「戦没将兵合同慰霊祭」「戦没塾員讃歌」 ― 2024/02/26 07:06
番組で生田正輝さんの『回想五十年 慶應義塾と私』からの引用が流れた。 生田正輝さんは、私が学生の頃、慶應義塾大学新聞研究所にいて、マス・コミュニケーション論の教授だった。 昭和16(1941)年慶應義塾大学予科入学、昭和18(1943)年学徒動員にて応召、昭和19(1944)年陸軍延吉予備士官学校卒業、昭和20(1945)年復学、昭和22(1947)年9月法学部政治学科卒業、10月助手となる。
学徒出陣することになって、小泉信三塾長に挨拶に行った。 「私が挨拶にうかがった時、揮毫が終わってから、ふと顔を上げて、私を見つめながら、「君も征くのか…、死ぬなよ」とつぶやくようにいわれた。親父ですら「死ぬな」なんてことを口に出すことはできなくて、心ならずも「お国のために死んでこい」といわざるを得ない状況であった。」
慶應義塾の出陣学徒の数は三千余名、このうち戦死者は五百余名(今村武雄『小泉信三伝』は八百余名)だという。 番組にあった「戦没将兵合同慰霊祭」と、「戦没塾員讃歌」を知らなかった。 「戦没将兵合同慰霊祭」は、昭和18(1943)年11月20日、神式で行われていた。 小泉信三塾長が戦没者の写真が並ぶ前で追悼の辞を述べ、信吉の写真の前はサッと通ったという。 「戦没塾員讃歌」は、三田新聞学会が同会25周年記念事業として塾生から公募し、昭和17(1942)年6月に発表、以後塾内の慰霊行事で歌われた。 青山斎場で執り行われた小泉信吉の葬儀でも、「迎へん哉おん霊を この丘は遠き日のごと 今日もまた葉はしげるなり 御訓はよき導きと 若人の胸に凝るらん 迎へんかな」と歌われ、来会者の涙を誘ったという。 楽譜が下記にあった。 https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1969084838&owner_id=4272592
学徒出陣、「忠孝不二」という揮毫 ― 2024/02/25 08:06
「岩田剛典が見つめた戦争 小泉信三 若者たちに 言えなかったことば」で、いくつか印象に残ったこと、知らないこと、があった。
学徒出陣することになった学生が、小泉信三塾長に挨拶に行き、日章旗の先頭に揮毫してもらう。 その文句が、「征け〇〇君」と「忠孝不二」の二つだった。 「忠孝不二」は、「忠孝二つならず」と読むのだろう。 「忠孝」は、主君に対する忠誠と、親に対する誠心の奉仕で、臣下としての義務を尽くすことと、子としての義務を尽くすこと。 当時の主君は、天皇だろう。 「二つならず」は、二つのものでない、一つのものだ、忠と孝は矛盾しない、一致するというのだろう。
すぐ私は、今年の第189回福澤先生誕生記念会での荒俣宏さんの記念講演を思い出した。 「修身要領」と「教育勅語」<小人閑居日記 2024.1.15.>に書いたように、荒俣さんは福沢の(思想を高弟がまとめた)「修身要領」と、「教育勅語」の9割は同じことが書いてあるが、「教育勅語」の一番いけないこと、恐ろしいことは、「修身要領」にはないことの二つ、「親に孝、国に忠」と語ったのだった。
