宇野重規さんの「トクヴィル分権論と福沢」2025/05/27 07:16

 24日は交詢社で福澤諭吉協会の総会があり、宇野重規さんの「トクヴィル分権論と福沢」という記念講演を聴いてきた。 宇野重規さんは、東京大学社会科学研究所教授、研究所所長で、専攻は政治思想史、政治哲学。 2020年、日本学術会議の新会員に推薦されながら任命拒否された6人の1人、朝日新聞に毎月末「論壇時評」を連載している。 『トクヴィル 平等と不平等の理論家』(講談社2007年6月)(第21回サントリー学芸賞)、『民主主義とは何か』(講談社現代新書2020年10月)(第42回石橋湛山賞)、『実験の民主主義-トクヴィルの思想からデジタル、ファンダムへ』(中公新書2023年10月)など、多数の著書・論文がある。 (私はファンダムが分からず、検索する「fandom…趣味・アニメ・漫画・小説・スポーツなどの熱心なファンたち、その世界、彼らによって形成された文化。」)

 宇野重規さんは、2021年に『近代日本思想選 福沢諭吉』(ちくま学芸文庫)というアンソロジーを出している。 「分権論」はもちろん「明治十年丁丑公論」「痩我慢の説」も収録している。 講演要旨は、福沢は『アメリカのデモクラシー』を日本の現実に引き付けて読み解き、トクヴィルの「分権論」を明治日本における地方議会構想に適用したことは、福沢のトクヴィル読解の精髄であり、今なお示唆的である、と。 まず、福沢について、上手いな、勘がいい、思想的なポイントをパッとつかむ、切れ味の良さ、こう語るのかと感心させられるという。

 トクヴィルと福沢は、1805年と1835年の生れ、ほぼ同時代で、ともに25歳の時に、異邦人としてアメリカへ行き、これだ、とアメリカを軸に国を考えるようになった。 トクヴィルは、人類は平等化の方向に向かっている、民主社会に向っている、とした。 福沢が一身にして二生を経ると言ったように、トクヴィルも二つのまったく違う時代を生きた。 トクヴィルは、革命後に貴族の家に生れ、ルイ16世亡き後と嘆く、保守反動の暗い家に育った。

 福沢が『文明論之概略』でギゾーの『ヨーロッパ文明史』を参考にしたが、ギゾーはトクヴィルがソルボンヌ大学で学んだ教授だった。 ギゾーは1830年の7月王政の首相、ブルジュア政治家、評判が悪く1848年二月革命を招いた。 『ヨーロッパ文明史』は、巨視的に、ヨーロッパの発展は多元性(相反する要素の併存、教会と世俗権力)によるとした。 対立や分裂が、ヨーロッパのダイナミズムを生み出し、貴族にも意味がある、と。 自由と中央集権化(絶対王権)。 両者が衝突したのが、英仏の革命(ピューリタン革命とフランス革命)。

  『文明論之概略』、「西洋の文明は、その人間の交際に諸説の並立してようやく相近づき、遂に合して一となり、以てその間に自由の存したるものなり(中略)。顧みて我が日本の有り様を察すれば大いにこれと異なり」 「日本の人間交際は、上古のときより治者流と被治者流との元素に分かれて、権力の偏重を成し、今日に至るまでもその勢いを変じたることなし」。 日本では、自由とダイナミズムを生み出すことはなかったとする。 『文明論之概略』で、福沢はギゾーのスタイルで、日本の信長、秀吉、家康を描いた。

東京六大学野球、「捕らぬ狸の皮算用」2025/05/25 07:29

 東京六大学野球100周年の春のリーグ戦、例によってBIG6.TVの中継を見て、LINE仲間に結果を速報している。 第6週、慶應は法政と、5月17日(土)雨天中止、18日(日)6対6プロ野球併用日で9回引分、19日(月)6対4、20日(火)5対6で1勝1敗1分、21日(水)4回戦までもつれて6対9と破れ、勝ち点を取れず、法政と並んで勝ち点2勝率.500の4位に沈んだのであった。

 5月21日現在、明治が7勝3敗1分勝ち点3勝率.700で1位、早稲田が7勝4敗勝ち点3勝率.636で2位、立教が6勝5敗勝ち点2勝率.545で3位、東大が8敗で6位となっている。 24日からの第7週は、明治と法政、立教と東大。 31日からは早慶戦。

