湊川の合戦と、吉野南朝の始まり2023/02/28 07:17

 父正成は、「桜井の別れ」で多聞丸正行を河内に向けて送り出すと、7百騎を率いて新田義貞がいる兵庫を目指した。 到着は24日、桜井からは2日もあれば十分なのに、8日もかけた。 何か意味があるはずで、確かに死は覚悟していたが、僅かな勝機のために最善を尽くしたはずだ。 密偵を出して足利軍の動きも探った。 合流すれば新田義貞が指揮権を執るのが普通だが、正成は何とかして指揮権を奪おうと考えた。 戦の前日、24日夜、正成と義貞は酒を酌み交わし、正成は自らの目論見を告げて了承を得た。

 楠木軍は湊川を西側に渡って、新田軍の主力は渡らずに和田岬に布陣した。 和田岬を押さえれば、海からの足利軍は容易には上陸できず、東へ東へと進むことになる。 正成は7百騎の内、2百余騎を割いて海岸線沿いの大小の湊に配した。 それは、何処から、何時、上がって来るのか、確実に見極めるためだった。 足利軍、10万というが、実際は陸で1万5千、海で2万程度だったのではないか。 一方、味方は楠木軍、新田軍合わせて1万5千程度、挟み撃ちにされれば勝ち目は無い。

 正成の策は、海の足利軍の上陸地点を潰してさらに東に進ませ、離れた湊から上陸したその時、全軍を挙げて陸の足利軍に突撃するというものだった。 これで兵数は五分となり、決死の覚悟で攻め掛かり、背後を衝かれる前に足利直義を討ち取って瓦解させる。 その後に全軍で反転し、勢いのままに高師直を討ち取る。 「一厘の勝ち」に賭ける策だ。

 しかし、その策は上手くはいかなかった。 海の足利軍は、和田岬から上がるのを諦めたものの、船は長蛇の列を作り、複数の湊から一斉に上がったのだった。 宮方の陣容を見抜いて、高師直が取った策という。 当初から見抜かれて策の潰えた正成は、今後の戦のために新田軍を温存すべく、退却を促す使者を送った。 新田軍はあっさり和田岬を放棄し、海の軍勢が退路を断つより早くに東へと退却した。 尊氏は悠々と和田岬に上陸した。

 湊々から合流できた兵も加えて、楠木軍は6百騎ほど、3万5千の足利軍に囲まれる四面楚歌の状態になった。 直義、師直の二人は難しくとも、せめて一人だけでも討ち果たそうとした。 正面の直義軍に向けて凄まじい突撃を敢行、三十倍ほどの敵を蹴散らし、何と須磨の上野まで退却させた。 直義に十間の距離まで迫ったが、薬師寺十郎次郎なる豪の者に防がれて辛くも逃した。 その後も不屈の闘志を燃やし、楠木軍は実に十六度の突撃を続けたが、最も直義に近付いたのは、一度目の突撃だった。

 十六度の突撃の後、残る兵は僅かになっていた。 正成はまだ戦うことを望んでいたが、恐らくは大きな怪我を負い、これ以上戦うことが出来なかったのだろう、湊川の北の村に向かい、一軒の民家の中に入った。 そこで正成は死んだ、正季と刺し違える恰好で果てていた。 その場に残っていた郎党は73、互いの腹や首を刺し合い、あるいは自害していた。

 後に湊川の合戦と呼ばれる、この戦いで敗れたことで、朝廷は驚天動地の騒ぎとなり、この期に及んで廷臣たちは後醍醐帝の比叡山への御動座をする。 足利軍は入京すると、後醍醐帝や廷臣の命を救うことを条件に三種の神器を渡すように迫り、持明(じみょう)院統の光明(こうみょう)天皇を擁立した。 後醍醐帝は、花山院に押し込められるが、脱出、足利方に渡した神器は贋物であると主張し、吉野へ逃げることを決めた。 これが吉野朝の始まりである。 互いの位置関係から、足利方が奉じる京の朝廷を北朝、吉野朝を南朝という。 ともに自らを唯一無二の正統と考え、ただ朝廷と呼んでいる。 北朝を武家方、南朝を宮方と呼ぶ。

