四方赤良・大田南畝の「寛政の改革」後 ― 2025/04/04 07:15
喜多川歌麿の「大首絵」が出現した寛政4(1792)年、四方赤良として、狂歌師あるいは洒落本の当代随一の作家として、既に名を成した有名人だった大田南畝は、46歳で幕府の行なった学問吟味の試験を受け、御目見え以下の武士の部で、一番で合格した(なだいなださんは、寛政6(1794)年)。 田沼意次の腹心で断罪された土山宗次郎と親しく、<世の中に蚊ほどうるさきものはなし、ぶんぶというてよるもねられず>の作者と目された筆禍事件の後、狂歌と絶縁した彼は、若いものと一緒に机を並べて学問吟味の試験を、受けたのか、受けさせられたのか、役人に転身して生活をたてようとしたのであろう。 非常に屈辱的だったろうが、首席合格で銀十枚のほうびを頂戴し、面目を保って、見事にきりぬけた。
だが当時、出世のために必要なのは、学歴でなく、家柄だった。 彼に与えられた仕事は、幕府の古い帳簿や帳面などの整理であった。 <五月雨の日も竹橋の反故しらべ けふもふるちやうあすもふるちやう>と、詠んでいる。 竹橋には勘定所(大蔵省)の書庫があり、明けても暮れても、彼は古い文書の整理に追われていたのである。 天才をなんという仕事に使ったものだろう。 それでも、彼は古い帳面を見て、面白いものがあれば、すべてきちんと書き留めておいたので、それが、現代の経済史の研究者や歴史家にとっては、実に有用な資料となっているそうだ。 七十俵五人扶持の家禄だった彼は、この仕事で三十俵分の給料値上げを得た。
大田直次郎が学問吟味を受ける前に、彼が個人教授をしていた若い弟子たちも、学問吟味でよい成績で合格した。 だが、どういうわけか、彼は、官途の出世では、自分の弟子たちに追い越されてしまうのである。 最下級の武士である彼が、大名や旗本と交友関係にあったことが、マイナスに作用したのであった。 と、なだいなださんは『江戸狂歌』に、書いている。
「ウイキペディア」によると、学問吟味合格の2年後の寛政8(1796)年、支配勘定に任用され、寛政12(1800)年御勘定所諸帳面取調御用、享和元(1801)年大坂銅座に一年間赴任、この頃から中国で銅山を「蜀山」といったのに因み「蜀山人」の号で再び狂歌を細々と再開する。 文化元(1804)年長崎奉行所赴任、文化5(1808)年、堤防の状態などを調査する玉川巡視の役目に就く(4月1日に書いた、十返舎一九に語ったノミの逸話はこの折のことだろう)。 文化9(1812)年、息子の定吉が心気を患って失職したため、隠居を諦め働き続ける。
文政6(1823)年、登城の道での転倒が元で死去、75歳。 辞世の歌は、<今までは人のことだと思ふたに俺が死ぬとはこいつはたまらん>と伝わる。
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