小林一三の「逸翁美術館」2025/02/02 07:41

 自分が書いたものの中から、阪田寛夫さんと庄野潤三さんを探していて、最初に見つけたのは「新日曜美術館」が、池田にある小林一三の「逸翁美術館」を取れ上げた時だった。

      「呉春」という酒と俳画家<小人閑居日記 2002.10.22.>

 一昨日、池田の猪肉の牡丹鍋に「呉春」という酒が出てきた。 神吉拓郎さんは、その「ことしの牡丹」という掌編で、池田は灘よりも歴史が古く、米は備前の幻の酒米といわれる赤磐雄(あかいわお)米を使い、水はどことかの伏流水を使っていると蘊蓄を並べているが、「呉春」が絵描きの「呉春」と関係があるかまでは知らないと、登場人物に言わせている。 実は私、たまたま、これは知っていた(オホン)。

 先々週の「新日曜美術館」は、池田にある小林一三の「逸翁美術館」を取り上げた。 蕪村の書画も、逸翁の新茶道も、なんとも面白い。 さっそく、書棚から阪田寛夫さんの『わが小林一三 清く正しく美しく』(河出書房新社)を出して、ぱらぱらやっていると、こんな話があった。 箕面有馬電車を開通させた小林一三は明治42年秋以来、池田に住みついた。 池田に稲束家という旧家があり、土地の老舗や造り酒屋など上層商人の「倶楽部」のようになっていて、一三もそこへ顔を出していた時期があった。

 稲束家は慶長年間(17世紀初頭)の文書も残る豪商で、甲字屋の屋号で造り酒屋を営むほか、田畑山林家作を持ち、蕪村が活躍した18世紀後半には金融業を営んで大いに栄え、画家・俳諧師・力士も出入りし、書画持ちとしても聞えが高かった。 呉春は蕪村に画を学んだ数少い弟子の一人で、俳諧を能くし、(松村)「月渓」の号で俳画俳文を書いた。 呉春は、29歳から十年間弱、池田に住み、甲字屋稲束家の庇護を受けている。 呉春の号も、池田の呉服(くれは)の里にちなむ。 一三が通っていた頃の当主稲束芝馬太郎は、呉春の画を「最も多く蔵している人」として知られていたという。

まど みちおさん、百歳の詩2025/02/01 07:08

 2010年に、NHKスペシャル「ふしぎがり―まど みちお・百歳の詩」を見て、「等々力短信」にこんなことを書いていた。

       等々力短信 第1007号 2010(平成22)年1月25日                まど みちおさん、百歳の詩

 まど みちおさんがいる丘の上の病院に、見覚えがあった。 隣が遊園地で、ローラーコースターが上下する。 開院時に見学した友人の経営する病院だ。 3日放送のNHKスペシャル「ふしぎがり―まど みちお・百歳の詩」は、昨年11月に百歳を迎え、その病院で詩や絵を描き、周辺や屋上を車椅子で散策するまどさんの生活に密着した。

 散歩の途中で拾った松ぼっくりから既に種子の飛び散っているのや、池で魚が跳ねてつくる波の輪や、自分の耳から生えてくる長い毛に驚き、不思議がって、日記に記す。 それが詩のタマゴになる。 耳の長い毛は、猫とか犬の代表になって、詩に書いてみる。 蟻も忙しいね、ひとしずくの涙みたいな(大きさの)もの、いじらしくなる。 申し訳ありませんという気持になる、こっちは馬鹿でかくて…。

 「生きがいっていうものは、そういうもの。 生きていると、詩にしたい材料は見つかる。 どんな人でも、これで十分ということはありえないのですから」

 「人間はなぜ詩を書くんか。 人間はなぜ息をするんか。 息をしないと死んでしまいます。 私は、詩を書かないと死んでしまう……ほどではございませんけども(笑)、息の次に大事なものがあります。 言葉でございます。 そういうものがどうしても出てくるのでございます」

 故郷の徳山(現・周南市)の高校生が「幸せ」って何かと、百歳に尋ねる。

 「現在を肯定的に見ることの出来る人は幸せ。 『全部に感謝しながら』という感じで、暮らしていくのが…自分は幸せ、他の者も幸せになるんじゃないかと思います」

 七つ違いの妻・寿美さん(93)は、認知症の症状が出ているというが、テレビで見る限りは対話もしっかりしている。 まどさんが30歳の時、お見合い、ひと目惚れして結婚、以来七十年。 「寿美のアルツハイマーにはへこたれる」、食べきれない出前を頼み、鍋を焦がす。 でもそれを「アルツのハイマ君」と呼び、自分も同じ方に靴下を二足履いたりするからと、「トンチンカン夫婦」という詩に書く。 「おかげで索漠たる老夫婦の暮らしに笑いは絶えず、これぞ天の恵みと、図に乗って二人は大はしゃぎ。 明日はまたどんな珍しいトンチンカンを、お恵みいただけるかと、胸ふくらませている。 厚かましくも、天まで仰ぎみて……」

