「非常ノ人」マルチクリエーター平賀源内 ― 2025/03/26 07:03
『英雄たちの選択』で、「江戸を駆けたマルチクリエーター平賀源内」を見た。 磯田道史さんは、平賀源内のような人物にある、好奇心に満ちたお江戸の知性が、日本再生のヒントになる、と言った。 杉浦友紀アナから、浅田春奈アナに代わっていた。
平賀源内(1728(享保13)年~1779(安永8)年)は、現在の香川県さぬき市志度に高松藩の小吏(足軽)の子に生まれ、早くから植物や動物に興味を持ち、本草学、博物学を学んだ。 殿様の松平頼恭(よりたか)は、いわゆる博物大名で、堀に海水を入れて海の魚を飼うなどし、『衆鱗図』という精密な魚類図鑑や植物図鑑をつくっていたので、身分階級を越えて重用される。 1752(宝暦2)年25歳で長崎に遊学2年、世界と出合う。 1754(宝暦4)年、妹の子に平賀家の家督を譲り、藩務退役を願い出、浪人となる。 「湯上りや世界の夏の先走り」の句に、石上敏さん(大阪商大教授・国文学)は自信と高揚感が出ている、と。 1756(宝暦6)年、29歳で江戸へ。
本草家田村元雄に入門、「薬品会(え)」で門下や同学の人々と交流した。 1759(宝暦9)年、自ら「薬品会」を主催して、紅毛産八種を含む五十種を出品披露し、新進気鋭の本草学者として注目される。 藩主松平頼恭は、源内を四倍の給料で高松に呼び戻し、薬草園の仕事や頼恭の調査同行などで、源内は忙殺される。 クリエーターの小山薫堂さんは、仕事をするとき自分は「新しいか、自分にとって楽しいか、誰かを幸せにするか」を念頭に置いているが、源内には「世の中の役に立つか」という意識があったのだろうと語った。 石上敏さんは、本草学と文学がつながっている、と。 今橋理子さん(学習院女子大学教授・美術史、秋田蘭画研究)は、殿様博物学恐るべし、と。 高松藩は、ため池で水分コントロールした商品型農業を行い、物産が盛んだった。 多忙な源内は、自分の研究ができず、1年半で辞職願を出し、7か月かかったが、「仕官御構」(他の藩には仕官しない)という条件で、1761(宝暦11)年、34歳で再び浪人となり、江戸へ。
大判50×33センチの引札で宣伝し、参加者の身分を取り払った全国規模の博覧会「東都薬品会」を開く。 全国の埋もれた産物を発見するため、25か所に「諸国物産取次所」を設け、江戸の受取所宛に送料着払いで送らせた。 1762(宝暦12)年4月10日、湯島で開催し、トリカブト、ジャスミン、南蛮のヤモリ、サトウキビなど、珍しい物が集まった。 なぜか(会場費の都合か)一日開催だったが、全六巻の『物類品隲(しつ)』という図録を刊行、360品が図解され、サトウキビから砂糖の精製法なども、実用できるよう説明している、この出版のほうが目的だったかもしれない。 源内は「この指止まれが上手い」、「同志諸君の所蔵品を送ってくれ」と共感を呼び、各地近隣の取次所、着払いシステムなど、アイデアに富んでいる。
源内は、戯作でも1763(宝暦13)年、天竺浪人のペンネームで『根南志具佐(ねなしぐさ)』というベストセラーを出している(その物語は明日、申し上げることにする)。 菅原櫛の発明、有名なエレキテルの実験、『放屁論』、今橋理子さんは源内の《西洋婦人図》は歌麿の大首絵につながったかもしれない、などなど、平賀源内は多彩な活躍をしたマルチクリエーターだった。
しかし、こうした活動で借金がかさみ、それを挽回すべく始めた秩父中津川の鉱山開発に8年を掛け、失敗、現在の2億円の借金を作り、山師と言われた。 精神的に不安定になり、1779(安永8)年11月殺傷事件を起こし、投獄され、12月獄中で亡くなった。 杉田玄白は、親友源内獄死の報に接すると、歎き悲しみ、私財を投じて墓碑を建てようとし、「処士鳩渓墓碑銘」を撰んだ。 その結びに(原漢文)「噫(ああ) 非常ノ人 非常ノ事ヲ好ク 行ヒ是レ非常 何ゾ非常ニ死スルヤ 鷧斎(いさい) 杉田翼撰」と記した。
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