楠木正成、多聞丸正行「桜井の別れ」2023/02/27 07:08

 翌日、多聞丸は初めて甲冑を身に付けた。 昼前、百騎ほどの郎党で京を発った。 摂津に入ったところで、叔父正季の率いる軍勢と合流する段取りだという。 そこは大原駅、駅は駅家(うまや)とも謂(い)う、駅馬が飼われており、疲弊した馬を乗り換えたり、食事を摂ったり、宿所を使ったりした。 大原駅、一本の立派な桜の木があるので、地の者は「桜井の駅」と呼んでいた。 正季が率いて来た兵の数は、ざっと5、6百だった。 多聞丸が、他の軍勢は遅れているのかと問うと、父が代わって「これで全てだ」と答えた。 秘策があるのだろうと訊くと、「合せて7百騎、これで足利に当たる。策など無いのだ」と。

 この戦は勝ち目が極めて薄いと解っている、父正成はとうに死ぬ覚悟を決めているのだ。 「お主はここから東条へ帰れ」、供に若い郎党を二人付けて送り届けるつもりだという。 「なかなか言いだせずにすまなかった」、父はそっと背を摩(さす)ってくれた。 「多聞丸、よく聞け」、この戦、百中九十九まで負ける、5千騎のすべてを動員して敗れてしまえば、楠木家はもはや再起不能に陥る。 7百騎を連れて行く訳は、一厘に賭けるからだ。 「尊氏を討つのですね」と訊くと、狙うのは別、「足利直義、高師直の二人だ。これを同時に討ち取る」。 足利軍も、それは判っており、軍を二手に分け、尊氏と師直が海路、直義が陸路を進んでいる。

 7百の兵たちは、楠木党の中でも父と苦楽を共にしてきた年嵩の者ばかり、将来を託して若い世代から順に残してきている。 「帰って来られぬかもしれぬ。故にこれよりお主を楠木家の当主とする」、自らの腰の刀、初めて邂逅した折、後醍醐帝から拝領した「小竜景光」を抜き、多聞丸に渡した。 「大塚惟正が輔(たす)けてくれる」、繰り返し同行を迫る大塚に、地に膝を突くように懇願して了承させていた。

 父は、今後のことで、もう一つ大切なことと、この戦で自らが地上から消え去ったならば、その後に起こることを語った。 「その時、お主は英傑の子として、忠臣の子として、世の中から父の如き男になって欲しいとの期待を一身に集めることになる」「その期待に添う必要はない」「お主はお主の道をゆけばよいのだ」。 暫しの静寂の後、多聞丸は絞るように言った、「私は……戦は止んで欲しいと……」。 「そうだな」、父は穏やかな笑みを浮かべつつ頷(うなず)く。

 「己の想うままに生きればよい。それでたとえ不忠と罵(ののし)られようとも、臆病と嗤(わら)われようとも。それが父の真実だ」

尊氏が京に迫り、正成は後醍醐帝に呼ばれる2023/02/26 07:59

 尊氏迫るの報に、朝廷は恐慌に陥った。 北畠顕家に再上洛を促し、赤松円心の白旗城を攻めていた新田義貞に尊氏迎撃を命じた。 備中福山で激突、新田軍は二刻ももたずに崩れ、義貞は摂津まで退却した。

 この頃のことだ、5月14日父正成は僅か11歳だった多聞丸を連れて上洛した。 初めて父と共に後醍醐帝に謁見した。 「これが帝か」と拍子抜けした。 母などから聞いて、神々しい帝の像を思い描いていたが、眼前の帝は己たちと変わらぬ人だった。 楠木家の屋敷に、朝議から丑の刻を回って戻った父は、蒲団に寝かされている多聞丸に、話したいことがある、と始めた。 楠木家の来歴から、主に父が帝の招聘から今に至る話、先ほどの朝議にまで言及した。 その時の状況、戦の詳細、関わりのあった人物の評、心に抱いていた夢を語った。 母が知らないことを多聞丸が知っていたのは、これが理由である。

