水天宮のミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクションと福沢諭吉 ― 2025/04/10 07:12
先日は、前から行ってみたいと思っていて、なかなか行けなかったミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクションへ、「南桂子展 小さな雲」(3月30日まで)を観に行った。 浜口陽三が精密な銅版画家で、ヤマサ醤油の創業家の出身であることは、知っていた。 創業者の浜口梧陵(儀兵衛)と福沢諭吉の関係があったからだ。 浜口陽三は、十代目浜口儀兵衛の浜口梧洞の三男として、1909(明治42)年4月5日、和歌山県有田郡広村(現、有田郡広川町)に生れ、幼少時に一家で千葉県銚子市に転居したという。
「南桂子展 小さな雲」を後回しにして、南海トラフ巨大地震とも関連するので、浜口梧陵(儀兵衛)と大津波、和歌山と福沢諭吉・慶應義塾の関係について、書いたものをまず引いておきたい。
大津波と浜口梧陵、和歌山と福沢・慶應義塾<小人閑居日記 2019.1.19.>
浜口梧陵については、まだブログに配信する前の「等々力短信」に、「大津波と浜口梧陵」<等々力短信 第947号 2005.1.25.>を書いていたので、あとで引く。 和歌山と福沢諭吉・慶應義塾の関係、福沢諭吉と浜口梧陵、その和歌山教育史との関係については、下記を書いていた。
拙稿「和歌山と福沢諭吉・慶應義塾」その1<小人閑居日記 2012.9.22.>
拙稿「和歌山と福沢諭吉・慶應義塾」その2<小人閑居日記 2012.9.23.>
「紀州塾」、福沢が方向づけた和歌山の教育<小人閑居日記 2012.9.24.>
〈明治前期〉教育史と紀州の中学の個性<小人閑居日記 2012.9.25.>
県立和歌山中学と、自由民権運動の中学<小人閑居日記 2012.9.26.>
等々力短信 第947号 2005(平成17)年1月25日
大津波と浜口梧陵
番組表に「浜口梧陵」の名前があったので、13日NHK放送の“その時、歴史が動いた”「百世の安堵をはかれ―安政大地震・奇跡の復興劇」を見た。 黒船に開国を迫られた幕末の動乱期、三つの巨大地震が日本を襲った。 嘉永7(1854、改元されて安政元)年11月4日、下田でプチャーチンのディアナ号を大破した安政東海地震が発生、その30時間後の5日の夕方には、紀伊半島南部と四国南部が震度6以上の安政南海地震に見舞われ、紀伊半島南西岸から土佐湾沿岸を大津波が襲って、多数の死者が出た。 銚子と江戸で醤油醸造業(ヤマサ)を営み、半年は故郷の紀州広村(現、広川(ひろがわ)町)で暮していた浜口梧陵は、地震直後、海の様子を見に行き、真っ暗で、閃光が走り、雷のような物凄い音を聞いた。 津波の襲来を予感した梧陵は、村民に高台の八幡神社への避難を呼びかけて回り、暗闇で道がわからないと見ると、たいまつで稲むらに火を放ち、避難路を照らした。 地震発生から40分で津波の第一波が到着、5回にわたり最大5mの津波が押し寄せた。 浜から神社まで1.7km、避難には20分かかる。 津波を予感した梧陵の早い判断と的確な避難指示によって、全村民の97%の生命が救われた。
しかし地震と津波による被害は甚大で、梧陵が私財で仮小屋50軒を建て、農具などを提供しても、離村者が出るようになった。 梧陵は村人に希望と気力を取り戻させるため藩に願い出て、私財を投じ、村人の働きには給金を出し、津波を防ぐ大堤防の建設に着手する。 翌安政2(1855)年の安政江戸地震で江戸の醤油店が罹災、閉鎖に追い込まれたものの、銚子で最高の生産高を上げて堤防建設に送金し、安政5(1858)年12月、これだけの規模の盛り土堤防は世界最初、村民の自助努力で防災と生活支援を同時に実現した復興事業も画期的という「広村堤防」が完成する。 下って昭和21(1946)年、M8.0の昭和南海地震では、高さ4mの津波が襲ったが、村の大部分は被害を免れた。
