蔦重の時代に、元禄期の英一蝶と宝井其角の影響2025/04/06 07:34

2010年「歌麿・写楽の仕掛人 その名は 蔦屋重三郎」展の図録に、サントリー美術館学芸員の池田芙美さんの、「蔦重と「一蝶・其角リバイバル」―京伝・南畝・歌麿」があった。  池田芙美さんは、安永・天明・寛政期(1772~1801)に活躍した、江戸の版元・蔦屋重三郎は、浮世絵師の喜多川歌麿、東洲斎写楽、戯作者の麒麟児・山東京伝、天明狂歌の立役者・大田南畝など、当時の文化を彩る花形スターたちの作品を次々と出版し、常に当時の江戸文化の最前線をリードし続けたが、そうした多彩なジャンルにおける作品群には、元禄期の風流人、英一蝶と宝井其角の影響が随所に認められる、というのである。 とくに蔦重周辺における「一蝶・其角リバイバル」という現象に注目し、蔦重出版の作者たちが一世代前の文化遺産をいかに共有し、再生産してきたかを見ている。

私は、昨年10月にサントリー美術館で「没後300年記念 英一蝶―風流才子、浮き世を写す―」展を見て、下記を書いていた。 元禄の時代にも吉原が盛んで、豪商や大大名が遊び、幕府は元禄文化の過剰な華やかさ、風俗が乱れること、特に武士や大名たちの綱紀を粛清しようとしていた。 松平定信の「寛政の改革」のようなことが行われていたのだ。  三宅島に遠島された英一蝶<小人閑居日記 2024.10.18.> 英一蝶の元禄綱吉の時代から、馬場文耕の家重の時代へ<小人閑居日記 2024.10.19.> 英一蝶はなぜ、幕府の怒りに触れたのか<小人閑居日記 2024.10.20.> 「英一蝶―風流才子、浮き世を写す―」展を見て<小人閑居日記 2024.10.22.>

 英一蝶(1652(承応元)~1724(享保9))が活躍した元禄時代は五代将軍徳川綱吉の時代、文治政治が展開し、町人の勢力が台頭して社会は活況を呈し、上方を中心に独特の文化が生まれた。 最初狩野派に入門したが、満足できず、岩佐又兵衛や菱川師宣によって開かれた新興の都市風俗画の世界に新生面を切り開いた。 機知的な主題解釈と構図、洒脱な描写を特色とする異色の風俗画家として成功。 かたわら芭蕉に師事して俳諧もよくした。 1698(元禄11)年幕府の怒りに触れ三宅島に流されたが、1709(宝永6)年将軍代替りの大赦により江戸へ帰り、画名を多賀朝湖から英一蝶と改名した。

多賀朝湖時代の英一蝶は、なぜ幕府の怒りに触れたのか。 多賀朝湖は、「狩野派風の町絵師」として活躍する一方、暁雲の名で俳諧に親しみ、俳人の宝井其角や松尾芭蕉とも交遊している。 「日曜美術館」でも、其角と芭蕉の間に暁雲の句がある連句の本や、島流しになる朝湖を其角が鉄砲洲へ送りに行ったことを紹介していた。 名を江戸中に知られるようになり、町人から旗本、諸大名、豪商まで、幅広く親交を持つようになる。 それは吉原遊廓通いを好み、客として楽しむ一方で自ら幇間としても「和応(わおう)」という通名で活動していたからだ。 その話術や芸風は、豪商や大大名でもついつい財布のひもをゆるめ、パッと散在してしまうような、見事に愉快な芸であったと伝わっている。 豪商では、有名な紀伊国屋文左衛門や奈良屋茂左衛門らに重宝されたという。

 当時、幕府は元禄文化の過剰な華やかさ、風俗が乱れること、特に武士や大名たちの綱紀を粛清しようとしていたようだ。 元禄6(1693)年には、「大名および旗本が吉原遊廓に出入りし、遊ぶこと」を禁じている。 この年、朝湖は罪を得て一時入牢し、2か月後に釈放されている。 理由はわからないが、一説に、町人の分際で釣りを行なったからだという。 綱吉政権が発令した「生類憐みの令」違反で、武士は修練目的としての釣りは黙認されていたが、町人には禁止され、同年、追加条例として「釣り具の販売禁止令」も出ている。

