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    <title>轟亭の小人閑居日記                        　　　馬場紘二</title>
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    <pubDate>Wed, 09 Sep 2026 07:19:36 +0900</pubDate>
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      <title>柳亭市馬の「お化け長屋」前半</title>
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      <pubDate>Wed, 09 Sep 2026 07:18:25 +0900</pubDate>
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      <description>&lt;p&gt;　怪談噺は、夏の風物詩で（と、お茶を飲む）。　芝居噺は、彦六の八代目正蔵、弟子の正雀が道具から何やら受け継いでやってる。　大人の紙芝居。　前座が、幽霊になって客席に出る。　「四つ時（午後十時）に出る幽霊は前座なり」。　八代目正蔵は、「はて、恐ろしき執念じゃなあ」で終わり、明るくなってカッポレを踊った。　晩年の彦六は、五分しかやらない。　そろりそろり高座に出てくるのに五分、帰るのにも五分。　負ぶって出ればいい、板付きもあるだろうというけれど、お客さんは文句を言わない。　それに接することが出来たのは、宝だ。　先代の柳朝師匠は、入ったばかりの前座の名前を、すべて覚える。　それが嬉しい。　下の者に返そうとするのだが、忘れる。　同じ顔に見える。　違いが分かるのは、例えば、桃月庵白酒しか…。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　杢さん、ひどいよ、うちの大家、言い方がひどい。　前の空き家、沢庵の樽を入れたり、夕方、洗濯物を竿ごと突っ込んだりしているだろう。　それを、荷物を片付けろ、店賃の割り前を取るぞっていうんだ。　文句は言えない、店賃が六つ溜まっている。　空き家の方が都合がいい、どうなっているのかと聞きにくるのが、多い時は5、6人いる。　じゃあ、差配人だと言って、俺のところへ寄こせ、何とかするよ。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　ごめん下さいまし、通行の者ですが、前の家を拝借したいんですが？　大家は遠方で、差配人がいる。　突き当りの四ツ目垣の所に住んでる、この長屋の草分け、「古狸」の杢兵衛さんの所へ行きなさい。　ごめん下さいまし、前の空き家のことで、伺いたい。　日当たりがいい、小上がりに、六畳に四畳半、造作も付いている。　敷金、前家賃は？　いらない、月々の家賃もねえ。　どうしても払いたければ、別だがね。　どうして店賃がない、訳があるんですか？　この話は、気乗りがしないんだが、一応、お話しましょう。　どうぞ、これへ（と、変な手つきで上に上げる）。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　三年前、三十二、三の器量のいい後家さんが、小金を貯めて住んでいました。　桐の葉も落ちる、秋の末の頃、泥棒が入った。　物を盗って風呂敷包みにし出ようとして、四畳半のおかみさんの寝姿が目に入った。　ムラムラと来て、掻巻の胸元に手を入れた。　おかみさんが気づいて、ドロボウ！ っと、怒鳴った。　たぶさ（髻）をつかんで引き寄せ、呑んでいた匕首で乳の下をブスリと一刺し、これが致命傷。　随徳寺をきめた。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　翌朝、駆けつけると、見るも無残、あたりは一面血の海だった。　その後、誰が越して来ても、三日、四日と持たずに、逃げ出すように越して行く。　三日、四日は何もないが、雨のしとしと降る晩など…。　夜も更け渡り、遠寺の鐘がボーンと鳴ると、仏壇の鉦がひとりでチーンと鳴り、障子に女の長い髪の毛の当たる音がサラサラ、障子は音もなくスーッと開く。　後家さんの幽霊が、ケタケタケタと笑う。　これで、失礼します。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　オヤッ、逃げ出したよ。　下駄、置いてったよ。　がま口、落として。　杢さん、うまく行ったな。　冷たい手で、と隠しておいた濡れ雑巾で、こう顔をなでてやったんだ。　俺に、やるな。（と、羽織を脱ぐ）
&lt;/p&gt;</description>
      <dc:subject>落語</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>桃月庵白酒の「綿医者」</title>
      <link>https://kbaba.asablo.jp/blog/2026/09/08/9875356</link>
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      <pubDate>Tue, 08 Sep 2026 07:09:42 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-09-08T07:10:44+09:00</dcterms:modified>
