「パソコン通信」で落語の話題2023/11/08 07:05

「現代文化研究フォーラム FBUNKA」で、いま廓ばなしは放送禁止なのだろうかという話題が出た。 私は、寄席やホール落語では、今でもどんどん演じられているけれど、放送ということになると、ある程度は放送局のほうで自主的に演目を選ぶということはあるだろうから、放送の機会は少なくなっているかもしれないと書いて、戦争中の「はなし塚」のことにふれた。

 昭和16年、落語関係者が寄り集まり、折からの戦時色にふさわしくない演題は遠慮したほうがいいだろうという相談をして、廓もの、花柳界もの、酒もの、妾もの…を中心に53種の演目を自粛することとし、その姿勢を示すために、浅草本法寺に「はなし塚」というのを建てて、そこへ葬るという形をとった。  53種(「禁演落語」と呼ばれたが、当局が「禁止」したという形はとっていない)のうち、廓ばなしは31種あった。 たとえば「五人回し」「品川心中」「三枚起請」「居残り佐平次」「明烏」「子別れ上」「付き馬」といった咄である。 こんなのがやれないんじゃあ、世の中真っ暗という気がする。 放送局の「はなし塚」は、勘弁してほしいものだ、と。

 加藤ご隠居の、戦後、葬った「はなし」を再びこの世に生き返らせるための儀式かなんかあったのだろうかというお尋ねで調べると、敗戦の翌年昭和21年9月30日、復活祭をやっていた。 戦後の落語黄金時代の幕開けである。

 そんな関係で、加藤秀俊さんから「パソコン通信」についての教科書か入門書のようなものをつくるのでと、原稿の依頼があった。 私のような者でいいのかと確かめて、資料をいろいろ集め、某大手家電メーカーで「パソコン通信」を運営している友人にも相談したりしていたのだが、なぜか出版に至らず、その話は立ち消えになった。 むしろ、ホッとしたのを憶えている。

 「現代文化研究フォーラム FBUNKA」がなくなったあとも、加藤秀俊さんから落語についてお尋ねの電話があったりした。 かつて「唖の釣」という演目があったが、今は何というのか、と。 「まぬけの釣」と、答えることができた。 この噺、今村信雄『落語事典』(青蛙房)も、矢野誠一『落語手帖』(講談社)も、「唖の釣」となっているが、まぬけなワープロソフトは「おし」では、すんなり変換しない。

加藤秀俊さんのニフティサーブ「現代文化研究フォーラム」2023/11/07 06:59

 1963(昭和38)年の『整理学』によって、加藤秀俊さんの魅力にとらえられた私は、加藤さんの本を愛読した。 『整理学』につづく中公新書『人間関係』『自己表現』『情報行動』、『アメリカの小さな町から』『イギリスの小さな町から』『ホノルルの街かどから』の海外生活三部作、そして『生きがいの周辺』『生活考』『暮しの思想』『続・暮しの思想』『独学のすすめ―現代教育考―』といった一連の本である。 そこには、身近なことから説きおこして、生活や人生に豊かなものをもたらし、やがては社会をよりよく変革するような深い内容が、ごくやさしい言葉でのべられていた。 そんなことができるのだと知ったことが、「短信」創刊のきっかけの一つにもなった。 電話で何事もすます世の中に、手紙の楽しみを、なんとか復活させ、広められないか、吸う息もあれば吐く息もある、情報を受け取るだけでなく、素人なりに発信してみようというのが、創刊の趣旨だった。

 かつて「パソコン通信」というものがあった。 加藤秀俊さんは1995(平成7)年の4月から、大手パソコンネットのニフティサーブに「現代文化研究フォーラム FBUNKA」を開設なさった。 名前は硬いが、芸術のような「高級文化」を扱うのではなく、私たちの日常の暮しそのものである「生活文化」が、このフォーラムのテーマになっている。 毎日使っているさまざまな「モノ」や、経験した「コト」を、お互いの体験を通じて歴史的にふりかえりつつ、文化を考える。 社会の激しい変化の中で消えていってしまう庶民生活の記録を後世に残す、そんなフォーラムだという。

 私は1991(平成3)年3月から、パソコン通信ASAHIネットにフォーラム「等々力短信・サロン」を設けてもらい、「等々力短信」を配信していた。 加藤秀俊さんには、郵送の「等々力短信」を初めの「広尾短信」の頃からお送りしていたので、私がパソコン通信をやることも、庶民文化史のようなもの(早い話が落語)に興味を持っていることも、よくご存知だった。 お誘い頂いて、「現代文化研究フォーラム FBUNKA」に参加させてもらった。 「ご隠居」を名乗る加藤秀俊さんが、「八っつあん」こと小沢昭一さんもいらっしゃるこのフォーラムで、落語のことになると、私に話を振ってこられるので、まことに困った。 与太郎みたいに、おたおたしながら、書き込んでいたものだ。

