野口米次郎とイサム・ノグチ2025/01/11 07:02

      野口米次郎とイサム・ノグチ<小人閑居日記 2010.12.23.>

友人の宮川幸雄さんに「「イサム・ノグチ」への旅」というエッセイがある(2003年10月『うらら』47号所収)。 ドウス昌代さんの『イサム・ノグチ―宿命の越境者』(2000年)を読んでいない私は、宮川さんの文章で知ったことが、いくつもあった。

宮川さんは、長年をかけ旧東海道を少しずつ歩いて踏破しようとしているが、その途次、藤沢で偶然、野口米次郎の墓を見つける。 JR藤沢駅から遊行寺の方角へ向かった本町四丁目という宿場町の真ん中、本陣跡の近くにある常光寺の境内にあり、碑面には Yone Noguchi とあるだけだそうだ。 野口米次郎は1947(昭和22)年、疎開先の現在の茨城県水海道市豊岡で亡くなった。 享年71歳。 息子イサム・ノグチの、戦後の活躍を見ることは出来なかった。 その死の直前、夫人と子供たちを集め、「アメリカにいるお前たちがまだ会ったことのない兄が、日本に訪ねてきた時には、心から歓迎してやってくれ」と言ったそうである。

ドウス昌代さんの本によれば、として、宮川さんは書く。 野口米次郎が慶應義塾大学文科教授に就任したのは明治39(1906)年、その翌年にノグチ・イサムを母親と共に日本に呼び寄せている。 野口米次郎は帰国後、既に結婚していたので二重生活だった。 ノグチ・イサムは、明治40年から、13歳になる大正8(1919)年まで日本で教育を受けている。 ノグチ・イサムは、父親の籍に入れてもらうこともなく、「父親がいた生活というものは、まったく記憶にない」と言っているそうだ。 そのような変則的な親子関係なのに、二人にはまるで一子相伝のように似た行動様式が見られる(宮川さんは一例に、二人の「インドへの関心」を挙げるのだが、それは略す)。 ノグチ・イサムがコロンビア大学医学部進学課程に在学していた時、客員教授の野口英世から「君にはお父さんと同じ芸術家の血が流れている。休むことなく頑張りなさい。君はきっとすばらしい芸術家になれることだろう」と助言を受けたことに通じるものだという。

映画『レオニー』で、その助言と励ましは、一貫して母レオニーのものだった。 日本の学校でいじめられ登校拒否になったイサムに、家を建てるので、そのプランを練ってみろと、言ったのは母レオニーだ。 イサムは三角の土地に「三角の家」を設計し、富士山がよく見える「丸窓」を母に贈る。 レオニーは13歳のイサムを単身アメリカに送り出す。 第一次世界大戦が勃発して、学校が閉鎖、連絡も取れなくなるが、親切なE・A・ラムリーが父親代わりになってくれ、高校を優秀な成績で出て、名門コロンビア大学の医学部へ進んだ。 妹アイリスを連れて、ニューヨークに戻ったレオニーが、「芸術家」への道を強力に勧めて、上の野口英世の言葉を述べ、マンハッタンの美術学校に入ることになる。

      野口米次郎の詩から<小人閑居日記 2010.12.24.>

 野口米次郎は、どんな詩を書いたのか。 初めに略歴を調べるのに参照した、角川文庫『現代詩人全集』第二巻近代IIから、引いてみる。

 「私は太陽を崇拝する」という詩には、こんな部分がある。
私は女を禮拝する……
恋愛のためでなく、恋愛の追憶のために。
恋愛は枯れるであらうが、追憶は永遠に青い
私は追憶の泉から、春の歓喜を汲むであらう

 「一提案」(部分)
百尺竿頭一歩を進むといふ言葉がありますが、
 詩の妙諦もそこですよ、
    (中略)
私の詩は(かう申すと大袈裟に聞えませうが)
諸君が到着した所から踏みだして、
人間性の傾向と霊の可能に向つて、
一生面を開拓しようとする努力にあります。
諸君の詩は諸君が歩く道程の説明として有益でありませうが、
私の詩は私が建築する新しい世界の報告に止まります。
    (中略)
私も人間として私の存在の原子(エレメント)にかへるといふことを尊重しますが、
それは軈(やが)ては上昇するといふ上に於てのみ是認されます。
詩人が自分の生活と自然の環境を説明するに止まつたならば、
彼は月給で働く一書記に過ぎないではありませんか。