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      <description>&lt;p&gt;　白酒は、桃色の羽織、薄茶色の着物。　お医者さんは、噺家と似ている。　ふた通りがある、外科系と内科系。　外科系は、職人に近い、数をこなす。　内科系は、口先だけで、何とかする（噺家に近い）。　問診で、分かる。　咽喉が痛くて、咳が出る、熱っぽい。　風邪だね。　患者は、それで安心する。　自己治癒力が高まる。　安心させる仕事だ。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　高血圧、大きな病院に紹介状を書く。　行かないと、その内に倒れるから。　面倒な患者、身体中が痒いと、言って来た。　悪い病気か？　　全身を診たら、指の骨折だった。　薬で治る、処方箋だけあればいい、という患者もいる。　あなた、起きて、起きて！　睡眠薬を飲む時間でしょ。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　身体中、もやもやしているんですが。　体温を測りましょ、口で。　何時ぐらいから、もやもやしてるんですか？　無言（口にくわえている）。　580！　万歩計でした。  レントゲンを撮りましょう。　節子さん､ガラスを拭いて。　バリウムがない？　牛乳はあるだろう。　レントゲンを撮ったら、だいぶイカレテル、手術ですね。　節子さん､台を拭いといて。　ゴム手袋を……、名前はわからない。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　切りますよ。　だいぶ、ひどくなってます。　内臓を取り出そう、心臓はこれ。　死なないでしょ。　レバーに、ヒモだ。　治療して、綿をつめます。　オーガニックですから、大丈夫です。　今更だけど、麻酔する？　まつり縫い、しときましょ。　縫いぐるみみたいだ。　すっきりしたでしょ。　内臓は、一週間できれいにして、戻しますから。　何でも、好きなようにしていていいです。　でも完治したと、勘違いしないように。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　手術、早く済んで、よかった。　一杯やりましょう。　つまみは何？　揚げ物、とんかつ、コロッケ。　ビール最高！　煙草、ないですか？　煙管とは、渋い。　火玉を吸い込む。　アッチッチ！　どうしたの？　胸が焼ける。　アッチッチ！　綿に、揚げ物だ、それに火が付いた。
&lt;/p&gt;</description>
      <dc:subject>落語</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>桂吉坊の「幸助餅」後半</title>
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      <pubDate>Mon, 07 Sep 2026 06:54:37 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-09-07T06:55:43+09:00</dcterms:modified>
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      <description>&lt;p&gt;　雷は、どこにいるんです。　ここにおりますわい。　お久し振りやな。　話は聞いてましたか。　そのお金、返してくれませんか、今日は拝みます。　（雷は）一文も返すわけにはいきません。　こっちは芸人、そちら様はご贔屓様、下げた頭が承知しない。　諦めてもらいましょう。　本気で言っているのか、雷は性根がきれいだと思って、贔屓していた。　贔屓などと言ってくれるな（と、幸助を突き飛ばす）。　ついた餅が、尻もちじゃ、アッハッハ！　帰るぞ、夕立、暗闇、ついて来い。　（お咲は、）しょうがない、帰りましょ。　お咲、すまん。　くやしい、と長屋へ。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　お咲は、新町の三つ扇屋の女将から、もういっぺん三十両借りた。　これは、お咲さんに貸すんだ、と。　それから、この夫婦の働いたの、働いたの、くるくると働いた。　担ぎの餅屋から始めて、客もだんだん戻ってきた。　幸助餅の暖簾を掲げ、三年の年季も待たずに、お袖も帰って来た。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　福田屋さんから、餅一式の注文だ、忙しくなるぞ。　ごめんなはれ、餅を売って下せえ。　（雷）妙なところで会いましたね。　どちらさんで？ 五郎吉、ゴロツキに、金を使い、相撲の太鼓を聞くのも嫌だ。　餅屋は餅屋、餅を売ってくれ、商売だろ。　何の餅？　水餅を一つ買うてやる。　よう味わうて、食うてくれ、銭はもらえない。　大関の名が廃る、三十両で買うてやろう。　旦那様、以前、大阪に戻った時……、お受け取り下さいませ。　旦那様、よう御辛抱なされました。　帰れ！
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　そのお金、ぶつけるようでは、罰が当たります（と、三つ扇屋の女将）。　二度目におかみさんにお貸ししたお金、雷関が持ってきたんです。　心にもない嘘を言ったと、大きな体で涙を流して、言うた。　一日も早く、旦那様に返してもらいたい、と。　自分が持ってきたことは、言うてくれるな、と。　幸助さんご夫婦が働いて働いて……、その商売も、雷関が頭を下げて回ってくれた。　相撲取が、注文取りをした。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　そうだったのか、帰れなどと言うてしまった、これからもよろしく頼む。　こちらこそ、よろしうお願いします。　お互いの、詫びがかなった。　雷がとっさに、言う。　身代ふくれる筈だ、餅屋の主（あるじ）だもの。
&lt;/p&gt;</description>
      <dc:subject>落語</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>桂吉坊の「幸助餅」前半</title>
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      <pubDate>Sun, 06 Sep 2026 07:25:46 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-09-06T07:26:59+09:00</dcterms:modified>