阪田寛夫さんの『まどさん』まど みちお伝2025/01/31 06:57

 阪田寛夫さんは、童謡「サッちゃん」の作詞者として知られる。 昨日、探し物の手掛かりになった、庄野潤三さん、三枚のお葉書<小人閑居日記 2009. 9.24.>で、二枚目の『五の日の手紙3』(平成6(1994)年12月5日刊)をお送りした時のお葉書には、「目次をひらいて、『まどさん』を先づ拝見しました。」とあった。 『まどさん』は、阪田寛夫さんの著書、まど みちお伝である。

 その『まどさん』、「等々力短信」第617号と、その前の第616号「海の「きゅうり」」を再録させてもらう。

        海の「きゅうり」 <等々力短信 第616号 1992.10.15.>

 『THE ANIMALS(どうぶつたち)』(すえもりブックス)という絵本が出た。 「ぞうさん/ぞうさん/おはなが ながいのね」という童謡で知られる まど・みちお さんの詩、安野光雅さんの切り絵。 詩は、左のページに まど さんの日本語、右のページに英訳がついている。 まど さんの動物の詩の中から20篇を選び、英訳したのは「美智子」さんという方、苗字がない。 そうです。 べにばな国体の開会式で、飛んで来る凶器から、夫君の身を守るべく、差し出されたあのお手で、翻訳がなされたのだ。 日本の子供のための文学を、国際舞台で紹介していこうという活動に共鳴された、皇后さまの手作りの小冊子がこの絵本のもとになった。 このたび日米で同時に出版されたが、日本版、米国版ともに、詩を日英対訳の形にしたのも、皇后さまのご発案だそうだ。

        ナマコ               A SEA CUCUMBER
          ☆                  ☆
    ナマコは だまっている      A sea cucumber says nothing,
    でも                  Yet it seems to be saying,
    「ぼく ナマコだよ」って      “I'm a sea cucumber,”
    いってるみたい           With all its vigor and energy

    ナマコの かたちで         By simply being
    いっしょうけんめいに…       A sea cucumber

 日本は、情報を取り込むばかりの輸入大国で、少しも発信しないと、評判が悪い。 情報貿易は大幅な赤字、その差は100:1だという説もある。 だから誤解を招きやすく、それが国際的な摩擦を激化させる一因にもなっている。

 だが経済一辺倒(アニマルといってもエコノミックの方)かと思われた日本にも、ちゃんと子供のための心やさしい詩があり、それを英訳して紹介する皇后さまがいる。 ロゼッタ・ストーンのような対訳で見た、不思議な形の日本語に魅せられて、将来のドナルド・キーンさんになる、アメリカの子供も出るかもしれない。

     『まどさん』 <等々力短信 第617号 1992.10.25.>

 「ぞうさん ぞうさん」のような詩を書く人は、どんな人なのだろう。 阪田寛夫さんに『まどさん』(新潮社)という まど みちお伝がある。 まどさんからの聞き書きを続けていた阪田さんが、まどさんの童謡とキリスト教の関わりについて、とりつく島もないような状態に陥っていた時、まどさんの甥(長兄の長男)で鹿児島に住む物理学者の尚治さんという人が、助け舟を出してくれた。 尚治さんは、まどさんを訪問するたびに「清涼剤を飲んだよう」な気持になる。 「自分の叔父でありながら、どうしてこんな人がいるのだろうか」と不思議でならず、「その生きざまと、人となりが、世に知られれば」と願わずにいられなかったから、協力を申し出たのだそうだ。

 まどさんの石田道雄さんは、昭和4年に台北の工業学校土木科を二番で卒業し、慣例で首席と二人、台湾総督府に採用された。 当時駆け落ちして、台中付近の道路建設の現場事務所に、まどさんを頼って行った廖さんの思い出話を阪田さんが台湾へ行って聞いている。 まどさんは、廖さんの奥さんを事務所のお手伝いに採用し、豚小屋に住む廖さん夫妻に自分の新しい蚊帳を貸してくれた。 植民地だった台湾で、まどさんは若いのに、日本人と台湾人とを別け隔てしない稀有な人物だった。 心臓発作で入院中の病院なので、心配して「力を入れずに話して下さい」と頼む阪田さんに「入れざるを得ないです!」と廖さんは、もっと大声を出した。 「信仰を生活化した人物です」と、廖さんは繰返し、まどさんのおかげで日本や台湾といった国(廖さんの言葉で「人類」)を超越しなければならないと気がついたという。 廖さんは、医者になった。 

『THE ANIMALS』にもある「いいけしき」という詩には、水平とか垂直といった言葉が出てくる。 『まどさん』を読むと、それは作者が土木科でトランシットを覗いた影響だとわかるのだが、私は遠く地平線にマッチ棒の頭のようなドームのある塔が立っている、静かで平和なルオーの絵を思い出した。 人間も動物も平等に「この平安をふるさとにしているのだ」と、まどさんはこの詩をしめくくる。 どこに行っても誠実で、最善を尽さずにおれないこの詩人にとって、人間はたいてい失望の対象でしかないのだけれど、動物たちも、野の草も、石ころも、それぞれに価値があり、尊いのだ、みんながみんな、心ゆくままに存在していい筈だと、まどさんはいう。

