根津美術館「奇跡の展覧会」「北宋書画精華」2023/11/22 06:49

 「天声人語」から、「十牛図」の作者は、中国北宋時代の臨済宗楊岐派の禅僧・廓庵(かくあん)と調べた後、たまたま「日曜美術館」を見たら、根津美術館で「奇跡の展覧会」という「北宋書画精華―きっと伝説になる」が開かれているのを、やっていた。 北宋絵画は中国芸術史上最高峰の一つで、後世「古典」とされ、千年もの昔に、無限に広がる奥行、印象派のような光や空気の描写、リアルな表現に成功した。 しかし、世界的に数が限られ、中国や台湾でも一度しか展覧会が開かれておらず、日本でも初めての展覧会だという。

 北宋(960~1127)は河南省開封に都があり、貴族でなく科挙に合格した官僚が治める文治政策をとって、中国政治の転換点となった。 社会の安定とともに経済が発展、開封は人口100万に達する世界最大級の都市になる。 書画、工芸などの諸芸術も高みに達し、とりわけ山水画は頂点を極めた。

 北宋三大家の一人、李成(款)《喬松平遠図》10世紀(澄懐堂美術館蔵)、これも三大家の一人、(伝)菫源「天下第一」と箱書にある《寒林重汀図》10世紀(黒川古文化研究所蔵)の大きな作品。 絵巻物で、燕文貴《江山楼観図巻》(大阪市立美術館蔵)、李公麟《五馬図巻》(現、東京国立博物館蔵)、さらに李公麟《孝経図巻》(メトロポリタン美術館蔵)も、今、一同に会している。

 そんな名品が、なぜ日本にもたらされたのか。 解説をした板倉聖哲東大東洋文化研究所教授(東アジア絵画史)は、80年ぶりに発見された《五馬図巻》を見たときは、手が震えて、全身汗になったと言う。 1912年の清朝崩壊時に、欧米への流失を懸念し、中国の文物を守りたい、アジアのものはアジアに留めたいと考えた、中国史家で北宋絵画の重要性に気づいた内藤湖南や関西財界のコレクターたちの存在があった。 李成(款)《喬松平遠図》を入手したのは、山本悌二郎(1870~1937)台湾の製糖業で財を成し、戦時、蒐集品を三重県四日市に疎開させ、その地に澄懐堂美術館をつくった。 燕文貴《江山楼観図巻》は、阿部房次郎(1868~1937)東洋紡の社長などを務めた関西経済界の重鎮。選りすぐった蒐集品160点を大阪市立美術館に寄贈した。 (伝)菫源《寒林重汀図》を昭和10年に1万8千円で入手したのは、二代 黒川幸七(1891~1938)証券会社の二代目、実務は番頭に任せ、中国書画、骨董の蒐集に没頭し、内藤湖南と交流があり、《寒林重汀図》の「箱書」は湖南。 蒐集品は兵庫県西宮の黒川古文化研究所にある。

金箔はどうやって作るのか2023/10/17 07:19

金沢の東側へ移動し、浅野川大橋を渡って東山の金沢市立安江金箔工芸館へ行く。 金箔は、全国生産の99%を担う金沢の伝統工芸だ。 東山周辺は、幕末ごろ多くの職人が生活した地域で、現在も金箔を商う店が軒を並べる金箔ゆかりの地だという。 現在は騒音の関係で、郊外に製造団地があるそうだ。 建物は金沢町屋の蔵をイメージしたものだというが、蔵が川越のように露出していなくて、建屋に覆われているのは、後で泉鏡花記念館の建物で教わった。

安江金箔工芸館の「安江」は地名ではない。 金箔職人の安江孝明氏(1898~1997)が、「金箔職人の誇りとその証」を後世に伝えたいとの思いから、金箔にちなむ美術品や道具を私財を投じて蒐集し、1974年金箔工芸館に展示したことに始まる。 安江孝明氏は、岩波書店社長を務めた安江良介氏の父上だそうで、福澤諭吉協会は『福沢諭吉全集』を編集した福沢諭吉著作編纂会を前身としており、福沢の著作を多数出版している岩波書店とは、縁が深い。 金箔工芸館は、1985年に金沢市に寄贈され、2010年に移転新築したのが金沢市立安江金箔工芸館である。