小泉信三の『海軍主計大尉小泉信吉』に、信吉の出征に臨んで、手渡した有名な手紙がある。 「若しもわが子を択ぶということが出来るものなら、吾々二人は必ず君を択ぶ。人の子として両親にこう言わせるより以上の孝行はない。君はなお父母に孝養を尽くしたいと思っているかも知れないが、吾々夫婦は、今日までの二十四年の間に、凡そ人の親として享け得る限りの幸福は享けた。」 「今、国の存亡を賭して戦う日は来た。君が子供の時からあこがれた帝国海軍の軍人としてこの戦争に参加するのは満足であろう。二十四年という年月は長くはないが、君の今日までの生活は、如何なる人にも恥しくない、悔ゆるところなき立派な生活である。お母様のこと、加代、妙のことは必ず僕が引き受けた。」 「お祖父様の孫らしく、又吾々夫婦の息子らしく、戦うことを期待する。」
息子は、二三度読み返して、顔を輝かせて「素敵ですね」と言ったそうだ。
小泉信三の戦争、慶應義塾を守る苦闘 ― 2024/02/24 07:15
小泉信三は、昭和8(1933)年11月、45歳で慶應義塾塾長に就任した。 昭和16(1941)年、長男信吉(しんきち)慶應義塾大学経済学部卒業、三菱銀行に4か月勤務、8月海軍経理学校入校、海軍主計中尉任官。 昭和17(1942)年10月、長男信吉南太平洋方面で戦死(24歳)。 昭和18(1943)年12月、出陣塾生壮行会で訓示。 昭和20(1945)年3月25日、空襲により罹災。病院のベッドで玉音放送を聞く。 昭和21(1946)年、東宮御教育参与就任。 昭和22(1947)年1月、慶應義塾塾長退任。
昭和10年代には次第に、「福澤思想抹殺論」が出回り、慶應義塾は西洋の自由主義を日本に入れた福澤諭吉の学校として、言わば国賊のように見られるようにもなっていた。 番組に出てきた、その典型としての徳富蘇峰の福沢批判と小泉の反論を、今村武雄さんの『小泉信三伝』で読んでみたい。
徳富蘇峰は、昭和19(1944)年3月、言論報国会の機関誌『言論報国』「蘇翁漫談」で、(1)福沢先生は西洋のことを無茶苦茶に輸入し、日本のことをことごとく壊す方針でやってきた、(2)福沢先生その人は愛国者だったが、その議論だけは非常に困った、(3)福沢先生の教えは、個人主義である、として、その教えを奉ずるものは国家の大事に無頓着である、今日の戦さでも、誰が戦さをしているか、まるでほかの人が戦さをしている、それをただながめているようなわけで、独立自尊でやっていく以上は、愛国ということなどとは縁が遠くならざるを得ないとした。
小泉信三は、これに反論した。(5月10日『三田新聞』「徳富蘇峯氏の福澤先生評論について―先生の国権論その他―」) (2)福沢の多くの著述をあげ、すべて終始かわることのない国権皇張論だったとし、当時、福沢の心を圧迫したことは、西欧諸国、なかでも英国のアジア侵略であって、この強大な勢力の前に、いかにして、わが国の独立をまっとうするかということで、それには、わが国を文明に進めるほかない。 「今の日本国人を文明に進るは此国の独立を保たんがためのみ。故に、国の独立は目的なり、国民の文明は此目的に達するの術なり」(『文明論之概略』) (1)には、『学問のすゝめ』第15編から開化者流の西洋盲信を警めたくだりを引いた。
(3)福沢の教えを奉じる者といえば、われわれ同窓の者すべてであるが、そのなかの幾千百の青壮年は、いま陸に海に空に戦っている。 彼らはみな福沢の名を口にすればえりを正す者だが、彼らのすべてが非愛国者だと徳富は言うのか、まさかそんなことはないはずで、この一段の言葉は不穏当のきらいがあると反論した。
なお、徳富蘇峰は、明治23(1890)年4月『国民之友』80号に、福沢の『文字之教』を読み、福沢について、世間が認める新日本の文明開化の経世家としてではない一面、つまり文学者としての福沢の役割、日本文学が福沢に負うところの多いことを説明するのに、この本が「大なる案内者」となる、と書いていた。 福沢が、すでに明治6年の時点で、平易質実、だれでも読むことができ、だれでも理解できる「平民的文学」に注意したことを知るのだ、と。
