令和七年『夏潮』「雑詠」掲載句 ― 2026/01/01 07:59
元日の恒例になった昨年の『夏潮』「雑詠」掲載句を、お笑い草にご覧に入れることにします。
一月号
老い二人言葉なくとも衣被
一瞬の摩周の湖面霧晴れて
よれよれの朝顔植ゑ手に然も似たり
二月号
冷まじや月に浮かべる石舞台
冷まじや夕闇迫る古墳群
冷まじや村の外れの土葬墓地
三月号
炭住のがたぴし窓に厚目貼
枕許目貼してありスキー宿
曲家の北窓目貼馬眠る
四月号
北風や北へ向ひて坂登る
「戦争と平和」の平和ペチカかな
白秋の恋もペチカも燃えてをり
五月号
初仕事出掛ける靴の重さかな
振袖でモニター睨む初仕事
六月号
寒見舞メメント・モリをつきつける
土佐文旦南国の春運んで来
七月号
一冬を越すこと得たり春障子
ひろしさん明雀さんよ春障子
厩出し目映い原へ驀地(マッシグラ)
八月号
稚児の曳く象がたがたと花祭
園長が一人張り切る花祭
知に信を置かぬ人ゐて春愁ひ
九月号
葉桜からたちまち桜繁りをり
灯点らぬ家の卯の花腐しかな
過ぎたるは古マンションの薔薇の門
十月号
ゴミ出しや紫陽花日毎丸くなり
夏服の街頭写真父若し
夏服や君等の臍に脅かされ
十一月号
駒草やたちまちガスに包まれて
駒草やコーヒー淹れて小休止
十二月号
体温と同じ気温に日傘かな
温暖化異論封ずる暑さかな
全国高校ラグビー慶應志木高、東福岡高校に善戦健闘 ― 2026/01/02 06:48
「西の横綱に、初出場ながら、愚直に自分たちのラグビーを展開し、高校ラグビーを面白くしました。後半、69-0で、ゲームは決まっているのに、あのひたむきに前を向き、モールを組み、そして二つのトライゴールを奪った、こんな快挙はありません。
齢取って涙もろくなって、我慢しても涙を禁じ得ませんでした。浅野もがんばったし、他のメンバーもよくやりました。志木高の文武両道を世に知らしめました。大喝采です。今年もいい年になりそうです。」
私は、「同感です。爽やかな敗戦でした。今年も宜しくお願いします!」と返信した。
慶應義塾志木高校蹴球部は、埼玉県第二地区代表として、2025年の花園の第105回全国高校ラグビー大会に初めて進出し、12月27日第3グラウンドの一回戦で青森山田高に48対12で快勝し、30日第二グラウンドの二回戦で鹿児島実業にも31対17で勝って越年、初出場での三回戦進出は26大会ぶり、1月1日の第一グラウンドで、東福岡高校と対戦、12対69で敗れたのであった。
メンバーを挙げておく(テレビ中継で見た限り、学年のないのは3年)。
1番森晴己 2番李知成 3番道垣内脩司(1年) 4番朴煇奉 5番橋本瑛太
6番足達康興 7番小池多聞 8番小島昌悟 9番荒木大志 10番服部廉(2年)
11番川田真広 12番キャプテン浅野優心 13番森絆斗(2年) 14番伊東凱(2年)
15番大沢蒼生
16番井口翔(1年) 17番木谷元(2年) 18番大野惺 19番加藤悠人(2年)
20番長峯佑典(2年) 21番山本航瑛(1年) 22番大森貫生 23番鈴木隼(2年)
24番小柴遼太 25番中嶋祥一朗(2年)
現代史の「常識」見直し、「サッチャー改革という物語」 ― 2026/01/03 07:07
最新の歴史研究によって、現代史の「常識」見直しが進んでいるという新聞記事に、目を見開かされた。 その一つは、12月19日の朝日新聞インタビュー、歴史学者の長谷川貴彦さん、北海道大学大学院教授の「サッチャー改革という物語」だった。
第二次世界大戦後、英国では労働党政権によって福祉国家が確立され、国民は「ゆりかごから墓場まで」と称された社会保障を享受した。 ちょうど、その頃、私は経済学部でそういう話を聞いていた(1964年卒業)。 しかし1970年代に入ると、それが経済的な非効率や硬直性をもたらし、深刻な衰退を招いた。 袋小路に陥った英国に登場し、危機から救ったのが、79年就任のマーガレット・サッチャー首相による、新自由主義だった。 というのが、今でも繰り返し語られる「成功物語」で、多くの人の頭に染み込んでいる。