 法政が明治から勝ち点を奪い、慶應が早稲田から勝ち点を取れば、勝ち点3で明治、法政、早稲田、慶應が並ぶことになる。 法政連勝なら7勝5敗、明治7勝5敗。 優勝しそうな方が負けることの多い早慶戦、慶應連勝なら7勝5敗、早稲田7勝6敗。 勝率で明治、法政、慶應が並ぶことになる。 そういう場合、優勝決定戦になるのだろうか。 こういうのを「捕らぬ狸の皮算用」、という。

 昨24日の明法1回戦、6対0で明治が先勝、優勝に王手をかけ、早くも「皮算用」に暗雲が現れたのであった。

「自由貿易の平和乱す トランプ関税」「多国協調で「報復」可能」2025/04/30 07:06

 ロシアのウクライナ侵攻以降、トランプ大統領再選へと、テレビの解説やコメントに、慶應の先生の登場が目立つ。 新聞の時評にも、慶應の先生を見る。 17日の朝日新聞「経済季評」は、坂井豊貴慶應義塾大学教授、専攻はメカニズムデザイン、主著に『多数決を疑う』があるそうだ。

 見出しは、「自由貿易の平和乱す トランプ関税」「多国協調で「報復」一理あり」。 現代経済学の祖の一人であるレオン・ワルラスは晩年、自分がノーベル平和賞を得るべきだと考えたという(ノーベル経済学賞はまだなかった)。 彼が打ち立てた交換経済の理論が、平和に資する自由貿易の理論であること、そして関税の廃止による自由貿易の促進を論じていたからだ。 自由貿易を平和に結びつける考えは、ワルラスに端を発するわけではなく、18世紀の思想家モンテスキュー、ヒューム、スミスにまでさかのぼる。 貿易による相互依存の強化は、平和による利益を高めるからだ。 こうした考えは、実利を重視し、人間理性によって社会を構築していこうとする啓蒙思想のなかで育まれた。

 第2次世界大戦後の米国も、自由貿易を平和と結び付けて考えた。 1929年の世界恐慌後、関税同盟を通じて貿易相手を制限するブロック経済が、戦争の主因の一つであったからだ。 大戦で荒れた欧州を援助する米国のマーシャル・プランにも、自由貿易の促進は重要な項目として入っていた。

 坂井豊貴教授は、トランプ大統領の関税とディール(交渉)の背景にある、興味深い論考を紹介している。 大統領経済諮問委員会のミラン委員長は、就任前に「世界貿易システム再構築のユーザーズ・ガイド」という長い論考を発表した。 興味深いのは、そこにある最適関税理論の記述だ。 通常は関税をかけると輸入品の物価が消費税のように上がり、関税をかけた国の消費者は不利になる。 しかし購買力が強い大国の場合は、関税をかけても輸出国が関税の大半を値下げで吸収するので、関税をかけた国の消費者が不利にならない、というのが最適関税理論である。

 ミラン氏は論考で国際経済学のハンドブックを引用し、米国の最適関税率は20%ほどだと述べている。 また、同氏は関税50%のほうが、関税ゼロの自由貿易より望ましいとも述べている。 今回のトランプ関税と、ミラン氏の最適関税理論についての記述は重なっている。

 最適関税理論では通常、関税をかけた相手国が、報復関税を課してこないと仮定したうえで、自国の関税を最適に上げる。 随分図々しい仮定だが、トランプ氏が相手国に報復関税するなと警告するのは、この仮定と合致する。 また、ベッセント財務長官の「相手国が報復関税を課さないならば、現在の関税率が上限だ」という発言も、同理論と非常に親和的だ。

 とすると、「相互関税」が同理論に基づくという前提の上だが、報復関税には一定の理がある。 相手国が報復関税をすると、トランプ氏は高い関税率を課す根拠を失うからだ。 だから、もし今後「相互関税」が発動する事態が起こるならば、多国間で協調して報復関税を課すことが、強い対抗措置になりうる。 多国間でというのは、一国だと交渉力が弱いからだ。 無論そうした事態は起きないことが望ましいが、そもそも現在の事態も起きない方が望ましく、また想定外のものであった。

