三田あるこう会「二ヶ領用水・生田緑地散策」 ― 2025/04/16 07:22
今年の桜は、近所の九品仏浄真寺と、東急東横線・目黒線の多摩川駅から田園調布せせらぎ公園と多摩川台公園へ、家内と行ったあと、6日の日曜日に、三田あるこう会の第576回例会「二ヶ領用水・生田緑地散策」で、見た。 午後から雨の降る予報だったが、途中パラパラきただけで、帰りも晴れていたので助かった。 もっとも、立派な桜並木がつづいている二ヶ領用水では、桜のバックに青空というわけにはいかなかったけれど…。
例によって午前10時半の南武線の登戸駅集合、多摩川へ出て登戸の渡しの土手を歩き、多摩川の水を二ヶ領用水に取り入れる、宿河原堰取水口を眺め、二ヶ領せせらぎ館まで行く。 全長32キロの「二ヶ領用水」は、江戸時代初期に川崎領と稲毛領にまたがってつくられたので、この名のある農業用水。 天正18(1590)年に関東6カ国に転封となった徳川家康が、江戸近郊の治水と新田開発に取り組み、用水奉行・小泉次大夫に命じて作らせた用水の一つで、慶長16(1611)年に完成した。 それまで、この二ヶ領は水利事情が不便だったため、水田耕作による農業生産基盤が脆弱だった。 二ヶ領用水の完成で、新田開発も進み、米の収穫量が大幅に増加したと伝えられている。
現在の二ヶ領用水路沿いは、親水公園として整備されていて、満開の桜を見ながら進む。 途中、南武線の下を腰を屈め、頭をぶつけないように潜る場所があるのが、面白かった。 宿河原の住宅地を、向ヶ丘遊園駅方面に歩き、北村橋で左折して、生田緑地ビジターセンターへ向かう。 ここまで、当番の山崎さんがYahooマップで算出した総歩行距離は3.66㎞、総歩行時間45分ということだったのだが、実はかなりくたびれていた。 それで、ここから登る生田緑地の枡形山について、同じ道を登ってまた戻るのかと山崎さんに訊ねた。 枡形山には登らずに、別行動で直接向ヶ丘遊園駅近くの昼食場所まで行くズルを考えたのだ。 下りは別の道で、登りも簡単だからと言われ、私の勝手な考えは却下され、一緒に枡形山に登ることになった。 ところが、そう簡単ではなく、へろへろと登って、西村さんに支えられてようやく登ることが出来た。 今後、長距離で登りのある会は、迷惑をかけるといけないので、少し考えないといけないと思ったのであった。 この日の万歩計は、15,478歩だった。
生田緑地、庄野潤三さんの本で、その子供さんたちが縦横に走り回っていたのを読んでいた場所だったが(阪田寛夫さんと庄野潤三さん<小人閑居日記 2025.1.30.>参照)、自分の年齢を感じることとなった。 なお、先日雷が落ちてサッカー部の中学生が意識不明になったという帝塚山学園が奈良市だというので、変だなと思っていた。 調べると、阪田寛夫さんが庄野潤三さんの後輩だったという、帝塚山学院小学校は大阪市住吉区帝塚山という高級住宅地にあって、奈良と大阪の両方に「帝塚山」という地名があり、「学園」と「学院」の違いがあるのだった。 東京育ちには、わからないことだった。
人形町界隈で、食べるもの ― 2025/04/12 07:07
人形町界隈での、食べるものの話をしたい。 落語の会の土産には、酒悦でセロリの浅漬けや元祖福神漬、重盛永信堂で人形焼とゼイタク煎餅を買って帰った。 最初の日には、志乃多寿司總本店で、折詰を手に入れて、会場で食べたのだが、少し待たされる間に調整してくれるので、めっぽう美味しかった。
ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクションの「南桂子展 小さな雲」へ行った時は、家内と芳味亭(ほうみてい)でランチをした。 芳味亭は、小松川で工場をやっていた頃、取引先で通夜か何かあった後に、兄が連れて行ってくれた。 「ビーフスチュー」「カニクリームコロッケ」が売りの、昔ながらの洋食屋さんである。 きちんと、心を込めて作っているという感じがいい。 横浜のホテルニューグランドで修業した初代の重晴さんが昭和8(1933)年に開店したそうで、修業時代に師のサリー・ワイスに教わった「お客様の喜ぶものを作りなさい」をモットーに、庶民の憧れだった洋食を、日常の生活のなかでも気軽に食べてもらいたいと、始めた店だという。
