三田あるこう会「御田」、亀塚と皇女伝説2024/02/08 07:03

 2月3日は福沢諭吉先生の命日だが、三田あるこう会は、麻布の善福寺でなく上大崎の常光寺へ行くのが、恒例になっている。 第563回例会は、「「御田」から常光寺参拝」。 毎年常光寺参拝を担当している宮川幸雄さんによると、港区の三田は1丁目から5丁目まであるが、「御田(みた)」にこだわっている地域があり、御田とは皇室の御田という意だそうだ。 午前10時半、都営浅草線の泉岳寺駅に集合、第一京浜国道を札ノ辻、田町駅方面へ歩く。 まず高輪郵便局の先にある、「御田」八幡神社へ。 階段を上がって神社、さらに神社の左の知る人ぞ知る狭い階段を上がって、丘の上の亀塚や済海寺へ。 東海道は、徳川家康が海沿いの道を開くまで、亀塚や済海寺が面した丘の上の道を通っていた。 北に下ると、あの急な聖坂(ひじりざか)だから、二つの道の高低差は25mは超えるだろう。 私は早くもヘロヘロになった。

 済海寺は、『更級日記』の皇女伝説にある竹芝寺と言われており、亀塚は、皇女の墓であるという説がある。 『更級日記』の皇女伝説とは、こんな話だ。武蔵の国の竹芝という荘園の男が、朝廷で篝火を焚く衛士となり、故郷では酒壺に瓢箪でつくった柄杓を浮かべるのだが、東西南北の風向きによって、柄杓が、その方向になびくとつぶやいた。 それを、帝が大切に育てた姫が御簾の内で聞いて、興味を抱いた。 連れて行けと言われた衛士は、皇女を背負って七日七晩、武蔵の国まで走る。 男がいい匂いのするものを背負って東へ走って行ったという目撃情報があった。

 朝廷の追手は、三か月かかって、二人の居所をつきとめたが、姫は自分が頼んで来たので、男を罪人にしたら私はどうなる、この国に落ち着くようにというのは仏様の思し召し、前世の因縁だろう、そう帝に伝えるようにと言う。 それを聞いた帝は、仕方がない、男を罪人にし姫を連れ戻すわけにもいくまいと、竹芝の男と姫に武蔵の国を預ける宣旨を出し、二人の暮らす男の家を皇居のように改装させた。 姫の産んだ子は、武蔵の姓を与えられ、御所で篝火を焚く役は男から女に替えられたという。 姫が亡くなった後、その屋敷は竹芝寺となった。

 宮川幸雄さんは、「御田」の名は、この皇女伝説に由来するのではと、考えているそうだ。 現在の済海寺の人に、この関係の話を尋ねても、何も語らないので、尋ねないようにとのことだった。

 慶應の大先輩、俵元昭さんの著『港区史蹟散歩』(学生社・1992年)によると、「亀塚」は慶應義塾大学が発掘調査したとき、盛土に混じって土師器、須恵器の破片は見られたが、古墳としての内容は発見できなかったという。 済海寺は、碑や案内板もあったが、幕末の安政6(1859)年に日仏通商航海条約でフランス公使館となり、初代臨時公使ド・ベルクールが駐在した。 勝海舟・西郷隆盛の会見場を眼下の左右に見下ろして、維新の外圧となっていた、と俵さんは書いている。 俵さんは、慶応4(1868)年3月14日の本会談は、記念碑のある田町駅近くの三菱自動車前、薩摩藩蔵屋敷(正確には門前の抱屋敷)で行われ、前日の会談は品川駅前の薩摩藩下屋敷で行われたと、会談場所をこの二か所だとし、四国町薩摩屋敷、池上本門寺、愛宕山などの説は他の機会の事実と混同だと退けている。

舟越保武さんの《原の城》2024/02/07 07:15

 彫刻家舟越保武さんの代表作の一つに《原の城(じょう)》という作品がある。 副題は「切支丹武士の最期」、全身像の背面に「寛永十五年如月二十八日原の城本丸にて歿」という字が彫られている。