 最初の入牢の裏の理由とも言われていることだが、1698(元禄11)年の、三宅島遠島の理由についても、諸説ある。 「為政者の風刺」…時の権力者である柳沢吉保が出世する過程で、実の娘を側室に差し出した、という当時からあったゴシップ的な噂を、朝湖が風刺作品にしたから。 代表作《朝妻舟図》が、吉保の妻を遊女に、綱吉を客に見立てたとするもの。 「禁句の罪」…「馬がもの言う(予言する)」という歌を広め、綱吉の「生類憐みの令」を批判したから。 「そそのかしの罪」…綱吉の生母・桂昌院の甥である本庄貴俊らを吉原に誘い、遊女を身請けさせた。

その他、『当世百人一首』で、綱吉の側室・お伝の方を遊女に見立てた舟遊び風景を描いて、揶揄したとするもの。 当時大名や金持の間で、石灯籠を集めることが流行った際、それを集めて儲けようとした、などともいう。

 池田芙美さんの論考は、また明日。

蔦重、京伝、京山、南畝、歌麿らが、英一蝶に強い興味2025/04/07 06:59

 池田芙美さんの、「蔦重と「一蝶・其角リバイバル」―京伝・南畝・歌麿」。 まず、蔦重の出版物には英一蝶のモチーフを「再利用」した例が多く見られる。 たとえば山東京伝の代表作『江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)』(蔦屋重三郎版、天明5(1785)年)では、主人公・艶二郎の家を悪友たちが訪れる場面の背景には、「英一蝶筆」と書き込まれた閻魔の画中屏風が登場する。 また、同じく京伝の『人心鏡写絵』(蔦屋重三郎版、寛政8(1796)年正月)にも英一蝶の落款のある寿老人が描かれている。 一蝶の狩野派流の画業が蔦重周辺に広く浸透していたことが、この二点の画中屏風によって裏付けられるという。

 また、英一蝶はさまざまな画題を創案したと伝えられ、蔦重出版物にはこれらの画題を応用した作品も多い。 一蝶由来の画題に、〈女達磨〉〈朝妻船〉がある。 四方赤良(大田南畝)作、北尾政美(鍬形蕙斎)画『此奴和日本(こいつわにっぽん)』(蔦屋重三郎版、天明4(1784)年)では、日本趣味に傾倒したある中国人宅の室内に一蝶筆の≪女達磨図≫が掛けられている。 歌合わせをもじった滑稽本、山東京伝作・画『絵兄弟』(蔦屋重三郎・鶴屋喜右衛門版、安永6(1794)年)にも、女達磨と「乃」の字の形の比較が載せられている。

 昨日、一蝶の代表作《朝妻舟図》に触れたが、〈朝妻船〉とは、琵琶湖東岸の朝妻と大津を結ぶ渡し船に乗り、旅人を慰める遊女を描いたものだ。 上の『絵兄弟』には、この〈朝妻船〉の図も含まれている。 山東京伝作・北尾政演(山東京伝)画の黄表紙『廓中丁字』(鶴屋喜右衛門版、天明4(1784)年)には、主人公が三囲の土手で一蝶にかくまわれる場面があり、「此ときのすがたをゑがきて、あさづま舟といふなり」というこじつけの説明が添えられている。 京伝が〈朝妻船〉を一蝶由来の画題として強く意識していたことを示す貴重な史料だという。

 京伝の弟・京山(1769~1858)の編んだ『一蝶流謫考』にも一蝶の伝記や使用した印章、島流しに関する歴史的考証、一蝶が島で描いた作品の縮図などが掲載されている。

