高田の廃娼運動、相馬愛蔵、木下尚江、そして瀬尾原始2026/08/05 08:17

 明治24(1891)年2月、高田の教会で「廃娼演説会」が開かれた。 集まった数百人の聴衆のほとんどが、若い男性のクリスチャンだった。 和は、高田女学校の学生を8人連れて行った。 演説の途中、「存娼会」に雇われた暴徒たちが乱入する騒ぎがあったが、すぐに若い聴衆たちが力ずくで外に追い出した。 すべての弁士が演説を終った後、大森隆碩と打合せしていた和は、女学生たちと登壇、オルガンを弾いて、讃美歌「さあ、共に生きよう」を合唱した。

 この日の顛末を報告した校長の栗原トヨ子から、厳重注意を受けたが、廃娼運動に関わること自体はクリスチャンとして正しい行いであると認めてくれ、学生たちが慈善音楽会を開き、募金で廃娼運動を支援することを勧められた。 ひと月後、和が一人で「廃娼演説会」に足を運ぶと、驚いたことに、一割ほどが女性の聴衆だった。 讃美歌の合唱の評判を知り、自分たちも歌うことで運動に貢献したいと考えた町の女性たちであった。 彼女たちは自作の「廃娼唱歌」を披露し、以後の演説会では、参加者全員が「廃娼唱歌」を高らかに歌い上げてから閉会することが慣例となる。

 高田へ赴任して5か月が経った4月のある日、第一医院に入院中世話した相馬愛蔵(後に、新宿中村屋を創業する)が訪ねてきた。 和の影響があったか、その後、愛蔵は廃娼運動や貧民救済活動に身を投じる。 愛蔵の友人、木下尚江(なおえ)も、和に会いに来た。 明治から昭和にかけて社会運動家として活躍する木下尚江は、愛蔵と同じ松本中学の出身で、東京専門学校(後の早稲田大学)の先輩でもあった。 卒業後は、松本で地元紙の記者をし、この頃は弁護士になる勉強をしながら、廃娼運動に関わっていた。

 同じ頃、鈴木雅は、マリア・トゥルーが看護学校再開の資金を募るためアメリカへ行くのに同行して、渡米するため、乗船の前日、横浜駅に降り立ったのだが…。

 和は、高田の町で偶然、第一医院でともに働いた医師の瀬尾(せお)原始に会う。 引退した父の跡を継いで、全国から一流の医師たちを集めて、近く洋館の「知命堂病院」を開業するので、看護婦長になってくれないか、いずれ看護婦養成所も作りたい、と言う。 高田女学校の校長、栗原トヨ子は、拍子抜けするほど、あっさり退職を認めてくれた。 マリアが舎監の仕事を斡旋した時点で、和が急な転職をする可能性を伝えてくれていたのだ。 マリアは和の後継者をすみやかに決め、派遣してくれた。 和の看護婦としての能力を誰よりも高く買ってくれていたのが、マリアだった。

 和が一つ気がかりなのは、子供たちのことだった。 雅の手紙によれば、真面目かつ天真爛漫な性格の心には、女子学院の厳しい学習指導と自由な校風がとても合っているようだ。 成績もよく、友達も多いらしい。 14歳になった六郎の将来の夢は医師になることで、第一高等中学校を目ざして勉強しているという。 子供たちにとっては、このまま東京で学ぶことが、最善に違いない。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
「等々力」を漢字一字で書いて下さい?

コメント:

トラックバック