実は昨年の11月5日、昔亡兄と行った芳味亭へ、それこそ数十年ぶりに行ってみようと家内と出かけたのだが、たまたま振替休日の翌日の火曜日で休みだった。 しかたなく、前の「双葉」という豆腐屋さんがやっている豆腐料理の店へ行った。 ここは以前、慶應義塾の白石孝名誉教授が、自由が丘のご自宅でサロンを開き、近所の人に話をなさる会があって、私も参加させてもらっていたのだが、先生ご出身の堀留界隈を案内して下さる機会があり、先生に連れて行ってもらったことがあったのだ。 「双葉スペシャル」「冷奴定食」「肉豆腐定食」「揚げ出し豆腐定食」など、気楽で安くて庶民的、近所のサラリーマンが大勢昼飯に来て、おばさんが一人忙しく立ち働いていた。 その日は、たまたま一の酉で、松島神社の酉の市に行ったり、パワースポットと人が集まっている小網神社に行ったりし、鳥忠で焼き鳥を買って帰ってきた。
芳味亭は2月5日にリベンジし、店がきれいになっていて、サービスも快適なのを確認した。 私は「ビーフスチュー・ハンバーグ」、家内は「ミックスフライ」、けっこうな味で満足した。 それで、「南桂子展 小さな雲」の日にも、花より団子、再度行ったのだった。
水天宮のミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクションと福沢諭吉 ― 2025/04/10 07:12
先日は、前から行ってみたいと思っていて、なかなか行けなかったミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクションへ、「南桂子展 小さな雲」(3月30日まで)を観に行った。 浜口陽三が精密な銅版画家で、ヤマサ醤油の創業家の出身であることは、知っていた。 創業者の浜口梧陵(儀兵衛)と福沢諭吉の関係があったからだ。 浜口陽三は、十代目浜口儀兵衛の浜口梧洞の三男として、1909(明治42)年4月5日、和歌山県有田郡広村(現、有田郡広川町)に生れ、幼少時に一家で千葉県銚子市に転居したという。
「南桂子展 小さな雲」を後回しにして、南海トラフ巨大地震とも関連するので、浜口梧陵(儀兵衛)と大津波、和歌山と福沢諭吉・慶應義塾の関係について、書いたものをまず引いておきたい。
大津波と浜口梧陵、和歌山と福沢・慶應義塾<小人閑居日記 2019.1.19.>
浜口梧陵については、まだブログに配信する前の「等々力短信」に、「大津波と浜口梧陵」<等々力短信 第947号 2005.1.25.>を書いていたので、あとで引く。 和歌山と福沢諭吉・慶應義塾の関係、福沢諭吉と浜口梧陵、その和歌山教育史との関係については、下記を書いていた。
拙稿「和歌山と福沢諭吉・慶應義塾」その1<小人閑居日記 2012.9.22.>
拙稿「和歌山と福沢諭吉・慶應義塾」その2<小人閑居日記 2012.9.23.>
「紀州塾」、福沢が方向づけた和歌山の教育<小人閑居日記 2012.9.24.>
〈明治前期〉教育史と紀州の中学の個性<小人閑居日記 2012.9.25.>
県立和歌山中学と、自由民権運動の中学<小人閑居日記 2012.9.26.>
等々力短信 第947号 2005(平成17)年1月25日
大津波と浜口梧陵
番組表に「浜口梧陵」の名前があったので、13日NHK放送の“その時、歴史が動いた”「百世の安堵をはかれ―安政大地震・奇跡の復興劇」を見た。 黒船に開国を迫られた幕末の動乱期、三つの巨大地震が日本を襲った。 嘉永7(1854、改元されて安政元)年11月4日、下田でプチャーチンのディアナ号を大破した安政東海地震が発生、その30時間後の5日の夕方には、紀伊半島南部と四国南部が震度6以上の安政南海地震に見舞われ、紀伊半島南西岸から土佐湾沿岸を大津波が襲って、多数の死者が出た。 銚子と江戸で醤油醸造業(ヤマサ)を営み、半年は故郷の紀州広村(現、広川(ひろがわ)町)で暮していた浜口梧陵は、地震直後、海の様子を見に行き、真っ暗で、閃光が走り、雷のような物凄い音を聞いた。 津波の襲来を予感した梧陵は、村民に高台の八幡神社への避難を呼びかけて回り、暗闇で道がわからないと見ると、たいまつで稲むらに火を放ち、避難路を照らした。 地震発生から40分で津波の第一波が到着、5回にわたり最大5mの津波が押し寄せた。 浜から神社まで1.7km、避難には20分かかる。 津波を予感した梧陵の早い判断と的確な避難指示によって、全村民の97%の生命が救われた。