金沢の金箔は、16世紀末、加賀藩祖前田利家の命令に始まることが確認されているが、幕府が箔座を設置して諸藩の製造販売を禁止したため、18世紀末以降は途絶えていた。 19世紀初頭、火事で焼けた金沢城の再建にあたり、藩が京都から職人を呼んで金箔を打たせたことがきっかけになって、金沢の職人たちは箔打ちの技術を習得した。 彼らは運動を起こし、まず販売権を、幕末には製造権も獲得、復興した金沢の金箔は明治以降、産業として発展した。

館長さんの丁寧な解説を聴いて、金箔製造の大変な工程をまったく知らなかったことがわかった。 まず純金にわずかな銀や銅を合わせ、約1300度の高温で溶かした合金を板状にする。 それを帯状に延ばしたものを「延金(のべがね)」という。 昔は叩いて延ばしたのだろうが、現在はロール圧延機で何度もローラーがけをし、約20分の1mm程度までの薄さに延ばす。 それを、「箔打紙」という手すきの和紙(雁皮紙)を藁灰汁や柿渋や卵などに漬けて特殊な処理を施した紙と交互に重ね、数万回叩く(今は、箔打機で)ことにより、1万分の1~2mmまでの薄さに延ばす。 叩く回数の多さはもとより、叩く間に、金箔と「箔打紙」がくっつくので、その都度、「箔打紙」に特殊処理を施すという、その手間も気が遠くなるほどのものだ。

詳しくは、金沢金箔伝統技術保存会のホームページ「金箔の製造方法」に写真と共に掲載されているが、職人は、「澄屋」という澄工程と、「箔屋」(箔打師)という箔工程の職人に分かれ、「箔打紙」の仕込みは、それぞれの工程で用いる紙を製紙家から購入し、澄屋、箔屋が行うのだそうだ。

丸の内の銀行員から、下町のガラス工場へ2023/09/29 06:58

 映画『こんにちは、母さん』で、丸の内の高層ビルにある大会社の人事部長、神崎昭夫(大泉洋)は社員のリストラや妻との離婚や娘の家出で日々神経をすり減らしており、下町向島に暮らす母のボランティア仲間、煎餅屋の奥さんが持って来た割れ煎餅をかじって、「旨い! 俺もこういう仕事につけばよかった。こういう仕事は、人に喜びを与える。職人の仕事は裏切らないからなあ。」と、いうのだった。(一流会社のサラリーマンか、職人か<小人閑居日記 2023.9.19.>)

 そのシーンを観て、私が思い出したことがあった。 私は学校を出て最初に入った東京に店舗網を持つ銀行が入行前に吸収合併されることになったため、半年ほどで最初の交流人事で、大手銀行の丸の内の本店営業部に異動になった。 4年ほど本店営業部に勤め、最後もそこにいた。 今まで、書いたことのないことを初めて告白する。 貸付課の窓口に座って事務方の仕事を長くしていたのだが、預金課に異動になった後、なぜか眠られず、当時は「ノイローゼ」といっていた「うつ病」状態になった。 よい学校で学ばせてもらって、一流銀行に勤めることができたのに、両親と学校に申し訳がないという思いが募った。 消え去りたいような気持になって、暗い顔をして歩いていた。 銀行も、病院を紹介したり、調査部のようなところへの転勤なども検討してくれたらしいが、結局、下町の小松川にある家業のガラス工場を手伝うということで、退職する方向になった。 父が話をしてくれ、工場を継いでいた兄も受け入れてくれた。 父と母には、大層心配をかけてしまった。

 そんな折のある時、前の貸付課の課長さんが、私に掛けてくれた一言が忘れられない。 ご自身は高卒で、銀行生活でそれなりの苦労をしてこられたのだろう、息子さんを東大に入れたと聞いていた。 「下町の工場も大変だろう、せっかく一流会社に入ったんだから、辞めることはない」と。

家庭用品メーカーに徹する「象印マホービン」2023/09/28 06:58

 『カンブリア宮殿』、次の週は「象印マホービン」だった。 「炎舞炊き」(圧力IH炊飯ジャー)という8万円以上もする炊飯器が、爆発的に売れているという。 毎日食べるご飯が美味しく炊けるという口コミが広がっているらしい。 炊飯器の分野では、家電メーカーが釜の材質を工夫することで競争してきた。 象印は、昔ながらの竈(かまど)の釜で炊く過程の、温度分布やコメの動きを徹底的に研究して、釜の材質でなく、コイルをいくつか配置することによって、炎によってコメが舞う(踊る)ように炊く方式を開発した。 狭い場所に複数のコイルを配置するのは、とても手数がかかり、どうしても製造コストが高くなる。 そのため、販売価格も高く設定しなければならなかったが、美味しいご飯を食べたいという消費者は、そのハードルを越えた。