 舟越保武画文集『巨岩と花びら』に、「原の城」という一文がある。 「日本ではキリシタン弾圧が永く続いた。私は長崎に行っても、天草に行っても、国東半島や津和野でも、キリシタン弾圧の遺した痕跡がまだ消えていないことを知った。/天草の乱でキリシタンと農民三万七千人が一人のこらず全滅した原の城址へ行ったとき、この近くの町には、現在でも一人のクリスチャンもいないと聞いた。」と、始まる。

 静かな海を背にひかえた原の城址は、睡気を誘われるように長閑で、この場所で、あの凄惨な絶望的な戦いがあったとは信じられないほどに、明るく落ち着いた丘であった。 「それが明るく静かであるだけに、かえって私には、天草の乱の悲惨な結末が不気味に迫って来る思いがした。鬼哭啾々という言葉そのままのようであった。私が立っている地の底から、三万七千人のキリシタン、武士と農民の絶望的な鬨の声が、聞こえて来るような気がした。」

 「私はこの丘の本丸址に続く道に立って、この上の台地の端に討死したキリシタン武士がよろよろと立ち上がる姿を心に描いた。雨あがりの月の夜に、青白い光を浴びて亡霊のように立ち上がる姿を描いて見た。」

 《原の城》の像、両眼と口のところを穴にしたので、凄みがあるように見える。 これを見に来た彫刻科の学生に、この彫刻は丘の上に立てると風の吹くときにはホーンホーンと咽び泣くような音がするのだ、と法螺をふいた。 全くの法螺ではなく、ブロンズなので中はがらん胴になっているので、アトリエで台に上がって、眼の横から強く息を吹いたらホーンというかすかな音が像の中から聞こえた。

 「破れ鎧をつけた年老いた武士の憔悴した姿のこの彫像は、どこか私に似ているような気がする。これが出来上がったとき、息子がアトリエに入って来て、「あ、遺言みたいだ」と辛辣なことを言った。」

原城への砲撃、板倉重昌総司令官2024/02/06 07:02

 司馬遼太郎の『街道をゆく』「島原・天草の諸道」の「板倉」に、原城址へ行ったことが出て来る。 「原城の景観は、じつにあかるい。」と、始まる。 「城の本丸区域は堅固な岩の台でできあがっていて、尻が海に突き出て端が断崖になっている。かたわらの海浜からながめると、一枚の巨大な岩盤が船体のように横たわっているように見える。」 「ただ海上からの攻撃によわい。」 すでに戦国期には西洋の巨大な航洋船が九州の水域にあらわれていて、船ごとに多くの青銅製の大砲を積んでいた。

 もっとも、実際には当時の南蛮船の砲はそれほどの射程をもっていなかったともいえる。 「島原ノ乱の後半、幕府は新教国であるオランダに乞い、平戸にきていたデ・ライプ号を借り、原城を海上から攻撃させた。デ・ライプ号は四百五十発の弾をうちこんだが、実際には断崖の上まで弾があがりにくく、たいていは途中の海に落ちるか、断崖にあたって磯の魚をおどろかしただけにとどまった。/やむなく幕軍はデ・ライプ号の砲五門を外させ、陸上から射撃した。この射撃が、籠城軍にとってもっとも痛手であった。」とある。

 『広辞苑』「島原の乱」、「1637~38(寛永14~15)年天草および島原に起こった百姓一揆。キリシタン教徒が多く、益田四郎時貞を首領とする二万数千人が原城址に拠り、幕府の上使として派遣された板倉重昌はこれを攻めて戦死、ついで老中松平信綱が九州諸大名を指揮して城を攻略。天草(島原)一揆。天草の乱。」 多くの辞書・事典類が3万7千人が全滅したとしているのに対し、『広辞苑』が2万数千人としているのは、落城前に1万人以上が幕府軍に投降したという説を採用したためかと思われる。