 その他にも、いろいろな史料から、蔦重、京伝、京山、南畝、歌麿らが、英一蝶という人物に強い興味を示していたことが分かるという。

蔦重出版物の其角の句、「江戸吉原」イメージ継承2025/04/08 07:09

 池田芙美さんの「蔦重と「一蝶・其角リバイバル」―京伝・南畝・歌麿」は、つづいて宝井其角(1661(寛文元)~1707(宝永4))である。 英一蝶と親交の深かった宝井其角は、松尾芭蕉の許で俳諧を学び、蕉門の十哲の一人。 師の句とはやや趣向を異にし、派手で洒脱な句風で知られる。 英一蝶と二人で、幼い二代目市川団十郎を吉原に連れ出したエピソードが有名で、一蝶が三宅島配流中も手紙のやりとりを続け、心の支えになった。

 蔦重の出版物には、端々に其角の句の引用が見られる。 たとえば、山東京伝作・十返舎一九画『初役金烏帽子魚(はつやくこがねのえぼしうお)』(蔦屋重三郎版、寛政6(1794)年)は、一九が江戸において初めて挿画を担当した記念すべき作品で、その袋には<鐘かけてしかもさかりの桜かな>という其角の句が引用されている。 また、『絵兄弟』「雪降道者」では、図中に其角の<青漆(せいしつ)を雪の裾野や丸合羽>なる句が添えられ、雪中の道者と紙雛が比較されている。 蔦重が初期に出版した『烟花清談』でも、冒頭に<京町の猫かよひけり揚屋町>という其角の句が登場している。

 京伝の『江戸生艶気樺焼』では、焼き餅を焼いてもらうために主人公の艶二郎が妾を抱える場面で、背後の柱かけに「小便無用 花山書」の文字が見え、妾が実は小便組(大金を受け取って妾奉公をし、頃合いを見てわざと寝小便をして、暇をとる詐欺行為をする者)ではないかと心配する艶二郎の心境と、其角の有名な句<此所小便無用花の山>とを引っ掛けて洒落ている。

 蔦重が活躍した時代は、それまで上方文化を受容することの多かった江戸において、江戸独自の文化が花開き、出版技術の発達とともに、急速にその需要層を拡大していった時期に当たる。 そして、蔦重らが最先端の文化を創造しようと模索する際に、その基盤としたのが一蝶・其角ら元禄期の江戸人たちの生み出した絵画や文学であったと考えられる。

 一蝶と其角は、「江戸吉原」を活躍の場とした文化人だった。 幇間だったとされる一蝶は《吉原風俗図巻》をはじめ、江戸吉原を題材とした作品を多く残している。 其角もまた、江戸吉原とは縁が深く、<闇の夜は吉原ばかり月夜哉>の名句は、まさにこの地に親しんだ通人ならではの一句と言えよう。

 一流の文化人が集う場としての「江戸吉原」のイメージは、一蝶・其角という元禄期のスターたちの遺産を受け継いだ京伝・南畝・歌麿らによって確立されたのであり、その仕掛け人こそが蔦屋重三郎そのひとだったのである。

柚木沙弥郎さん、年の差90歳の少年との文通2025/04/09 07:08

 毎度書いているけれど、昭和50(1975)年2月に「等々力短信」の前身「広尾短信」を始めたのは、何事も電話ですます世の中に、手紙の楽しみをなんとか復活させ広められないか、ハガキでどれだけのコミュニケーションができるか実験のつもりという趣旨だった。 先日、楽しい手紙のやりとりの見本のような手紙を、NHKの『日曜美術館』「Oh! SAMMY DAY 柚木沙弥郎101年の旅」で見た。

