『家康の世界地図~知られざるニッポン“開国”の夢』2024/03/15 07:08

 12月17日放送のNHKスペシャル『家康の世界地図~知られざるニッポン“開国”の夢』が、とても興味深かったので、書いておきたい。 関ケ原で勝利した家康は、国内の政権基盤を確立するとともに、新しい国づくりを構想していた。 時は世界的に、大航海時代だった。 その秘策は、日本を世界に開く自由貿易で、この国を豊かにしようというものだった。 グローバルな国を目指す壮大な構想が、海外と日本の最新の歴史研究で、明らかになってきたという。

 《二十八都市萬国絵図屏風》(皇室所蔵)を家康が愛用しており、『駿府記』慶長16(1611)年9月20日に、これを見ながら海外の国々について議論していたとの記述がある。 左端のアメリカ大陸から、右端の日本までの世界地図と、42の民族が描かれ、もう一隻には世界の覇権を争う国王たちの姿(トルコ、スペイン、ペルシャなど)や名だたる都市や港の絵が描かれていた。 この絵図がどのようにして描かれたのか、その謎を解く鍵が、オランダ、アムステルダムの国立海洋美術館で見つかった。 地図製作者のブラウ家が1606年から1607年にかけて作った世界地図と一致した。 学芸員のディーデリック・ワイルドマンさんは、「航海に1年かかるのに、わずか4年後という驚異的な早さで世界情報を入手している。地図は家康が依頼したものと考えられる」と言う。

 家康が海外に関心を持ったきっかけは、慶長5(1600)年イギリス人航海士ウィリアム・アダムス(後の三浦按針)が豊後国にオランダ船リーフデ号で漂着したことだった。 アダムスが家族や友人に宛てた11通の手紙が残っている。 漂着すると、5隻の軍艦で王(家康)の宮殿(伏見城)に呼び出された。 家康に、日本に来た目的を聞かれ、オランダとイギリスから来て(スペインやポルトガルでなく)、貿易をしたい、友好を深めたい、と言った。 どういうルートで来たかは、世界地図を示し、マゼラン海峡を抜けてきた、と説明した。 時は大航海時代、ポルトガルは東回り、スペインは西回りの航路で、ヨーロッパからアジアへ向かい、各地でキリスト教を布教しながら、香辛料や武器の売買をして、巨万の富を得た。 16世紀後半、新勢力のイギリスとオランダが台頭し、各地で旧勢力と世界の覇権をかけて戦うようになっていた。 こうした世界情勢の中、日本では家康が関ケ原で勝利して、政権基盤を確立、外国との新たな関係を模索し始めていた。

 家康はアダムスに、世界情勢から、西洋人の習慣や信仰、家畜の種類まであらゆる質問をし、夜晩くまで側にいることになったという。 アダムスは、海外と貿易する利点を力説し、家康は日本にないものを貿易し、この国を豊かにすることを考えるようになった。                    (つづく)

東宮御教育参与、「人の疾苦を思う」2024/02/27 07:15

「岩田剛典が見つめた戦争 小泉信三 若者たちに 言えなかったことば」では、戦後の小泉信三を、昭和21(1946)年の東宮御教育参与就任から、皇太子のご成婚までで扱った。 そこで「疾苦」、「人の疾苦を思う」という言葉が出てきた。

 大日本帝国憲法の天皇は、神聖にして侵すべからず、国の元首にして統治権を総攬する、と定められていた。 戦後の日本国憲法では、天皇は日本国および日本国民統合の象徴とされた。 「象徴」としての天皇はどうあるべきか、昭和25(1950)年、学習院高等科2年の皇太子への進講をはじめるにあたり、小泉信三は「御進講覚書」をまとめた。

 皇太子に対し「今日の日本と日本の皇室の御位置およびその責任」ということをお考え願いたいと述べたという。 昭和天皇は大元帥であり、先の大戦の開戦について責任がないとは言い切れない。 だが戦争には敗れたものの民心は皇室を離れなかった、その理由の大半は「陛下の御君徳による」とした。

「殿下に於て、よくよくこの君徳といふことについてお考へになり、皇太子として、将来の君主としての責任を御反省になることは、殿下の些かも怠る可からざる義務であることを、よくお考へにならねばなりませぬ。」

 「君主の人格、その識見は、自ら国の政治によくも悪しくも影響するものであり、殿下の御勉強と修養とは、日本の明日の国運を左右するものと御承知ありたし。」

 「注意すべき行儀作法/気品とディグニチィ(威厳)は間然すべきなし(批判の余地がない)/To pay attention to others(他の人々には注意を払うこと)/人の顔を見て話をきくこと、人の顔を見て物を言うこと/Good manner(良き礼儀)の模範たれ。」

 小泉信三は、昭和27(1952)年11月10日の成年式と立太子礼に際し、世の君主たり皇子たるものの第一の義務は人の疾苦を思うにあること、人は人に仕えることによってはじめて真に仕えられる資格を得ることを、強い確信として御体得なさるであろうと記した。