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      <description>&lt;p&gt;　見台と膝隠しを置いて登場の、緑色の着物と羽織の桂吉坊、この会はアウェーの感じがする、ああいう大阪弁は腹が立つ、と笑う。　ご贔屓は有難い。　最近は、推し活、積極的に活動する人は、半分以上の興行に通われるそうで。　大阪の芝居は、二か月変わらんことがある。　寄席の興行は一週間、木曜になると、噺家が飽きる、というのに。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　相撲も贔屓が多い。　大阪場所はチケットが取れない。　相撲は、一番に命を懸けている。　噺家を26年やっているが、命を懸けているのを、見たことがない。　こちらは、そんなに重くなくてもいい。　相撲の贔屓は、お金もいる。　大黒屋幸助という餅米問屋、若旦那が親の金を使い果たして、とうとう店を潰してしまった。　新町の三つ扇屋の女将が、三十両お貸し申し上げます、これは妹のお袖ちゃんが、身を売ってこしらえたお金、三年年季で店には出さず、私の妹分として身の回りの世話をしてもらう、万一返さなければ、鬼になって店に出す、と。　相済まんことです、もう一度大黒屋を立て直すため、相撲を忘れて励みます。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　店の若い者が、大門までお供します、と。　（ボーーン！と、鳴り物が入り、）生来の相撲好き、雷（いかずち）五郎吉が贔屓で、出世していく、勝ち祝い、験直しと大金を出していた、三年前江戸へ修業に行ったが、あとの祭り、ノコッタ！のは借金だけで、浴びせ倒された。　思い出すのは、浦風との一番、びっしりの見物人だった。　雷が下手を取って押した、浦風は右上手をつかんで土俵際まで寄る。　雷は、腰が強い。　店の若い者が、わたいを投げ飛ばしてどうします、と。　もう、大門が見えてきた。　サイナラ、ごめん！　ボーーン！
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　その声は、大黒屋の旦那さんでは？　お前は、雷、何でここにいる、夕立、暗闇も、一緒か、大阪に帰ってきたのか。　百三十里の道を帰って来ました、三年ご無沙汰しましたが、江戸の相撲で大関になって参りました。　よくやった。　雷は、日本一の相撲取だと思っている、よくやった。　お店に伺いましたが、店も人も様変わりで。　広い所に、宿替えしたんだ。　来月十日から、大阪本場所が始まります。　そうか、何も出来んが、ここに三十両ある。　御無用になさいませ。　祝儀だ。　それでは有難く頂戴いたします。　御寮さん、妹御さんは、お達者で？　達者にしているよ。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　わし、何をしたんだ？　しもうた、どないしょ、家にも帰られへん。　（心配した女房が迎えに出ていて、）お咲か。　あんた、どないしたん。　三つ扇屋の女将さん、お金を貸してくれはったんでしょ。　家へ帰りましょ。　帰られへん。　お金どないしたん、盗られたんか。　渡した。　誰に？　雷に。　ただのお金と、違いますよ。　会うてしもうたんや、雷に。　何で渡したんや、返してくれと言いなさい。　そんなことしたら、男が廃る。
&lt;/p&gt;</description>
      <dc:subject>落語</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>春風亭一蔵の「鷺とり」</title>
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      <pubDate>Sat, 05 Sep 2026 07:12:14 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-09-05T07:13:18+09:00</dcterms:modified>
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      <description>&lt;p&gt;　一蔵は、グレイの羽織に、黒の派手な縦縞の着物で、趣味はダイエット、特技はリバウンドと始めた。　年子の娘がいて、次女の高校卒業式はコロナの時期で無観客だった。　長女の時は、卒業式があり、若いそこそこイケメンの担任が、最後のホームルームで、大声のオーバーアクションで、「ソツギョウ、オメデトーーッ！」と呼びかける。　涙は流さない、ずっと「頑張れ！」と言ってきたが、もっと慎重に使うべきだった。　二度と「頑張れ！」は、使わない。　これから順番に、お父さん、お母さんに、感謝の言葉を、述べるように。　トップは、青木まなみ。　しばらく、言葉が出ない。　担任は、言った。　「頑張れ！」
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　これから落語をやります。　この話、95％脚色してない。　その時、笑ったのは、私一人、落語家は、社会不適応者。　ぼんやりと、大らかな気持で、聞いて下さい（と、羽織を脱ぐ）。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　隠居に仕事をしなさいと言われた男。　あっしは、スズメを捕まえようと思っている。　うんと捕まえて、焼き鳥屋へ売る。　ここを使う、と指す。　コメカミか？　頭だ。　米粒を三日三晩、味醂に漬ける。　それを撒いておいて、後で南京豆も撒く。　スズメが…（前歯を出す）。　なんで、前歯を出す？　くちばしだよ。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　味醂に漬けた米粒を撒いたが、罠だ、捕まるぞ、と一羽も下りてこない。　西のスズメが、「何やってんのん。乙なもんでっせ。」と、下りて食った。　それを見て、江戸っ子のスズメが、みんなチュン、チュンと下りて来て、米粒を食って、アルコール分に、ヨロヨロ、ヨロヨロ、そこへ南京豆を一つかみ撒く。　いい枕が来たと寝る。　寝ているところを、箒とチリトリで集めて、焼き鳥屋へ持って行くんだ。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　その罠、うまくいったのか？　スズメがふらふら、スズメなのに千鳥足になったところに、南京豆を撒いた。　みんな寝た。　まさか！　だが、西のスズメが、馬鹿に酒に強かった。　江戸っ子のスズメをみんな起して、二次会だと、スズメだけで焼き鳥屋へ行っちゃった。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　鷺を、捕まえることにした。　池や沼で、大きな声で、呼ぶ。　サギーーッ！　人間に、呼ばれたよ、前へ出よう。　（手を上げて、鷺の恰好をする。手が顔で、出した前歯は）、お腹の白いところ。　声を小さくして、呼ぶ。　サギーーッ！　もっと、声を小さくして、呼ぶ。　サギーーッ！　人間は、遠くに行ったようだ、いなくなった。　実は、鷺の真後ろにいて、金槌で「バコン！」とやる。　うまくいくのか、かぼちゃやかなんか、やっていた方がいい。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　鷺のいそうな、池や沼はあるか。　上野の不忍池。　夜、不忍池にやってきた。　見張りの鷺が、ぼんやりした鷺だった。　みんな寝ている、鷺の真後ろに行き、金槌で「バコン！」「バコン！」とやった。　袋を忘れた。　仕方がない、帯のところに、鷺の首を挟み込む。　帯の周りに、鷺がぎっしり。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　夜が明けてきた。　みんな、捕まったぞ。　みんなで、飛べ。　バタバタ、バタバタ！　奴っこさんが、飛んで行く。　詐欺に遭ったようだ。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　夏の高校野球でも活躍した、花巻東高校のグラウンドで、それを落とした。　野球をやらして、天下のメジャーで大活躍の、大谷翔平由来の一席でございます。