 今、65歳の市川典夫社長が、42歳で社長になった時(2001年)、「象印マホービン」は多種多様の家電製品に手を広げて、行き詰っていた。 重役は当然年上のベテランばかりだ。 大手の家電メーカー各社と競争しても、太刀打ちできない。 そこで家電メーカーでなく、元来の家庭用品メーカーに戻ることにした。 ステンレスの魔法瓶、炊飯器、電気ポット、ホットプレート、暮らしに寄り添った日常生活発想で「ちょっといいコト」「ちゃんといいモノ」を届けようというのだ。 「炎舞炊き」の大ヒットは、その線上にある。

 原点は、1918(大正7)年、祖父の魔法瓶のガラスを吹く工場にあった。 今では、ステンレス製の魔法瓶ばかりになって、ガラスの魔法瓶をつくっているのは、「象印マホービン」だけになったそうだ。 しかし、ガラスの魔法瓶は容器の味や臭いが移らないので、アラブ諸国で今も人気があるそうだ。

 番組で、魔法瓶のガラスを吹く工場の様子を見て、私は同じような窯で食器を製造していた家業のガラス工場のことを思わないわけにはいかなかった。 市川典夫さんが社長に就任した2001年は、わが社は前年末に窯の火を落として、会社の整理にかかっていた。 『カンブリア宮殿』で、「コクヨ」や「象印マホービン」の跡継ぎ社長たちの、熟考された経営戦略や奮闘努力を見ていると、こちらは零細企業ではあったが、忸怩たる思いがふつふつと湧いてくるのであった。

凸版印刷から、TOPPANへ2023/09/27 07:03

 『カンブリア宮殿』、次の週のTOPPANの回も見た。 凸版印刷は、10月に社名から「印刷」を外すという。 持株会社体制への移行で、商号を「TOPPANホールディングス」にし、事業を継承する会社を「TOPPAN」と「TOPPANデジタル」にする。 凸版印刷は、明治33(1900)年に大蔵省印刷局の若手技術者たちが独立して、「エルヘート凸版法」という当時最先端の技術を基礎に、証券印刷やパッケージ印刷などの分野にビジネスチャンスを見い出して創業した会社だ。 現在「印刷技術」をベースに、「情報コミュニケーション事業分野」「生活・産業事業分野」「エレクトロニクス事業」の三分野にわたり幅広く事業を展開している。

 麿秀晴社長は、山形大学工学部卒、口下手な技術者だったが、敢て営業への配置を希望し、よくしゃべるようになって、社内外でコミュニケーションが取れるようになったという。 その体験から、会社では「ゼネラルなスペシャリスト」が求められていると語る。 技術者として、いくつかの特許を持っているが、その一つ「GLバリア」透明フィルムは、高いバリア性があり、食品など内容物の鮮度を維持し賞味期限を延長するとともに、環境適性にも優れたパッケージなどとして使われ、トッパンのドル箱になっている。 松山の「一六タルト」、札幌の「白い恋人」は、売り上げが伸びたと喜んでいた。 そして、事業分野の拡大で、観光施設「白い恋人パーク」の、企画設計運営の分野にも関わっている。

 缶飲料の容器を紙でつくる「カート・カン」、木目を印刷した建材や家具などでも売り上げを伸ばしている。 タグ「RFID」は、ダンボールや袋の中に入っているものにつけたタグの情報を電波で読み取れるもので、複数アイテムを同時に読み取れるため、バーコードに代わる管理手法として、商品の在庫管理や棚卸など、アパレルなどさまざまな業界で、導入が進んでいるそうだ。

 そういえば、昭和30(1955)年代に高校新聞を作っていた頃、写真や飾り見出しなどは、活字を組んでもらうのとは別に、注文して「凸版」にしてもらうのだった。 アルミ製かと思う「凸版」が出来て来て、紙面に組む時、活字の組み版と並べるのだった。 朝ドラの『らんまん』で、槙野万太郎は石版印刷を習得し、石版印刷機を入手する。 まだ、「凸版」は普及していなかったのだろう。 あれは、明治何年ごろのことか。 朝井まかてさんの『ボタニカ』を見たら、牧野富太郎が「石版印刷機」を買うと上京し、技術を習得するため、神田錦町の太田石版店に給金なしでと頼み込むのは、明治19(1886)年5月とあった。