小泉信三さんの母校「御田」小学校、私の父も2024/02/09 07:07

 済海寺から、丘の上の道を高輪方面に進み、港区立「御田」小学校へ行く。 「岬門」から御田小学校に入ったが、この「岬」については、あとで述べる。実は、御田小学校は私の父の出た学校で、その父は縁あってすぐ隣の曹洞宗南台寺の墓に眠っている。 御田小学校を、ウィキペディアで見ると、「明治、大正時代は軍人、官吏、会社社長、頭取などが子弟を通わし、校風は山の手風であったとされる」、「出身者。小泉信三(慶應義塾大学塾長)、原顕三郎(海軍中将)、水上滝太郎(阿部章蔵、文豪)、森昌子(演歌歌手、元アイドル歌手〈花の中三トリオ〉(「せんせい」を歌った)、1971(昭和46)年卒)、池田晶子(思想史家・哲学者、1973(昭和48)年卒)、佐藤哲也(作家、1973(昭和48)年卒)」とあり、当然ながら馬場忠三郎の名前はない。

 今村武雄さんの『小泉信三伝』を見る。 明治27(1894)年12月に父信吉が亡くなった時、信三は7歳8か月だった。 一家は横浜から三田四国町の借家に三月ばかり暮した後、三田山上の福沢邸の一隅にある一棟に移り住んだ。 「さて、信三の転校だが、世間では慶應幼稚舎からの生え抜きと思っているかもしれないけれども、横浜本町の小学校から移ってきて入ったのは三田台町の御田(みた)小学校だった。三田の通りからちょっと入ったところにも一つ小学校があって、通うには便利なはずだったが、こちらは町家の子が多かった。母のつもりでは、夫信吉が士族の出で、役所や銀行に勤めていたので、山の手で、軍人や官吏の子が多いといわれた御田小学校を選んだのではないか。もちろん、福澤も承知の上だったろう。」

 転校してみると、そこには明治生命社長阿部泰蔵の子章蔵、園田正金頭取の子忠雄、坪井(航三)海軍少将の子順三郎、鍋島男爵の子睦郎らがきていた。 地方から出て、軍人、官吏として出世した人たちの子弟が多いので、「三田の学習院」などといわれた。 三田あるこう会で、「三田の学習院」という話をしたら、岡部さんが先代の林家三平が「下町の学習院」を出たと根岸小学校のことを言っていたと教えてくれた。 信三は、生涯の友となった阿部章蔵(水上滝太郎)を除けば、特別のかかわりはなく、「全く無頓着」に、姉といっしょに、聖坂をあがって、この学校に通い続け、出来のいい方だったという。 私の父は、後の大正年代だが、養子に入った馬場の家が白金志田町で中華そばの屋台などを束ねる仕事をしていたので、単に御田小学校の学区だったから通ったのだと思う。

三田あるこう会「御田」、亀塚と皇女伝説2024/02/08 07:03

 2月3日は福沢諭吉先生の命日だが、三田あるこう会は、麻布の善福寺でなく上大崎の常光寺へ行くのが、恒例になっている。 第563回例会は、「「御田」から常光寺参拝」。 毎年常光寺参拝を担当している宮川幸雄さんによると、港区の三田は1丁目から5丁目まであるが、「御田(みた)」にこだわっている地域があり、御田とは皇室の御田という意だそうだ。 午前10時半、都営浅草線の泉岳寺駅に集合、第一京浜国道を札ノ辻、田町駅方面へ歩く。 まず高輪郵便局の先にある、「御田」八幡神社へ。 階段を上がって神社、さらに神社の左の知る人ぞ知る狭い階段を上がって、丘の上の亀塚や済海寺へ。 東海道は、徳川家康が海沿いの道を開くまで、亀塚や済海寺が面した丘の上の道を通っていた。 北に下ると、あの急な聖坂(ひじりざか)だから、二つの道の高低差は25mは超えるだろう。 私は早くもヘロヘロになった。

 済海寺は、『更級日記』の皇女伝説にある竹芝寺と言われており、亀塚は、皇女の墓であるという説がある。 『更級日記』の皇女伝説とは、こんな話だ。武蔵の国の竹芝という荘園の男が、朝廷で篝火を焚く衛士となり、故郷では酒壺に瓢箪でつくった柄杓を浮かべるのだが、東西南北の風向きによって、柄杓が、その方向になびくとつぶやいた。 それを、帝が大切に育てた姫が御簾の内で聞いて、興味を抱いた。 連れて行けと言われた衛士は、皇女を背負って七日七晩、武蔵の国まで走る。 男がいい匂いのするものを背負って東へ走って行ったという目撃情報があった。

