小林一三・蕪村コレクションの初めと、「呉服」 ― 2025/02/03 07:00
小林一三・蕪村コレクションの初め<小人閑居日記 2002.10.23.>
池田(地元ではイの音にアクセント)「逸翁美術館」の小林一三コレクションには、茶器はもちろん、有名な蕪村とともに呉春の書画が圧倒的に多い。 だが蕪村蒐集の始まりは、池田の稲束家ではない。 それよりずっと前、一三が27歳で結婚した時、俳諧の宗匠だった妻コウの養父から結婚祝に贈られた二幅の短冊が最初で、これを契機に蕪村蒐集が始まるのだ。 この結婚にも、一つの事件があるのだが、それはまたの機会にしたい。 今も「逸翁美術館」にある二幅は、
「ほたむ(牡丹)散てうちかさなりぬ二三片」
「春の夜や宵暁の其中に」
「牡丹」の句は、小学校か中学校の「国語」で習った記憶がある。
二幅の短冊が蒐集の契機ではあるが、蕪村への関心は、阪田寛夫さんによれば、一三の慶應在学中の根岸の里へのあこがれに始まり、正岡子規の蕪村評価から廻り廻ってのことだという。 満15歳の春先から19歳の年の暮までの一三の慶應義塾生時代は、当時の学生としては破格の年二百円の仕送りを本家から受け、寄席や芝居や小説にうつつをぬかしていたらしい。 文学を通じて親しくなった先輩高橋義雄の世話で三井銀行に就職が決まり、明治26年正月から勤めるはずが、小説関連ということで都新聞入りも天秤にかけ、なかなか出社しないのを、旧友の横沢というのが叱りつけて無理矢理4月から銀行に通わせるようにした。 三井銀行本店へは、本家の次男小林近一の下根岸町の家「笛川居」に下宿して通った。 根岸御行の松の小林家から鉄道馬車の終点上野公園へ出るには、子規の家の近くを通ることになる。 一三は入門したわけでもないのに「(子規の)新派の俳句から教育されて一足飛びに蕪村宗になった」と、「蕪村の話」「蕪村の手紙」という文章に書いているそうだ。
「呉服」の懐は深い<小人閑居日記 2002.10.24.>
呉春の号が池田の呉服(くれは)の里にちなむ、と書いた。 余談である。 呉服と書けば、誰でも「ごふく」と読むだろう。 織物の総称、反物、布帛のこと。 絹織物。 そして「服」がついているから、和風の着物全体をいう感じを持って、使っていた。 だいぶ前に、司馬遼太郎さんの『街道をゆく』のテレビで「中国・江南のみち」を見ていて、呉服の呉が中国の国名から来ていることを、初めて知った。 ずっと「呉服」という言葉を使ってきて、その由来など、考えたこともなかったのである。
『広辞苑』(第四版)で「ごふく」【呉服】を引くと、最初に「呉の織り方によって織り出した布帛。くれはとり。」とある。 不親切な説明で「呉の織り方」とは何なんだ、と誰でもわからないだろう。 しかたなく(閑人以外は、わからないまま、やめてしまうかもしれぬ)「くれはとり」【呉織】を見ることになる。 (ハトリはハタオリの約)「(1)大和朝廷に仕えた渡来系の機織技術者。雄略天皇の時代に中国の呉から渡来したという。(2)呉の国の法を伝えて織った綾などの織物。」
『街道をゆく』「中国・江南のみち」に、「呉(ご)と呉(くれ)」「呉音と呉服」という章があるので、くわしくはそれを読んで頂きたい。 「奈良朝(あるいはそれ以前)このかた、日本との海上交通の中国側の基点は浙江省の杭州湾であった。日本へもってゆく高価な品物の筆頭は、各種の絹織物であった。それらはすべて呉(いまの蘇州市)の工場でつくられる。」
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