しかし地震と津波による被害は甚大で、梧陵が私財で仮小屋50軒を建て、農具などを提供しても、離村者が出るようになった。 梧陵は村人に希望と気力を取り戻させるため藩に願い出て、私財を投じ、村人の働きには給金を出し、津波を防ぐ大堤防の建設に着手する。 翌安政2(1855)年の安政江戸地震で江戸の醤油店が罹災、閉鎖に追い込まれたものの、銚子で最高の生産高を上げて堤防建設に送金し、安政5(1858)年12月、これだけの規模の盛り土堤防は世界最初、村民の自助努力で防災と生活支援を同時に実現した復興事業も画期的という「広村堤防」が完成する。 下って昭和21(1946)年、M8.0の昭和南海地震では、高さ4mの津波が襲ったが、村の大部分は被害を免れた。
『福澤諭吉書簡集』に、浜口儀兵衛(梧陵)あて書簡が3通、浜口の名の出てくる書簡が10通ある。 梧陵は慶応4(1868)年、和歌山藩の藩政改革で抜擢されて勘定奉行となり、翌明治2年藩校の学習館知事に転じ、明治3年松山棟庵の協力を得て洋学校・共立学舎を設立した。 この時、旧知の福沢を招聘しようとしたが、福沢は受けなかった。 だが二人の交際は続き、晩年の梧陵が計画し明治18(1885)年ニューヨークで客死することになる世界一周視察旅行には、福沢が格段の配慮をしている。
柚木沙弥郎さん、年の差90歳の少年との文通 ― 2025/04/09 07:08
毎度書いているけれど、昭和50(1975)年2月に「等々力短信」の前身「広尾短信」を始めたのは、何事も電話ですます世の中に、手紙の楽しみをなんとか復活させ広められないか、ハガキでどれだけのコミュニケーションができるか実験のつもりという趣旨だった。 先日、楽しい手紙のやりとりの見本のような手紙を、NHKの『日曜美術館』「Oh! SAMMY DAY 柚木沙弥郎101年の旅」で見た。
日本の西の方に住む10歳の田添琉乃介君は、生れた時から心臓に重い疾患を抱えていて、何度かの壮絶な手術をくぐりぬけ、酸素を吸うパイプを鼻につけてはいるが、両親に温かく見守られ、毎日絵を描いている、小三治の落語を聞きながら…。 戸棚には「琉乃介作品集」というファイルがぎっしり並んでいる。 「妖怪1000大物語」は、1番「チョキチョキ」から始まり、100番「ブイイ」を経て、現在380番まで進んでいる。 2022年4月、島根県浜田市の世界こども美術館で、100歳の柚木沙弥郎(ゆのきさみろう)さんの作品に出合い、心を動かされて、柚木さんに手紙を書いた。 書く場所の決まった便箋などでなく、絵などもまじえた自由奔放な書き振りだ。 「柚木沙弥郎さま はじめまして りゅうくんだよ 10才で絵を描いている 柚木さんの本は『千年万年』が好き 100才おめでとう これからも絵をかいてね たのしみにしてるよ 版画のワニをプレゼントします」
さっそく柚木沙弥郎さんから5月1日付けの、大好きだというパイナップルの絵が描かれた返事が来る。 年の差90歳の友達、楽しい手紙の交流だ。
東京帝国大学文学部美術・美術史科中退の、柚木沙弥郎の原点は、24歳で岡山倉敷の大原美術館に就職し、芹沢銈介の型絵染のカレンダーを見て、模様に開眼したことにあった。 民藝運動を提唱した柳宗悦の日本民藝館へ行き、柳宗悦に師事し、静岡由比の正雪紺屋で染物の修業をする。 1948年、独立して倉敷で紅型(びんがた)風型染布を作り始める、《近県民藝分布図》など。 「良心的なものを、心を込めてつくる、暮らしを豊かにする布を」。 型染に魅せられ工芸の道を歩んで75年、版画、切り絵、絵本など工芸の枠をこえて、自由に世界を広げていった。 宅急便の伝票裏のカーボンや、指の爪などを始め、日常的に見る形をヒントに、そのアイデアはスクラップブック80冊に、無数の模様を集めている。 「天気がよい日曜日のように、嬉しければいい、面白ければいい」と。