『福澤諭吉書簡集』に、浜口儀兵衛(梧陵)あて書簡が3通、浜口の名の出てくる書簡が10通ある。 梧陵は慶応4(1868)年、和歌山藩の藩政改革で抜擢されて勘定奉行となり、翌明治2年藩校の学習館知事に転じ、明治3年松山棟庵の協力を得て洋学校・共立学舎を設立した。 この時、旧知の福沢を招聘しようとしたが、福沢は受けなかった。 だが二人の交際は続き、晩年の梧陵が計画し明治18(1885)年ニューヨークで客死することになる世界一周視察旅行には、福沢が格段の配慮をしている。
柚木沙弥郎さん、年の差90歳の少年との文通 ― 2025/04/09 07:08
毎度書いているけれど、昭和50(1975)年2月に「等々力短信」の前身「広尾短信」を始めたのは、何事も電話ですます世の中に、手紙の楽しみをなんとか復活させ広められないか、ハガキでどれだけのコミュニケーションができるか実験のつもりという趣旨だった。 先日、楽しい手紙のやりとりの見本のような手紙を、NHKの『日曜美術館』「Oh! SAMMY DAY 柚木沙弥郎101年の旅」で見た。
日本の西の方に住む10歳の田添琉乃介君は、生れた時から心臓に重い疾患を抱えていて、何度かの壮絶な手術をくぐりぬけ、酸素を吸うパイプを鼻につけてはいるが、両親に温かく見守られ、毎日絵を描いている、小三治の落語を聞きながら…。 戸棚には「琉乃介作品集」というファイルがぎっしり並んでいる。 「妖怪1000大物語」は、1番「チョキチョキ」から始まり、100番「ブイイ」を経て、現在380番まで進んでいる。 2022年4月、島根県浜田市の世界こども美術館で、100歳の柚木沙弥郎(ゆのきさみろう)さんの作品に出合い、心を動かされて、柚木さんに手紙を書いた。 書く場所の決まった便箋などでなく、絵などもまじえた自由奔放な書き振りだ。 「柚木沙弥郎さま はじめまして りゅうくんだよ 10才で絵を描いている 柚木さんの本は『千年万年』が好き 100才おめでとう これからも絵をかいてね たのしみにしてるよ 版画のワニをプレゼントします」
さっそく柚木沙弥郎さんから5月1日付けの、大好きだというパイナップルの絵が描かれた返事が来る。 年の差90歳の友達、楽しい手紙の交流だ。
東京帝国大学文学部美術・美術史科中退の、柚木沙弥郎の原点は、24歳で岡山倉敷の大原美術館に就職し、芹沢銈介の型絵染のカレンダーを見て、模様に開眼したことにあった。 民藝運動を提唱した柳宗悦の日本民藝館へ行き、柳宗悦に師事し、静岡由比の正雪紺屋で染物の修業をする。 1948年、独立して倉敷で紅型(びんがた)風型染布を作り始める、《近県民藝分布図》など。 「良心的なものを、心を込めてつくる、暮らしを豊かにする布を」。 型染に魅せられ工芸の道を歩んで75年、版画、切り絵、絵本など工芸の枠をこえて、自由に世界を広げていった。 宅急便の伝票裏のカーボンや、指の爪などを始め、日常的に見る形をヒントに、そのアイデアはスクラップブック80冊に、無数の模様を集めている。 「天気がよい日曜日のように、嬉しければいい、面白ければいい」と。
2023年1月、日本民藝館で自作の展覧会。 12歳の琉乃介君の年賀状で、浜田市の展覧会に「ワクワクして」四回行ったと知り、「ワクワクしたことは一生記憶する。ワクワクした気持、情熱が、こういうものをつくる原動力になる、それがだんだん広がっていけばいい」と返信した。
柚木沙弥郎さんは、2024年1月31日101歳で亡くなった。 琉乃介君は手紙を書く、終りに涙を流している自分の絵を描き、柚木さんが天国へ乗って行くようにと龍の作品を入れて…。 田添琉乃介君の一家は、はるばる車で東京の日本民藝館までやって来て、柚木さんの展覧会を見る。 ワクワクした琉乃介君は、柚木さんのご長男たちに落語「宿屋の富」を披露したのだった。
等々力短信五十年、量と質<等々力短信 第1188号 2025(令和7).2.25.>2/18発信 ― 2025/02/18 07:00
等々力短信五十年、量と質<等々力短信 第1188号 2025(令和7).2.25.>
「短信五十年量と質とを比ぶれば夢幻の如くなり」と、年賀状の多くに添え書きした。1975(昭和50)年2月25日、「広尾短信」第1号を創刊した。 原紙を和文タイプで打ち謄写版印刷したハガキ通信だった。 月に三回の発行で400号を迎えた1986(昭和61)年、私家本『五の日の手紙』を刊行、はしがきに「中学生の時、「ささやかなる しずくすら ながれゆけば うみとなる うみとなる」という讃美歌を教わった。海とは、ほど遠いものにしろ、ささやかな積み重ねが、ここに一冊の本になった」と書いていた。 以来、ことあるごとに「量が質に転化するか」と言ってきたのだった。