&lt;/p&gt;</description>
      <dc:subject>落語</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>立川笑二の「かぼちゃや」</title>
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      <pubDate>Fri, 04 Sep 2026 07:06:20 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-09-04T07:08:05+09:00</dcterms:modified>
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      <description>&lt;p&gt;　8月31日は、第698回の落語研究会だった。　立川笑二は、談笑の弟子。　沖縄読谷（よみたん）村の出身で、小中高とソフトボールをやったという。　高校の男子ソフトボール部のスローガンは、1年の時が「打倒！○○高校」、2年が「九州制覇！」、3年は「練習前の飲酒禁止！」で、全国大会2位になった。（黒羽織を脱ぐ、茶色の着物）
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　先々の時計になれや小商人、二十（はたち）になった与太郎を呼んで、八百屋の伯父さんが、働かなけりゃ飯が食えない、かぼちゃを売って来い、という。　大きいのが10、小さいのが10ある。　合わせるとハタチだ、と与太。　大が13銭、小が12銭だ、売る時は上を見て売れ。　裏通りを行け、腹を立てずに、向こうの言いなりになるんだ。　売り声は大きく、天秤棒を担いで、一回りして来い。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　与太郎、出かける。　かぼちゃ！　かぼちゃ！　こんな所に、花がある。　朝顔だ。　なんだ、家の前に座り込んでいる奴がいる。　何を、やってるんだ？　朝顔の花言葉を知っているか、はかない恋ってんだ。　かぼちゃ！　かぼちゃ！　それじゃあ、売れない、「唐茄子屋でござい！」と、売るんだ。　買ってくれよ。　これから湯へ行くんだ。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　「出来立て、ほかほかの、かぼちゃ！」　路地の行き止まりだ、回れない。　ここで歳を取りたくない。　路地を広げろ、蔵をどけろ！　馬鹿が、引っ掛かった。　身体だけ、回れ。　回れた。　格子に傷がつくじゃねえか、張り倒すぞ。　いくつ？　殴られよう。　さあ、殴れ。　家に入って来やがった。　唐茄子、買ってよ。　いくらだ？　大が13銭、小が12銭。　大を二つ、釣りはあるか。　ない、上を見ている間に、持ってけ。　変な奴だな。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　唐茄子屋だ、安いから、お光さん、お兼さん、おじさんも、買ってやれ。　大が13銭、小が12銭だ。　上を向いてるから、早く売れ。　すっかり、さばけたぞ。　売上は、お前の儲けだ、2円50銭あるだろう。　軽くなった。　ありがとうございます、ぐらい言わないか。　どう、いたしまして。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　ばあさん、与太郎が帰って来た。　そっくり売れたのか、儲けを出せ。　えらいな、元と儲けを，別にしているのか。　儲けは？　これだ、2円50銭。　それは、元だ。　上を見たんだろ？　ん！　大が13銭、小が12銭。　それは、元だ。　ノドチンコ、カラカラにして、空を見ていた。　もう一度、回って来い。　掛け値をしろ、大の13銭を15銭、小の12銭を14銭、2銭ずつ儲かるだろう。　二十（はたち）になったんだろう、それじゃあ飯が食えない、女房、子が養えないぞ。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　好きで二十になったんじゃない。　掛け値をしろ、か。　路地、行き止まりだ。　また、引っ掛かったよ、同じ馬鹿だな。　大の13銭は、今15銭、小の12銭は、今14銭、空を見ていないで、掛け値をしろって言われた。　馬鹿だな。　買う方が馬鹿だ。　おめでたいな。　明けまして。　お前、齢はいくつだ。　六十。　どうみても、二十ぐらいだ。　四十は掛け値、掛け値をしないと、女房、子が養えない。
&lt;/p&gt;</description>
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      <dc:subject>落語</dc:subject>
    </item>
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      <title>福澤、世間より個人が大切、時代の潮流に乗る</title>
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      <pubDate>Thu, 03 Sep 2026 07:02:44 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-09-03T07:05:12+09:00</dcterms:modified>