 朝廷の追手は、三か月かかって、二人の居所をつきとめたが、姫は自分が頼んで来たので、男を罪人にしたら私はどうなる、この国に落ち着くようにというのは仏様の思し召し、前世の因縁だろう、そう帝に伝えるようにと言う。 それを聞いた帝は、仕方がない、男を罪人にし姫を連れ戻すわけにもいくまいと、竹芝の男と姫に武蔵の国を預ける宣旨を出し、二人の暮らす男の家を皇居のように改装させた。 姫の産んだ子は、武蔵の姓を与えられ、御所で篝火を焚く役は男から女に替えられたという。 姫が亡くなった後、その屋敷は竹芝寺となった。

 宮川幸雄さんは、「御田」の名は、この皇女伝説に由来するのではと、考えているそうだ。 現在の済海寺の人に、この関係の話を尋ねても、何も語らないので、尋ねないようにとのことだった。

 慶應の大先輩、俵元昭さんの著『港区史蹟散歩』(学生社・1992年)によると、「亀塚」は慶應義塾大学が発掘調査したとき、盛土に混じって土師器、須恵器の破片は見られたが、古墳としての内容は発見できなかったという。 済海寺は、碑や案内板もあったが、幕末の安政6(1859)年に日仏通商航海条約でフランス公使館となり、初代臨時公使ド・ベルクールが駐在した。 勝海舟・西郷隆盛の会見場を眼下の左右に見下ろして、維新の外圧となっていた、と俵さんは書いている。 俵さんは、慶応4(1868)年3月14日の本会談は、記念碑のある田町駅近くの三菱自動車前、薩摩藩蔵屋敷(正確には門前の抱屋敷)で行われ、前日の会談は品川駅前の薩摩藩下屋敷で行われたと、会談場所をこの二か所だとし、四国町薩摩屋敷、池上本門寺、愛宕山などの説は他の機会の事実と混同だと退けている。

日本橋高島屋屋上にいた象の一生2024/01/18 06:59

 三田あるこう会で高島屋の屋上庭園に行った時、戦後ここに象がいたのを覚えている人がいた。 私は記憶になかったので、その方に、最近再開発に関連してよくニュースに出てくる渋谷の東横百貨店のケーブルカーも記憶にない、と言った。 ボーーッとしていたんだろう。

  高島屋の象の話を調べてみると、こんなことだった。 戦後10年の昭和25(1950)年、タイに出張した高島屋の社員が、生後間もない象を紹介された。 屋上遊園地の目玉にならないかと、貨物船で下関へ、さらに貨車で汐留に運んだ。 店名にかけて「高子」と名付けられた象は、汐留から日本橋までパレード、大歓迎を受け、クレーンでカゴごと屋上に吊り上げられた。

 屋上の遊園地で「高子」は、ラッパを吹いたり、旗を振ったり、子供を背中に乗せて歩いたりして、人気者になった。 毎日、30kg超の餌を食べる「高子」は、4年後には1.5トンにもなって、屋上が持つかどうかということになった。

 引き取り先を探して、上野動物園に決まったが、降ろすのが一大事。 結局、村野藤吾の手になる例の中央階段を、一段ずつ歩いて降りることになった。 興奮して、ショーウインドウを一部壊すトラブルはあったが、ともかく上野動物園に移すことができた。

 「高子」は、上野動物園を経て、多摩動物公園に移り、平成2(1990)年に飼育場の堀に落ちて、たくさんの子供たちを楽しませた、その生涯を閉じたという。 享年40歳だった。

一ヵ所で七福神巡りができる秘所2024/01/17 07:03

 1月7日、第562回の三田あるこう会の例会で、「新春日本橋七福殿と日本橋界隈散策」だった。 この会、1月は七福神巡りが定番なのだが、今回は、何と一ヵ所で七福神に参拝できる場所をご存知の方がいて、そこへ案内してもらったのだった。 それは日本橋高島屋の屋上庭園にある。 といっても、知る人ぞ知るで、宣伝や案内をしているわけではないので、屋上庭園に行っても、見つけられないかもしれない。 なお、日本橋には普通の七福神巡りのコースもあるそうだ。

