舟越保武さんの《原の城》2024/02/07 07:15

 彫刻家舟越保武さんの代表作の一つに《原の城(じょう)》という作品がある。 副題は「切支丹武士の最期」、全身像の背面に「寛永十五年如月二十八日原の城本丸にて歿」という字が彫られている。

 舟越保武画文集『巨岩と花びら』に、「原の城」という一文がある。 「日本ではキリシタン弾圧が永く続いた。私は長崎に行っても、天草に行っても、国東半島や津和野でも、キリシタン弾圧の遺した痕跡がまだ消えていないことを知った。/天草の乱でキリシタンと農民三万七千人が一人のこらず全滅した原の城址へ行ったとき、この近くの町には、現在でも一人のクリスチャンもいないと聞いた。」と、始まる。

 静かな海を背にひかえた原の城址は、睡気を誘われるように長閑で、この場所で、あの凄惨な絶望的な戦いがあったとは信じられないほどに、明るく落ち着いた丘であった。 「それが明るく静かであるだけに、かえって私には、天草の乱の悲惨な結末が不気味に迫って来る思いがした。鬼哭啾々という言葉そのままのようであった。私が立っている地の底から、三万七千人のキリシタン、武士と農民の絶望的な鬨の声が、聞こえて来るような気がした。」

 「私はこの丘の本丸址に続く道に立って、この上の台地の端に討死したキリシタン武士がよろよろと立ち上がる姿を心に描いた。雨あがりの月の夜に、青白い光を浴びて亡霊のように立ち上がる姿を描いて見た。」

 《原の城》の像、両眼と口のところを穴にしたので、凄みがあるように見える。 これを見に来た彫刻科の学生に、この彫刻は丘の上に立てると風の吹くときにはホーンホーンと咽び泣くような音がするのだ、と法螺をふいた。 全くの法螺ではなく、ブロンズなので中はがらん胴になっているので、アトリエで台に上がって、眼の横から強く息を吹いたらホーンというかすかな音が像の中から聞こえた。

 「破れ鎧をつけた年老いた武士の憔悴した姿のこの彫像は、どこか私に似ているような気がする。これが出来上がったとき、息子がアトリエに入って来て、「あ、遺言みたいだ」と辛辣なことを言った。」

ある画家の自画像、野見山暁治自伝2024/01/23 07:10

 昔、野見山暁治さんの自伝『一本の線』を読んで、「等々力短信」に「ある画家の自画像」を書いていた。 最近の「日曜美術館」が、二人の妻に先立たれた、と言っていたことにも、少し触れていた。 父親の年齢から、長生きの家系だということもわかる。

    ある画家の自画像 等々力短信 第533号 1990(平成2)年6月5日

 その人の父親は、九州の遠賀川流域の炭坑地帯で、地主の三男に生れた。 その辺りが、ゴールドラッシュの夢にわいていた頃で、どうしても炭坑をやって、一旗あげたいと考えた。 わずかな元手で、まず質屋を始める。 それで資金をつくろうという遠大な計画だったが、そのうちに炭坑の利権をカタにして金を借りに来た人がいた。 渡りに船と、ほうぼうから借金をして、貸す金を作り、炭坑に手を染めた。 天性の行動力と弁舌と、それらを具現化した体格と容貌を誇る、その父親は、手に入れた炭坑の事業を、大きく軌道に乗せようと燃えていた。 ところが、九大の工学部へ入れて、炭坑の跡をつがせるつもりにしていた長男が、中学卒業を前に「絵描きになりたい」と言いだしたのだ。

 画家、野見山暁治さんの自伝、『一本の線』(朝日新聞社)である。 「あとをつがせるべき長男をそんな訳の分からぬ道楽者にさせてたまるか。これが父の本音だった。父に限らない。これは世の中のホンネで、親戚や知人の子供たちが絵描きになりたいと言いだせば、ぼくもぞっとする」。 でも、野見山さんは上京して、美術学校に入った。 十七歳のその年から、戦争の時代をはさんで、二十七歳までの十年間の青春が、確かな、手応えを感じる、信頼できる「線」によって、描かれている。

 画家の、鋭い目が、光る。 たとえば、クロッキー研究所に通って、モデルの「おおっている着物を脱ぎ捨てる瞬時の羞じらいだけが女の姿だと思えるようになってきて、その一瞬を捉えるために、ぼくはその時だけを待つようになっている」

