磯田道史さんは、今井信郎犯人説2025/04/15 07:07

 私は、坂本龍馬とキリスト教、その二<小人閑居日記 2010.8.21.>に、こう書いていた。

 もう一人は、坂本直(なお)(1842~1898)。 私はこの人のことを、磯田道史さんの朝日新聞連載の「この人、その言葉」(4月17日)で知った。 龍馬の甥、龍馬の姉千鶴の子である。 はじめ高松太郎といい、7歳年上の龍馬に連れられ、勝海舟の塾で海軍術を学び、亀山社中・海援隊で活躍した(『龍馬伝』では川岡大次郎が演じている)。 龍馬暗殺後、新政府で龍馬の遺志でもあった北海道行政にあたったが、役所の現実にあわず免職。 それでも朝廷は龍馬の子孫断絶を惜しみ、直を龍馬の養子にし、のちには宮内庁の舎人として明治天皇のそばで働かせた。 しかし「耶蘇(キリスト)教信奉」で、またも免職。 海援隊の仲間たちは男爵などに出世し、坂本家にも爵位の内示があったと言われるが、直は爵位を受けなかった。

 その坂本直は、驚くべきことに「龍馬を斬った男」今井信郎(のぶお)に会おうとして、明治11・12年頃、父親の法要に招いた。 殺される覚悟で出かけた今井信郎を、坂本直は非常に歓待し、「過去のことは忘れてこれから新しい日本の為にともにやりませう、私はあなたにお目にかゝれてほんとうにうれしい」と、語ったと伝えられている。 坂本直がキリスト教で免職になった頃、今井信郎も愛児の死をきっかけになぜかキリスト教に入信している。 磯田道史さんは、最後にこう書く「恩讐をこえ2人は手を握り合っていたと私は信じたい」

 その磯田道史さんに文春文庫『龍馬史』がある(2013年、単行本は2010年文藝春秋刊)。 そこには、上の話の出典を、柴田澄雄「坂本竜馬を斬った男」『月刊浜名湖 遠州・三河』27号、1981年としている。 そして、「もし今井が、龍馬暗殺に無関係なら、殺されるかかもしれないと考える必要はありませんし、そもそも龍馬の法要に出かける必要もありません。」としている。

 今井は、箱館で新政府に拘束された際の明治3(1870)年2月の供述調書や明治33(1900)年5月の雑誌『近畿評論』のインタビュー記事などで龍馬暗殺について語っている。 記事は記者の脚色がかなり入ってしまったため、事実と齟齬があって売名行為だとする声は当時からあり、田中光顕や谷干城は、今井の証言は信用できないとしている。 しかし、その内容は妻の証言を含めて細部まで具体的だ。 だから、記事は脚色だが、今井は襲撃団の一人としてみてよい。 今井自身は家族から「少しは弁明しては」といわれると「人殺しは俺に間違いないと言い張って争うバカがあるものか」と相手にしていなかったと伝えられている。(今井幸彦『坂本龍馬を斬った男』)

 幕府が破れたのち今井は、江戸に帰還し、古屋佐久左衛門らと衝鋒隊を結成し、その副隊長として各地を転戦したが、明治2(1869)年5月に箱館戦争に敗れ降服していた。 取り調べの結果、龍馬暗殺の罪で静岡藩(江戸城を明け渡した徳川家が移封されていた)に引き渡され禁固刑を受ける。 赦免後は、キリスト教に入信したり、静岡県の初倉村長として教育行政に力を注いでいる。 と、磯田道史さんの『龍馬史』「龍馬暗殺に謎なし」にある。

 なお、「静岡県初倉村」は、かつて榛葉郡に存在した村で、島田市の南部にあたるそうだ。

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