鈴木雅は、なぜ桜井看護学校に入学したか2026/08/01 07:20

 7月25日の「等々力短信」第1205号「朝ドラ『風、薫る』の原案」で、指摘したダブル・ヒロインの一人、大家直美(上坂樹里)のモデル・鈴木雅について、田中ひかる著『明治のナイチンゲール 大関和(ちか)物語』(中公文庫)で見てみたい。 この短信を読んで、友人の一人は、「ちなみに私は直美のファンになりました。」という返信をくれたし、別の人は、「二人が出てきたら、突然つまらなくなってもう見なくなってしまいました。等々力短信を読んで、本当に納得がいきました。」とメールをくれた。

短信の最後に、矢嶋楫子の桜井看護学校で、大関和と鈴木雅が出会ったのは、明治20(1887)年の事だった、と書いた。 二人部屋の寮で同室となった二人は、ともに28歳で、ほかの6人の学生は皆20歳前後だった。 雅は、長身で、当時珍しい断髪、独特の雰囲気を漂わせていた。 和が、10歳の息子と7歳の娘がいるが、夫はおらず、母親に面倒を見てもらっていると話すと、雅は「私も似たようなものです」と言うだけだった。

やがて、8歳の娘と6歳の息子がいることがわかる。 雅は、静岡の出身で、和が黒羽で結婚した頃、やはり縁談があったが、どうしても英語を学びたかったので、二年間だけ学業をさせてくれたら、その後はどんな縁談でも受け入れると両親に頼み、横浜のフェリス・セミナリーの寮に入ったという。 フェリスで十分英語を学び満足して帰郷、結婚した。 その夫が、西南の役に、陸軍の大尉、大隊長として、鹿児島に出征、大腿部に銃弾を受け、大怪我を負った。 その銃創が原因で床に就くようになり、4年前に亡くなった。 フェリスにいた雅は、欧米のトレインド・ナースの存在を知っていたので、もし自分に看護の技術があれば、夫は最後の時間をもっと安らかに過ごせたのではないかと悔やんだという。 夫の恩給で生活は成り立つが、自立したいという気持もあって、看護学校に入った。 卒業し、看護婦として自立するまでは、子供たちに会わない覚悟で、静岡を出てきた、と話した。

大関和が桜井看護学校に入学した事情2026/08/02 08:08

 一方、大関和(ちか)が桜井看護学校に入学した事情も振り返っておきたい。 鹿鳴館勤めも三年目に入ったある日、教会で礼拝が終った後、植村正久牧師が和に、「大関さん、あなた看護婦になりませんか」と言った。 「看護婦」と聞いて、和が思い出したのは、鄭家で永寧、永慶父子と交わした会話である。 永寧は、看護婦は従来の「看病婦」と大差ないと言い、永慶は「専門的な訓練を受けたトレインド・ナースだ」と言った。

植村正久は、この教会の経営に協力してくれている宣教師のマリア・トゥルーが、アメリカの伝道協会から資金を得て、自身の経営する桜井女学校に付属の看護学校を作ろうとしている。 教師は外国から招く予定で、和ならその英語の授業にもついていける、一期生として入学してみないか、というのだった。 もともと、この計画は、以前横浜で伝道していたリディア・バラ宣教師が、貧民救済の活動をしている内に、看護婦の必要性を痛感し、看護学校を作るための寄付を募るためにアメリカに渡ったのだが、病に倒れてしまった。 それを知った宣教師仲間のマリア・トゥルーが、計画を引き継いだのだ。 卒業後、看護婦として働くことを約束すれば、学費は免除されるという。

 一週間後、和は横浜でマリアたちが貧民救済活動をしている現場へ行った。 パンを配ったあと、パンだけでは不十分だと和が言うと、マリアは「そのとおりです。ここに必要なのは、十分な栄養と清潔な環境、そして女性たちの雇用です。それらをすべて満たすことができるのが、看護婦という職業です」。 和は深くうなずいて、自分が英語を学んできたのは、今日こうしてマリアと言葉を交わすためだったのではないかとさえ思った。

 鹿鳴館で、大山捨松に会い、数か月後に英語講師と通訳の仕事を辞めなければならないと告げると、自分が設立に協力して一年前に開校した有志共立東京病院(慈恵)看護婦教育所に入ることを勧めた。 しかし、和はリディア・バラやマリア・トゥルーの思いが込められた看護学校で学びたいと、丁重に断ると、捨松は「わかりました。どこで学ぼうと、あなたならきっと立派な看護婦になれます。応援しています」と背中を押してくれた。