2023年1月、日本民藝館で自作の展覧会。 12歳の琉乃介君の年賀状で、浜田市の展覧会に「ワクワクして」四回行ったと知り、「ワクワクしたことは一生記憶する。ワクワクした気持、情熱が、こういうものをつくる原動力になる、それがだんだん広がっていけばいい」と返信した。
柚木沙弥郎さんは、2024年1月31日101歳で亡くなった。 琉乃介君は手紙を書く、終りに涙を流している自分の絵を描き、柚木さんが天国へ乗って行くようにと龍の作品を入れて…。 田添琉乃介君の一家は、はるばる車で東京の日本民藝館までやって来て、柚木さんの展覧会を見る。 ワクワクした琉乃介君は、柚木さんのご長男たちに落語「宿屋の富」を披露したのだった。
等々力短信五十年、量と質<等々力短信 第1188号 2025(令和7).2.25.>2/18発信 ― 2025/02/18 07:00
等々力短信五十年、量と質<等々力短信 第1188号 2025(令和7).2.25.>
「短信五十年量と質とを比ぶれば夢幻の如くなり」と、年賀状の多くに添え書きした。1975(昭和50)年2月25日、「広尾短信」第1号を創刊した。 原紙を和文タイプで打ち謄写版印刷したハガキ通信だった。 月に三回の発行で400号を迎えた1986(昭和61)年、私家本『五の日の手紙』を刊行、はしがきに「中学生の時、「ささやかなる しずくすら ながれゆけば うみとなる うみとなる」という讃美歌を教わった。海とは、ほど遠いものにしろ、ささやかな積み重ねが、ここに一冊の本になった」と書いていた。 以来、ことあるごとに「量が質に転化するか」と言ってきたのだった。
1991(平成3)年3月からはパソコン通信ASAHIネットにフォーラム「等々力短信・サロン」を設けてもらい、そちらにも配信を開始した。 家業を畳むことにした2001(平成13)年から短信は月一回の発行にしたが、ネットには日記を綴っていて、2005(平成17)年5月からはブログ「轟亭の小人閑居日記」として毎日発信している。
1185号の原田宗典著『おきざりにした悲しみは』を読んだ大学の同級生が、毎年(毎月でなく)一冊、本を推薦してくれというので、10月に亡くなった高階秀爾さんの『本の遠近法』(新書館)を2006(平成18)年11月25日の969号「「メタ情報」の力」で、紹介した。 短信は「私にとっての『リーダース・ダイジェスト』」と評した読者がいた。 洪水のように出版される本の中から読むに足る本を見つけ出すのに、ダイジェストやアブストラクト、書評といったさまざまな「メタ情報」を活用すべきだ、と加藤秀俊さんの『整理学』に教わった。 『本の遠近法』は「メタ情報」の宝庫だ、と伝えた。
すると友人は、私が2006年の短信を取り出したのに驚いて、ハガキをくれた。 彼は同窓会の案内を一人一人ハガキで出すので、パソコンを使えばアッという間に全員に伝わるのに、と言われる。 しかし、ハガキを書き終えると、近くのポストまで全力疾走して、パソコンの遅れを少しでも取り戻そうと対応していると、反論するそうだ。
何か調べたいことや、どこかに書いたと思い出したことがあると、パソコンに作ってある「等々力短信」と「小人閑居日記」のINDEXを、まず検索する。 すると、自分でも忘れていた、思いがけないものが出てくるのだ。 大河ドラマの『べらぼう』の蔦屋重三郎などは、べらぼうな数が出てきた。 『光る君へ』については、「紫式部と藤原道長」を2005年3月7日の「小人閑居日記」に、丸谷才一さんの『輝く日の宮』を読んで書いていた。 『源氏物語』には、二巻目に「輝く日の宮」という帖があったが、紫式部(37歳)との関係があって藤原道長(44歳)が隠蔽したというのだ。
短信五十年、量が質に転化したのかどうか、第二の脳がパソコンにある。
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