 日本の西の方に住む10歳の田添琉乃介君は、生れた時から心臓に重い疾患を抱えていて、何度かの壮絶な手術をくぐりぬけ、酸素を吸うパイプを鼻につけてはいるが、両親に温かく見守られ、毎日絵を描いている、小三治の落語を聞きながら…。 戸棚には「琉乃介作品集」というファイルがぎっしり並んでいる。 「妖怪1000大物語」は、1番「チョキチョキ」から始まり、100番「ブイイ」を経て、現在380番まで進んでいる。 2022年4月、島根県浜田市の世界こども美術館で、100歳の柚木沙弥郎(ゆのきさみろう)さんの作品に出合い、心を動かされて、柚木さんに手紙を書いた。 書く場所の決まった便箋などでなく、絵などもまじえた自由奔放な書き振りだ。 「柚木沙弥郎さま はじめまして りゅうくんだよ 10才で絵を描いている 柚木さんの本は『千年万年』が好き 100才おめでとう これからも絵をかいてね たのしみにしてるよ 版画のワニをプレゼントします」

 さっそく柚木沙弥郎さんから5月1日付けの、大好きだというパイナップルの絵が描かれた返事が来る。 年の差90歳の友達、楽しい手紙の交流だ。

 東京帝国大学文学部美術・美術史科中退の、柚木沙弥郎の原点は、24歳で岡山倉敷の大原美術館に就職し、芹沢銈介の型絵染のカレンダーを見て、模様に開眼したことにあった。 民藝運動を提唱した柳宗悦の日本民藝館へ行き、柳宗悦に師事し、静岡由比の正雪紺屋で染物の修業をする。 1948年、独立して倉敷で紅型(びんがた)風型染布を作り始める、《近県民藝分布図》など。 「良心的なものを、心を込めてつくる、暮らしを豊かにする布を」。 型染に魅せられ工芸の道を歩んで75年、版画、切り絵、絵本など工芸の枠をこえて、自由に世界を広げていった。 宅急便の伝票裏のカーボンや、指の爪などを始め、日常的に見る形をヒントに、そのアイデアはスクラップブック80冊に、無数の模様を集めている。 「天気がよい日曜日のように、嬉しければいい、面白ければいい」と。

 2023年1月、日本民藝館で自作の展覧会。 12歳の琉乃介君の年賀状で、浜田市の展覧会に「ワクワクして」四回行ったと知り、「ワクワクしたことは一生記憶する。ワクワクした気持、情熱が、こういうものをつくる原動力になる、それがだんだん広がっていけばいい」と返信した。

 柚木沙弥郎さんは、2024年1月31日101歳で亡くなった。 琉乃介君は手紙を書く、終りに涙を流している自分の絵を描き、柚木さんが天国へ乗って行くようにと龍の作品を入れて…。 田添琉乃介君の一家は、はるばる車で東京の日本民藝館までやって来て、柚木さんの展覧会を見る。 ワクワクした琉乃介君は、柚木さんのご長男たちに落語「宿屋の富」を披露したのだった。

水天宮のミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクションと福沢諭吉2025/04/10 07:12

 このところ、ときたま人形町界隈に出没している。 昔、会社の帰りに立ち寄ることがあったので、多少は土地勘があった。 TBS落語研究会が、三宅坂の国立劇場小劇場を建て替えで使えなくなり、2023年11月から2024年5月まで、水天宮に近い日本橋劇場(中央区立日本橋公会堂)を使っていたので、毎月人形町へ行っていたからである。 その日本橋劇場も建て替えで、落語研究会はその後、よみうり大手町ホールでやっている。

 先日は、前から行ってみたいと思っていて、なかなか行けなかったミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクションへ、「南桂子展 小さな雲」(3月30日まで)を観に行った。 浜口陽三が精密な銅版画家で、ヤマサ醤油の創業家の出身であることは、知っていた。 創業者の浜口梧陵(儀兵衛)と福沢諭吉の関係があったからだ。 浜口陽三は、十代目浜口儀兵衛の浜口梧洞の三男として、1909(明治42)年4月5日、和歌山県有田郡広村(現、有田郡広川町)に生れ、幼少時に一家で千葉県銚子市に転居したという。

 「南桂子展 小さな雲」を後回しにして、南海トラフ巨大地震とも関連するので、浜口梧陵(儀兵衛)と大津波、和歌山と福沢諭吉・慶應義塾の関係について、書いたものをまず引いておきたい。