ところが近年、長谷川貴彦さんによると、それが見直されている。 2008年のリーマン・ショック、16年のブレグジット(英国の欧州連合離脱)と米大統領選の衝撃を経て、17年にロンドンで開かれた研究集会「英国のネオリベラリズム再考」以降に、再検討が進んだ。
「常識」は、二つの物語から構成されている。 一つ目が、戦後の社会民主主義、福祉国家、ケインズ主義は「失敗」であり、その結果、「衰退」がもたらされたという認識だ。 二つ目は、新自由主義の政策的な「成功」という物語だ。 サッチャー政権は、個人の自由を基礎に、国有企業の民営化や労働組合への規制強化、金融市場の自由化などを断行し、それにより英国は景気循環から解放され、持続的な経済成長を成し遂げたというものだ。
まず「衰退」の物語。 当時の政治家やジャーナリズムは「衰退」の物語を強調したけれど、経済は70年代にかけて成長し、生活水準も向上していた。 歴史家のジム・トムリンソンは、むしろこの時代を、経済成長を遂げた黄金時代の一部と捉え、さらに英国が経験したのは、「衰退」ではなく、「脱産業化」であるとも言っている。 経済の構造変化を捉える重要な視点である。 従来の基幹産業だった鉄鋼業や造船業などが競争力を失って、製造業の拠点が海外に移り、経済の主軸が金融サービスなどの第三次産業へ移った。 これにより、基幹産業で働いていた労働者たちが、職を失ったり、より賃金の低いサービス業に移らざるを得なくなったりして、人々の皮膚感覚として「衰退」として認識されやすかった。 だが、これは後に多くの先進国も体験する構造転換だった。 なのにそれを労働組合の存在や公共部門の拡大が招いた「衰退」とするのは、福祉国家の「失敗」を強調したい人々によるイデオロギー的な虚構であり、それが実態を見る際の阻害要因になってきた、と指摘されるようになった。
「新自由主義」の「成功物語」も再検討され、サッチャリズムの改革も、実は戦後の福祉国家が築いたストックや遺産を前提として成立したという評価が有力だ。 公営住宅の個人への売却を進めた政策も、公営住宅を大量に建設した福祉国家時代があってのことだった。 脱産業化で膨れあがった失業者を支えたセーフティーネットも、福祉国家時代の政策によるものだった。 つまり、前の時代に蓄積された社会インフラや制度のストックがなければ、サッチャリズムの改革による生活への打撃はより深刻なものになっていただろう。 この観点からすれば、「新自由主義」の「成功」は、福祉国家の遺産に寄生していたことになり、その持続可能性に疑問符がつけられている。
「新自由主義」の再検討、米国の場合、日本の場合 ― 2026/01/04 07:31
長谷川貴彦さん、北海道大学大学院教授のインタビューのつづき。 「新自由主義」の再検討は、英国だけでなく、米国も同様のプロセスをたどっている、と言う。 70年代にはベトナム戦争による財政赤字、グローバル化と産業衰退による貿易赤字などによって危機の時代を迎える。 それらを背景にして、「新自由主義」を掲げる大統領レーガンが登場した。 「新自由主義」の政策は、民主党のクリントンからオバマに至る大統領にも共有された。 だが、都市と地方、上中流階級と労働者階級の格差が拡大した。 そしてリーマン・ショックが発火点となり、産業衰退地域などを支持基盤とするトランプが当選することになる。
米国の歴史学でも「新資本主義史」という新たな動向がある。 資本主義が奴隷制や人種主義に組み込まれていたことなど、現在の「新自由主義」的な資本主義に批判的な視座から歴史を研究し、教育する潮流だ。(『アメリカ史とレイシズム』<等々力短信 第1197号 2025(令和7).11.25.>参照)