脚注のようなもの。 「百尺竿頭一歩を進む」…すでに工夫を尽くした上にさらに向上の工夫を加える。また、十分に言葉を尽くした後にさらに進めて説く。(『広辞苑』)
 「私の存在の原子(エレメント)にかへる」…偶然、「是にて自分も元素に復して死するを得」という、幸徳秋水が最期に面会した堺枯川に語った言葉が帯にある『朝日新聞の記事にみる 追悼録〔明治〕』(朝日文庫)が、机の上にあった。 その言葉の前段は「自分は死刑の申渡を受けたる後初めて一切の責任を解除されたるが如き心地したり」となっている。

ヨネ・ノグチ=野口米次郎と、映画『レオニー』2025/01/10 07:02

      ヨネ・ノグチ、野口米次郎<小人閑居日記 2010.12.20.>

 奥山春枝と同じ1890(明治23)年に、慶應義塾に入った野口米次郎について調べる気になったのは、映画『レオニー』を観たからだ。

 野口米次郎は、詩人、慶應義塾大学部文学科初代教授。 1875(明治8)年、愛知県海部郡津島町(現津島市)に生れた。 慶應義塾で英語、歴史、経済学を学んだが卒業せず、1893(明治26)年19歳の時単身アメリカに渡る。 雑役夫などをして苦学の後、オークランドの詩人ウォーキン・ミラーの学僕となって詩作に関心を持ち、詩壇への登場も助けられた。 渡米後三年目に第一詩集『Seen and Unseen』(1897)を出版して注目された。 その後1902(明治35)年イギリスに渡り、ロンドンで『From the Eastern Sea』(1903)を自費出版して、トーマス・ハーディやアーサー・シモンズから賞賛を受け、英国の詩人たちと往来するようになった。 1904(明治37)年、11年ぶりで帰国、慶應義塾の英文学教授となり、以後40年間にわたって詩の講義を担当した。 「あやめ會」を起して詩人の国際的交流を図り、1913(大正2)年イギリスの詩人W・B・イエイツに招かれて、1914(大正3)年にオックスフォード大学などで日本の詩について講演を行った。 これらの講演は『The Spirit of Japanese Poetry』(1914)、『The Spirit of Japanese Art』(1915)として刊行され、「ヨネ・ノグチ」の盛名を馳せた。 浮世絵や能に造詣が深く、のちに『六大浮世絵師』(1919)などを出している。 日本語の詩集としては『二重国籍者の詩』(1921)、『林檎一つ落つ』『沈黙の血汐』(1922)、『山上に立つ』(1923)、『表象抒情詩』全四巻その他があり、多量の芸術、詩歌に関する著作がある。 1947(昭和22)年7月13日没、享年71。 墓所は神奈川県藤沢市の常光寺。 息子に彫刻家のイサム・ノグチがいる。

 以上は、『慶應義塾史事典』「野口米次郎」(この項、新倉俊一さん)と、角川文庫『現代詩人全集』第二巻近代IIの略歴によった。 前者で1897年とある『Seen and Unseen』は、渡米後三年目=1896年の出版かもしれない。 映画プログラムの研究者星野文子さんの記述、『明界と幽界』は1896年。

 『レオニー』という映画は、ニューヨークで野口米次郎と恋に落ちて、1904年ロサンゼルスでイサム・ノグチを産んだ、レオニー・ギルモアの物語である。

   ヨネ・ノグチを支えたレオニー・ギルモア<小人閑居日記 2010.12.21.>

 映画『レオニー』で、英国の女優エミリー・モーティマーが演じたレオニー・ギルモアは、1901年にフィラデルフィアの名門女子大ブリンマーを卒業(在学中にソルボンヌへも留学)、編集者になりたいという夢を捨てきれないまま、ニューヨークで教鞭をとっていた。 新聞で編集者募集の三行広告を見つけて、日本から来た青年詩人ヨネ・ノグチ、野口米次郎に出会い、雇われることになる。