1991(平成3)年3月からはパソコン通信ASAHIネットにフォーラム「等々力短信・サロン」を設けてもらい、そちらにも配信を開始した。 家業を畳むことにした2001(平成13)年から短信は月一回の発行にしたが、ネットには日記を綴っていて、2005(平成17)年5月からはブログ「轟亭の小人閑居日記」として毎日発信している。
1185号の原田宗典著『おきざりにした悲しみは』を読んだ大学の同級生が、毎年(毎月でなく)一冊、本を推薦してくれというので、10月に亡くなった高階秀爾さんの『本の遠近法』(新書館)を2006(平成18)年11月25日の969号「「メタ情報」の力」で、紹介した。 短信は「私にとっての『リーダース・ダイジェスト』」と評した読者がいた。 洪水のように出版される本の中から読むに足る本を見つけ出すのに、ダイジェストやアブストラクト、書評といったさまざまな「メタ情報」を活用すべきだ、と加藤秀俊さんの『整理学』に教わった。 『本の遠近法』は「メタ情報」の宝庫だ、と伝えた。
すると友人は、私が2006年の短信を取り出したのに驚いて、ハガキをくれた。 彼は同窓会の案内を一人一人ハガキで出すので、パソコンを使えばアッという間に全員に伝わるのに、と言われる。 しかし、ハガキを書き終えると、近くのポストまで全力疾走して、パソコンの遅れを少しでも取り戻そうと対応していると、反論するそうだ。
何か調べたいことや、どこかに書いたと思い出したことがあると、パソコンに作ってある「等々力短信」と「小人閑居日記」のINDEXを、まず検索する。 すると、自分でも忘れていた、思いがけないものが出てくるのだ。 大河ドラマの『べらぼう』の蔦屋重三郎などは、べらぼうな数が出てきた。 『光る君へ』については、「紫式部と藤原道長」を2005年3月7日の「小人閑居日記」に、丸谷才一さんの『輝く日の宮』を読んで書いていた。 『源氏物語』には、二巻目に「輝く日の宮」という帖があったが、紫式部(37歳)との関係があって藤原道長(44歳)が隠蔽したというのだ。
短信五十年、量が質に転化したのかどうか、第二の脳がパソコンにある。
夫婦愛の写真集“Reiko’s Garden” ― 2025/02/14 06:59
大塚宣夫さん、青梅と、よみうりランドの慶友病院を経営する慶成会の会長、この日記ではおなじみの慶應志木高校の同級生である。 その大塚さんが、三冊の写真集“Reiko’s Garden”を送ってくれた。 裏表紙には、my k.u.hosp.とあるが、表紙の題字とともに、奥様の玲子さんの筆跡かと思う。 ハードカバーにせず、手頃な厚さの三分冊にした配慮も好ましい。 青梅の病院開設45年目、よみうりランドも20年目、当初から入院している方とご家族が一緒に散歩できるような庭をつくろうと、宣夫さんがまったく素人の玲子さんに「丸投げ」し、玄関に飾る花から始めて30年余、その熱心な研究心と絶えざる努力によって、慶友病院といえばその庭の大きさと内容の豊かさで名を馳せるまでになったという。
その「庭に何と多くの患者様とご家族が訪れ、人生の最晩年のひとときを一緒に過ごされたことか。そればかりか患者様が亡くなったあとも庭を訪れ、思いに浸るご家族の姿は今も絶えることがない。これぞ私が目指した病院の姿である。/この写真集こそはその活動の証左であり、我が妻として、というよりも我が最強のパートナーとしての玲子の活動に心からの感謝を捧げたい。玲子、本当にありがとう。」と、宣夫さんは「はじめに」に書いている。
写真と文は、玲子さんである。 「いつもどこかが花盛り!」をモットーに、遊歩道、北花畑、西花畑の3ヶ所を使い、ナノハナ、ヒナゲシ、コスモスと回していた。 春のナノハナ畑がショボショボになってきた。 市販の野菜種を同じ畑にまき続けると、連作障害で育たなくなる。 自家採種を7年繰り返すことで、その地に合った固定種を作ることができると聞いて、堆肥も入れない自然栽培で、4年前から自家採種に切り替えた。 今年のナノハナは慶友育ち4代目、あと3年で慶友オリジナルの菜の花種が出来る。
