「旧尾崎テオドラ邸」尾崎行雄・テオドラ夫妻と福沢諭吉 ― 2026/01/13 07:17
1月11日、第584回の三田あるこう会の例会「豪徳寺から馬事公苑散策」があった。 小田急線豪徳寺駅集合、最初に行ったのが「旧尾崎テオドラ邸」だった。 当番の日下部共代さんの案内に、「明治21年、かっての東京市長で憲政の神様と言われた尾崎行雄の妻、尾崎テオドラ英子の父である男爵が建築し、昭和8年に港区から豪徳寺の地に移築され現在に至っています。」とあった。
この水色の洋館は、尾崎テオドラ英子がイギリスから日本に渡って来る際に、テオドラの父である尾崎三良男爵が建てたもので、建築様式は19世紀後半に日本に流入した下見板コロニアルと呼ばれるコロニアル様式が基盤になっている。 この洋館を愛していた漫画家の山下和美さんが発起人となり、笹生那実さんとそれぞれほぼ全財産をつぎ込んで土地建物を取得、二人が共同代表になって保存プロジェクトを設立、沢山の人の支援を受けて、2024年3月に喫茶・ギャラリーを擁する施設に生まれ変わったのだそうだ。
咢堂、尾崎行雄(安政5(1858)年~昭和29(1954)年)は、相州津久井、現在の神奈川県相模原市の生まれ、後の選挙区となる三重県の宇治山田へ越す、明治7(1874)年5月慶應義塾に入学、童子局に入って福沢諭吉に認められ、飛び級して中年寮の最上級に進む。 英語教師で福沢家の家庭教師のカナダ人聖公会宣教師ショーから、洗礼を受けた。 やがて義塾に反抗的態度をとるようになり、9年初め退学。 次いで大学予備門を経て工学寮に学ぶが、これもまもなく退学。 10年「討薩論」を『曙新聞』に投書して文才を認められ、『民間雑誌』の編集、英書の翻訳に従事。 12年9月福沢諭吉の推薦で『新潟新聞』の主筆となる。 この頃処女著作『尚武論』執筆に際し、福沢から「猿に見せる積りで書け」とアドバイスを受けた。 14年大隈重信に招かれ統計院書記官となるが、明治14年の政変で退官。 立憲改進党創立に参加、保安条例により東京から退去を命じられ、アメリカ、イギリスに外遊、23年第1回総選挙に三重県から立候補して当選、以後昭和27年の総選挙まで25回連続して63年間衆議院に議席を占め、その間、第一次護憲運動に活躍、「憲政の神様」と称される。 36年東京市長(東京市電の経営、桜の苗木3千本をワシントンDCに贈る)、大熊内閣の法相。 第一次世界大戦後には国際協調主義の立場から軍縮論を唱え、治安維持法の全廃を主張、反軍国主義、反ファシズムの立場を明確にし、太平洋戦争期、翼賛選挙を批判し告発される。 昭和35(1960)年国会前に尾崎記念館(衆議院憲政記念館)が建てられた。
尾崎三良(天保13(1842)年~大正7(1918)年)は、幕末・明治期の政治家。 三条実美(さねとみ)に仕え、七卿落で大宰府へ行った後、実美の世子公恭に従ってイギリスに留学、帰国後太政官に出仕し、勅選議員、松方内閣の法制局長官などを務めた。 明治29(1896)年、維新と法制の功で、男爵に叙された。
尾崎三良は、ロンドン留学中、英語教師のウィリアム・モリソンの家に同居し、その一人娘のバサイア・キャサリン・モリソンと明治2(1869)年に明治初の国際結婚をし、三女をもうけた(1881年に離婚)が、妻子を置いて帰国した。 離婚同意書に母バサイアが子供の養育に困った際は子供を日本に送ることができるという条項があり、明治3(1870)年生まれの英子テオドラ尾崎が、明治20(1887)年に16歳で来日した。 頌栄女学校のアメリカ人女性宣教師や式部権頭の桜井能監に半年ほど預けられたのち、聖アンデレ教会のショー牧師夫妻(上記、福沢家の家庭教師と同一人物。軽井沢の開拓者)に引き取られ、香蘭女学校の助教師となった。 20歳で父親三良から独立して教師で身を立て、明治24(1891)年に駐日英国公使のヒュー・フレイザーの妻メアリーの個人秘書となり、英国大使館に住み込んだ。 フレイザー公使の急死によりイタリアに転居したメアリーを追って明治28(1895)年に渡欧し、2年間メアリーとともにイタリアに滞在したのち、ロンドンの母のもとに戻った。 ロンドンでの母子の生活は楽でなく、明治31(1898)年に母子宅に下宿していた門野幾之進(後の千代田生命社長)から窮状を聞いた福沢諭吉が同情し、慶應義塾幼稚舎の英語教師の職を紹介し、明治32(1899)年に再来日。 幼稚舎の英語教師と頌栄女学校の英会話講師を務めた後、明治36(1903)年に教師を辞め、巌谷小波のお伽噺をもとに、日本の有名な昔話22編を収録した『Japan Fairy Tales』を出版した。
テオドラは、同姓のために郵便が間違って配達されたのをきっかけにして尾崎行雄と親しくなり、明治38(1905)年に結婚した。 夫婦の間の会話は英語で、洋式の生活をし、品江、雪香の二人の娘が生まれた。 幸せな結婚生活を送っていたが、肉腫を患い、アメリカで手術をしたが、昭和7(1905)年に行雄らと滞在中のロンドンで死去した。

最近のコメント