トレインド・ナースの誕生、医科大学附属第一医院2026/08/03 07:18

 明治20(1887)年秋、桜井看護学校に、ナイチンゲール方式の看護教育を行うべくアグネス・ヴェッチが赴任する。 すでに慈恵看護婦教育所はメアリー・リードを、京都看護婦学校はリンダ・リチャーズをそれぞれアメリカから招き、ナイチンゲール方式の看護教育を始めていた。 同時期、これまで大勢の「看病婦」を使っていた帝国大学医科大学附属第一医院(現東京大学医学部附属病院。以下第一医院)が、トレインド・ナースを養成することを決定、アグネスが桜井看護学校に勤務するため来日したことを知ると、看護教師として招聘したため、彼女は桜井看護学校と第一医院の教師を兼ねることになった。 すかさず、マリア・トゥルーが第一医院に交渉し、実習病院を持っていない桜井看護学校の学生たちも、同院の看護学生らとともに、実習をさせてもらえることになった。

後年、植村正久の三女環(たまき、朝ドラでは一ノ瀬りんの娘の名にしている)は「大関ちか女史は傑出した婦人であったが、よく泣かれた。繁々来られては堰を切って落とされる。すると大関さんを愛敬していた父は慰めるのか揶揄(から)かうのか分からぬ調子で『あなたはナイチンゲールなんでしょう。それじゃ宛然(えんぜん)『泣キチン蛙』ではないか』などといっていた」(『植村正久と其の時代』第二巻)

 明治21(1888)年10月26日、桜井看護学校の6人は、第一医院の看護学生22人とともに一年間の実習過程を終え、修了試験にも合格することができた。 同年2月には慈恵看護婦教育所が、6月には京都看護婦学校が最初の卒業生を出していることから、この年は日本におけるトレインド・ナース誕生の年といえる。

 第一医院で、英語が堪能でアグネスの授業で通訳を務めた雅は内科の「看病婦取締」、和は外科の「看病婦取締」として働くことになった。 「看病婦取締」は「看護婦取締」「看護婦長」と同義で、今日の「看護師長」にあたる。 雅は、小石川の傳通院近くに家を借り、静岡の子供たちを呼び寄せ、同居を始める。 和も、第一医院にほど近い千駄木に家を借り、母と子供たちと四人で暮らすことにした。

和、建議書の件で第一医院を辞め、高田女学校の舎監に2026/08/04 07:25

 「看病婦取締」となって一年が経つ頃には、医療界で大関和の名前を知らぬ者はいないというほど、その奮闘は知れ渡り、有力者の手術の際に声がかかるようになる。 若い医師たちの中には、和に好意を寄せる者もいたが、和はあまりに無頓着で、プライドを傷つけられたと感じる医師もいた。 第一医院では、大勢の看病婦が働いていたが、仕事の絶対量が多いため、休憩時間の確保や交替がうまくいっていなかった。 看護講習を受けながら働く、真面目な看病婦ほど、疲れがたまり、その一人が病棟の廊下で倒れた。 和は、外科の責任者の教授に、看護教育の充実と看病婦の待遇改善の建議書を提出した。 和の頭にあったのは、ナイチンゲールの「進歩のない組織で持ちこたえたものはない」という言葉だった。

 ところが、医局の頭越しに行われたこの建議を医師たちは許さなかった。 和は、「看病婦取締」を解任され、頭を下げれば一看護婦として働き続けることができたのかもしれないが、和は第一医院を去ることにした。

 鈴木雅は、失業した和に職を斡旋してもらおうと、マリア・トゥルーを訪ねた。 ちょうどこの頃、桜井女学校は新栄女学校と合併して、「女子学院」となり、番町に新校舎を設立、矢嶋楫子が初代院長となっていた。 同校の系列校として、新潟県の高田と栃木県の宇都宮に、新たに女学校が開設されたと聞き、おそらく人手が必要に違いないと、踏んだのである。 高田の女学校の舎監、単身赴任の仕事があった。 また子供たちと離れて暮らすことになるが…。