中川眞弥先生の講演「『文字之教』を読む-徳富蘇峰の指摘-」<小人閑居日記 2016.2.7.>
徳富蘇峰の挙げた福沢文章の特色<小人閑居日記 2016.2.8.>
番組が扱ったこの時期の、慶應義塾と小泉信三塾長について、私は下記を書いていた。
日本史上最大の事件と慶應義塾<小人閑居日記 2007.7.10.>
戦時下の慶應、小泉信三塾長<小人閑居日記 2007.7.11.>
戦時下、大学に出来なかったこと<小人閑居日記 2007.7.12.>
「慶應義塾と戦争」アーカイブ・プロジェクト<小人閑居日記 2016.4.16.>
「戦争の時代と大学」展の冊子から<小人閑居日記 2016.4.17.>
塾長小泉信三の評価をめぐって<小人閑居日記 2016.4.18.>
降伏した庄内、西郷隆盛の寛大な処置 ― 2024/01/12 07:10
9月25日、謝罪降伏か徹底抗戦かを協議する会議が開かれ、26日謝罪降伏に決定した。 酒井玄蕃も、藩主に従う。
黒田清隆、西郷隆盛が鶴ヶ岡城に入城したが、処分は意外にも寛大なものだった。 藩主は自宅謹慎、誰の命も奪われず、刀を差しての外出も許された。 城下でも、新政府軍による略奪などなく、領民は通常の生活をしていた。 この措置を指示したのが西郷で、「士が兜を脱いで降伏した以上は、後のことは何も心配はいらぬ」とした。 会津は28万石が、斗南3万石に、という過酷な処分だったが、庄内は17万石が、12万石に。 転封も取りやめになった。 これは本間家と領民たち、庄屋たちの反対運動があり、本間家が5万両を新政府に献金したことで、方針転換となった。
庄内の人々はこの寛大な措置に感謝していて、酒田市には西郷隆盛を祀る南洲神社がある。 荘内南洲会理事長、小野寺良信さんは語る。 庄内藩士3千名が失職し、どう生きたらよいかと、数次にわたり西郷のところへ留学生を送り、助言をもらった。 それで出来たのが、松ヶ岡開墾場で、明治5年刀を鍬に持ち替え、荒地を開墾、2年後311ヘクタールの桑畑とし、養蚕業を興し、日本有数の絹の産地となり、明治の日本経済を支えた。 大正15年12月、50周年記念の松ヶ岡開墾場綱領に、「徳義を本とし、産業を興して、国家に報じ、以て天下に模範たらんとす」とある、ここに賊軍という汚名を晴らした。
酒井玄蕃は、明治政府の軍人となり、清国へ渡航、地理気候を始め軍事の探索を続け、清国と戦争になった場合の戦略を練った。 報告書に「戦ふの難きにあらず、戦に至るの難きなり」と、戦いを避けるべきとした。 明治9(1876)年肺病のため33歳で亡くなった。
佐藤賢一さん…西郷は当初戊辰戦争に関わらず、最後の局面で乗り込んでいる。古い武士だった。
森田健司さん…西郷は伝説的な庄内の名を残してくれた。転封の指令は2回出ている。1回目は明治元年12月25日、ちょうど鳥羽伏見の戦いの一年後だ。
磯田道史さん…玄蕃の先生は家康。家康が小牧長久手でやったのと同じことをやった。清国調査のリアリズムは、徳川武士の奥深さだ。
私は、酒井玄蕃が活躍する佐藤賢一さんの小説『遺訓』に関連して、いろいろ書いていた。
佐藤賢一さんの小説『遺訓』と鶴岡<小人閑居日記 2016.2.23.>
西郷隆盛の「征韓論」は「遣韓論」だった<小人閑居日記 2016.2.24.>
西郷と庄内を警戒する大久保利通<小人閑居日記 2016.2.25.>