加藤秀俊さんが亡くなっていた2023/11/06 07:03

 加藤秀俊さんが9月20日に93歳で亡くなっていたのを、11月2日「等々力短信」に毎月返信を下さる読者から頂いたお手紙で知った。 加藤さんには10月の短信もお送りしていたから、ひどく驚くと同時に、申し訳ない気がした。 短信第1145号『九十歳のラブレター』(2021(令和3)年7月25日)に書いたように、加藤さんのご本を愛読したことが、そもそも1975(昭和50)年に短信を始めるきっかけの一つになったからだ。 訃報が伝えられたのは10月2日か3日らしい、うっかりしていたのは、1日に三田あるこう会で松戸の戸定邸に行き、2日は三田キャンパスでクラブの会があったりしたからだろうか。

 お手紙には、10月23日の『静岡新聞』文化欄の、松永智子東京経済大准教授の「加藤秀俊さんを悼む」「「実感」こそ学問の出発点」の切り抜きが同封されていた。 そこに加藤さんは「中公新書刊行のことば」の著者とあったが、それを私は知らなかった、『整理学』『人間関係』『自己表現』『情報行動』『取材学』など、加藤さんの数々の中公新書を読んでいたのに。

 あらためて「中公新書刊行のことば」1962(昭和37)年11月を読む。 さわりを引こう。 「いまや、書物によって視野も拡大し、変りゆく世界に豊かに対応しようとする強い要求を私たちは抑えることができない。この要求にこたえる義務を、今日の書物は背負っている。」 「現代を真摯に生きようとする読者に、真に知るに値する知識だけを選びだして提供すること、これが中公新書の最大の目標である。」 「私たちは、知識として錯覚しているものによってしばしば動かされ、裏切られる。私たちは、作為によってあたえられた知識の上に生きることがあまりに多く、ゆるぎない事実を通して思索することがあまりにすくない。中公新書が、その一貫した特色として自らに課すものは、この事実のみの持つ無条件の説得力を発揮させることである。現代にあらたな意味を投げかけるべく待機している過去の歴史的事実もまた、中公新書によって数多く発掘されるであろう。」 「中公新書は、現代を自らの眼で見つめようとする、逞しい知的な読者の活力となることを欲している。」

 短信第1145号に私は、加藤さんの『九十歳のラブレター』(新潮社)を、「80歳になった私は、夫婦であと十年の生き方を、この本に教えられた」と書いていた。 もう一冊、書棚にあった加藤さんの『おもしろくてたまらないヒマつぶし 隠居学』(講談社)の帯、「森羅万象、世の中はおもしろいことだらけ」「人間、「目的」のある作業をしなければいけない時期がある。でも、現役をはなれて自由になった「隠居」には「目的」なんかなくてよろしいのである。なにかを知って、ああ、おもしろいねえ。きょうも物知りになった、というんで夜、寝る前に満足感にひたりながらニヤニヤできればそれでいい。」

福沢諭吉、小泉信三、井筒俊彦と西田幾多郎2023/10/23 07:13

 円筒状の吹き抜け「ホワイエ」にぐるりと椅子を並べて、浅見洋館長のお話を聴く。 ガラスの天井では、作業の方がガラスを清掃している最中だった。 レジュメは、A4判の裏表に10.5ポイントでびっしり印刷されていた。 1.福沢諭吉と西田幾多郎、2.小泉信三と西田幾多郎、3.井筒俊彦と西田幾多郎。

1. 福沢諭吉と西田幾多郎。  西田幾多郎(1870(明治3)年-1945(昭和20)年)は、福沢の35年下。 福沢についての記述は、日記に2か所ある。 2月3日に福沢が亡くなった1901(明治34)年7月7日(木)、「福沢[諭吉]先生逝き先生が独立独行人によらすして事をなせしを思ひ深く感する所あり 大丈夫将(まさ)にかくの如くならさるへからさる也」。 西田は、この時31歳、学問で身を立てることができるか悩み、金沢卯辰山の洗心庵に通って座禅を組んだりしていた。 『時事新報』の発行趣旨(1882(明治15)年)、「唯我輩の主義とする所は一身一家の独立より之を拡(おしひろ)めて一国の独立に及ぼさんとするの精神にして、苟(いやしく)もこの精神に戻(もと)らざるものなれば、…亦(また)その相手を問わず一切敵として之を擯(しりぞ)けんのみ。」 『修身要領』、「心身の独立を全うし、自ら其身を尊重して、人たる品位を辱しめざるもの、之を独立自尊の人と云う」