ヒナゲシ、赤いケシの種を遊歩道にまいている。 ケシの花はフランス語で“コックリコ”、<ああ皐月仏蘭西の野は火の色す君も雛罌粟(コクリコ)我も雛罌粟 与謝野晶子>
今年は不順な天候で、7月、長期の低温と日照不足でヒマワリが半分枯れ、8月になると今度は極端な酷暑が続いた。 気候が激しく変動する状況では畑を一種類で埋め尽くすのはリスクが大きいと考え、西花畑の半分は従来通りコスモス等の種まき花壇とし、残りの半分は多種の宿根草を組み合わせた英国風ナチュラルボーダーガーデンにした。 夏に先駆けて咲くジャーマンアイリスやギガンジウム、タチアオイ等大ぶりの花の間を、早くもキャットミントや白蝶草等が一面を埋め尽くし、やがてダリアや宿根ヒマワリが咲いてくるだろうという。
花壇の植え替えは春を迎える大事な作業、毎年3月にはハボタンを抜き、チューリップの芽に気をつけながらパンジー、ヴィオラ等を植え込む。 ところが近年、この時期にパンジーの入手が難しくなった。 寒さに強いように改良され、主に秋に出荷されるようになったからだ。 パンジーは和名三色スミレ、春の代表花スミレの仲間なのに…、そのうち秋の花になるのか。
桜100本を目標に、桜の季節を長く楽しもうと、八重桜、まめ桜、大島桜、しだれ桜等も加えてきたが、いろいろな事情で100本には到達していない。 庭も10年を経ると、成長した樹木が込み合ってきて、整理を余儀なくされる。 10年間一度も花も実もつけないレモンの木の前で「もう切ってしまおうか」と植木屋と話をしていたら、突然花が咲き実を3個つけた。 ここ何年も背ばかり高くなってピンクの花をチラホラしかつけないミズキに、一発ハッパをかけようかと思っている。
上大崎の常光寺「福沢諭吉先生永眠之地」 ― 2025/02/09 08:01
本芝公園から、鹿島神社の前を通って、最近は国道沿いから横道に移った西郷隆盛・勝海舟江戸開城会見記念の碑へ。 鹿島神社は、常陸の本社から祠(ほこら)が帰しても繰返し漂着するので祀ったと伝わる。 海から寄せ来る神の例で、芝の漁業のありようを示すという。 正面左に芝浜囃子の碑があり、揮毫は寄席文字の家元橘右近で、地元出身だそうだ。
都営地下鉄三田線の三田駅から白金台へ行き、果物屋で曲がって、いつもの道を常光寺へ。 常光寺の玄関、両柱に「三田あるこう会様」「二月三日 福翁忌」と掲げてあり、大黒様(ご住職の奥様)が集合写真のシャッターを押して下さった。
『福澤諭吉事典』「常光寺」の項に、「昭和51(1976)年に常光寺が、墓地は浄土宗の信者に限るという管理規定を制定したことをきっかけに、再び福沢家で墓地移転が検討され、「何か不都合が生じたら菩提寺に改葬するように」と福沢が息子たちに伝えていたという話から、善福寺への改葬が決められた。/52年5月22日に墓を発掘したところ、地下4mの棺から屍蠟化した福沢の遺体が発見され、新聞各紙でも話題となった。保存を求める声もあったが、福沢家と慶應義塾で協議し、当初の予定どおり火葬され、福沢夫妻の遺骨は善福寺に移されると同時に、福沢家の墓がある多磨霊園にも分骨された。翌年5月、常光寺の福沢埋葬地跡に「福沢諭吉先生永眠之地」と刻まれた記念碑が建立され除幕式が行われた。」とある。
なお、類似の話がある。 この日、先に行ったオランダ公使館のあった西應寺だが、俵元昭さんの『港区史跡散歩』によると、越前松平家の菩提寺で、昭和46(1971)年に墓地の改葬のさい、同家白河時代の藩主基知(もとちか)の母、三保(享保12(1727)年死去)の遺体がワクス状態で発見され、貴重な医学的事実として慈恵医大解剖学教室に冷凍脱湿保存されているそうだ。
目黒駅近くの昼食場所、しゃぶしゃぶ「温野菜」に行く途中、福沢家が下級武士だったという話になり、中津藩奥平家は何万石だったかと聞かれたが、わからなかった。 あとで調べたら、十万石だった。 昼食後、命日なので福沢先生にまつわる講話をと、前日に宮川幸雄会長に頼まれていたので、雑談ならと断わり、福沢先生のユーモアについてしゃべらせてもらった。 話下手なので、一応プリントを配った、タイトルは「福沢諭吉の「新作落語」「漫言」ジョーク集『開口笑話』」。
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