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      <description>&lt;p&gt;　三宅香帆さんの『波』連載「福澤諭吉をよみなおす」、8月号の第2回は「なぜ福澤諭吉の書く本は売れたのか？」。　そもそも福澤が世に知られたのは、著作『西洋事情』初編（慶応2（1866）年）が、バカ売れ25万部のベストセラーになったからだ。　福澤、33歳の出来事だった。　それまでの福澤は、三宅さんがいまふうにいう「やたら勉強する陽キャ（対人関係が得意な人）」で、自分の「実力」には自信があるのに、「門閥制度は親の敵（かたき）で御座る」（『福翁自伝』）、身分制度のためにフラストレーションを溜めていた。　手先も器用だった。　やたら器用な陽キャこと福澤の人生は、門閥制度という世間を憎んで始まったのだった。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　陽キャというと人が好きであるように思われるが、そこには案外冷たい視線があるように三宅さんは思う。　たとえば世間というものを、福澤は依存や愛情を前提すべきではない関係のものとして捉えていた。　つまりは愛情というよりは、個人同士自立した存在として関係すべきである、くらいに捉えていたのだ。　家族と世間はちがう。　家族は愛情をもって接し合う相手である。　だが、世間は違う。　面倒で、謎のルールを押し付けてくる存在である、と福澤は何度も語っている。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　福澤にもともとあった世間より個人のほうが大切だという性格と感覚が、ちょうど時代の潮流と重なっていく。　日本が西洋の個人主義を取り入れたいと盛り上がったタイミングに、本を出す著述業を彼が手にしていた。　ベストセラー作家とは、本人の気質と時代の潮流が一致したときに登場するものだと思う。　そして彼は、「演説」というひとりで語るスタイルを日本で流行させるに至る。　それはよく勉強する陽キャだからこそできたことだっただろう、と三宅さんは書く。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　福澤は、中津にいたころ、「世間」の人間関係のなかで生まれてくる嫌悪や不快な感情については、それを意識的に克服した。　褒められても、喜ばない。　軽蔑されても、怒らない。　手を出さない。　19歳で長崎に出て、蘭学を勉強し、その後、緒方洪庵という師にも出会う。　だが根本的な、世間に対しては「個人は個人」という考え方は変わらなかったのだろう。　それは彼の思想の根本になる。　アメリカとヨーロッパに渡り、そして倒幕の嵐が吹く中で『西洋事情』を刊行することになった。　その時も、自分の感情よりも対人関係を優先させる思想こそが、彼の著作の背景にあるものだったのである。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　三宅さんは、それは現代の日本人にとっては、案外親しみやすい思想ではないだろうか、と言う。　「喜怒色に顕さず」、さまざまな人とコミュニケーションをとろうとする。――その福澤の説いた姿は、案外SNS社会的だな、と思ってしまう。　それは彼の中に絶対に突き通したい正義がなかった証ではないか。　むしろ絶対的な正義やビジョンなどなく、彼の人生や著作を眺めていると、そこにあるのはむしろ「西洋という時代の波がやってくるなかで日本人はいかに生きるべきか」という解釈と提言の語りかけである。　その時代に日本人が適応し生きのびる――サバイブするにはどうしたらいいのか、を説いたことだった。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　福澤の言葉がいま響くのは、やっぱり日本人もちゃんと個人で独立しろ、世間に染まりすぎるな、公のことを考え、勉強していろんな人たちとコミュニケーションを取れ、ということがいまだに難しいからだ。　日本人に自由は難しい。　公共のことを考えた個人であれ、という教えはいまも伝わりづらいだろう。　だけどあえていうなら「それだけ」を福澤は語った。　それが近代社会をサバイブするということだからだろう、と三宅香帆さんは指摘している。
&lt;/p&gt;</description>
      <dc:subject>福沢</dc:subject>
      <dc:subject>慶應</dc:subject>
      <dc:subject>文化</dc:subject>
      <dc:subject>歴史</dc:subject>
      <dc:subject>世界</dc:subject>
      <dc:subject>日本</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>「演説」喋りで他人を説得するメディア、相手に伝わる「文体」</title>
      <link>https://kbaba.asablo.jp/blog/2026/09/02/9874252</link>
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      <pubDate>Wed, 02 Sep 2026 07:17:07 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-09-02T07:19:31+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-09-02T07:19:31+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;　三宅香帆さんの新潮社『波』連載「福澤諭吉をよみなおす」、7月号の第1回は「動画の時代に読み直す福澤諭吉」だった。　『文明論之概略』の緒言で「一身にして二生を経（ふ）る」といった福澤が、明治維新後の数え40歳になる明治6（1873）年ごろから、意識していたのは「演説」の必要性であった。　「口頭での言語パフォーマンスとそれを中心とした集団的意思決定の仕組みを日本社会に導入すること」が必要だと強く意識していた。　書くことではなく、喋ることで意思を伝えるメディアが必要だ、と。　書籍や新聞だけでなく、喋りで他人を説得するという新しいメディアに彼は注目していたのだ。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　なぜ演説を広めようとしたのか。　それは、欧米の議会制度を実際に目で見たことがきっかけだった。　福澤は、議会だけでなく、日常においても日本人が「会議」つまり口頭で意思を伝えあう場が必要になってくるだろう、とも思ったのだ。　