸々と肥った小娘で、さして別嬪というのではないが、感じのいい下町の娘」であった。 結婚式の夜は小林邸内の茶席の広間に泊り、翌日正午頃大勢に見送られて新橋駅を発ち、「大阪まで新婚旅行」、その他愛なく無邪気で、物事にこだわらない性質を一三は好ましく思い、「これなら愛してゆける」と満足した。 翌朝大阪に着き、二日目の夜は、今橋橋詰の橋の下から二人で納涼船に乗って大川へ出た。 この時も、新妻が「舷を叩き水をもてあそび、嬉々として大満足である」のを見て、「これならば永く愛し合ふことの出来る生活は可能である」と思ったと、一三は重ねて書いている。
しかし、数日後愛人のことが発覚した際の進退をみると、決して彼女は一三が希望的に解釈したほど「他愛なく」も、「こだわらない性質」でもなかった。 船遊びの夜、11時過ぎに家に戻ると、留守居のお針さんが、不在中に愛人が来て、悄然として帰ったと一三にささやいた。 阪田寛夫さんは、愛人を「一三から魅力と、将来の可能性とを併せて直感した最初の人であった」と書いている。 その愛人――のちの妻コウに、一三は多分翌日すぐ連絡をとった。 そして新婚の妻には銀行の同僚たちとのかねての約束だからと称して、留守番をさせて、二泊の予定で有馬温泉の「兵衛」へ愛人を連れ出した。 銀行には三四日間の暑中休暇を取った。
「自叙伝」の引用、「彼女は平素から無口であるが、有馬に居った二日間、何もしゃべらなかった。対話は形式の単語にすぎない。枕をならべて眠る。『少しは笑ったらどう』『をかしく無いのに笑へませんわ』といふのである。/私もまけぬ気になって黙って居った。突然、唇をもってゆく、横を向くかと思ひの外、ジッとして静かに受ける、眼と眼が合ふと鋭く何かに射られたやうに私の良心は鼓動するのである。そして彼女の眼底から、玉のやうに涙が溢れてくる、頬に伝ふ幾筋かの流を拭きもせず、ジッと私を見守るのである。恨むとか、訴ふるとかいふ、さういふ人間的情熱の表現ではない、神秘の世界に閃めく霊感的の尊厳に威圧せられるが如くに、『私がわるかった、わるかった』と、私の声はかすかにふるふのである。/彼女は冷然として、いとも静かに私の手から離れ、そして黙々として知らざるものの如くに寝入るのである。」
三日目の夜、彼女の家まで送り届けて帰ろうとしたが手をとって離さない。 誘われるまま二階に上り、また有馬と同じ不安と恐れの一夜を明かしてしまい、寝不足のまま朝早く家に戻ると新妻がいない。 東京へ一昨日帰られましたと告げるお針さんがことづかっていた手紙は、動転している最中に書いた筈なのに鮮やかな筆跡で、内容も立派なものであった。 「お針さんから、その方の十五歳の時から交際して居られるという御婦人の話をききました。わたしはあなたをおうらみいたしません。只々軽率であったことを後悔するだけです。黙って帰ることは誠に申訳なく思いますけれど、ほかにどうすることもできませんから。神さま、私の罪を許し給え」 一三はこの要約に、最後の一句は彼女がメソジスト教会(プロテスタント)の信者だったからであろうと、自註を加えている。 一週間後、根岸の小林家から長文の手紙が来て、新妻は二度と大阪に戻る気はないと固く決心している、と。 寛大な小林家には呆れられ、先ず銀行の中で噂が立ち、次に朝日新聞に変名の艶談が出た。
年譜には、明治32年8月大阪支店に転勤、翌33年10月丹羽コウと結婚とあるが、「自叙伝」には彼女との結婚を一年早く「明治32年の夏、彼女は早や妙齢18、花ならば満開、麗艶の期を失はず、私は彼女の養父を説服した」とある。 結婚が明治32年=1899年なら、1882年生れのコウは、満17歳となる。 一水庵の二階広間で、一家団欒的のお祝を開いて式をあげ、彼女の養父は大事な蕪村の短冊を、一三への記念として彼女の荷物の中に持たせてくれた。
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