 小泉は、正田美智子さんの皇太子妃選定にも、皇太子妃教育にもかかわった。 「人の疾苦を思う」皇室という考えは、皇太子妃にも伝わり、皇后としてのなされように表れたのだった。 「等々力短信」1118号 2019.4.25.「皇后美智子さまの御歌」に、こんな歌を引いていた。

 かの時に我がとらざりし分去(わかさ)れの片への道はいづこ行きけむ(平成7年)  ありし日のふと続くかに思ほゆる このさつき日(び)を君は居まさす (昭和42年・小泉信三さんの一周忌)

「戦没将兵合同慰霊祭」「戦没塾員讃歌」2024/02/26 07:06

 番組で生田正輝さんの『回想五十年 慶應義塾と私』からの引用が流れた。 生田正輝さんは、私が学生の頃、慶應義塾大学新聞研究所にいて、マス・コミュニケーション論の教授だった。 昭和16(1941)年慶應義塾大学予科入学、昭和18(1943)年学徒動員にて応召、昭和19(1944)年陸軍延吉予備士官学校卒業、昭和20(1945)年復学、昭和22(1947)年9月法学部政治学科卒業、10月助手となる。

 学徒出陣することになって、小泉信三塾長に挨拶に行った。 「私が挨拶にうかがった時、揮毫が終わってから、ふと顔を上げて、私を見つめながら、「君も征くのか…、死ぬなよ」とつぶやくようにいわれた。親父ですら「死ぬな」なんてことを口に出すことはできなくて、心ならずも「お国のために死んでこい」といわざるを得ない状況であった。」

 慶應義塾の出陣学徒の数は三千余名、このうち戦死者は五百余名(今村武雄『小泉信三伝』は八百余名)だという。 番組にあった「戦没将兵合同慰霊祭」と、「戦没塾員讃歌」を知らなかった。 「戦没将兵合同慰霊祭」は、昭和18(1943)年11月20日、神式で行われていた。 小泉信三塾長が戦没者の写真が並ぶ前で追悼の辞を述べ、信吉の写真の前はサッと通ったという。 「戦没塾員讃歌」は、三田新聞学会が同会25周年記念事業として塾生から公募し、昭和17(1942)年6月に発表、以後塾内の慰霊行事で歌われた。 青山斎場で執り行われた小泉信吉の葬儀でも、「迎へん哉おん霊を この丘は遠き日のごと 今日もまた葉はしげるなり 御訓はよき導きと 若人の胸に凝るらん 迎へんかな」と歌われ、来会者の涙を誘ったという。 楽譜が下記にあった。 https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1969084838&owner_id=4272592

学徒出陣、「忠孝不二」という揮毫2024/02/25 08:06

 「岩田剛典が見つめた戦争 小泉信三 若者たちに 言えなかったことば」で、いくつか印象に残ったこと、知らないこと、があった。

 学徒出陣することになった学生が、小泉信三塾長に挨拶に行き、日章旗の先頭に揮毫してもらう。 その文句が、「征け〇〇君」と「忠孝不二」の二つだった。 「忠孝不二」は、「忠孝二つならず」と読むのだろう。 「忠孝」は、主君に対する忠誠と、親に対する誠心の奉仕で、臣下としての義務を尽くすことと、子としての義務を尽くすこと。 当時の主君は、天皇だろう。 「二つならず」は、二つのものでない、一つのものだ、忠と孝は矛盾しない、一致するというのだろう。

 すぐ私は、今年の第189回福澤先生誕生記念会での荒俣宏さんの記念講演を思い出した。 「修身要領」と「教育勅語」<小人閑居日記 2024.1.15.>に書いたように、荒俣さんは福沢の(思想を高弟がまとめた)「修身要領」と、「教育勅語」の9割は同じことが書いてあるが、「教育勅語」の一番いけないこと、恐ろしいことは、「修身要領」にはないことの二つ、「親に孝、国に忠」と語ったのだった。

 小泉信三の『海軍主計大尉小泉信吉』に、信吉の出征に臨んで、手渡した有名な手紙がある。 「若しもわが子を択ぶということが出来るものなら、吾々二人は必ず君を択ぶ。人の子として両親にこう言わせるより以上の孝行はない。君はなお父母に孝養を尽くしたいと思っているかも知れないが、吾々夫婦は、今日までの二十四年の間に、凡そ人の親として享け得る限りの幸福は享けた。」 「今、国の存亡を賭して戦う日は来た。君が子供の時からあこがれた帝国海軍の軍人としてこの戦争に参加するのは満足であろう。二十四年という年月は長くはないが、君の今日までの生活は、如何なる人にも恥しくない、悔ゆるところなき立派な生活である。お母様のこと、加代、妙のことは必ず僕が引き受けた。」 「お祖父様の孫らしく、又吾々夫婦の息子らしく、戦うことを期待する。」

