吉田茂も、ざっと見てみる ― 2026/08/14 08:14
吉田茂。(1878(明治11)~1967(昭和42)) 『日本歴史大事典』に、袖井林二郎さんが書いていた、それを部分的に引く。 「初期の外務省での経歴は傍流の中国勤務が長い。中国における権益を絶対とする帝国主義者の立場をとり、1928(昭和3)年田中義一内閣の外務次官への売り込みに成功、満州事変以後は帝国主義列強との協調路線に傾き、1936(昭和11)年広田弘毅内閣の外相を望んだが軍部の反対で成らず、同年4月駐英大使に就任。以後は日独防共協定に一貫して反対して軍部の不興を買い、1939(昭和14)年3月退官。日米開戦の勢いが高まると阻止工作に努力。戦中も和平工作を続け、1945(昭和20)年2月には敗戦による共産主義革命を恐れ、早期和平を目指す近衛上奏文の起草に荷担し、軍部により検挙投獄された。このことが吉田に「平和主義者」のお墨付きと戦後を領導する資格を与える。」
「戦後初の東久邇宮稔彦(なるひこ)内閣の外相となり、幣原喜重郎内閣でも留任。GHQ(連合国最高司令官司令部)作成の憲法改正案の対処にあたる。吉田は明治以来の日本の近代化路線は正しく、軍部はそれを誤ったとし、軍部のない今は憲法改正は必要ないという立場をとったが、GHQの「象徴」案以外に天皇制を守る方法はないと悟り、新憲法擁護論者となる。1946(昭和21)年4月鳩山一郎追放の後を受けて吉田茂内閣を組閣、首相になると「戦争で負けても外交で勝った例はある」と、政治・外交の焦点をマッカーサー総司令官との直接交渉に定め、75回の会見を行い、130通の往復書簡を交わしている。マッカーサーへの直接の接触が吉田の権力の根元であった。」
「官僚出身者を重用し、池田勇人や佐藤栄作ら一連の官僚出身政治家を育て、「吉田学校」と呼ばれた。また米軍の駐留を前提とする日米安全保障条約と連係した講和条約により日本の独立を回復したが、米国への従属体制を固定化させることになった。米側の再軍備化要求を世論を背景に値切り続け、朝鮮戦争の勃発に助けられて、のちの経済成長の路線を敷いた。1954(昭和29)年12月第5次吉田茂内閣総辞職、1963(昭和38)年引退。死没後、佐藤内閣は戦後初の「国葬」で送った。」
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