「会議」という、独立した個々人が交際するための場が必要になってくるだろうと福澤は直感した。　演説。　それは日本にやってきた新しいメディアだったのだ。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　これを読んだ私は、参考文献に挙げられている、松崎欣一さんの『三田演説会と慶應義塾系演説会』（慶應義塾大学出版会・1998年）と『語り手としての福澤諭吉 ことばを武器として』（慶應義塾大学出版会・2005年）、そして参考文献には挙げられていないが、都倉武之さんの『メディアとしての福沢諭吉―表象・政治・朝鮮問題』（慶應義塾大学出版会・2025年）を思って、嬉しい気持になったのだった。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　三宅香帆さんは、「明治の演説ブーム」で演説＝喋りによる説得とは暴力の時代へのアンチテーゼであるから、いまの時代に最も重要なメディアのひとつにも見えてはこないだろうか、と指摘したあと、「福澤諭吉の文体」について書く。　福澤はベストセラー『学問のすゝめ』を生み出した「書き手」であり、同時に、演説を日本に広めた「喋り手」でもあった。　しかもそれでいて、福澤は政治家にはならず、最後まで自分の思想や知識を、言葉で、伝えることに注力した。　ここで、松崎欣一さんの『語り手としての福澤諭吉』の長い引用がある。　「読者を「軽侮罵言する」ということがある。そうなってしまっては、「客を招待して門前に番兵を置き、却てこれを叱咤する」ことに他ならないではないか」、「世情の勢いをより高尚の域に導くべく、当代の学問に励む者－学者－の責務として、難解な書物を読むことで終わるのではなく、翻訳、著述、演説、対話、あらゆる方法を駆使して必要なメッセージを積極的に発信しようというのである。」
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　書き手としての福澤の文体も特徴的だ。　彼は洋書の翻訳をするときも、とにかく平易に、だれにでもわかるように書くことを意識していた。　こうして本人いわく「雅俗めちゃくちゃ」文体が完成した。　誰に向かって書いているのかを意識すること。　それは演説においても同様だった。　重要なのは、伝える方法――メディアの選び方、喋り方、身振り手振りの方法など――なのだ、と。　文体も、喋り方も、訳語の選び方も、福澤にとっては同じ問題だった。　重要なのは、スタイルなのである、と。
&lt;/p&gt;</description>
      <dc:subject>福沢</dc:subject>
      <dc:subject>慶應</dc:subject>
      <dc:subject>文化</dc:subject>
      <dc:subject>政治</dc:subject>
      <dc:subject>歴史</dc:subject>
      <dc:subject>日本</dc:subject>
      <dc:subject>書くこと・情報処理</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>福沢諭吉と慶應義塾「社中」の由来</title>
      <link>https://kbaba.asablo.jp/blog/2026/09/01/9874039</link>
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      <pubDate>Tue, 01 Sep 2026 07:14:26 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-09-01T07:16:57+09:00</dcterms:modified>
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      <description>&lt;p&gt;　科学技術・生存システムを研究している友人から、初期の慶應義塾ではなぜ「入社」というのか、と聞かれた。　入塾者の名簿は、「入社帳」と表記されていた。　慶應義塾には「社中」という言い方があり、「先生」と呼ぶのは福沢諭吉だけで、教える者も教わる者も「半学半教」、お互いに教え合い、共に学び続けるので、「入社」なのだろう、と答えた。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　改めて『福澤諭吉事典』の事項索引を見ると、「社中」はないが、「慶応義塾社中之約束」があった。　「明治4（1871）年から30年頃まで出版された慶応義塾の規則集。」「初期の「社中之約束」には、慶応義塾は「福沢氏ノ私有ニアラズ社中公同ノ有」とあり、慶応義塾が「私」の存在ではなく、「公」のそれであることが述べられている。慶応義塾では教える者も教えられる者も同じく「社中」であり、その「社中」の人びとが対等な立場で取り決めた約束として「社中之約束」は存在した。」とある。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　7月号からの新潮社『波』に、三宅香帆さんが（実は、この人のことを、まったく知らなかった）「福澤諭吉をよみなおす」を連載していて、9月号の第3回は「幕末、饒舌は武器にならなかった」だが、そこに福沢の「社中」の起源が書かれていて、なるほどと納得した。　攘夷渦巻く文久元（1861）年、幕府の翻訳方にいた福沢は遣欧使節団に通訳として加わり、一年間、国制、軍制、税制など制度面の調査をみっちりすることができた。　なかでも彼にとって衝撃だったのが――ロンドン滞在中、イギリスの「或る社中」の「建言書」に出会ったことだった。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　それは、イギリスの外交官オールコックが、日本で乱暴を働いたり、まるで征服者のようにふるまっていることを批判する意見書だった。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　ここでいう社中とは、政府が主導するのではなく、民間人が結びついて立ち上げる学校や病院などの自発的結社・組織のことだと指している。　ようは、海外で外交官が横暴を働いていることを、監視し批判する自発的結社が存在する――そのこと自体が福澤にとっては衝撃的だったのだ。　しかもその監視とは、公明正大な国際法にもとづくものだった。　公明正大な世論こそが、政府の権力主義をチェックし得る。　福澤はこのイギリスの世論と社中の力に衝撃を受け、帰国後の彼の人生は、世論をつくる民衆の言葉を自立させそして慶應義塾というひとつの社中をつくることに尽力するものとなる。
