酒井抱一、風雅に遊ぶ自由を得る方法<等々力短信 第1190号 2025(令和7).4.25.> ― 2025/04/25 07:20
酒井抱一、風雅に遊ぶ自由を得る方法<等々力短信 第1190号 2025(令和7).4.25.>
大岡信編『日本の色』朝日選書139(1979・朝日新聞社)に、丸谷才一さんの「花野」という酒井抱一を書いた一文があった。 丸谷さんの生家に、抱一という落款の枕屏風があった。 銀地に秋草を描いた、というと豪勢なものに聞こえるが、これがニセモノだということは、幼い丸谷さんにも判ったし、父上も同意見で値段の割には楽しめるじゃないかと言っていたという。 丸谷さんは、抱一が好きなのはもちろん、その絵と発句が気に入っているためだが、もう一つ伝記的興味もあるという。
酒井抱一は、姫路の殿様の第二子として生まれながら、武士であることを見事に避けてしまった男なのである。 その逃げ方はすこぶる念が入っていて、というよりもむしろ仰々しくて、何もこんなに凝らなくたっていいのにという気がするくらいだ。 彼は寛政5(1793)年、37歳の年、病気のため西本願寺の徒弟となって京都に住みたいと願い出た。 酒井家ではこれを許し、千石五十人扶持を給することになる。 10月18日、折から江戸に下っていた西本願寺文如上人によって得度、権大僧都に任ぜられる。 そのときの句。 <遯(のが)れ入る山ありのみの天窓(あたま)かな> 季語は、ありの実、まるめた頭(つむり)を梨に見立てたわけだ。
11月3日、京へ向けて出発、抱一自筆の日記に「霜月三日、其爪、古櫟、紫霓、雁々、晩器などうちつれて花洛の旅におもむく」とあるから、京に住まう気は最初からなく、要するに俳諧仲間を引き連れての京見物だったにちがいない。 <布団着て寝て見る山や東山>、<島原のさらばさらばや霜の声>は、このときに成ったもの。
京にあることわずか12日。 12月14日、江戸に帰って、<鯛の名もとし白河の旅寝哉>などと呑気に吟じるあたり、すべては自由の身になる計略だったと断じて差し支えないようだ。 以後、「前権大僧都」は文晁、鵬斎と並んで江戸の文人を牛耳り、勝手気儘な晩年を送ったのである。 句集『屠龍之技』の序は亀田鵬斎、跋は大田南畝である。 ここはやはり、もって文界における抱一の勢威と名望を知るべきであろう。
なお、当時の文人の常として吉原通いにせっせと励んだし、それに千石五十人扶持は相変わらずついてまわった上に、画料も入ったろうから、「隠君」の遊びはすこぶる景気のいいものだったらしい。 得度以前の、<湯豆腐のあわただしさよ今朝の霜>、<寝やと言ふ禿まだねずけふの月>も、得度以後の、<ほととぎす猪牙の布団の朝じめり>、<市分けてもの言ふ花やをみなへし>、<傾城のふくさ捌きや大晦日>も、すべてこういう粋な研鑽の賜物にほかならない。 彼は逃避を一個の芸術品と化した、旦那芸の最上のものと言って差支えないであろう、と丸谷才一さんは締めている。
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