   大津波と浜口梧陵、和歌山と福沢・慶應義塾<小人閑居日記 2019.1.19.>

 浜口梧陵については、まだブログに配信する前の「等々力短信」に、「大津波と浜口梧陵」<等々力短信 第947号 2005.1.25.>を書いていたので、あとで引く。 和歌山と福沢諭吉・慶應義塾の関係、福沢諭吉と浜口梧陵、その和歌山教育史との関係については、下記を書いていた。
拙稿「和歌山と福沢諭吉・慶應義塾」その1<小人閑居日記 2012.9.22.>
拙稿「和歌山と福沢諭吉・慶應義塾」その2<小人閑居日記 2012.9.23.>
「紀州塾」、福沢が方向づけた和歌山の教育<小人閑居日記 2012.9.24.>
〈明治前期〉教育史と紀州の中学の個性<小人閑居日記 2012.9.25.>
県立和歌山中学と、自由民権運動の中学<小人閑居日記 2012.9.26.>

      等々力短信 第947号 2005(平成17)年1月25日
                 大津波と浜口梧陵

 番組表に「浜口梧陵」の名前があったので、13日NHK放送の“その時、歴史が動いた”「百世の安堵をはかれ―安政大地震・奇跡の復興劇」を見た。 黒船に開国を迫られた幕末の動乱期、三つの巨大地震が日本を襲った。 嘉永7(1854、改元されて安政元)年11月4日、下田でプチャーチンのディアナ号を大破した安政東海地震が発生、その30時間後の5日の夕方には、紀伊半島南部と四国南部が震度6以上の安政南海地震に見舞われ、紀伊半島南西岸から土佐湾沿岸を大津波が襲って、多数の死者が出た。 銚子と江戸で醤油醸造業(ヤマサ)を営み、半年は故郷の紀州広村(現、広川(ひろがわ)町)で暮していた浜口梧陵は、地震直後、海の様子を見に行き、真っ暗で、閃光が走り、雷のような物凄い音を聞いた。 津波の襲来を予感した梧陵は、村民に高台の八幡神社への避難を呼びかけて回り、暗闇で道がわからないと見ると、たいまつで稲むらに火を放ち、避難路を照らした。 地震発生から40分で津波の第一波が到着、5回にわたり最大5mの津波が押し寄せた。 浜から神社まで1.7km、避難には20分かかる。 津波を予感した梧陵の早い判断と的確な避難指示によって、全村民の97%の生命が救われた。

しかし地震と津波による被害は甚大で、梧陵が私財で仮小屋50軒を建て、農具などを提供しても、離村者が出るようになった。 梧陵は村人に希望と気力を取り戻させるため藩に願い出て、私財を投じ、村人の働きには給金を出し、津波を防ぐ大堤防の建設に着手する。 翌安政2(1855)年の安政江戸地震で江戸の醤油店が罹災、閉鎖に追い込まれたものの、銚子で最高の生産高を上げて堤防建設に送金し、安政5(1858)年12月、これだけの規模の盛り土堤防は世界最初、村民の自助努力で防災と生活支援を同時に実現した復興事業も画期的という「広村堤防」が完成する。 下って昭和21(1946)年、M8.0の昭和南海地震では、高さ4mの津波が襲ったが、村の大部分は被害を免れた。

『福澤諭吉書簡集』に、浜口儀兵衛(梧陵)あて書簡が3通、浜口の名の出てくる書簡が10通ある。 梧陵は慶応4(1868)年、和歌山藩の藩政改革で抜擢されて勘定奉行となり、翌明治2年藩校の学習館知事に転じ、明治3年松山棟庵の協力を得て洋学校・共立学舎を設立した。 この時、旧知の福沢を招聘しようとしたが、福沢は受けなかった。 だが二人の交際は続き、晩年の梧陵が計画し明治18(1885)年ニューヨークで客死することになる世界一周視察旅行には、福沢が格段の配慮をしている。