障がい者の「自立生活革命」、日本からコスタリカ、中南米諸国へ2025/03/24 06:56

 偶然NHK BSのニュース『国際報道2025』(油井秀樹、酒井美帆、栗原望キャスター)で見たのだが、 障がい者の「自立生活革命」が中南米のコスタリカから、中南米の諸国に広がっていて、その始まりに日本で研修した女性がいるという話だった。

 筋ジストロフィーのウェンディ・バランテスさんは、2009年5月からJICAの支援で1カ月半、障がい者の自立した生活の仕組みづくりの先進地である、1989年11月から活動している日本の兵庫県西宮市の「メインストリーム協会」で、ハチマキがトレードマークの廉田(かどた)俊二さん(58)たちから研修を受けた。

 バランテスさんは、コスタリカに帰国後、その運動を紹介し広める活動を始め、2012年井上武史さん(56)をプロジェクトマネージャーに迎え、「自立生活センター」を開設した。 運動が広まり、2016年には「障がい者自立促進法(自立法)」が制定されるまでになった。 そして、この「自立生活革命」の運動はコスタリカから、中南米の諸国に波及、さらにはアジアの国にも広まっている、というのだった。

 俳句会『夏潮』のお仲間に、JICAにお勤めのご夫妻がいて、イラクとインドに別々に赴任したりして、大変だなあと思っていた。 先日、ロシアへの入国禁止のリストに夫君のお名前を見つけて、重要なお仕事をなさっているのだと知った。 あらためてJICAが、多方面で大切な役割を果たしていることを感じたようなわけである。

蔦屋重三郎と「瀬川」、吉原細見『籬の花』2025/03/18 07:03

 『節用集』とは、どういうものか<小人閑居日記 2025.2.19.>で触れたように、大河ドラマ『べらぼう』第6回は「鱗(うろこ)剥がれた『節用集』」で、大坂で出版された『節用集』の偽版(海賊版)を出していた鱗形屋孫兵衛(片岡愛之助)が摘発された。 江戸時代前半の江戸は、京、大坂から入って来る文化を受容するだけだったのが、時代が下って、この頃から、黄表紙や錦絵など「江戸発」のコンテンツが充実し、版元も発展する時期が到来していた。

 鱗形屋の経営が傾き、『吉原細見』を狙って西村屋与八(西村まさ彦)が動き出し、改めに浅草の本屋小泉忠五郎を使う。 蔦重は鶴屋で開かれた地本問屋の会合に行き、鱗形屋に代わって版元となり、地本問屋の仲間に入りたい、新しい『吉原細見』をつくって倍売ると提案する。 実現不可能とみた鶴屋喜右衛門(風間俊介)は、本当に倍売れば、仲間に迎える、と。 この話に、吉原の親父連中は、吉原が自前の地本問屋を持てば、江戸市中に摺り物や入銀本(にゅうぎんぼん、購入希望者が予約金を支払うことで、その本を出版するための資金を集める仕組みの本)を自由に広められると喜ぶ。

 蔦重は、「倍売る」方策を考える。 制作費を半分に節約し、一冊の売値を半額にして、本屋に倍の数を仕入れてもらう。 薄くて持ち運びやすい本にする一方、内容は充実し、大見世だけでなく、庶民が揚げ代を払えるような小見世まで、全ての女郎の情報を載せることにした。

 『べらぼう』で、蔦重は「なんとか吉原を盛り上げたい」と、いつも考えていて、花の井は、「その蔦重に成功してほしい」と願い応援している。 二人の夢は、一致しているのだ。

蔦重のために、花の井は、五代目「瀬川」を継ぐ決心をする。 蔦重の新しい「吉原細見」『籬の花』には、「瀬川」の名が掲載され、伝説の名跡襲名の話題は『吉原細見』の売上を伸ばすことになる。 それに比べ、西村屋の『吉原細見』は見劣りし、地本問屋たちは争うように蔦重の本を仕入れるのだった。