 プログラムにある星野文子(国際基督教大学大学院博士後期課程)さんの研究エッセイによると、1896年、日本人として初めて英詩集『明界と幽界』(『Seen and Unseen』)をカリフォルニア州で出版し、「東洋のホイットマン」などと賞賛されたヨネは、文筆業での成功を夢見てニューヨークに赴いた。 そのために英語添削者を新聞広告で募集したところ、応募してきたのがレオニー・ギルモアだった。 二人三脚の文筆業は、頻繁な手紙のやり取りと会談で行われていたことが、当時のヨネの書簡からわかるのだそうだ。 最初に取り掛かったのがヨネ初めての小説『日本少女の米国日記』だった。 書簡からは、ヨネがレオニーに積極的な添削を求め、レオニーもその要望に献身的に応えて、この小説はニューヨークで出版される。 ヨネはロンドンに渡り、英米で成功することになるが、それを全面的に支えたのはレオニーであった。

 レオニーは、なぜここまでヨネに尽くしたか。 星野文子さんは、レオニーには、英語での小説家として、また、詩人としての成功という無謀な夢を抱くヨネに、芸術家としての素質が見え、そこに惹かれたためではないか、そして、何があろうと、芸術家ヨネを支え続けることこそ、自分の使命と感じたためでないのか、という。

 映画で、ヨネ・野口米次郎を演じて、英語でしゃべるのが中村獅童(観客が、その私生活と重ねて見てしまうところが微妙だ)。 レオニーが妊娠したことを喜んで、白い百合の花を買って帰ってきたのに、「嘘だ」と叫んで、百合をぶちまける「悪いヤツ」だ。 1904年、野口米次郎は一人日本に帰り、レオニーはロサンゼルスの母親のところへ行って、男の子を産む。 1907年、日露戦後の排日の動きもあり、レオニーは3歳の子供を連れて、日本にやって来る。 森鴎外の『舞姫』、アンナ・ベルタ・ルイーゼ・ヴィーゲルトの一件を思わせる。 横浜港で出迎え、わが子にイサム(勇)と名付け、住まいと女中、定収入に三人の英会話の生徒を用意していた野口米次郎だったが、実は日本に正式な妻がいたのだった(しかも帰国後の結婚らしい)。 日本では普通のことだと、うそぶくヨネは、「悪いヤツ」である。

      レオニーも、監督も、女優も…<小人閑居日記 2010.12.22.>

 映画『レオニー』の松井久子監督(64)は7年前に、ノンフィクション作家ドウス昌代さんの『イサム・ノグチ―宿命の越境者』を読んで、レオニー・ギルモアという女性の存在を知り、即座にレオニーの生涯を映画化したいと思ったそうだ。 「米国人の女性が100年前に日本に渡り、一人で子育てをするのはどれほど困難だったか。自分で人生を切り開いていく彼女の姿を、女性たちに伝えたいと思った」と、朝日新聞の諸麦美紀記者に話している。 この松井久子監督の人生そのものが、レオニーに重なるのだ。 その11月3日付朝日朝刊の記事によると、大学を出てすぐに同級生と結婚し、27歳で息子を産んだ。 生活のために始めた芸能雑誌のフリーライターの仕事が順調になればなるほど、物書きを目指す夫と気持がすれ違い、33歳で離婚。 息子の存在が大きな支えとなり、自分で何でも決断するキャリアウーマンの道を歩む。 俳優のマネジャーになり、俳優プロダクションを設立、39歳でテレビ番組の制作会社を立ち上げた。 中学を卒業した息子が留学したいと言い出し、「仕送り地獄」をがんばった。 50歳で撮った監督デビュー作『ユキエ』、5年後の『折り梅』、観客動員数は合せて200万人を突破し、各地で自主上映会が続いているという。

『レオニー』も、製作費13億円を集めるのに6年。 撮影と編集に1年かかった。 脚本は14回、書き直した。 携わったスタッフは400人。 過去2作品の根強いファンと、松井さんの挑戦に共感した女性たちが2005年、支える会「マイレオニー」を結成、賛同金を募り、会員は3千人を超えたという。

