三田あるこう会、「芝」を歩く2025/02/06 07:04

 2月3日は、福沢諭吉の命日で、三田あるこう会は、昭和52(1977)年に墓所が移された元麻布の善福寺でなく、当初の墓があった上大崎の常光寺を参拝するのが恒例になっている。 会長の宮川幸雄さんの当番で、第574回例会のタイトルは、「「芝」から常光寺参拝」となった。 都営地下鉄三田線の三田駅、福祉会館方面改札集合、ここは私が三田キャンパスへ行くときに使っている場所だ。 しかし、いつもはエレベーターでNEC本社横に出てしまうので、NEC本社正面に出るエスカレーターは初めて乗った。

 日比谷通りに出ると、一面の高いビルである。 この付近一帯は、戊辰戦争の発端になった慶應3年12月25日の薩摩藩邸焼き討ち事件のあった薩摩藩上屋敷の場所である。 芝3丁目の信号を左折し、三井住友信託銀行の前を通って、右折すると「芝さつまの道」に出る。 三井住友信託銀行で思い出した、俵元昭さんの『港区史跡散歩』(学生社)に、薩摩藩邸焼き討ち事件の跡地は、明治になって通称薩摩っ原(のちに電車の停留所名)と呼ばれていて、薩摩出身の松方正義(のちの蔵相首相)の実兄と木村荘平がもっていたが、負債の担保になっていて三井財閥を中上川彦次郎が支配していた時代に三井が買い取った、とあった。 この一帯に工場のあった日本電気(NEC)は住友系だから、三井との関係でこの地を占めた訳ではなかったのだろう(まさか三井住友になるとは…)。

 「芝さつまの道」の案内板にある江戸の切絵図を見ると、薩摩藩上屋敷は広大で、福沢諭吉が明治4年に買い取って新銭座から移転した島原藩邸や、その隣の伊予松山藩邸(松方正義邸→イタリア大使館)にも、接している。

 「芝さつまの道」から、日比谷通りを渡って右折、昔と場所が変わった戸板女子短大(戸板康二さんの戸板だとは、最近その蔵書が保存されていると聞くまで知らなかった。)の前を通り左折して、「さつまの七曲がり」へ行く。 江戸に入る主要な場所で、薩摩藩上屋敷を警戒する意図もあったのだろう、防御の為に直線を避けている。 昔のままの「曲がり」が残っているのが、可笑しい。 いざの時の防御のために宿場に寺を集めていたことを、神奈川などで聞いたことがある。 この付近にも、寺が沢山集まっているのだが、俵元昭さんの前掲書によると、中世芝村以来の寺院群で、徳川家康入部後の建立ではない。

 このあと行った芝4丁目の大きな交差点で、第一京浜と交わる道路が、江戸時代初期以前の古川で、道はそれを埋め立てたものだそうだ。 明治の半ばまで入り堀の水路が残り、その先のJRのガードを海の方へくぐった先芝浦1丁目の「重箱堀」はその名残りという。 この中世以前の古川河口付近には、当時江戸湾内でも有数の水運漁業の集落が存在し、その由来を物語るのが中世以来の寺院や文書の記録の伝承だそうだ。 明治時代には、このあたりに東京初の海水浴場を、鐘ヶ江清朝という蘭方医が、病気療養や健康増進のために開いた。

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