このような「新自由主義」の再検討は、現代の日本社会にどんな示唆を与えるか。 日本の「新自由主義」は、二段階のプロセスで進行したと言える。 80年代にはサッチャーやレーガンの影響を受け中曽根政権が、国鉄の分割民営化などを断行した。 当時の日本は経済の絶頂期にあり、革新自治体や労働組合潰しといった政治的意味合いが強かったと思われる。 次は2000年代の小泉構造改革で、郵政民営化を強行しただけでなく、自己責任論が強調されるようになった。 「新自由主義」が単なる政策体系としてだけでなく、「自己責任」という価値観として人々の内面に浸透していったことが、日本社会では特筆されるべき点かもしれない。 社会で成功できないのは自分の努力が足りないからだと本人が納得してしまうことで、現行制度に対する抵抗や異議申し立てが起こりにくくなる傾向がある。 これは大規模な社会運動が起きにくい日本の現状に関連しているかもしれない。 「新自由主義」の政策はやがて行き詰まるが、それへの有力な対策が出てきていないこともあり、日本ではその後も、内面化した人々がこれを支え続けていく。 「新自由主義」的な精神構造は長続きすることになりそうだ。
「「大東亜共栄圏」は外務官僚たちが生みの親だった」 ― 2026/01/05 07:11
最新の歴史研究による、現代史の「常識」見直しを、もう一つ。 第25回大佛次郎論壇賞(朝日新聞社主催)は、熊本史雄駒沢大学教授の『外務官僚たちの大東亜共栄圏』(新潮選書)に決まった。 日本は「大東亜共栄圏」という理念のもと、侵略戦争を正当化した。 無謀な秩序構想は軍部の暴走として語られることが多いが、この本では、外務官僚たちが生みの親だったという大胆な見方を示した。 国際協調を捨て去り、無謀な拡張主義へとかじを切った外交官たちの失敗を、膨大な外交資料をもとに検証した。
その源流は日露戦争だった。 多大な犠牲を払って獲得した中国東北部の租借権や鉄道を守り、さらに「満蒙権益」として拡大する――外務省の基本方針が生まれた。 同時に英米協調という国際協調も重要だった。 しかしアメリカは、中国市場の開放を訴えて権益の放棄を迫る。 相反する二つの外交方針を抱え込み、追い詰められていったと考える。
この見方に立てば、協調外交で名高い幣原喜重郎の違った一面が浮かび上がる。 幣原は満蒙権益、特に鉄道権益に強く固執したという。 当然、英米との足並みは乱れた。 中国政府が強硬化していくなかで袋小路に陥ったと指摘する。 1931(昭和6)年に陸軍による満州事変が起きると、幣原は有効な策を打てずに外相を辞任した。
そして1934(昭和9)年を迎える。 外務省は、英米などを排除し、日本単独で中国から東南アジアへと広がる秩序構築を担う「大東亜共栄圏」の構想に突き進んだ。 矛盾に耐えきれなくなり、独善的な「国益」追求にかじを切ったのだ。
選考委員の一人、富永郁子早稲田大学教授(政治学)は、「印象深いのは、戦後「善玉」視された幣原喜重郎と重光葵(まもる)について、前者は満州事変に際し、満蒙の鉄道利権からの他国の排除を強硬に求め、国際連盟脱退を招いた張本人であり、後者はさらに「東亜」全域を日本の排他的勢力圏とする構想を打ち出すことで、日独伊三国同盟に5年先立ち、日本外交を後戻りのできない地点に至らしめていたという指摘だ」と選評している。 佐藤武嗣朝日新聞論説主幹は、「「大東亜共栄圏」と言えば、陸軍が主導し、膨張主義的な構想が推進され、それを理念先行の近衛文麿政権が政治文書として上書きしたとの印象が強かった。だが、本著は歴史文書をたどりながら、外務官僚こそ共栄圏を追求した「本丸」だとして、その内実を掘り起こしている」と評した。
外務省の転落という闇を、広く史料を読んで描いたこの本で、ある外交官の構想があったことに、光を見出す。 小村欣一、1914~19(大正3~8)年に中枢の政務局で課長を務めた、彼は満蒙を手放し、日米共同の中国本土への投資を唱えた。 満蒙にこだわればアメリカとぶつかる。 それは避けなければならない。 ならば手を組み、中国全体を射程にして経済活動を進めればいいと考えた。 大胆な外交姿勢からは、「慎慮」が感じられるという。 「長期的な視野で時代の流れを的確につかみ、何が国益になるのかを冷静に見極めたうえで、柔軟に発想した」。 しかし小村の案は日の目を見なかった。 反故にしたのは、上司の幣原だったという。
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