『レオニー』には、プロデューサーが3人いる。 アシュク・アムリトラジ、永井正夫、伊藤勇気。 アシュクはインド人、ハリウッドで最も成功したプロデューサーの一人といわれる、ウィンブルドンにも出た元テニスプレーヤー。 伊藤勇気は、ドイツから合流した松井さんの留学した息子、アメリカとの交渉役を務めた。 日常会話程度の英語力で日米合作映画を撮ったという松井監督、監督の製作日誌を読むと、この息子さんの支えが大きかったことがわかる。 レオニー役のエミリー・モーティマーは、日本での撮影を前に妊娠していることが判った。 エミリーは、それを監督に知らせて気を使わせてはいけないと、伊藤勇気プロデューサーだけに打ち明け、最後までひた隠しにしたまま、すべての撮影を滞りなくこなした。 冷たい海で泳がせたり、深夜の坂道を何度も走らせたりした監督は、後でゾッとして、冷や汗を流しながらも、そのプロ根性に感心したという。 半年後、二人目はやっぱりレオニーと同様、女の赤ちゃんだったという知らせを受けた監督は「恐るべし、エミリー・モーティマー!」と、舌を巻くしかなかったと書いている。

藤沢宿、常光寺のヨネ・ノグチ=野口米次郎の墓2025/01/09 06:58

 三田あるこう会の「藤沢七福神初詣」、遊行寺を出て、ふじさわ宿交流館へ。 藤沢は、東海道五十三次整備以前から清浄光寺(遊行寺)の門前町として栄えていたが、慶長6(1601)年に東海道の宿場となった。 境川にかかる遊行寺橋(昔は大鋸(だいぎり)橋)を渡って、右に折れると、藤沢宿の本通りに出るのだが、その手前が防御目的の枡形という鉤の手になっている。 清浄光寺の東側(遊行寺坂の上)に江戸方見付があり、現在の小田急江ノ島線藤沢本町駅を越えた西側に京都側の上方見付があって、この範囲が藤沢宿だった。 四谷見付、赤坂見付などの「見付」とは何か、という話が出て、関所の小さいものだろうなどと言ったが、『広辞苑』には「枡形がある城門の、外方に面する部分。番兵の見張る所。」とあった。

 藤沢宿の本通りを京都側へ進むと、本陣の跡が二つあり、左に常光寺(福禄寿)がある。 これで七福神の内、四つ(この後、時間の関係で、予定していた白旗神社の毘沙門天は省略)。 常光寺は、たまたま来月の命日に三田あるこう会で行く、上大崎の旧福沢諭吉墓所と同じ名前、同じ浄土宗の寺である。 この寺には、ヨネ・ノグチ、野口米次郎の墓がある。 野口米次郎は、詩人、慶應義塾大学部文学科初代教授。 1875(明治8)年、愛知県海部郡津島町(現津島市)に生れた。 慶應義塾で英語、歴史、経済学を学んだが卒業せず、1893(明治26)年19歳の時単身アメリカに渡る。 野口米次郎については、以前この日記に縷々書いたことがあって、改めて読んでも興味深いので、明日から紹介することにしたい。 その前に、今度見つけたものをいくつか。

 藤沢の常光寺に墓があるのは、三兄野口祐眞(鶴次郎)がこの寺の住職で、帰国後一時寄寓したことがあった。(ウィキペディア)

 三田評論ON LINEの2023年5月23日で、「福澤諭吉をめぐる人々」野口米次郎を、末木孝典さん(慶應義塾高等学校主事・福澤研究センター所員)が、堀まどか著『「二重国籍」詩人野口米次郎』(2012年)を参照して、書いているのを読むことができる。 それによると、野口米次郎と福沢が対面したのは一度だけで、渡米前の挨拶に福沢宅を訪れた。 野口は回想で、蝋燭の光が二人を照らしていたことを記している。 福沢は、一文無しで外国へ出かけることを勇気があると褒めて、「所詮人生は一六勝負だ、危険を恐れては最後の果実は握れない」と励まし、自分の写真を取り出して漢詩を書いてくれ、「それでは体を大事にしてくれ」と玄関まで送ってくれた。 漢詩を書くために墨を摺る福沢の姿が、鎌倉の大仏のように大きかった、という。

 また、野口の存在が、戦後忘れられた一因は、熱心な戦争への賛同姿勢にあった、とする。 ただ、その裏には、一度祖国を捨てた野口にとって、もう一度祖国を捨てるわけにはいかなかったという、複雑な事情があった、とも。 三田あるこう会で、宮川幸雄さんが教えてくれた。 野口米次郎は戦犯になったが、小泉信三は戦犯にならなかった、マッカーサーは来日した時、ヨネ・ノグチはどうしていると聞いた、と。 どちらも、知らない話だった。