鱗形屋孫兵衛の吉原細見『細見百夜草』安永3(1774)年7月、小本一冊15.6×10.9cm 蔦屋重三郎の吉原細見『籬の花』安永4(1775)年7月、中本一冊18.5×12.4 cm

『べらぼう』、「瀬川」と平賀源内2025/03/17 06:56

 大河ドラマ『べらぼう』で、「瀬川」はキーワードである。 第2回「吉原細見『嗚呼御江戸』」で、蔦屋重三郎(横浜流星)は、平賀源内(1728~1779)(安田顕)に『吉原細見』の序文を書いてもらいたいと考えていた。 明和6(1769)年に源内が書いた引き札(広告チラシ)のキャッチコピーで、歯磨き粉「漱石香」が、よく売れていたからだ。

 「ありやうは銭ほしさのまゝ早々売出申候。御つかひ被遊候て、万一不宜候はゞ、だいなし御打やり被遊候ても、高のしれたる御損、私方は塵つもつて山とやらにて大いに為に相成候」

 (「ようするにお金がほしいので早々に売り出したもの。もしお使いになられて、具合が悪ければ、捨ててしまえば大した損にはなりますまい。こちらは塵も積もれば山で、とても助かります。」)

平賀源内は男色家で、歌舞伎役者の若手女形、二代目瀬川菊之丞(1741~1773)と恋仲だったが、その前年に死なれていた。 この菊之丞は、俳号の「路考」から「路考王子」と呼ばれた人気者で、その恰好から、髪は路考髷、染色は路考茶、櫛は路考櫛、帯は路考結びなどが流行するファッションリーダーだった。

ひょんなことで知り合った蔦重に、女がきれい、芸者も確か、台の物ははなやか、好みの女が見つかると案内されて、吉原に来た平賀源内、偽名がばれて「ここに瀬川はいないのか」と聞く。 「瀬川」花魁は吉原で伝説の大名跡だが、四代が自害したあと、縁起が悪いと継ぐ者がいない。 松葉屋に上がった源内だが、女郎にはまったく興味を示さない。 蔦重の幼馴染の花魁花の井(小芝風花)は、源内の好みを知っていて、男装で現れ「あっちでよければ、瀬川とお呼びくだせえまし」と、源内を喜ばせる。 源内は、花の井の「瀬川」に「ひとさし舞っちゃあくれねえかい」と。

 翌朝、花の井は、平賀源内が福内鬼外(ふくうちきがい)の名で書いてくれた『吉原細見』の「序文」を蔦重に渡す。 版元・鱗形屋孫兵衛の「改め」(調査・情報収集・編集)となって、蔦重が仕事をした、この『細見嗚呼(ああ)御江戸』は、よく売れたのだった。

慈覚大師円仁が開いた目黒不動尊、「独鈷の瀧」2025/03/15 07:14

「独鈷(とっこ)の瀧」

 その少し前の、大河ドラマ『べらぼう』の後の「紀行」(ナレーションは鈴木奈穂子アナ)で、目黒不動尊、瀧泉寺(りゅうせんじ)を取り上げていた。 田舎出の若者がうたた寝する間に見た夢の話、鱗形屋が出版した青本『金々先生栄花夢』の金々先生が立ち寄った場所だというのだ。 金々先生、金村屋金兵衛、目黒不動尊で名物の粟餅を食べようとして、出来上がりを待っている間に、夢を見ることになる。 江戸の近場の行楽地として、目黒不動尊や品川宿が人気だったという。 目黒不動尊は、徳川家にとってもゆかりの地で、三代家光がこの近くで鷹狩りをしていて、鷹がいなくなったのを、この寺で祈願したら戻ってきたという。 番組が映したその記念の碑は、辻さんが正面階段の男坂でなく、右手の女坂で見つけたそうだ。

 目黒不動尊、瀧泉寺は、天台座主第三祖慈覚大師円仁が開いた関東最古の不動霊場だという。 正面階段左手に、「独鈷(とっこ)の瀧」がある。 堂宇建立の敷地を定めるに当たり、円仁が持っていた法具「独鈷」を投じた浄地から流れが湧出し、瀧となって数十日間の炎天早魃が続いても涸れることがなく、不動行者の洗心浄魂の場として、今日まで滔々と漲り落ちている、という。 現在は、二つの龍の口から、チョロチョロと間歇的に流れ出している。 「独鈷」は、ドッコともいい、両端が分岐していない金剛杵、煩悩を打ち砕く仏具。

