福澤克雄さんの、福澤「心訓」発言に驚く2023/01/17 07:07

 髙橋裕子津田塾大学学長の記念講演「福澤諭吉と津田梅子」を書く前に、福澤克雄さんの福沢家代表挨拶に触れたい。 ご存知、TBSのテレビドラマ『半沢直樹』のディレクター、学生時代は巨漢のラグビー選手(旧姓山越)で1986(昭和61)年1月15日上田昭夫監督の下、トヨタを破り日本一になった。 1964(昭和39)年生れの59歳、私が卒業した年だから、私はまもなく卒業60年になるわけだ。 経済学は進歩して、世界の人々の幸福に貢献したのだろうか。 福澤克雄さん、福澤先生の「孫の孫」、次男捨次郎さんの子、時次郎さんの娘和子さんの子、ご両親の離婚で福澤姓に戻ったそうだ。

 福澤克雄さん、「バカチンだった、ひどい幼稚舎生、太っていて、漢字も駄目」と始めた。 中川眞弥先生が、犯人は無職だろう、生きていくために仕事が大事、好きな仕事を見つけろ、そのために勉強するのだ、と教えた。 桑原三郎(?)先生は、ラグビーをやれ、普通部では二軍で成績も悪かったが、落第しても二、三代に渡って友達ができる、と。 ラグビー部は殴る蹴るはないけれど、それ以上に厳しく悲惨だったが、それでその後何にでも耐えられた。 映画監督になりたいと思っていて、富士フイルムという立派な会社に入ったが、TBSに入って現在に至っている。 中川先生が、福澤「心訓」をかみ砕いて教えてくれたからだ。

 2013年9月20日の慶應塾生新聞500号プロジェクトで、福澤克雄さんは学生に向け、こう語っていた。 「これだと思った、それも一生続けられる仕事を見つけてほしい。その仕事にプライドを持って、堂々と生きてほしい。」

 福澤克雄さんは、あの体型で平気で生きて来られたのは、福澤「心訓」の「人とは」「仕事とは」「心とは」をかみ砕いて教えてもらったことが、大きかった。 ぜひ塾の一貫教育で、「心訓」をかみ砕いて教えてほしい、と述べたのだった。 慶應経済学部卒剣道部の半沢直樹にも、一生を貫く仕事というセリフを言わせた。 堺雅人は早稲田だが、息子を幼稚舎に入れた、とも。

 私はびっくりした。 世に広く行なわれている「一、世の中で一番楽しく立派な事は一生涯を貫く仕事をもつ事です。」以下七条の「福澤諭吉心訓」は偽作である。 福沢の書いたものではない。 中川眞弥先生には、私も福澤諭吉協会で可愛がって頂き、いろいろ教えてもらった、それをご存知でないはずはない。

 私は、すぐにTwitterに、福澤克雄さんの名を出さずに、こう発信した。 「残念ながら「一、世の中で一番楽しく立派な事は」以下七条の「福沢諭吉心訓」は偽作である。福沢研究の第一人者、富田正文氏は『福澤諭吉全集』第二十巻附録で、「惜しいことにその作者は自分の名の代りに福沢諭吉の名を借りて来たばかりに自分の創作した訓えの一つにそむく結果となってしまった。その訓えとは『一、世の中で一番悲しい事はうそをつくことである』」」

落語「扇屋花扇」、歌舞伎「廓噺山名屋浦里」2023/01/12 07:15

 タモリが鶴瓶に材料を提供して新作落語にし、歌舞伎にもなったという「扇屋花扇」が気になったので、調べてみた。  扇屋の花扇は、いわゆるナンバーワンの大名道具、教養のある花魁だったらしい。 宝暦年間(1760年頃)に、吉原芸者の発祥となった花魁だということだ。 花扇の名は、代々継いだようで、喜多川歌麿の浮世絵「当時全盛似顔揃」に「扇屋内 花扇」があり、四代目花扇を描いたもので、寛政6(1794)年の作だそうだ。 しかし、歌麿に「高名美人六家撰」に「扇」・「矢」・「花」・「扇」それぞれの絵を、画面上部の題名欄に描いた浮世絵がある。 寛政5(1793)年遊女以外の女性の名を絵の中に記すことが禁じられたため、苦肉の策として名前を「判じ絵」にしたのだ。 残念ながら、鶴瓶の新作落語「扇屋花扇」は、「小人閑居日記」のようにあらすじを書いた人が見つからなかった。