福沢諭吉と西郷隆盛<小人閑居日記 2016.2.26.>
西南戦争への福沢の運動と、言論の自由<小人閑居日記 2016.2.27.>
『丁丑公論』と日本国民抵抗の精神<小人閑居日記 2016.2.28.>
福沢の西郷銅像建設趣意書<小人閑居日記 2016.2.29.>
『現代語訳 福澤諭吉 幕末・維新論集』<小人閑居日記 2016.3.1.>
『福澤諭吉事典』の『丁丑公論』<小人閑居日記 2016.3.2.>
佐藤賢一さんの『遺訓』は『新徴組』の続編<小人閑居日記 2018.1.12.>
正義を貫く自負と、本間家援助の武器弾薬 ― 2024/01/11 07:06
鳥羽伏見の戦いが始まり、勝機もあったのに、徳川慶喜は江戸へ逃げ帰る。 慶喜の失態を目の当りにした酒井玄蕃は、江戸から父親への手紙で、「徳川三百年の天下も是きり」「馬鹿将軍」と記すが、徳川家の屋台骨は酒井家が支えて行こうとしている。 庄内藩の戊辰戦争、慶応4(1868)年、酒井玄蕃は27歳で庄内軍の指揮官になった。 シンボルは酒井玄蕃の二番大隊旗「破軍星旗」だった。 慶応4年5月、戊辰戦争で会津、庄内を助けようと奥羽越列藩同盟が出来たが、早々に秋田藩、新庄藩が離脱した。
浅川道夫日大教授(幕末軍事専攻)が現場で話した。 7月11日、舟形で庄内軍二番大隊400と新政府軍500が対峙した。 庄内軍はミニエー銃、最大射程約1250ヤード(1㎞)を持ち、玄蕃は先に発砲するなと指示し、敵の動きがわかるまで行動を抑える。 新政府軍の先頭は、寝返ったばかりの新庄藩軍だった。 敵の配置を確認した玄蕃は、別動隊を迂回させて奇襲、残りの全軍を渡河させた。 庄内軍はイギリス式を訓練していて、統一して動ける傑出した強い藩だった。
そして酒田の豪商・本間家が代々藩へ資金提供していたが、戦争でさらなる援助をした。 本間美術館館長田中章夫さんは、本間家鉄砲文書に、アカハネ・スネル(プロイセンの武器商人)に鉄砲合薬代34,533両(今の20億円)で、スペンサー銃(元込め式)など購入したとある、と。
領民も参戦し、庄内軍の4割に達した。 舟形での勝利の翌日、新庄城を攻撃、激戦で陥落させ、降伏した者の命は助け、領民の租税を半減して、人民の心をつかんだ。 さらに秋田藩領に進攻、8月7日湯沢、11日横手、20日大曲を攻略、久保田城に迫った。 一方、他の東北諸藩は苦戦していて、会津は8月から籠城戦となり、9月4日には米沢城降伏、15日には仙台も降伏した。
佐藤賢一さん…酒井玄蕃は戦さ上手、研鑽余念ない。弟二人が玄蕃の部屋には面白い物、珍しい物、西洋から渡来の物があったと記す。旺盛な知識欲を持っていた。
森田健司さん…秋田と戦う時に「北征二十絶」という詩を残している。「薩奴は勤王の名を貪(むさぼ)っている。自分たちは義、戦うべき理由を考えて、実績を残したい。日頃から美学を持っている。清潔にして、たとえ首を取られても恰好悪くない姿でいたい。」領民が見て、納得できるような武士道精神を押し出している。
山村竜也さん…奥州侵攻は理不尽なことで、自分たちは正義を貫いているという自負と自信が、強さになった。それと本間家の財力による最新鋭の武器弾薬。
磯田道史さん…天保の頃から50万両ぐらいのお金が本間家から入っている。物的戦力=武器の質×兵力。ライフル、元込め、連発、3倍ぐらいの差。
佐藤賢一さん…酒田の港町(本間家中心の金儲け)と鶴岡(俺たちは武士、戦う仕事)とでは、個性が違う。極端な役割分担、いざ戦争となった時、強かった、役立った。
最近のコメント