79歳で明かした小林一三の結婚の事情2025/02/05 07:14

 平賀支店長が大阪に栄転したのは明治32年2月で、「大阪へ行くとすれば、細君を早く貰ひ給へ」と、堅気の娘との結婚を条件として一三を大阪へ呼び戻してくれるという。 親切な平賀は、北浜銀行専務として活躍している岩下清周にも一三の身の上をはかってくれたらしく、岩下から美しい娘の写真が送られて来たが、この縁談も先方から断られた。 二度見合にも失敗した、愛人のことが知れ渡っているのだ。

 窮するとすぐ代案を出す捻り出す特技を持つ一三は、そこで根岸の小林家に周旋を頼んで東京で見合をしようと考えた。 二人の候補者の写真が届くと、一日だけ休暇を取って上京、その一人と見合・即日婚約した。 平賀支店長の条件が満たされて、早速大阪転勤が実現、一三が名古屋にいたのは足かけ三年だった。 高麗橋一丁目の社宅が空くまでの約束で、大手通りにある友人の持家を借り、「お針さん」と呼んでいた名古屋の女中ともども新居をととのえ、東京の根岸小林家の大広間で結婚式を挙げた。 相手は、一三が79歳になって初めて「自叙伝」で発表した事実では、小林近一夫人の妹が嫁いでいる商家の取引先の「ういういしい丸々と肥った小娘で、さして別嬪というのではないが、感じのいい下町の娘」であった。 結婚式の夜は小林邸内の茶席の広間に泊り、翌日正午頃大勢に見送られて新橋駅を発ち、「大阪まで新婚旅行」、その他愛なく無邪気で、物事にこだわらない性質を一三は好ましく思い、「これなら愛してゆける」と満足した。 翌朝大阪に着き、二日目の夜は、今橋橋詰の橋の下から二人で納涼船に乗って大川へ出た。 この時も、新妻が「舷を叩き水をもてあそび、嬉々として大満足である」のを見て、「これならば永く愛し合ふことの出来る生活は可能である」と思ったと、一三は重ねて書いている。

 しかし、数日後愛人のことが発覚した際の進退をみると、決して彼女は一三が希望的に解釈したほど「他愛なく」も、「こだわらない性質」でもなかった。 船遊びの夜、11時過ぎに家に戻ると、留守居のお針さんが、不在中に愛人が来て、悄然として帰ったと一三にささやいた。 阪田寛夫さんは、愛人を「一三から魅力と、将来の可能性とを併せて直感した最初の人であった」と書いている。 その愛人――のちの妻コウに、一三は多分翌日すぐ連絡をとった。 そして新婚の妻には銀行の同僚たちとのかねての約束だからと称して、留守番をさせて、二泊の予定で有馬温泉の「兵衛」へ愛人を連れ出した。 銀行には三四日間の暑中休暇を取った。

 「自叙伝」の引用、「彼女は平素から無口であるが、有馬に居った二日間、何もしゃべらなかった。対話は形式の単語にすぎない。枕をならべて眠る。『少しは笑ったらどう』『をかしく無いのに笑へませんわ』といふのである。/私もまけぬ気になって黙って居った。突然、唇をもってゆく、横を向くかと思ひの外、ジッとして静かに受ける、眼と眼が合ふと鋭く何かに射られたやうに私の良心は鼓動するのである。そして彼女の眼底から、玉のやうに涙が溢れてくる、頬に伝ふ幾筋かの流を拭きもせず、ジッと私を見守るのである。恨むとか、訴ふるとかいふ、さういふ人間的情熱の表現ではない、神秘の世界に閃めく霊感的の尊厳に威圧せられるが如くに、『私がわるかった、わるかった』と、私の声はかすかにふるふのである。/彼女は冷然として、いとも静かに私の手から離れ、そして黙々として知らざるものの如くに寝入るのである。」

 三日目の夜、彼女の家まで送り届けて帰ろうとしたが手をとって離さない。 誘われるまま二階に上り、また有馬と同じ不安と恐れの一夜を明かしてしまい、寝不足のまま朝早く家に戻ると新妻がいない。 東京へ一昨日帰られましたと告げるお針さんがことづかっていた手紙は、動転している最中に書いた筈なのに鮮やかな筆跡で、内容も立派なものであった。 「お針さんから、その方の十五歳の時から交際して居られるという御婦人の話をききました。わたしはあなたをおうらみいたしません。只々軽率であったことを後悔するだけです。黙って帰ることは誠に申訳なく思いますけれど、ほかにどうすることもできませんから。神さま、私の罪を許し給え」 一三はこの要約に、最後の一句は彼女がメソジスト教会(プロテスタント)の信者だったからであろうと、自註を加えている。 一週間後、根岸の小林家から長文の手紙が来て、新妻は二度と大阪に戻る気はないと固く決心している、と。 寛大な小林家には呆れられ、先ず銀行の中で噂が立ち、次に朝日新聞に変名の艶談が出た。

 年譜には、明治32年8月大阪支店に転勤、翌33年10月丹羽コウと結婚とあるが、「自叙伝」には彼女との結婚を一年早く「明治32年の夏、彼女は早や妙齢18、花ならば満開、麗艶の期を失はず、私は彼女の養父を説服した」とある。 結婚が明治32年=1899年なら、1882年生れのコウは、満17歳となる。 一水庵の二階広間で、一家団欒的のお祝を開いて式をあげ、彼女の養父は大事な蕪村の短冊を、一三への記念として彼女の荷物の中に持たせてくれた。

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