 絶体絶命の中、起死回生の策を出させるため呼ばれた先ほどの朝議で、正成は、一つだけある策を献じた。 帝に比叡山に御動座頂き、無用な抵抗はせず、足利軍に京を明け渡すというものだ。 10万超に膨張した足利軍は、兵糧不足に陥っているだろうから、京に入るなり飢餓となる。 また、乗せるとあれほど厄介な人はいない尊氏を、一呼吸空けて、気を削ぎ、勢いを止めるためだ。 だが公家の一人、坊門清忠が半年前に動座したばかりで帝の御威光を傷つけると反対し、他の公家たちも追随した。 父は沈黙を守っておられた後醍醐帝と目が合っていたという。 暫く後、帝が目を逸(そ)らされた時、父は全てを悟った。

 「正成、尊氏を討て。」と、その直後、帝は仰せになった。 京に足利軍を一歩も踏み入れさせるな、新田義貞を助け、摂津国で足利尊氏を討て。 それが帝の御意思であった。 多聞丸が「真(まこと)に行かれるのですか」と訊くと、父は「すでに河内には使者を送った」と。 楠木家が動員できるのは5千、2万の新田軍は破れて1万ほどに数を減らしている。 一方、足利軍は10万を超え、まだ増え続けている。 誰がどう見ても勝敗は明白である。 何か秘策があるのだろう、「私も行きます」と言うと、「初陣を飾るか」と。 京に伴ったのも、帝に拝謁させたのも、このような次第を話したのも、全てはそのため、多聞丸は話の途中からそう感じていた。

護良親王の死、足利尊氏の興敗、再起2023/02/25 07:37

 新政が始まって間もない元弘3年10月12日、後醍醐帝最愛の女房禧子(きし)が崩御し、多くの皇子を産んでいた女房阿野廉子(れんし)が台頭、我が子を帝にするためには、護良親王の存在が邪魔になって、尊氏と裏で手を結んだ。 正成や赤松は、護良親王派として立場が弱くなる。 翌建武元年1月23日、廉子の産んだ皇子で一番上の恒良(つねよし)親王が立太子され、護良親王が後を継ぐことは無くなった。

 護良親王は起死回生を図るため、「尊氏に野心あり。追討の勅語を。」と、後醍醐帝に何度も懇願したが、帝はこれを受け入れることはなかった。

 すでに尊氏の弟直義(ただよし)は東国に下向し、北条残党を抑える名目で鎌倉将軍府を開いて、東国武士を掌握しつつあった。 その勢力は強大になっていた。 直義は政務に長けており、御家人たちからの信頼も頗る篤い。 執事の高師直(こうのもろなお)は類稀なる軍才を有しており、戦で連戦連勝を重ねている。 この両名を筆頭に、足利家の者たちは、「尊氏を将軍にし、鎌倉に取って代わるべし」という野心を抱いているが、尊氏だけがそれに躊躇している。

 護良親王が後醍醐帝に謀叛を企てているという噂が流れた。 このあり得ない、根も葉もない噂を、後醍醐帝が信じた。 正成が北条家の残党や紀伊、大和、摂津の親政に従わぬ武士の討伐で京を離れている間に、護良親王は捕縛され、足利直義の在る鎌倉に送られたのだ。 尊氏との関係を修復するため、我が子を売ったといっても過言ではない。

 護良親王を送ってから一年足らず、北条家の残党が関東で蜂起し、鎌倉を奪還するという事件が起こった。 この時、牢に囚われていた護良親王は殺された。 足利家は残党がやったと主張しているが、恐らくどさくさに紛れて弑(しい)したのであろう。 この報を耳にして、正成は膝から頽(くずお)れて慟哭した。 もはや、戦いは避けられない。 鎌倉にいた直義は逃れて、再奪還するため、京に留まっていた兄尊氏に援軍の要請をした。 後醍醐帝は、尊氏を関東に送れば、そのまま独立する懸念があり、他の者を送ろうとしたが、尊氏は独断で軍を発した。 それで関東の武士たちは奮い立ち、あっという間に鎌倉を再奪還した。 朝廷は尊氏に京に戻るように命じたが、尊氏は鎌倉に留まり続けた。