 イサム・ノグチの母、レオニー・ギルモアはボルティモアのブリンマー大学に学んだが、三年上には日本からの留学生、津田梅子が在籍していた。 レオニーは1912年日本で娘、エイルズ(アイリス)・ギルモアを出産したが、相手が誰であったかは謎のままである。(ドウス昌代の『イサム・ノグチ 宿命の越境者』は、相手をレオニーが家庭教師をしていた学生の一人だと推測している。) アイリスは、コネティカット州の進歩的な学校に入学し、卒業後はマーサ・グラハム舞踏団のダンサーになった。(ウィキペディア「レオニー・ギルモア」)

遊行寺が舞台、古今亭志ん生の「鈴ふり」2025/01/08 07:06

 遊行寺が出てくる落語がある。 古今亭志ん生が、雨が降ってお客がごく少ないような晩の寄席でやる「鈴ふり」という珍品の噺である。 昔、広尾のマンションにいた頃、昭和43(1968)年から始まったTBS落語研究会へ既に通っていて、それを知った隣人が密かにカセットテープを貸してくれて聴いたのだった。

 その「鈴ふり」の舞台が遊行寺である。 住持は大僧正の位を持っている。 大僧正になるまでは大変な修行が必要で、江戸時代の浄土宗では関東に「十八檀林」という学問所があって、その十八カ所の寺を抜けて行かなければ大僧正になれなかった。 志ん生は、マクラで、「その修行の一番最初(はな)へ飛び込むのはってェと、下谷に幡随院という寺がある。その幡随院に入って修行をして、その幡随院を抜けて、鴻巣の勝願寺という寺へ入る、川越の連馨寺、岩槻の浄国寺、下総小金の東漸寺、生実(おいみ)の大厳寺、滝山の大善寺、常陸江戸﨑の大念寺、上州館林の善導寺、本所の霊山寺、結城の弘経寺(ぐぎょうじ)へ入って、ここで紫の衣一枚となるまで修行する。それから下総の国飯沼の弘経寺に入る。ここは「十八檀林」のうちで「隠居檀林」といって、この寺で、たいがい体が尽きちゃう。そこを一身になって修行をして、この寺を抜けて、深川の霊厳寺、上州新田の大光院、瓜連(うりずれ)の常福寺を抜けて、紫の衣二枚となって、それより、えー、小石川の伝通院、鎌倉の光明寺に入って、緋の衣一枚となり、江戸の増上寺に入って修行して緋の衣二枚となって、はじめて大僧正の位になる……ここまでの修行が大変」と言い立てる。

 そのころ、藤沢に、遊行寺という寺があった。 この遊行寺の住職はてェと、大僧正の位があって、「遊行派」といって、千人からの自分のお弟子さんがいる。 それがみんな、十九、二十というところが、一心に、わき目もふらずに、修行をしている。 でも、どのお弟子に自分の跡を継がせるか、わからない、相談をして、旧の五月の二十八日、大僧正を継ぐ者を選び出す会を催すことになる。

 客殿に控えた千人を、一人ずつ一間に呼び出し、手箱から太白の紐がついた小さな金の鈴を出し、若い僧のセガレの頭へ、ちょいと結びつける。 ご住持が御簾の内から、「本日は、吉例吉日たるによって、神酒、魚類を食するように……」と声をかけ、酒とか刺身とか、卵焼きだの鰻だの、付き合ったこともねえ食物(もの)ばかり、ズーッと並んでいる。 お酌の者が出て来る。 これが新橋、柳橋……そういう花街(ところ)の指折りの芸者なンですナ。 年のころは十七から二十まで……。 旧の五月だから、着てェる着物は、全部、揃いで、紺の透綾(すきや)でナ、「紺透綾」。 それに「ゆもじ」が、三尺の丈(たけ)で、ごく幅のせまいものをしめている。 肌の上に、ジカに紺透綾を着る。 肌の色は、ってぇと、抜けるように白いところへ、紺透綾……すき通って見えちゃうわけです。 <庭に水、新し畳に、伊予すだれ 透綾縮みに、色白のたぼ> お乳なんぞ、蕎麦まんじゅうに隠元豆が乗っかってるようなのでね。 こんな姿の、三百人からの女がパアーーッと出て来て、前に座った。 おひとつお酌を、と飲まされる。