 これは高島屋が1933(昭和8)年の開店の際に作られた「日本庭園」と「七福殿」で、七福神は、福徳円満、商売繁盛を願い、高島屋発祥の地である京都の様々な寺社から七福神を迎えてお祀りしたものだという。 案内板もパンフレットもないので、詳しいことはわからない。 写真のように、七角のお堂に七つの扉があるが、どういう像が祀られているかは、「七福殿」を知っていた人が高島屋に問い合わせてみたが、創業者が開けるなと言ったのかどうか、開けたことがないのでわからないという話だった。 屋上庭園には、別に笠森稲荷も祀られている。

 「七福殿」と「日本庭園」は、日本橋高島屋の本館屋上庭園の、中央通りに面した北の端にあり、新館の左端のエレベーターで7階に上がって、飲食店を通り抜けて、屋上庭園に出ると、笠森稲荷があり、右に回り込むと、ひっそりとある。 なかなか見つけられない場所だ。

 実は、昨16日、家内が「七福殿」に行ってみたいというので、アーティゾン美術館の「マリー・ローランサン―一時代をうつす眼」展を見がてら、再度高島屋の屋上庭園を訪れたのであった。 正月に二度、「七福殿」をお参りしたので、きっとご利益があるに違いない。

咸臨丸の勝海舟と福沢諭吉、目的の違い2024/01/16 07:00

 「修身要領」は、信用のおける弟子たちが、福沢のいい言葉を選んだ。 ご飯を食べることから細かく、家庭をうまくやることを書き、2歳の子供の頭にも入った。 その原因、因縁は、咸臨丸渡米から始まっている。 もっとも、福沢の実証的発想は、子供の時に神様の祠で試した頃からあったのだけれど。

 咸臨丸には、勝海舟と福沢諭吉、二人の重要な人物が乗っていた。 勝海舟は、幕府、日本を背負っていて、日本も世界に認められる国にという意図を持つ、政治家だった。 海軍をつくり、意地で遣米使節にむりやり咸臨丸で付いて行った。 途中、小舟を出して、小笠原の父島に上陸しようとした。 小笠原は、太平洋の要衝で、列強、特にアメリカが狙っていた。 幕府のミッションで、様子を見、日本人がいた印を残そうと、嵐の中、上陸しようとして、止められた。 勝海舟は、船酔いで艦長として役に立たなかったが、国のために情報を得ようと、ナショナルな目的の行動を一つだけやろうとした。

 一方、福沢は、好奇心でアメリカに行かなきゃあと、自分のために咸臨丸に乗った。 蒸気機関などは本で知っている、本に出ていないことを身につけたい、と。 家庭生活、男と女の暮らし方、生活が大事で、肩書じゃない、幅の広さを見た。 議会では、一般の人が権利として議論をしている。 気品のある、ジェントルな、フリーダム。 品位、気品、キャラクター、天地に誓ってやましいことのない気風、格、自分の力で生きている文明の生活を見た。 人々が、男女が、対等に付き合っていることに気が付いた。 日本では、政治家が妾を囲っている、文明国じゃない。 お金の使い方も、袖の下を使ったりし、地位を持って威張る。 中国を例として、自由な学問ができない、固定していて変化ができない。 福沢は、忠孝をやめようと考えた。

 「修身要領」の普及のため、弟子たちが手弁当で地方を遊説して回った。 慶應的キャラクター、品位、気品を、地方のいろいろな所、幼稚園にまで伝えようとして、教育における成果を実感した。

 荒俣宏さんは、勝手なことをしゃべったが、慶應義塾には発言によって卒業証書をはく奪された者がいないと聞いて安心したと、講演を締めくくった。

福沢家代表挨拶、今年は福沢博之さんという方で、玄孫(やしゃご)と、福沢の子孫は合計602名、現在8代目世代までいるそうだ。 福沢の精神は、親からよりも慶應で自然に学んだ。 水球をやったが、下級生の時は、ひたすら与えられた練習をしたことが役立ち、先輩やコーチから長所を生かすこと、延ばすことを指導された。 それを自分なりに考えて、チームの力にしたのが、独立自尊の精神かと思うと話した。