タモリは「ブラタモリ」で吉原へ行った時、この話を仕入れ、のちに鶴瓶と共演した折に落語にしたらと話したのだそうだ。 落語の上演は2015年1月、翌年8月歌舞伎「廓噺山名屋浦里」として、中村勘九郎、七之助で上演され、2021年11月にも赤坂大歌舞伎としてTBSのACシアターで勘九郎、七之助で再演されたのだそうだ。 鶴瓶と十八代中村勘三郎が親しく、鶴瓶の長男の俳優・駿河太郎と勘九郎が親しいという関係があった。

 「廓噺(さとのうわさ)山名屋浦里」は、くまざわあかね作、小佐田定雄脚本。 ある藩の江戸詰の武士、生真面目で融通の利かない酒井宗十郎(勘九郎)が、同僚に疎まれていて、次の寄合の趣向に江戸の妻、吉原の馴染の花魁を連れて行って、競い合うことを提案される。 そんな当てのない宗十郎、ふとしたことで知った、当時、飛ぶ鳥を落とす勢いの花魁、山名屋の浦里(七之助)の元に、頼みに行くことになる。 山名屋の主人を中村扇雀、宗十郎にいじわるする同僚に、坂東彌十郎、片岡亀蔵ら。 山名屋の主人にはあっさり断られるが、その場にいた浦里は侠気に富んでいて、事情を知ると意気に感じて、江戸の妻役を引き受ける。

 寄合に一人で現れた宗十郎は、同僚たちにさんざんなじられている。 するとそこに、浦里の花魁道中がやって来るのだ。 浦里の打った大芝居に、同僚たちの奸計はあえなく潰えた。 宗十郎は面目を施す。 あとで謝礼の金子を持って訪ねるが、その真心に惚れた浦里は受け取らず、これからも会いにきてくれるかと、懇願するのだった。

江の島繁栄、PR活動と寺から神社への変わり身2023/01/11 07:40

 江島神社(えのしまじんじゃ)は、明治の神仏分離までは弁財天を祀っており、江島弁天・江島明神と呼ばれ、番組では辺津宮(へつみや)の奉安殿にある、作られた時期が違う二つの弁天様を見せていた。 八臂(はっぴ)弁財天、八本の手にそれぞれ武器を持つ武の神様、源頼朝が作らせ、北条時宗、徳川家康も信仰したという。 妙音弁財天、裸で琵琶を弾く姿、音楽と芸能の守護神、さらには雨乞いに、民間の強い信仰を集めた。 開運、除災、除病などが御利益とされ、江戸時代以後、江戸の歌舞伎役者や吉原など花街関係者、建設業者、木材商、薪炭商の参拝が多く、その人々の寄進した石や銅の大鳥居が今も見られる。 仲見世通りの入口の銅の鳥居に、吉原の扇屋や大黒屋、松葉屋の名前があったので、タモリが鶴瓶に材料を提供して新作落語にし、歌舞伎にもなったという、「扇屋花扇」の話をして驚いていた。 吉原には旦那衆、文化人、芸能人が通い、江戸の文化をつくっていたので、江の島を舞台にした「弁天小僧」などの芝居も生まれた。

 地元の人たちがお祭の行列「唐人囃子」を披露していたが、チャルメラや手持の太鼓なども使い、江戸期に吉原の夏の一大イベント「吉原俄(にわか)」で練り歩き江の島のPR活動をしたもので、当時の絵ではジャガード織(シルク)の衣装や帽子などを含め、明らかに朝鮮通信使の行列を模したものだった。

 社伝によれば、欽明天皇13(552)年、江の島の南の洞窟に宮を建てたのに始まると伝わる。 『吾妻鏡』には寿永元(1182)年、源頼朝の命により文覚が島の岩屋に弁財天を勧請したとあり、これをもって創建とする説もある。 神仏習合により金亀山与願寺という寺になった。 岩本坊が総別当として全体を管理し、江島寺とも称した。 慶安2(1649)年に京都・仁和寺の末寺となって、院号の使用が認められ「岩本院」と称した。 「岩本院」の御師が、極小弁財天像を持ち、お札を配って、縁起や御利益を説いて回り、参詣者を集めた。 大口顧客としての大名や両替商を接待した富士見の間からは、相模湾と富士山の絶景が望めた。