 明治23(1890)年11月、大関和は、高田女学校の舎監として赴任する。 高田女学校は、大森隆碩(りゅうせき)ら教育熱心な地元の名士たちが、マリア・トゥルーに協力を要請し、設立した学校である。 高田藩医の長男の隆碩は、15歳から江戸に出て、医学を学び、帰郷して眼科を開業、維新後は、横浜に出て宣教師(おそらくヘボン(馬場註))たちに学び、この間にマリアの知遇を得た。 高田女学校と同時に、私立高田訓朦(くんもう)学校も設立している。

 和は、舎監として、寄宿舎で約30人の女学生と生活を共にすることになる。 一つだけ慣れないのは、冬の寒さであった。 年末、寄宿生たちの大半は、自宅に帰った。 赴任したばかりで帰京しなかった和が、大森隆碩を訪ねると、廃娼運動の話になった。 教育者でクリスチャンの隆碩は、廃娼運動の主導的な立場にあり、2月に「廃娼演説会」を開く予定なので、「矢嶋先生のご薫陶を受けられた大関さんにご参加いただけたら、皆の士気も上がります。ぜひご登壇ください」と言われる。

高田の廃娼運動、相馬愛蔵、木下尚江、そして瀬尾原始2026/08/05 08:17

 明治24(1891)年2月、高田の教会で「廃娼演説会」が開かれた。 集まった数百人の聴衆のほとんどが、若い男性のクリスチャンだった。 和は、高田女学校の学生を8人連れて行った。 演説の途中、「存娼会」に雇われた暴徒たちが乱入する騒ぎがあったが、すぐに若い聴衆たちが力ずくで外に追い出した。 すべての弁士が演説を終った後、大森隆碩と打合せしていた和は、女学生たちと登壇、オルガンを弾いて、讃美歌「さあ、共に生きよう」を合唱した。

 この日の顛末を報告した校長の栗原トヨ子から、厳重注意を受けたが、廃娼運動に関わること自体はクリスチャンとして正しい行いであると認めてくれ、学生たちが慈善音楽会を開き、募金で廃娼運動を支援することを勧められた。 ひと月後、和が一人で「廃娼演説会」に足を運ぶと、驚いたことに、一割ほどが女性の聴衆だった。 讃美歌の合唱の評判を知り、自分たちも歌うことで運動に貢献したいと考えた町の女性たちであった。 彼女たちは自作の「廃娼唱歌」を披露し、以後の演説会では、参加者全員が「廃娼唱歌」を高らかに歌い上げてから閉会することが慣例となる。

 高田へ赴任して5か月が経った4月のある日、第一医院に入院中世話した相馬愛蔵(後に、新宿中村屋を創業する)が訪ねてきた。 和の影響があったか、その後、愛蔵は廃娼運動や貧民救済活動に身を投じる。 愛蔵の友人、木下尚江(なおえ)も、和に会いに来た。 明治から昭和にかけて社会運動家として活躍する木下尚江は、愛蔵と同じ松本中学の出身で、東京専門学校(後の早稲田大学)の先輩でもあった。 卒業後は、松本で地元紙の記者をし、この頃は弁護士になる勉強をしながら、廃娼運動に関わっていた。

 同じ頃、鈴木雅は、マリア・トゥルーが看護学校再開の資金を募るためアメリカへ行くのに同行して、渡米するため、乗船の前日、横浜駅に降り立ったのだが…。

 和は、高田の町で偶然、第一医院でともに働いた医師の瀬尾(せお)原始に会う。 引退した父の跡を継いで、全国から一流の医師たちを集めて、近く洋館の「知命堂病院」を開業するので、看護婦長になってくれないか、いずれ看護婦養成所も作りたい、と言う。 高田女学校の校長、栗原トヨ子は、拍子抜けするほど、あっさり退職を認めてくれた。 マリアが舎監の仕事を斡旋した時点で、和が急な転職をする可能性を伝えてくれていたのだ。 マリアは和の後継者をすみやかに決め、派遣してくれた。 和の看護婦としての能力を誰よりも高く買ってくれていたのが、マリアだった。

 和が一つ気がかりなのは、子供たちのことだった。 雅の手紙によれば、真面目かつ天真爛漫な性格の心には、女子学院の厳しい学習指導と自由な校風がとても合っているようだ。 成績もよく、友達も多いらしい。 14歳になった六郎の将来の夢は医師になることで、第一高等中学校を目ざして勉強しているという。 子供たちにとっては、このまま東京で学ぶことが、最善に違いない。