小林一三の、三井銀行大阪支店、名古屋支店時代 ― 2025/02/04 07:05
昨日「小林一三が27歳で結婚した時、俳諧の宗匠だった妻コウの養父から結婚祝に贈られた二幅の短冊が最初で、これを契機に蕪村蒐集が始まるのだ。 この結婚にも、一つの事件があるのだが、それはまたの機会にしたい。」とあったが、おそらく書いていなかった。 その機会が、22年後に来るとは面白い。 あらためて阪田寛夫さんの『わが小林一三 清く正しく美しく』で、そのあたりを読んでみたい。
小林一三は、慶應義塾の先輩で文学を通じて親しくなった高橋義雄(箒庵)に就職の世話になり、三井銀行入社の保証人になってもらった。 高橋義雄は時事新報記者だったが、パリ万国博覧会からの通信を大阪毎日新聞に寄せて帰朝後、明治24年1月、井上馨の推薦で三井銀行近代化の最初の布石として、中上川彦次郎より先に送り込まれていたのだ。 小林一三は、明治25年12月に慶應義塾を卒業、高橋の紹介で26年1月から三井銀行で働く約束だったが、小説家になりたいので都新聞に入る話もあって、銀行から早く来いと催促されても、ぶらぶらしていて、4月4日付辞令「十等席、小林一三東京本店勤務申渡」で秘書課に勤め始める。 高橋は、大阪支店長になっていた。 半年後9月、満20歳の小林一三は、大阪に転勤する。 着任後一、二年で、三井銀行の信用により、末席ながら地元財界の宴会に連なれるようになった。 高橋が三井呉服店(三越)の建直しに東京へ呼び戻され、岩下清周が支店長として赴任、「事業と人という取引関係」を重視する、この人との出会いが一三の後半生を大きく決めることになる。
明治28年9月から翌年9月岩下清周が積極的な融資拡大で中上川彦次郎の不興を買い左遷され退職、大阪北浜銀行創立に関わるまで、一年間の岩下清周支店長在任の疾風怒濤時代に、一三は初めて存分に力量を発揮したが、ちょうどその期間に可憐な愛人ができた。 数え年で、一三24歳、愛人は16歳、「明眸皓歯、鼻は高く、色は白く、丈はすらりとして品位高雅」。 銀行では店内粛正に、池田成彬が支店次長として乗り込んできて、一三は貸付係から預金受付に廻された。 岩下の北浜銀行へ行くことは、永久に大阪に在住することになるので踏み切れず、大阪でできた愛人をそのまま結婚相手にする決心もできず、悶々として、高橋義雄に東京本店転勤を頼む。 だが、明治30年1月、慶應出身の平賀敏が支店長の名古屋支店へ転勤となる。 名古屋は宴会が多く、三井系の銀行、物産、製糸場、それぞれの書生上りの社員たちが宴会に精を出し、花街での遊び方も派手だった。
名古屋転勤で絶縁すべく大決心した愛人だが、未練にも恋々たる恋文を出してしまい、土曜の夕方名古屋5時発の急行列車で5時間かけて大阪へ行き、日曜の夜行の最終時間まで遊んで月曜日早朝名古屋に帰って素知らぬ顔で出勤したり、逆に彼女を名古屋の下宿に呼び寄せて、逢瀬を楽しむ生活に逆戻りしていた。 いつまでも下宿住まいでは結婚もできないと、北鷹匠町に新築の家を借り、女中まで雇ったところが、16歳の愛人は大阪から飛んで来てしまう。 それがしばらく続くと、また「堅実なる家庭への望みに」良心の懊悩が始まった。 銀行の月給と賞与のほかに、本家から毎年千円ほど仕送りを受け、名古屋時代はさらに要るだけをねだって、少なくも今の金で一千万円は使えたという浪費ぶりだった。
小林一三が慶應義塾を出て、明治24年4月から三井銀行本店へ通ったのは、神田明神下から下根岸町の新居「笛川居」に移った小林近一の家に下宿してだった。 小林近一は本家の次男(一三の亡母の従弟)、のち銀行頭取もつとめ、慶應義塾在学中の保証人だから、一三にとっては東京の「おじさん」だった。 目と鼻の先の上根岸町に、文科大学中途退学直前の正岡子規が引越してきたのが前年2月で、根岸御行の松の小林家から鉄道馬車の終点上野公園に出るには、子規の家の近くを通ることになる。
最近のコメント