 明治元(1868)年の廃仏毀釈により三重塔のほか多くの仏教施設や仏像などが破壊された。 明治6(1872)年、仏式を廃して神社となり「江島神社」へ改称、宗像三女神を祀る。 僧侶は全員僧籍を離れて神職となり、「岩本院」は参詣者の宿泊施設としても利用されていたことから、旅館となり「岩本楼」へ改称した。

 ブラタモリのお題「なぜ江の島は賑わうのか?」の答は、「唐人囃子」や御師のPR活動とともに、鎌倉時代からの行楽地、伊勢参りより簡便な観光地だったことを挙げた。

ブラタモリ×鶴瓶の家族コラボ、江の島の地質2023/01/10 07:16

元日にあった正月恒例の放送、ブラタモリ×鶴瓶の家族に乾杯コラボ「江の島でブラブラ乾杯」、実は「なぜ江の島は賑わうのか?」だった。 江の島については、「三田あるこう会」の江の島探訪の折に、E・S・モースと江ノ島の腕足類研究実験所などに関連して、2020.11.7.から11.23.まで、いろいろ書いていた。 だがこの番組では、知らないことがいくつもあった。

 まず初めにタモリが言った「トンボロ」という言葉。 イタリア語で、陸地とそれに近い島をつなぐ砂洲、陸繫砂洲。 江の島は陸繫島、潮岬、函館山、モン・サン・ミシェルもそれだという。

 江の島は地質上、第三紀中新世の凝灰質岩層と、集塊岩質凝灰岩または凝灰岩との互層からなっていて、これらの諸層は海底火山の噴出物が海底に堆積していたものが、のち隆起運動によって海上に現れ、さらに断層運動によって片瀬の台地と離れて陸繫島となり、その地層の上に関東ローム層が重なって平地をつくっている。 何度かの地震や隆起運動によって、台状に各層が重なっているのを、番組では海上の船から見ていた。 そこへ激しい海波の浸食を受けて切り立った海食崖(がい)ができ、また断層による弱線沿いにいくつもの海食洞ができ、その典型が番組の最後に行った弁天様が降臨したという奥津宮、奥行き152メートルの御窟(おんいわや)である。 南岸には海食台(岩礁)も発達している。

 島が「江」の字の形をしていることが、地名のおこりとされる。 また、亀の形をしてるように見えることから、目出度いと言われた。 江島神社の奥津宮拝殿天井には、酒井抱一の描いた「正面向亀図」(享和3(1803)年)があり、緑の江の島の形をしているように見える。 どこから見てもこちらを睨んでいるように見えることから、「八方睨みの亀」と呼ばれるようになった。

チコちゃん「国宝は、明治維新の暴走を止めた制度」2022/12/21 07:03

創立150年を迎えた東京国立博物館で、記念の「国宝 東京国立博物館」展が18日まで開かれていた。 東京国立博物館の所蔵する国宝89件すべてが公開されていた。 「チコちゃんに叱られる!」で、「国宝って何?」という問題があって、「明治維新の暴走を止めた制度」という答だった。

帝京大学の岡部昌幸教授が解説して、アメリカ人哲学者アーネスト・フランシスコ・フェノロサの名前を出していた。 フェノロサは、ハーバード大学の哲学科を首席で卒業、東京大学で哲学や政治学を教えるお雇い外国人として1878(明治11)年に25歳で来日した。 日本美術にも関心を持ち、教え子の岡倉天心を通訳に同行させ、寺社仏閣を巡った。 奈良で廃仏毀釈によって悲惨な境遇に置かれていた仏教美術に衝撃を受け、文化財の保護を強く訴える行動に出た。 ロンドン万博、パリ万博によって、ジャポニズムが流行、日本の伝統工芸品の価値が高まり、野放しだと貴重な文化財が海外にどんどん流失する時代だった。 フリーア美術館の俵屋宗達≪松島図屛風≫、メトロポリタン美術館の尾形光琳≪八橋図屛風≫などは、日本にあれば「国宝」だといわれる。 そしてフェノロサたちの活動が実を結び、政府も文化財の破壊や流失を食い止めるための法整備が必要と認め、1897(明治30)年、古社寺保存法が制定され、「国宝」が誕生した。

 「チコちゃんに叱られる!」は、「国宝って何?」ということで、「明治維新の暴走を止めた制度」とフェノロサを強調したが、昨日見たように、廃仏毀釈から古器旧物などの文化財を守り、海外流失を防止するために、1872(明治5)年には「壬申検査」も行なわれていたのだった。 「明治維新の暴走」という点は、19日の「勝者による廃仏毀釈、悪影響が語られず」と、同じ見解である。