大田南畝、狂歌会を開き、狂歌ブームを起こす ― 2025/04/02 07:06
大田南畝は、寛延2(1749)年、江戸の牛込中御徒町(現在の新宿区中町)で、御徒の大田正智の嫡男として生まれた。 名は覃(ふかし)、字は子耕、南畝は号。 通称、直次郎、のちに七左衛門と改める。 狂名、四方赤良(よものあから)。 別号、蜀山人。
下級武士の貧しい暮らしで、なだいなださんによると、七十俵五人扶持、内職でもしなければ暮らしていけない、最下級の給与だった。 しかし、幼少より学問や文筆に秀でたため、15歳で江戸六歌仙の一人、内山賀邸に入門し、札差から借金をしつつ国学や漢学の他、漢詩、狂詩を学んだ。 朱楽菅江、平秩東作、唐衣橘洲は同門で、書き溜めた狂歌が東作に見出され、明和4(1767)年狂歌集『寝惚先生文集』として刊行、評判となる。 明和6(1769)年頃から四方赤良と号し、狂歌会を開催「山手連(四方側)」と称し活動し始める。 これが江戸で大流行となる「天明狂歌」のきっかけを作る。 四方赤良が狂歌会を開き始めてから十年たつかたたないかの頃だった、四方赤良が『徳和歌後万載集』の作品を募集した時、応募作品は車五台分、一千箱に一杯になるほどだったという。
ちょっと、このあたりの年号と期間を整理しておく。 寛延1748~1751(3年間)、宝暦1751~1764(13年間)、明和1764~1772(8年間)、安永1772~1781(9年間)、天明1781~1789(8年間)、寛政1789~1801(12年間)、享和1801~1804(3年間)。
田沼意次が側用人・老中として幕政の実権を握ったのは宝暦(1751~1764)年間から、明和、安永、天明(1781~1789)年間にかけての期間だった。 田沼時代といわれるこの時期、潤沢な資金を背景に商人文化が花開いた時代だった。 天明の狂歌の運動は、人気作家を生み出した。 人気作家は、また運動を盛り上げた。
四方赤良は、安永9(1780)年、この年に黄表紙などの出版業を本格化した蔦屋重三郎を版元として四方屋本太郎の名で『嘘言八百万八伝』を出版した。 山東京伝などは、この頃に四方赤良が出会って見出した才能だとも言われている。
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