まどさんのような人にしか童謡が書けないなら、私はむろん落第だ。

阪田寛夫さんと庄野潤三さん2025/01/30 07:05

 ここ数日、自分が書いたものの中から、阪田寛夫さんと庄野潤三さんを探していた。 庄野潤三さんが亡くなった2009年9月のこの日記に、庄野潤三さん、三枚のお葉書<小人閑居日記 2009. 9.24.>を見つけて、手掛かりを得た。 私は庄野潤三さんの本を愛読し、『インド綿の服』と『夕べの雲』について二編ずつ「等々力短信」に書いていた。 第481号「南足柄通信」1988(昭和63)年12月5日、第482号「ダッド&マム」同年12月15日、第499号「青い鳥」1989(平成元)年6月15日、第500号「ささやかな楽しみ」同年6月25日である。(平成2(1990)年12月5日刊『五の日の手紙2』所収)

 『インド綿の服』はエッセイ集、多摩丘陵生田の庄野家の近くから、南足柄の山の上に越して行った娘さんの五人家族との、8年間の生活と交情が、主に娘さんの愉快な手紙を紹介し、庄野さんが解説する形式で語られる。 『夕べの雲』は昭和41年読売文学賞受賞の小説、『インド綿の服』の娘さんがまだ高校2年生だった頃の話で、二人の弟さんたちと、生田の豊かな自然のなかで縦横の活躍をする。 そこには何でもない一家の日常生活が描かれているのだが、それが何ともすばらしい、平凡な人生をみつめる温かい目に共感するのだ。 巻末に、庄野さんは、この小説で「いま」を書こうと思った、「その「いま」というのは、いまのいままでそこにあって、たちまち無くなってしまうものである」と、書いている。

 阪田寛夫さんは、『わが小林一三 清く正しく美しく』のプロローグに、「私の下の娘が現在宝塚の生徒であり」、「没後二十六年経った今なお「校長先生」と呼びならわせるほどに、小林一三の生涯と分かちがたく結びつくこの団体の行動の規律が極めて厳格で、モットーが「清く正しく美しく」であることは(中略)「父兄」の一人として日頃よく承知している」と書いている。 その「下の娘」さんは、花組のトップスター大浦みずきとなり、庄野潤三さんの本には、夫妻や家族で観劇に行く話がよく出てくる。

 阪田寛夫さんは庄野潤三さんの、帝塚山学院小学校と大阪府立住吉中学校の後輩で、朝日放送でも同僚だった。 阪田寛夫さんに『庄野潤三ノート』(2018、講談社文芸文庫)という、庄野潤三さんの最高の理解者としての作品があるそうだ。

小林一三の資料保存と、小説家になる志2025/01/29 07:07

 阪田寛夫さんは、小林一三が慶應義塾に入学した日について、「昭和五十六年現在慶應義塾に保存されている姓名録には、小林一三の「入社ノ年月」は明治二十一年二月十四日と記されていた。恐らく自叙伝の記述は、誰かに調べさせたこの資料から逆に、上京の日付と入学の日付を定めて書き直されたものと考えられるが、一三が自分の管理外の資料に頼って記録を訂すのは珍しい。」と書いている。

 小林一三は、「ごく若い頃から――大いに遊んでいたという三井銀行大阪・名古屋支店時代にも、――自分の行動や見聞に関わる資料を保存する本能のようなものが、何時も働いていたのがわかる。明治何年何月何支店の残高といったものから、お茶屋の勘定書、酒席で作ったざれ歌の歌詞などまでが、偶然にではなく小まめに意志的に残してある。彼にとっては巨大な数字も、鉛筆がきの勘定書も、同じほど大事な資料だったようだ。」

 「ただの蒐集癖や回顧癖からではなく、自己顕示の欲望とも違う。いつも自分の足跡は無に帰したくない、他人まかせにもしたくない、始めから終りまで“自身の”記憶・記録にとどめておきたいという執心、そこにしか拠り所はないという気持が、忙しい時にも遊びの時にも絶えず彼に働いていたのだろう。」

 阪田寛夫さんは、些事もゆるがせに出来ない一三の性格を考え合わせると、自叙伝には代筆者や助手の恣意や個性が入る余地がないほどに一三自身のものだと、あらためて断言できるという。 「その理由として、先ず本人の手によるきびしい校訂を経ていること、更に本人の手によるおびただしい自伝的随筆の堆積が既にあったことが挙げられる。もう一つ、昭和六年の直木三十五との対談に見られるように、一三が六十歳近くなってなお小説家になる志を持ち続けていた点も、傍証のなかに加えてよいかも知れない。」と。