 息子は、二三度読み返して、顔を輝かせて「素敵ですね」と言ったそうだ。

小泉信三の戦争、慶應義塾を守る苦闘2024/02/24 07:15

 2月15日にNHK BSで放送された「岩田剛典が見つめた戦争 小泉信三 若者たちに 言えなかったことば」を、録画しておいて見た。 素晴らしい番組だった。 都倉武之さん(慶應義塾福沢研究センター准教授)が、的確な資料を用意して全面的に参加していたのが、大きく貢献したのだろう。 実は、岩田剛典(たかのり)さんを知らなかった。 三代目J SOUL BROTHERSのパフォーマーで、慶應義塾の普通部、高校から、2011年の大学法学部卒業の34歳という。

 小泉信三は、昭和8(1933)年11月、45歳で慶應義塾塾長に就任した。 昭和16(1941)年、長男信吉(しんきち)慶應義塾大学経済学部卒業、三菱銀行に4か月勤務、8月海軍経理学校入校、海軍主計中尉任官。 昭和17(1942)年10月、長男信吉南太平洋方面で戦死(24歳)。 昭和18(1943)年12月、出陣塾生壮行会で訓示。 昭和20(1945)年3月25日、空襲により罹災。病院のベッドで玉音放送を聞く。 昭和21(1946)年、東宮御教育参与就任。 昭和22(1947)年1月、慶應義塾塾長退任。

 昭和10年代には次第に、「福澤思想抹殺論」が出回り、慶應義塾は西洋の自由主義を日本に入れた福澤諭吉の学校として、言わば国賊のように見られるようにもなっていた。 番組に出てきた、その典型としての徳富蘇峰の福沢批判と小泉の反論を、今村武雄さんの『小泉信三伝』で読んでみたい。

 徳富蘇峰は、昭和19(1944)年3月、言論報国会の機関誌『言論報国』「蘇翁漫談」で、(1)福沢先生は西洋のことを無茶苦茶に輸入し、日本のことをことごとく壊す方針でやってきた、(2)福沢先生その人は愛国者だったが、その議論だけは非常に困った、(3)福沢先生の教えは、個人主義である、として、その教えを奉ずるものは国家の大事に無頓着である、今日の戦さでも、誰が戦さをしているか、まるでほかの人が戦さをしている、それをただながめているようなわけで、独立自尊でやっていく以上は、愛国ということなどとは縁が遠くならざるを得ないとした。

 小泉信三は、これに反論した。(5月10日『三田新聞』「徳富蘇峯氏の福澤先生評論について―先生の国権論その他―」) (2)福沢の多くの著述をあげ、すべて終始かわることのない国権皇張論だったとし、当時、福沢の心を圧迫したことは、西欧諸国、なかでも英国のアジア侵略であって、この強大な勢力の前に、いかにして、わが国の独立をまっとうするかということで、それには、わが国を文明に進めるほかない。 「今の日本国人を文明に進るは此国の独立を保たんがためのみ。故に、国の独立は目的なり、国民の文明は此目的に達するの術なり」(『文明論之概略』) (1)には、『学問のすゝめ』第15編から開化者流の西洋盲信を警めたくだりを引いた。
 (3)福沢の教えを奉じる者といえば、われわれ同窓の者すべてであるが、そのなかの幾千百の青壮年は、いま陸に海に空に戦っている。 彼らはみな福沢の名を口にすればえりを正す者だが、彼らのすべてが非愛国者だと徳富は言うのか、まさかそんなことはないはずで、この一段の言葉は不穏当のきらいがあると反論した。

なお、徳富蘇峰は、明治23(1890)年4月『国民之友』80号に、福沢の『文字之教』を読み、福沢について、世間が認める新日本の文明開化の経世家としてではない一面、つまり文学者としての福沢の役割、日本文学が福沢に負うところの多いことを説明するのに、この本が「大なる案内者」となる、と書いていた。 福沢が、すでに明治6年の時点で、平易質実、だれでも読むことができ、だれでも理解できる「平民的文学」に注意したことを知るのだ、と。
中川眞弥先生の講演「『文字之教』を読む-徳富蘇峰の指摘-」<小人閑居日記 2016.2.7.>
徳富蘇峰の挙げた福沢文章の特色<小人閑居日記 2016.2.8.>

 番組が扱ったこの時期の、慶應義塾と小泉信三塾長について、私は下記を書いていた。
日本史上最大の事件と慶應義塾<小人閑居日記 2007.7.10.>
戦時下の慶應、小泉信三塾長<小人閑居日記 2007.7.11.>
戦時下、大学に出来なかったこと<小人閑居日記 2007.7.12.>
「慶應義塾と戦争」アーカイブ・プロジェクト<小人閑居日記 2016.4.16.>
「戦争の時代と大学」展の冊子から<小人閑居日記 2016.4.17.>
塾長小泉信三の評価をめぐって<小人閑居日記 2016.4.18.>