江戸の町の中に、自分の命を狙うものがひそんでいる2026/02/19 07:11

 藤沢周平の「密告」のつづき。 四ツ(十時)を過ぎても、磯六は姿を見せなかった。 玄関の戸がカタリと鳴ったので、孫十郎が出ると、閾(しきい)ぎわに投げ文があった。 ――まっていても、いそ六はこねえ。うそだと思ったら一石ばしにいってみな――と殴り書き、異様なことに関わり合ったらしいと気づいた。 一石橋までは、いくらの道のりでもない。 孫十郎は裏茅場町の通りに出ると、牧野河内守屋敷の前を通り、橋を渡って青物町、万町の間を通り抜けた。 町はひっそりと寝静まって、日本橋通りを横切るとき、自身番のそばでひとの話し声を聞いただけである。 一石橋は、左に呉服橋御門を見る場所にある。

 橋ぎわの欄干に、ひとがひとり倚りかかっている。 「磯六か」と、声をかけたが、動かない。 用心深く近寄り、肩をゆさぶると、男の体がずるずると崩れ落ちた。 男は磯六で、開いた口からだらりと舌が垂れ、頸に無残な力で締めあげた縄が巻きついている。 欄干に寄って、濠(ほり)をのぞいたとき、不意に口笛を吹いたような音がした。 それが矢音だと気づくのと、のけぞるように欄干の陰に体を隠したのが同時だった。 唸りを立てて、矢が頭上を飛び去った。 刀の鯉口を切り、橋の柱に沿ってそっと立ち上がったとき、濠の底で櫓の音がきしんだ。 一艘の小舟が早い舟足で日本橋の方に遠ざかるのが見えた。

 磯六は自分が狙われているのを知って、助けを求めに孫十郎の家に来ようとしたが、途中襲撃されて死んだ。 それだけなら、敵はその場を離れるはずだ。 狙われたのは自分だったかもしれない。 磯六は、どういうわけか二人が狙われていることを嗅ぎつけた、それを今夜孫十郎に知らせようとしたが、逆に敵に嗅ぎつけられて殺された。 そう考えると、一連の出来事の説明がつく気がした。

 その夜遅く、床についてから、不意にある考えが浮かび、保乃を起して、「材木が倒れてきたとき、風でも吹いていたのか」、「人影をみなかったのか」と聞いた。 風はなく、誰もいなかった、と保乃は答えた。 孫十郎は、磯六と死んだ倉右衛門に怨みがある者の仕業のようだ、と思った。 その訳を、磯六は知っていたらしい。

 孫十郎がこんにゃく島の材木屋で調べると、材木を結わえていた麻縄を刃物で切った痕がはっきりと残っていた。 それを「卯の花」で、磯六の本所長岡町の住居を調べてきた伊勢蔵に話すと、二十年もいるのに裏店の大家は磯六が何で喰っているかも知らず、結局何も解らなかったが、ただ隣に住んでいる広太という日傭取りが、磯が「じじいが帰って来やがったな」と独り言を言いながら、ひどく慌てた様子出て行くのを見た、と言う。 それは磯六が「卯の花」に来た日らしいというので、その時の様子を聞くと、八ツ(午後二時)頃で、伊勢蔵がいた賄(まかない)場に顔を出して、旦那(孫十郎)にお会いしたいので誰かをやってくれ、と言った。 しかし下っ引の峯吉も万蔵も来ておらず、板前の源助と見習いの佐太郎、絲吉がその場にいたが、連中を使う気はなかった。 磯六は、「俺が行ったんじゃまずい」と言った。 その額の汗に気づいて、よっぽど大事な話だなと思ったんで、旦那なら、今日、明日こちらにお寄りになる、そのとき話してやろう、というと、「それじゃ明日の夜五ツ半にお邪魔するから、と伝えてくれろ」と言ったのだそうだ。

 旦那、気をつけて下さいよ、と言われて店を出ると、日が落ちたあとの気だるいような光が町を包み、その光の中に春の花の香が含まれている。 その薄闇に沈みかけている町の中に、自分の命を狙うものがひそんでいるとは信じられない、穏やかな日暮れだった。              (つづく)

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