 自伝は、むずかしい。 どれだけ自分を「まるはだか」にして、語ることができたか、にかかってくるからだ。 ひとは、おおむね、自分の失敗や弱点を語りたがらない。 結局は、自慢話と、自己弁護になってしまう。 そうした制約から自由な、ごくまれな自伝だけが、成功する。 『福翁自伝』を、ひきあいに出すまでもなかろう。 野見山さんはみごとに成功した。 それは、かなりの痛みを、ともなうものだったはずである。

 百歳まであと二、三年という父親が寝たきりになり、末の妹が世話をしている福岡の家で、野見山さんは、この本を書いた。 あとがきに「女と出会い、女と別れてゆくいきさつは、いくら年を経てもやはり同じ屋根の下にいる親には秘めておきたい。それどころか、妹がお茶を持ってきてくれるたびに、あわてて原稿を伏せる始末だ」とある。 三人の女性との「いきさつ」を描いたことが、『一本の線』を本物にした。

特集コーナー展示「野見山暁治」の7点2024/01/22 07:09

 アーティゾン美術館の「マリー・ローランサン―時代をうつす眼」展、さらに特集コーナー展示「野見山暁治」まであった。 年賀状で、田園調布のみぞえ画廊で展示を観てきたと教えてくれた人がいて、行ってみようかと思っていたところだった。 野見山暁治さんのことは、昔から「日曜美術館」でよく見ていて、具象と抽象のあいだを漂う独特の画風といわれる、その絵は正直、わからないけれど、ひととなりや文章に魅力を感じていた。 昨年6月22日に102歳で亡くなる前に、作品を全国の美術館に寄贈していた話も、「日曜美術館」で知った。

 展示は、石橋財団所蔵の7点、内3点は近年新たに収蔵したものの初公開だった。 このコーナーだけのパンフレットも、「ひとり一冊」で用意されていた。 「最初は黒の線だけで あぁじゃないと悩む 色が入ってくるのは、黒の線が決まってから」 2023年5月9日というから、亡くなる直前の福岡県糸島のアトリエでの、新収蔵作品についての言葉も引かれている。

 1971年に結婚した妻京子との最初の旅行で、野見山はタヒチを訪れた。 《タヒチ》1974年、「タヒチというタイトル、なんでつけたんだろうか 地名をつけるのは稀なんです 何か魔性のものが覗き込んでいるような」

 《予感》2006年、「何を予感しているだろう 作品とタイトルは合ってない 何かならないかなと思って描いていたら、なんとなくこうなった でも線を引いてからじゃないと 線から画面にどんな動きが生まれるのか 自分のなかに何かがないと描きすすめられない」

 《振り返るな》2019年、「ちょっと重たいボテッとした感じ 軽快な感じがないね」 2020年東京メトロ青山一丁目駅に設置されたステンドグラス壁画制作のために描かれた3点のうちの1点。

 《鉱山から》1984年、筑豊の炭鉱地帯で生まれ、父親が炭鉱業を営んでいた野見山、「どす黒いボタ山は私の絵画理念の根底になっている」と語っていた。 《風の便り》1997年、野見山は1976年糸島にアトリエを建て、バルコニーから眺めた海、空、風の様子といった自然を題材に、多くの作品を制作した。 《あしたの場所》2008年、左上部に描かれた有機的な黒い線と、所々にのせられた鮮やかな青が目を引く。 《かけがえのない空》2011年、これまで野見山作品になかった色調の赤が用いられている。 ステンドグラス制作を通して、光を透過して見える赤の色彩に感化された。

圧倒的「石橋財団コレクション選」のすゝめ2024/01/21 07:54

「マリー・ローランサン―時代をうつす眼」展、〈マリーと文学〉の次は〈マリーと人物画〉で、デュフィ《ポワレの服を着たモデルたち、1923年の競馬場》、ヴァンドンゲンの《シャンゼリゼ大通り》、モディリアーニの《若い農夫》など館蔵の名品が並んでいて、アーティゾン美術館はいいものを沢山持っているなと、改めて感心する。 マリーの《マンドリンのレッスン》《二人の少女》《女と犬》は1923年の作だが、同時代にパリにいた東郷青児の《巴里の女》2点、《スペインの女》、藤田嗣治の《人形を抱く少女》と館蔵の《婦人像》《少女像》も展示されている。 東郷のは鹿児島市立美術館、SONPO美術館、藤田の《人形を抱く少女》は群馬県立近代美術館から来ている。 マリーの描く女性の白い顔は、藤田嗣治の白の影響があったのかもしれない、などと思う。