 この後、朝廷は尊氏の討伐を決めて新田義貞を送るも敗退、尊氏は軍勢を率いて上洛する。 足利軍は京に迫り、正成も軍勢を率いて防戦に当たる。 奥州に送っていた公家の北畠顕家が尊氏を追うようして上洛、足利軍の背後を衝き、破れた尊氏は命からがら西国に落ち延びていく。 正成は、尊氏追撃を主張したが、後醍醐帝や廷臣たちが尊氏を甘く見て北畠顕家を陸奥に返したことと、親政下で冷遇されていた赤松円心が朝廷に叛旗を翻して朝廷軍を食い止めたことで、尊氏は九州に逃れ、九州の大名衆や土豪を味方にする工作を続けた。

 勢力を盛り返した尊氏が、再び上洛を開始したのは延元元年4月初め、京で敗れてから僅か二月だった。 足利軍は二手に分かれて中国筋の陸路と、瀬戸内の海路を進み、光厳上皇の院宣を得て朝敵の汚名を払拭すると、備後国鞆に着く頃には陸海両軍10万を超えていたという。

悪党の力だけで京を奪う「夢」の行方2023/02/24 07:03

 多聞丸は母に、前に語った赤松円心と楠木正成の夢を覚えているか、と訊く。 二人と護良親王が狙っていたのは、後の政(まつりごと)のため、御家人のうちに寝返る者が出る前に、悪党の力だけで京を奪うことだった。 仮に鎌倉を滅ぼしたとしても、そこに武士の力を借りれば、十分な恩賞を与える必要がある。 そうなればまたぞろ力を持つ者が出来(しゅったい)し、世の武士たちを取り纏めようとする野心を抱くだろう。 これではまた新たな「鎌倉」を生むだけで、帝の親政の大きな障害になるだろう。 そこで御家人のような既存の武士の力を借りず、悪党たちの手だけで鎌倉を討とうとしたのだ。

 正成が千早城で雲霞の如き大軍を引き付けている間に、赤松が京を落として帝を迎え入れる算段であったのだ。 そうなればまだ鎌倉は健在でも、一応は帝の親政を始めることが出来る。

 策は途中までは上手くいっていた。 だが赤松は、倍ほどの兵を残していた六波羅軍と、一進一退の攻防となって時が流れていった。 赤松が乾坤一擲の決戦を仕掛けようとした矢先、足利高氏が寝返ったのだ。

 後醍醐帝は京に入り親政を始めようとしたが、護良親王が召喚に応じなかった。 護良親王は、足利高氏が武士たちからの信頼が篤いこと、六波羅を落とした功績で多大な恩賞を得て力を付けるのが明白になっことで、「あの男は次の鎌倉を創る」と警戒したのだ。 そこで護良親王は上洛せずに高野山から信貴山に移り、自らを将軍にするように父帝たる後醍醐帝に要求した。 自らが宮将軍となることで、全国の武士を取り纏めようとしたのである。

 護良親王の思いと裏腹に、後醍醐帝は足利高氏のことを高く評価していて、間もなく、自らの諱(いみな)から「尊」の字を与えた。 後醍醐帝も尊氏を全く警戒していなかった訳ではなく、尊氏に力が集中しないように、新田義貞も篤く遇し、武士の力を二分しようとしていた。 護良親王は、新田義貞では足利尊氏を抑えきれぬと看破していた。 だから頑強に訴え続け、やがて後醍醐帝も折れて護良親王を征夷大将軍に任じたので、ようやく山を下りて京に入ったのである。

 楠木正成は、多大な功績を認められ河内、和泉の守護、河内の国司、記録所寄人(よりうど)、雑訴決断所奉行人、検非違使という要職に任じられ、出羽、常陸などにも多くの所領を与えられた。 一介の悪党であったことを考えれば、誰もが羨むほどの出世である。 しかし、正成の表情は冴えなかった。 護良親王と足利尊氏の関係に心を痛めていたのだ。