&lt;/p&gt;</description>
      <dc:subject>福沢</dc:subject>
      <dc:subject>慶應</dc:subject>
      <dc:subject>文化</dc:subject>
      <dc:subject>政治</dc:subject>
      <dc:subject>歴史</dc:subject>
      <dc:subject>世界</dc:subject>
      <dc:subject>日本</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>小人閑居日記 2026年8月 INDEX</title>
      <link>https://kbaba.asablo.jp/blog/2026/08/31/9873843</link>
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      <pubDate>Mon, 31 Aug 2026 07:24:14 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-08-31T07:25:21+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-08-31T07:25:21+09:00</dcterms:created>
      <description>鈴木雅は、なぜ桜井看護学校に入学したか＜小人閑居日記　2026.8.1.＞&#13;&lt;br&gt;
大関和が桜井看護学校に入学した事情＜小人閑居日記　2026.8.2.＞&#13;&lt;br&gt;
トレインド・ナースの誕生、医科大学附属第一医院＜小人閑居日記　2026.8.3.＞&#13;&lt;br&gt;
和、建議書の件で第一医院を辞め、高田女学校の舎監に＜小人閑居日記　2026.8.4.＞&#13;&lt;br&gt;
高田の廃娼運動、相馬愛蔵、木下尚江、そして瀬尾原始＜小人閑居日記　2026.8.5.＞&#13;&lt;br&gt;
鈴木雅、アメリカへ渡らず、「慈善看護婦会」を設立＜小人閑居日記　2026.8.6.＞&#13;&lt;br&gt;
近くの山村で、赤痢の集団感染が発生、和は避病院を改良＜小人閑居日記　2026.8.7.＞&#13;&lt;br&gt;
日清戦争で看護婦（トレインド・ナース）への認識が変わる＜小人閑居日記　2026.8.8.＞&#13;&lt;br&gt;
大関和は、東京看護婦会で、鈴木雅の片腕となり活躍＜小人閑居日記　2026.8.9.＞&#13;&lt;br&gt;
大関和の「精神性」重視と、鈴木雅の「技能、経済的自立」重視＜小人閑居日記　2026.8.10.＞&#13;&lt;br&gt;
大正期、職業としての看護婦へ、「看護婦さん」と「看護師」＜小人閑居日記　2026.8.11.＞&#13;&lt;br&gt;
川越宗一著『絢爛の法』書評「〝満腔の熱血〟井上毅ここにあり」＜小人閑居日記　2026.8.12.＞&#13;&lt;br&gt;
牧野伸顕を、ざっと見てみる＜小人閑居日記　2026.8.13.＞&#13;&lt;br&gt;
吉田茂も、ざっと見てみる＜小人閑居日記　2026.8.14.＞&#13;&lt;br&gt;
牧野伸顕・吉田茂・武見太郎、太平洋戦争の遠因「統帥権の独立」＜小人閑居日記　2026.8.15.＞&#13;&lt;br&gt;
吉田茂と『帝室論』〔昔、書いた福沢13〕＜小人閑居日記　2026.8.16.＞&#13;&lt;br&gt;
高橋誠一郎さん〔昔、書いた福沢12〕＜小人閑居日記　2026.8.17.＞&#13;&lt;br&gt;
「日本国憲法」が、出来るまで＜小人閑居日記　2026.8.18.＞&#13;&lt;br&gt;
松本烝治博士、小泉信三さんの義兄＜小人閑居日記　2026.8.19.＞&#13;&lt;br&gt;
2001年、福沢協会の和歌山旅行、南方熊楠旧邸で＜小人閑居日記　2026.8.20.＞&#13;&lt;br&gt;
柳田國男、松本烝治の南方熊楠訪問＜小人閑居日記　2026.8.21.＞&#13;&lt;br&gt;
手紙魔クマグス＜小人閑居日記　2026.8.22.＞&#13;&lt;br&gt;
雨の神島（かしま）＜小人閑居日記　2026.8.23.＞&#13;&lt;br&gt;
熊楠フォーラム＜小人閑居日記　2026.8.24.＞&#13;&lt;br&gt;
　短信　おしゃべりな銀座＜等々力短信 第1206号 2026（令和8）.8.25.＞&#13;&lt;br&gt;
「墓場から銀座まで」高野秀行＜小人閑居日記　2026.8.26.＞&#13;&lt;br&gt;
「銀座の老舗のうなぎ屋」＜小人閑居日記　2026.8.27.＞&#13;&lt;br&gt;
蔦に覆われた高級洋食店、「みかわや」＜小人閑居日記　2026.8.28.＞&#13;&lt;br&gt;
隈研吾「ブルーノ・タウトの小箱」＜小人閑居日記　2026.8.29.＞&#13;&lt;br&gt;
「パンマ」って何？　なぜ「純喫茶」というのか？＜小人閑居日記　2026.8.30.＞&#13;&lt;br&gt;
長年の疑問が、ＡＩモード検索で判明＜小人閑居日記　2026.8.31.＞&lt;br&gt;
</description>
      <dc:subject>索引</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>長年の疑問が、ＡＩモード検索で判明</title>
      <link>https://kbaba.asablo.jp/blog/2026/08/31/9873841</link>
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      <pubDate>Mon, 31 Aug 2026 07:06:48 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-08-31T07:09:08+09:00</dcterms:modified>