 司馬遼太郎の『街道をゆく』の章が「板倉」となっているのは、板倉重昌(1588(天正16)~1638年)を扱っているからだ。 原城へ行く途中に、「板倉内膳正重昌の碑」がある。 「重昌は幕府方の総司令官であった。みずから総攻撃の先頭に立ち、ここで胸に銃弾をうけ、戦死した。一種の自殺ともいえる。」 「重昌は慶長八年(一六〇三)、十六歳で徳川家康に近侍し、重厚な性格と吏才で知られた。大坂冬ノ陣がおわって和睦になったとき、豊臣秀頼は木村重成を使者として家康のもとにつかわし、家康はこの重昌を使者として秀頼のもとに派遣した。年、わずか二十六である。/累進して三代将軍家光の代になってようやく大名になった。三河深溝(ふかうず)一万一千八百五十石で、大名の高としては最小に近い。」 「幕府はこの重昌を総司令官にして九州に派遣したのである。」

 「「重昌は、死ぬだろう」と、当時将軍に近侍して剣を教えていた柳生但馬守宗矩(一万二千五百石)がひそかに憂えたという話は有名である。重昌がいかに幕府の権威を代行する者であっても、その身上(しんしょう)が一万一千石では、諸大名に対する統御がきかない。九州は外様大名ながら大大名が多く、それらがそれぞれ大兵をひきいて参陣するのに、わずか家来三百人程度をひきいてゆく重昌の命令など重んじられようもなかった。/宗矩の予測では、重昌は浮きあがり、その攻撃の命令も諸大名にはきかないであろう。重昌は、謹直な性格をもっている。やむなく自分の家来だけをひきい、城にむかって攻撃を仕掛け、死をもって職責を全うしようとするにちがいない、ということであった。」

無性に知りたい芋づる式<等々力短信 第1175号 2024(令和6).1.25.>1/19発信2024/01/19 07:04

   無性に知りたい芋づる式<等々力短信 第1175号 2024(令和6).1.25.>

 「羽林家(うりんけ)」という言葉を知らなかった。 今村翔吾さんが朝日新聞に連載している『人よ、花よ、』に出てきた。 楠木正成の子、多聞丸正行(たもんまるまさつら)を描いた小説なのだが、高師直(こうのもろなお)が好色な男だったことが、時々、舞台回しとしての女を登場させる。 このたびは、相貌、躰付き、声色、全てが師直好みの、羽林家のとある公家の娘、齢二十七、その手を掴んで引き寄せようとした。 そこへ、「兄上!」と師泰が、楠木正行の楠木党が決起したと知らせてきたのだ。

 「羽林家」を『広辞苑』で引く。 「中世以降、公卿(くぎょう)の家格の一つ。大臣家に次ぐ。大納言、中納言、参議にまで昇進でき、近衛中・少将を兼ねた家柄。四辻・中山・飛鳥井(あすかい)・冷泉・六条・四条・山科などの諸家があった。」

 「公家(くげ)」を引くと、その(3)「公卿(くぎょう)(1)に同じ」とあり、そこには「公(太政大臣および左・右大臣)と卿(大・中納言、参議および三位以上の朝官)との併称。上達部(かんだちべ・かんだちめ)。月卿。卿相。月客。俗に「くげ」とも。」

 「羽林家」が「大臣家に次ぐ」というので、「大臣家」を見る。 「摂家・清華(せいが)に次ぐ家柄。内大臣から太政大臣まで昇ることができるが、近衛大将を兼ねることはできない。藤原氏の正親町(おおぎまち)三条、三条西、および源氏の中院(なかのいん)の三家をいう。三大臣家。」

 「摂家」は、「摂関家」に同じ。 「摂関に任じられる家柄。古代・中世を通じて、藤原一族中の北家、特に初代摂政の良房の子孫に限られ、鎌倉初期には近衛・九条・二条・一条・鷹司の五摂家に分かれた。一家(いちのいえ)。執柄家。」