 アーティゾン美術館、まず6階が「マリー・ローランサン―時代をうつす眼」で、5階、4階の「石橋財団コレクション選」へと、下りていく仕組みになっている。 予定していなかった、これが素晴しかった。 それこそ教科書で見たことのある名画が、これでもか、これでもかと登場して、何時間でもここに居て、見ていたいという気分になる。

 コロー《森の中の若い女》、マネ《自画像》、モネ《黄昏、ヴェネツィア》、ルノアール《すわるジョルジェット・シャルパンティエ嬢》、セザンヌ《サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール》、ゴッホ《モンマルトルの風車》、マティス《石膏のある静物》、ピカソ《腕を組んですわるサルタンバンク》、ルオー《エルサレム》、ビュッフェ《アナベル夫人像》。

 日本の画家も、岡田三郎助《薔薇の少女》、藤島武二《天平の面影》、青木繁《わだつみのいろこの宮》、中村彝《自画像》、安井曾太郎《F夫人像》、梅原龍三郎《ナポリよりソレントを望む》、小出楢重《帽子をかぶった自画像》、国吉康雄《夢》、古賀春江《素朴な月夜》。

マリー・ローランサンと堀口大學2024/01/20 06:59

我が家のテレビの上

 そこでアーティゾン美術館の「マリー・ローランサン―時代をうつす眼」展だが、これが素晴しかった。 我が家のテレビの上には、無論複製だがマリー・ローランサンが架かっている。 ずいぶん前に佐倉のDIC川村記念美術館へ行った時に、家内が好んで買ったものだ。 それで、この展覧会へ行ってみようと思ったのだが、石橋財団コレクション選と、野見山暁治の特集コーナーも併せて展示されていて、見ごたえのある充実した展覧会になっていた。

 マリー・ローランサン(1883~1956)は、パリ生まれ、アカデミー・アンベールで学び、ピカソやブラックと交流し、初期はキュビスムの影響を受けた。 自画像を並べた〈序章・出会う〉の次は、〈マリー・ローランサンとキュビスム〉のコーナー、ローランサンの描いた《パブロ・ピカソ》や《横たわる裸婦》には、思わず笑ってしまう。 石橋財団アーティゾン美術館蔵(以下、「館蔵」と略す)の、ブラックの《円卓》やピカソの《ブルゴーニュのマール瓶、グラス、新聞紙》も比較展示されているのが、この展覧会のスタイルなのだ。

 次の〈マリーと文学〉のコーナー、マリー作も含む詩集、堀口大學譯『月下の一群』(1925年)や、マリイ・ロオランサン詩・絵、堀口大學譯編『Marie Laurencin詩画集』(1936年)という書籍が展示されている。 マリーは、1914年にドイツ人男爵と結婚、ドイツ国籍となったため、第一次世界大戦がはじまるとフランス国外への亡命を余儀なくされ、スペインに滞在していた。 堀口大學は、父親の九萬一が外交官でマドリードの日本公使館に勤務していたので、23歳で詩を書いたり、社交やスポーツを楽しんでいたが、習いごとには、よき師を選ぶことが第一という父親の主義で、油絵の手ほどきをマリー・ローランサンに頼んだ。

 関容子さんに『日本の鶯―堀口大學聞書き』(1980(昭和55)年・角川書店)という本がある。 マリー・ローランサンが、若き日の堀口大學を詠んだ「日本の鶯」と題する詩を、堀口自身が訳している。 初め「彼は御飯を食べる/彼は歌を歌ふ/彼は鳥です/彼は勝手な気まぐれから/わざとさびしい歌を歌ふ」と訳した。 それを半世紀以上経って、こう改訳している。 「この鶯 餌はお米です/歌好きは生れつきです/でもやはり小鳥です/わがままな気紛れから/わざとさびしく歌います」。 87歳の堀口大學は、「この頃になって、やっと日本語がわかったようですね」「それにしても、日本語とはいくら究めても究め切れないね奥行きの深い言葉ねえ」と、関さんに語っている。

 23歳の大學青年は、七つほど年上のマリー・ローランサンに、絵以外の手ほどきも受けたようである。 関容子さんの尋問に、ノラリクラリと、核心に触れる答弁を避けている。 しかし、関さんは、『全詩集』で割愛された詩の、こんな一節を見つけて小躍りするのだ。 「お前は思ひ出さぬか?/あの頃私たち二人の/心は心と溶け合ひ/唇は唇に溺れ/手は秒に千万の愛撫の花を咲かせたことを?//お前はまた思ひ出さぬか?/その頃私たち二人の云つた事を?/「神さまは二人の愛のために/戦争をお望みになつたのだ」と」