三田あるこう会「二ヶ領用水・生田緑地散策」2025/04/16 07:22

二ヶ領用水の桜

 今年の桜は、近所の九品仏浄真寺と、東急東横線・目黒線の多摩川駅から田園調布せせらぎ公園と多摩川台公園へ、家内と行ったあと、6日の日曜日に、三田あるこう会の第576回例会「二ヶ領用水・生田緑地散策」で、見た。 午後から雨の降る予報だったが、途中パラパラきただけで、帰りも晴れていたので助かった。 もっとも、立派な桜並木がつづいている二ヶ領用水では、桜のバックに青空というわけにはいかなかったけれど…。

 例によって午前10時半の南武線の登戸駅集合、多摩川へ出て登戸の渡しの土手を歩き、多摩川の水を二ヶ領用水に取り入れる、宿河原堰取水口を眺め、二ヶ領せせらぎ館まで行く。 全長32キロの「二ヶ領用水」は、江戸時代初期に川崎領と稲毛領にまたがってつくられたので、この名のある農業用水。 天正18(1590)年に関東6カ国に転封となった徳川家康が、江戸近郊の治水と新田開発に取り組み、用水奉行・小泉次大夫に命じて作らせた用水の一つで、慶長16(1611)年に完成した。 それまで、この二ヶ領は水利事情が不便だったため、水田耕作による農業生産基盤が脆弱だった。 二ヶ領用水の完成で、新田開発も進み、米の収穫量が大幅に増加したと伝えられている。

 現在の二ヶ領用水路沿いは、親水公園として整備されていて、満開の桜を見ながら進む。 途中、南武線の下を腰を屈め、頭をぶつけないように潜る場所があるのが、面白かった。 宿河原の住宅地を、向ヶ丘遊園駅方面に歩き、北村橋で左折して、生田緑地ビジターセンターへ向かう。 ここまで、当番の山崎さんがYahooマップで算出した総歩行距離は3.66㎞、総歩行時間45分ということだったのだが、実はかなりくたびれていた。 それで、ここから登る生田緑地の枡形山について、同じ道を登ってまた戻るのかと山崎さんに訊ねた。 枡形山には登らずに、別行動で直接向ヶ丘遊園駅近くの昼食場所まで行くズルを考えたのだ。 下りは別の道で、登りも簡単だからと言われ、私の勝手な考えは却下され、一緒に枡形山に登ることになった。 ところが、そう簡単ではなく、へろへろと登って、西村さんに支えられてようやく登ることが出来た。 今後、長距離で登りのある会は、迷惑をかけるといけないので、少し考えないといけないと思ったのであった。 この日の万歩計は、15,478歩だった。

 生田緑地、庄野潤三さんの本で、その子供さんたちが縦横に走り回っていたのを読んでいた場所だったが(阪田寛夫さんと庄野潤三さん<小人閑居日記 2025.1.30.>参照)、自分の年齢を感じることとなった。 なお、先日雷が落ちてサッカー部の中学生が意識不明になったという帝塚山学園が奈良市だというので、変だなと思っていた。 調べると、阪田寛夫さんが庄野潤三さんの後輩だったという、帝塚山学院小学校は大阪市住吉区帝塚山という高級住宅地にあって、奈良と大阪の両方に「帝塚山」という地名があり、「学園」と「学院」の違いがあるのだった。 東京育ちには、わからないことだった。

水天宮のミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクションと福沢諭吉2025/04/10 07:12

 このところ、ときたま人形町界隈に出没している。 昔、会社の帰りに立ち寄ることがあったので、多少は土地勘があった。 TBS落語研究会が、三宅坂の国立劇場小劇場を建て替えで使えなくなり、2023年11月から2024年5月まで、水天宮に近い日本橋劇場(中央区立日本橋公会堂)を使っていたので、毎月人形町へ行っていたからである。 その日本橋劇場も建て替えで、落語研究会はその後、よみうり大手町ホールでやっている。

 先日は、前から行ってみたいと思っていて、なかなか行けなかったミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクションへ、「南桂子展 小さな雲」(3月30日まで)を観に行った。 浜口陽三が精密な銅版画家で、ヤマサ醤油の創業家の出身であることは、知っていた。 創業者の浜口梧陵(儀兵衛)と福沢諭吉の関係があったからだ。 浜口陽三は、十代目浜口儀兵衛の浜口梧洞の三男として、1909(明治42)年4月5日、和歌山県有田郡広村(現、有田郡広川町)に生れ、幼少時に一家で千葉県銚子市に転居したという。