 もう一つ、1932年3月25日(金)の日記、「午前星野[あい]氏を訪ひ岩波へ来る 終日ストゥブの側にて福沢[諭吉]伝(石河幹明『福沢諭吉伝』)をよむ」。

 2.小泉信三と西田幾多郎。 小泉信三は、西田の日記に8回、書簡にも10回名前がでており、小泉が西田をたびたび訪ねたことがわかる。 1939年12月11日、小泉が鎌倉の西田家を訪れ、慶應義塾での講演を依頼し、西田は翌年9月と10月に6回、慶應義塾で講演した。 1944年10月29日付の岩波茂雄宛書簡に、「今度文教(文部省)の顧問に小泉氏がなられた様子誠に喜んで居る。小磯首相が神がかりの様故〇〇〇でもないかと心配してゐたが」。

3.井筒俊彦と西田幾多郎。 若松英輔は「NHK100分de名著」『善の研究』(2019年10月)で、こう述べた。 『善の研究』によって日本近代哲学が始まったといわれる。 事実なのだが、『善の研究』の出現によって、西洋哲学に引けをとることのない哲学的探究の場が日本に開かれた、いうべきだ。 その前にから、日本にも哲学的探究の営みがあった。 夏目漱石の『草枕』の第一章などは、小説の形をとった「詩の哲学」、「詩学」といってよい内容を含んでいる。 西田の真の後継者といえる井筒俊彦(1914-93)は、短歌にも哲学的思索のあとを見ることができると述べている。

 『井筒俊彦全集』(2016年完結)推薦のことば。 梅原猛「日本の哲学者がほとんど研究しないイスラーム哲学を掘り下げ、それによって西田幾多郎の行なった東西哲学の統合を試みた井筒俊彦氏の思想的冒険は、驚嘆に値する。氏の著作の中に、戦後の日本の最も深い哲学的思弁があると言えよう。」

浅見洋館長は、井筒俊彦の著作と、井筒俊彦の研究書の出版に関して、慶應義塾大学出版会の活動を高く評価した。 哲学は西洋のものと考えられるが、井筒俊彦は、イスラムや仏教や日本にも哲学はあったとする、世界哲学。 世界の話題になっている大きな研究者。 井筒俊彦の哲学を世界の中で位置づけることが、これから大きな意味を持っている。

「迷い、考えること」を楽しむ日本唯一の「哲学」の博物館2023/10/22 07:38

 12日、福澤諭吉協会の第51回福澤史蹟見学会「慶應義塾と金沢」の二日目。 ホテルを出発、東山から大窪さんの地元「鳴和(なるわ)」を通る。 「鳴和」の名は、安宅の関を抜けた義経、弁慶が鳴和の滝のところで酒宴を開き、弁慶が「これなる山水の、落ちて巌に響くこそ、鳴るは瀧の水」と舞ったこと(謡曲「安宅」)から来ているのだそうだ、由緒ある地名だ。 松井秀喜、本田圭佑を出した星稜高校の横を通り、能登半島の付け根、日本海に沿った道は工事で予定の内灘大橋を通れなかったので、山側の道を「津端町民の誓」の河北郡津端町を通って、かほく市の石川県西田幾多郎記念哲学館へ。

 バスで正面玄関に着いてしまったので経験できなかったが、表の国道から思索の道や哲学の杜を抜けて、階段庭園を経て(エレベーターもある)、高みにある建物に達する経路と配置になっているらしい。 浅見洋館長が出迎えて下さる。 安藤忠雄設計の打ちっぱなしコンクリートとガラスの建物は、鳥取砂丘に匹敵するという金沢から続く内灘砂丘の上、絶好のロケーションに建っている。 目の前に、白砂青松の日本海、河北潟を干拓したという平野が広がり、町並みの先、反対側の低山には西田幾多郎の生誕地、その背後には白山連峰から立山連峰までのパノラマを望める。 内灘砂丘は、1952(昭和27)年~53(昭和28)年の米軍試射場反対闘争で記憶していた。

建物内部は、まるで迷路(ラビリンス)のように入り組み、入館案内に「来館者は、そこで迷い、行き先を自ら考えることになります。どうか『迷い、考えること』をお楽しみください。」とある。 研修棟の円筒状の吹き抜けは、「ホワイエ」という瞑想空間、コンクリ打ちっぱなしの壁に面して、座禅の会や、子供たちと「どう生きるのか」の対話が行われるという。 そう、ここは日本で唯一の「哲学」の博物館なのだ。 入館案内に、こうある。 「哲学とは、『知ることを愛する』ということ。それは、情報を増やすことではありません。哲学は、自ら、迷い、考え、真実を追い求めることです。すぐに分かる必要はありません。(中略)自分で歩き、立ち止まり、また来た道を戻ってください。すぐに答えを求めず、考えながら、ゆっくりと。」