蔦重出版物の其角の句、「江戸吉原」イメージ継承2025/04/08 07:09

 池田芙美さんの「蔦重と「一蝶・其角リバイバル」―京伝・南畝・歌麿」は、つづいて宝井其角(1661(寛文元)~1707(宝永4))である。 英一蝶と親交の深かった宝井其角は、松尾芭蕉の許で俳諧を学び、蕉門の十哲の一人。 師の句とはやや趣向を異にし、派手で洒脱な句風で知られる。 英一蝶と二人で、幼い二代目市川団十郎を吉原に連れ出したエピソードが有名で、一蝶が三宅島配流中も手紙のやりとりを続け、心の支えになった。

 蔦重の出版物には、端々に其角の句の引用が見られる。 たとえば、山東京伝作・十返舎一九画『初役金烏帽子魚(はつやくこがねのえぼしうお)』(蔦屋重三郎版、寛政6(1794)年)は、一九が江戸において初めて挿画を担当した記念すべき作品で、その袋には<鐘かけてしかもさかりの桜かな>という其角の句が引用されている。 また、『絵兄弟』「雪降道者」では、図中に其角の<青漆(せいしつ)を雪の裾野や丸合羽>なる句が添えられ、雪中の道者と紙雛が比較されている。 蔦重が初期に出版した『烟花清談』でも、冒頭に<京町の猫かよひけり揚屋町>という其角の句が登場している。

 京伝の『江戸生艶気樺焼』では、焼き餅を焼いてもらうために主人公の艶二郎が妾を抱える場面で、背後の柱かけに「小便無用 花山書」の文字が見え、妾が実は小便組(大金を受け取って妾奉公をし、頃合いを見てわざと寝小便をして、暇をとる詐欺行為をする者)ではないかと心配する艶二郎の心境と、其角の有名な句<此所小便無用花の山>とを引っ掛けて洒落ている。

 蔦重が活躍した時代は、それまで上方文化を受容することの多かった江戸において、江戸独自の文化が花開き、出版技術の発達とともに、急速にその需要層を拡大していった時期に当たる。 そして、蔦重らが最先端の文化を創造しようと模索する際に、その基盤としたのが一蝶・其角ら元禄期の江戸人たちの生み出した絵画や文学であったと考えられる。

 一蝶と其角は、「江戸吉原」を活躍の場とした文化人だった。 幇間だったとされる一蝶は《吉原風俗図巻》をはじめ、江戸吉原を題材とした作品を多く残している。 其角もまた、江戸吉原とは縁が深く、<闇の夜は吉原ばかり月夜哉>の名句は、まさにこの地に親しんだ通人ならではの一句と言えよう。

 一流の文化人が集う場としての「江戸吉原」のイメージは、一蝶・其角という元禄期のスターたちの遺産を受け継いだ京伝・南畝・歌麿らによって確立されたのであり、その仕掛け人こそが蔦屋重三郎そのひとだったのである。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
「等々力」を漢字一字で書いて下さい?

コメント:

トラックバック