 「南桂子展 小さな雲」を後回しにして、南海トラフ巨大地震とも関連するので、浜口梧陵(儀兵衛)と大津波、和歌山と福沢諭吉・慶應義塾の関係について、書いたものをまず引いておきたい。

   大津波と浜口梧陵、和歌山と福沢・慶應義塾<小人閑居日記 2019.1.19.>

 浜口梧陵については、まだブログに配信する前の「等々力短信」に、「大津波と浜口梧陵」<等々力短信 第947号 2005.1.25.>を書いていたので、あとで引く。 和歌山と福沢諭吉・慶應義塾の関係、福沢諭吉と浜口梧陵、その和歌山教育史との関係については、下記を書いていた。
拙稿「和歌山と福沢諭吉・慶應義塾」その1<小人閑居日記 2012.9.22.>
拙稿「和歌山と福沢諭吉・慶應義塾」その2<小人閑居日記 2012.9.23.>
「紀州塾」、福沢が方向づけた和歌山の教育<小人閑居日記 2012.9.24.>
〈明治前期〉教育史と紀州の中学の個性<小人閑居日記 2012.9.25.>
県立和歌山中学と、自由民権運動の中学<小人閑居日記 2012.9.26.>

      等々力短信 第947号 2005(平成17)年1月25日
                 大津波と浜口梧陵

 番組表に「浜口梧陵」の名前があったので、13日NHK放送の“その時、歴史が動いた”「百世の安堵をはかれ―安政大地震・奇跡の復興劇」を見た。 黒船に開国を迫られた幕末の動乱期、三つの巨大地震が日本を襲った。 嘉永7(1854、改元されて安政元)年11月4日、下田でプチャーチンのディアナ号を大破した安政東海地震が発生、その30時間後の5日の夕方には、紀伊半島南部と四国南部が震度6以上の安政南海地震に見舞われ、紀伊半島南西岸から土佐湾沿岸を大津波が襲って、多数の死者が出た。 銚子と江戸で醤油醸造業(ヤマサ)を営み、半年は故郷の紀州広村(現、広川(ひろがわ)町)で暮していた浜口梧陵は、地震直後、海の様子を見に行き、真っ暗で、閃光が走り、雷のような物凄い音を聞いた。 津波の襲来を予感した梧陵は、村民に高台の八幡神社への避難を呼びかけて回り、暗闇で道がわからないと見ると、たいまつで稲むらに火を放ち、避難路を照らした。 地震発生から40分で津波の第一波が到着、5回にわたり最大5mの津波が押し寄せた。 浜から神社まで1.7km、避難には20分かかる。 津波を予感した梧陵の早い判断と的確な避難指示によって、全村民の97%の生命が救われた。

しかし地震と津波による被害は甚大で、梧陵が私財で仮小屋50軒を建て、農具などを提供しても、離村者が出るようになった。 梧陵は村人に希望と気力を取り戻させるため藩に願い出て、私財を投じ、村人の働きには給金を出し、津波を防ぐ大堤防の建設に着手する。 翌安政2(1855)年の安政江戸地震で江戸の醤油店が罹災、閉鎖に追い込まれたものの、銚子で最高の生産高を上げて堤防建設に送金し、安政5(1858)年12月、これだけの規模の盛り土堤防は世界最初、村民の自助努力で防災と生活支援を同時に実現した復興事業も画期的という「広村堤防」が完成する。 下って昭和21(1946)年、M8.0の昭和南海地震では、高さ4mの津波が襲ったが、村の大部分は被害を免れた。

『福澤諭吉書簡集』に、浜口儀兵衛(梧陵)あて書簡が3通、浜口の名の出てくる書簡が10通ある。 梧陵は慶応4(1868)年、和歌山藩の藩政改革で抜擢されて勘定奉行となり、翌明治2年藩校の学習館知事に転じ、明治3年松山棟庵の協力を得て洋学校・共立学舎を設立した。 この時、旧知の福沢を招聘しようとしたが、福沢は受けなかった。 だが二人の交際は続き、晩年の梧陵が計画し明治18(1885)年ニューヨークで客死することになる世界一周視察旅行には、福沢が格段の配慮をしている。