「龍馬を斬った男」今井信郎のこと2025/04/14 07:00

 大河ドラマ『龍馬伝』が放送された2010年8月22日、坂本龍馬とキリスト教として、龍馬とクリスチャン二人の話(8月20日と21日)に次いで、「今井信郎のこと」を書いていた。 

        今井信郎のこと<小人閑居日記 2010.8.22.>

 磯田道史さんが「龍馬を斬った男」と書いた今井信郎(のぶお)のことを調べる。 司馬遼太郎さんの『竜馬がゆく』を読んだ頃に買ったのだろう、平尾道雄著『龍馬のすべて』(久保書店・1966年)という本が書棚にあった。

 坂本龍馬が京都の近江屋で暗殺されたのは、慶應3(1867)年11月15日の夜。 暗殺犯は特定されていないが、定説では徳川幕府側の京都見廻組の七人ということになっている。 その七人の中に、今井信郎がいた。 戊辰戦争では、榎本武揚に従い北海道箱館で最後の抵抗を試みたが、降伏している。 その時、刑部省が取り調べた口供書「箱館降伏人 元京都見廻組今井信郎口上 午三十歳」によると、当夜近江屋を襲ったのは見廻組の与頭(よがしら)佐々木唯(只)三郎(同じ慶應3年4月江戸で庄内の清河八郎を斬った)と配下の渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之助、土肥仲蔵、今井信郎、桜井大三郎の七人、佐々木は二階の上り口でがんばり、二階に踏み込んで龍馬と中岡慎太郎を斬ったのは渡辺、高橋、桂の三人で、肝心の今井を含む三人は家の周辺を警戒していたという。

 当初、龍馬暗殺は新撰組の仕業だと言われていた。 近藤勇が捕えられて尋問を受けた時、新撰組の原田佐之助がやったと認めたという。 上の今井と同じ箱館降伏人のうちに新撰組の横倉甚五郎、相馬主殿(とのも)、大石鍬次郎らがいて、彼らの口供書に、近藤勇の陳述は合点がいかない、どうせ打首になるのだから弁解を避けたのだろうとし、かねがね近藤は見廻組今井信郎、高橋某だと言っていた、とある。 今井信郎の名だけが、はっきりと挙げられている。

 今井信郎は徳川家の旗本の家に生れ、剣客榊原鍵吉門下で、小太刀の名手だった。 維新後は遠州初倉村にひっこみ、事件については一切語らず、熱心なクリスチャンとして晩年を送った。 今井信郎の孫から、そのいとこが聞いた話が、高知新聞に載ったことがある。 信郎の妻いわは同行して京都にいた。 ある晩おそく帰って、一室に閉じこもって出てこない。 ふすまをあけて見ると、右手の中指がザックリ削がれているのを、焼酎で洗っていた。 その時、坂本龍馬を殺しに行って、中岡慎太郎に斬られたと話したらしい、と。

     坂本龍馬とキリスト教、その一<小人閑居日記 2010.8.20.>

 『龍馬伝』15日放送の「亀山社中の大仕事」では、龍馬が芸者の元(蒼井優)と取引をした。 長崎奉行所のスパイ元が、隠れキリシタンと知り、薩長連合の工作を奉行所に伝えないように取引したのである。 「みんなが笑って暮らせる国」という点で、両者は一致した。 この話はフィクションであろうが、坂本龍馬の縁者からキリスト教に関係している人物が二人出ている。

 ひとりは、山本(澤辺)琢磨(1825~1913)。 『龍馬伝』2月28日放送の「生命の値段」で、江戸で二度目の剣術修行中だった坂本龍馬が助けた、同じ土佐藩郷士、龍馬の従弟である(『龍馬伝』では、確か武市半平太の妻・冨のいとこという設定だった)。 拾った時計を売り払ったことで責任を問われ、切腹させられそうになったのを、龍馬が逃がした。 箱館へ逃れ、神宮社宮司の養子となって澤辺姓となる。 新島襄にロシア正教伝道のために来日していた宣教師ニコライの話を聞き、尊皇攘夷の立場から殺害しようとして近づくが、逆に神父の崇高な教えに感銘を受けて、自ら刀を捨てて、信仰を受け入れ、1868(慶應4)年受洗する。 ロシア正教会の日本人最初の信者で、1875(明治8)年ニコライの創設した日本ハリストス正教会の最初の司祭となる。 聖名パウエル。 各地(主に東北)での布教活動に貢献し、ニコライ堂の建立にもかかわった。