 「清華(せいが)家」は、「公卿の家格の一つ。摂関家に次いで、大臣家の上に位し、大臣・大将を兼ねて太政大臣になることができる。主に七家(転法輪三条・西園寺・徳大寺・久我・花山院・大炊御門(おおいみかど)・今出川(菊亭))を指す。室町時代には10家あった。江戸期には広幡・醍醐の両家を加えて9家。英雄。英雄家。華族。」

 芋づる式に、公家の家格は、「摂関家」「清華家」「大臣家」「羽林家」の順になる。 では、百姓で関白になった秀吉は、どういう手を使ったのか、新たな疑問が湧く。

 加藤秀俊さんの『隠居学』(講談社)に、こうあった。 おや、なんだろう、なぜこうなっているのだろう、という疑問をもつと無性に知りたくなるものなのだ。 それは野次馬根性、あるいは好奇心というやつで、「知りたい」という欲求、およそ知的探究という行為に「目的」なんぞありはしない。 学問というものは、おおむねゆきあたりばったりの、偶然の知的発見の連鎖以外のなにものでもない、と。

咸臨丸の勝海舟と福沢諭吉、目的の違い2024/01/16 07:00

 「修身要領」は、信用のおける弟子たちが、福沢のいい言葉を選んだ。 ご飯を食べることから細かく、家庭をうまくやることを書き、2歳の子供の頭にも入った。 その原因、因縁は、咸臨丸渡米から始まっている。 もっとも、福沢の実証的発想は、子供の時に神様の祠で試した頃からあったのだけれど。

 咸臨丸には、勝海舟と福沢諭吉、二人の重要な人物が乗っていた。 勝海舟は、幕府、日本を背負っていて、日本も世界に認められる国にという意図を持つ、政治家だった。 海軍をつくり、意地で遣米使節にむりやり咸臨丸で付いて行った。 途中、小舟を出して、小笠原の父島に上陸しようとした。 小笠原は、太平洋の要衝で、列強、特にアメリカが狙っていた。 幕府のミッションで、様子を見、日本人がいた印を残そうと、嵐の中、上陸しようとして、止められた。 勝海舟は、船酔いで艦長として役に立たなかったが、国のために情報を得ようと、ナショナルな目的の行動を一つだけやろうとした。

 一方、福沢は、好奇心でアメリカに行かなきゃあと、自分のために咸臨丸に乗った。 蒸気機関などは本で知っている、本に出ていないことを身につけたい、と。 家庭生活、男と女の暮らし方、生活が大事で、肩書じゃない、幅の広さを見た。 議会では、一般の人が権利として議論をしている。 気品のある、ジェントルな、フリーダム。 品位、気品、キャラクター、天地に誓ってやましいことのない気風、格、自分の力で生きている文明の生活を見た。 人々が、男女が、対等に付き合っていることに気が付いた。 日本では、政治家が妾を囲っている、文明国じゃない。 お金の使い方も、袖の下を使ったりし、地位を持って威張る。 中国を例として、自由な学問ができない、固定していて変化ができない。 福沢は、忠孝をやめようと考えた。

 「修身要領」の普及のため、弟子たちが手弁当で地方を遊説して回った。 慶應的キャラクター、品位、気品を、地方のいろいろな所、幼稚園にまで伝えようとして、教育における成果を実感した。

 荒俣宏さんは、勝手なことをしゃべったが、慶應義塾には発言によって卒業証書をはく奪された者がいないと聞いて安心したと、講演を締めくくった。

福沢家代表挨拶、今年は福沢博之さんという方で、玄孫(やしゃご)と、福沢の子孫は合計602名、現在8代目世代までいるそうだ。 福沢の精神は、親からよりも慶應で自然に学んだ。 水球をやったが、下級生の時は、ひたすら与えられた練習をしたことが役立ち、先輩やコーチから長所を生かすこと、延ばすことを指導された。 それを自分なりに考えて、チームの力にしたのが、独立自尊の精神かと思うと話した。