 ウッ! ウッ! ウッ! チリーン! チ、チ、チリーン! チリン、チリン、チリン、チリン……。 千人からのセガレにつけた鈴でございます。 それがいっぺんに。 チリーン! チリーン! と鳴ってきたから、客殿の中は大騒ぎ。

 御簾の内にいて、その音を聞いていた大僧正のご住持が、ハラハラと涙をこぼし、「アーア、情けない。もう仏法も終わりだ。これだけの若者が修行をしていて、全部が全部、鈴を鳴らすとは、何事であろうぞ!?」

 正面に一人、十九か二十の青き道心が、目を半眼に閉じて、墨染の衣で数珠をまさぐりながら、静かに座禅を組んでいる。 耳を澄ますと、その若い僧からだけは、鈴の音がしない。 この遊行寺の跡目を継ぐのは、あの僧だ、あの僧をおいてない。 と、呼び寄せて、係の者が、「どうぞ、どうぞ、お見せを願います、さァ、どうぞ…。あッ! あ、あなた、鈴が、ありませんな!?」 「ハイ、鈴は、とうに、振り切れました――」

「藤沢七福神初詣」遊行寺坂を登る2025/01/07 07:09

遊行寺本堂

 5日は、三田あるこう会の第573回例会「藤沢七福神初詣」があった。 JR東海道線の藤沢駅集合、最初に江の島へ行く江の島道の分岐点「江の島弁財天道標」へ行く。 集合場所で2日、3日の「箱根駅伝」の話がたくさん出たので、当番の辻龍也さんが急遽予定コースを少し変え、箱根駅伝で名前の出る「藤沢橋」を渡ることにし、「遊行寺坂」の登りにかかる。 坂の手前を右に入って、感応院の「寿老人」に寄り、遊行寺を左に見ながら、坂を登って、諏訪神社、72段の階段を上って「大黒天」。 地元の建築関係の頭の名前の入った「四神剣(旗)」の保管庫があり、落語の「百川」「主人家のかきゃあにん」「四神剣の掛合人」を思い出す。 遊行寺へは、遊行寺坂からは入らず、細い道を山門の方へ回って、正面からまっすぐ本堂へ、石畳を登る。 立派なお寺だ、回廊の下をくぐって、境内の宇賀神社「弁財天」へ。

 遊行寺は俗称で、正式には藤沢山(とうたくさん)無量光院 清浄光寺(しょうじょうこうじ)、時宗総本山。 一遍が諸国遊行の際、鎌倉入りを武士に阻止されて、ここを念仏道場としたのに起源、1325(正中2)年遊行四代上人呑海が寺院を創建したから、開山700年になる。 時宗は、1274(文永11)年に一遍が開宗した日本浄土教の一門で、一遍が門下の僧尼を唐の善導にならって時衆と称したのに始まる。 浄土三部経のうち、特に阿弥陀経を所依とし、平生を臨終と心得て念仏することを旨とする。 遊行(僧が修行・説法のため諸国をめぐり歩くこと)と賦算(ふさん、一遍が熊野神から受けた神託にもとづいて「南無阿弥陀仏、決定往生(けつじょうおうじょう)六十万人」と記した札を配ること)・踊念仏(空也念仏のこと。太鼓や鉦を打ち念仏・和讃を高唱する所作が踊るのに似るからいう)を行う。 2019年5月の「日曜美術館」に「踊らばおどれ~一遍聖絵の旅」、一遍の生き方に心酔する舞踏家の田中泯さんが、絵巻に描かれた踊り念仏発祥の地を訪ねる番組があった。

 「遊行寺の札切(ふだきり)」という季題が『角川俳句大歳時記』にあった。 季節は「新年」、傍題は「お符切(おふだきり)」「初お札(はつおふだ)」。 解説「神奈川県藤沢市の時宗総本山遊行寺(清浄光寺)で、正月11日に行われる行事。宗祖一遍上人自らが刻した六字名号の札を刷り、これを截つ。この念仏札には「南無阿弥陀仏」と書かれ、その下に小さく二行に「決定往生・六十万人」と記してある。これは一遍上人の神授感得の頌(じゅ)の「六字名号一遍法。十界依正一遍体。万行離念一念証。人中上々妙妙華」の中から、頭の一文字ずつを取って「六十万人の頌」ともいう。この札は、遊行人が諸国に遊行する折に、結縁のため大衆に配られた。(榎本好宏)」