 円仁(794~864)が目黒不動尊の開祖だとは知らなかった。 天台宗山門派の祖。 諡号は慈覚大師。下野(しもつけ)の人。 最澄に師事。 838(承和5)年入唐し天台教学・密教・五台山念仏等を修学、847(承和14)年武宗の仏教弾圧を経験して帰国。 常行三昧堂を建立し、東密(空海を祖とする東寺を本山とする真言密教)に対抗する台蜜(日本の天台宗で伝える密教。最澄・円仁・円珍らが中国から伝えた)の基盤を整備、比叡山興隆の基礎を確立した。 エドウィン・ライシャワーに円仁の研究があるのは、聞いていた。

「めいわく」の「行人坂火事」、江戸三大火事2025/03/14 07:14

 3月2日は、三田あるこう会の第575回例会で、「目黒不動尊&林試の森」散策だった。 まあ、地元のような、よく知るところで、志木会の「歩こう会」でも2017(平成29)年10月7日に、逆のコースを三田迄歩いたこともあった。

 目黒駅集合、当番の配慮で、行人坂の急坂を避けて、逆「く」の字の権之助坂を下り、大円寺へ。 明和9(1772)年2月29日に大円寺から出火した「行人坂火事」は、折からの強風によって、たちまち白金から、江戸城の櫓、神田、湯島、下谷、浅草、吉原まで焼き尽くした。 大河ドラマ『べらぼう』のしょっぱなの火事が、この火事である。 明和9年、「めいわく」の火事といわれたと、『べらぼう』でもやっていた雑学を、当番の渡邉美保さんに話したら、皆さんに伝えていた。 江戸城の櫓まで焼いたので、大円寺は以後76年間も再建を許されなかったそうだ。

 結婚式キャンセルのニュースがあった雅叙園の前に「お七の井戸」がある。 大円寺のそばに「お七の井戸」があるため、お七の火事と行人坂火事を混同しがちだが、別物である。(なお、お七の火事と「振袖火事」も別物なのを、後で述べる)本郷追分の八百屋お七は、天和2(1682)年12月の大火で焼け出され、駒込の寺に避難して知り合った寺小姓吉三に恋こがれ、吉三逢いたさに自宅に放火して、鈴ヶ森で火刑に処せられた。 吉三は、お七の火刑後、僧侶になり、名を西運と改め、明治13年頃までこの場所にあった明王院に入り、境内のこの井戸で水垢離を取り、目黒不動と浅草観音の間、往復十里の道を念仏を唱えつつ隔夜一万日の行を成し遂げたといわれる。

 「行人坂火事」「振袖火事」「車町(くるまちょう)火事」を、江戸三大火事というのだそうだ。 「振袖火事」は「明暦の大火」…明暦3(1657)年、江戸本郷丸山町から出火、江戸城は西丸を残して本丸も焼失、死者10万人以上といわれる。 なお、振袖火事の名前の由来となった、丸山町本妙寺の和尚が施餓鬼で因縁のある振袖を燃やした火が本堂に移り大火になったという話は、史実とは言い難いそうだ。 「車町(くるまちょう)火事」…「文化3年の大火」文化3(1806)年3月4日に江戸芝の車町(牛町ともいい現港区)から出火し、大名小路の一部、京橋・日本橋のほぼ全域、神田・浅草の大半を類焼した大火。

 何で江戸には火事が多かったのかと、辻さんに聞かれたが、うまく答えられなかった。 「火事と喧嘩は江戸の華」という、江戸に人口が集中、安普請の木造家屋で燃えやすかったのだろう、そしてすぐ建て替えられた、各藩は屋敷の再建に多額の出費をしたことが財政負担になった、紀伊国屋文左衛門など木場の材木屋が儲かった、などと話した。