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      <description>&lt;p&gt;　5月20日から「AIモードで「馬場紘二」を検索すれば…」に始まって、4日ほどAIモードの検索には問題もあることを書いたのだが、最近、普通の検索では出てこなかった答が、ＡＩモード検索で出て来ることがあるのを知った。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　＜小人閑居日記＞の2018年6月24日に「「有楽町」今昔ものがたり」、25日に「スバル座とガード下の飲み屋街」を書いていた。　毎日カバンを下げて、銀座の表裏を歩き回っていた時、集金をして、釣銭用の両替の小銭を届ける喫茶店があった。　ほとんど毎日その5丁目の喫茶店に行っていたのに、後年、どうしてもそのお店の名前が思い出せなかった。　カフェ・パウリスタのパウリスタが「サンパウロの人」の意であるように、その店も南米の地名に関係があったのは、何となく憶えていたのだが…。　それが、「ジャーミネーターの会」で、佐藤允彦さんの銀座ジャズピアノ事始のトークを聞いて、判明したのである。　カリオカさん、だった。　そうそう、銀行の支店に帰ると、出納係の女性が、「カリオカさんから電話がありましたよ」と、言うのだった。　カリオカ、リオデジャネイロ生まれの人、または住民の意だった。　最近になって、『銀座百点』で「西洋料理　南蛮 銀圓亭」の広告を見るようになった。　その住所は、5丁目4－8 カリオカビルなのであった。　一度、行ってみたいと思いながら、なかなか行けない。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　「スバル座」については、こう書いていた。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　映画館・有楽町スバル座は、敗戦の翌年、昭和21（1946）年にオープンした。　GHQが対米感情を和らげるためには、アメリカ映画の文化を日本に浸透させるのが一番と、アメリカ映画の配給会社をつくり、その受け皿として、第一生命を接収していたGHQに近い有楽町につくったのが、スバル座だった。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;昭和21（1946）年12月31日にグリア・ガースン、ロナルド・コールマン主演の『心の旅路』で開館した。　当時の写真を見ると、“Subaru Theatre”（treに注目）、“ROAD SHOW”“RANDOM HARVEST”（『心の旅路』の原題）とある。　「つづくガーシュインの伝記映画『アメリカ交響楽』が新作だったので「帝都唯一のロードショウ発祥の映画館」と称した」といわれているが、写真では既に『心の旅路』の時に“ROAD SHOW”の看板があった。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;わが家も、まんまとGHQの思惑にはまり、よくアメリカ映画を観た。　私は昭和21（1946）年には5歳だったが、おそらく翌年、母親に連れられて行って、イングリッド・バーグマンの『ガス燈』（看板の写真に“GASLIGHT”とあった）に退屈したり、フランス映画『美女と野獣』（ジャン・コクトー監督、ジャン・マレー主演）が怖くて後ろを向いていたのは、スバル座だったろう。　スバル座は、7年後の昭和28（1953）年9月6日の夕刻、火事を出して焼けてしまった。　H・G・ウエルズのSＦを映画化した『宇宙戦争』を上映中で、観客は最初、映画と本物の火事の見分けがつかなかったという。　この『宇宙戦争』も、火事で焼ける前に観ていた。　スバル座の隣にも映画館があって、そちらにも行っていたのだが、その名前が「カリオカさん」と同じく、思い出せない。　ご存知の方は、ご教示を。　映画も、ジャズも、野球も、そして慶應義塾の新聞研究室や図書館学科も、さらにいえば民主主義、六三制の戦後教育も、GHQの方針や思惑があったと考えると、それにどっぷり使って生きて来ただけに、ある種の重い感慨が横切らなくもない。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　しかし、その時は、スバル座の隣の映画館の名前を、誰も教えてくれなかった。　それが今回、ＡＩモード検索で判明したのだ。　その名前は、オリオン座だった。　スバル座とオリオン座、俳句で言う「取り合わせが近すぎて」思い出せなかったのか。
&lt;/p&gt;</description>
      <dc:subject>身辺雑記</dc:subject>
      <dc:subject>文化</dc:subject>
      <dc:subject>歴史</dc:subject>
      <dc:subject>日本</dc:subject>
      <dc:subject>書くこと・情報処理</dc:subject>
      <dc:subject>映画</dc:subject>
      <dc:subject>食べる</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>「パンマ」って何？ なぜ「純喫茶」というのか？</title>
      <link>https://kbaba.asablo.jp/blog/2026/08/30/9873691</link>
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      <pubDate>Sun, 30 Aug 2026 07:34:57 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-08-30T07:37:52+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-08-30T07:37:52+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;　吉行淳之介については、25日の「等々力短信」第1206号「おしゃべりな銀座」で、昭和39（1964）年「砂の上の植物群」を読んだかと、集金に行った新橋見番の事務の人に聞かれた話と、銀座百点編『おしゃべりな銀座』の、小説家の金井美恵子の「奇妙な思い出」（2011年4月号）から、吉行に会うと、女たちが心底うれしそうな晴れ晴れとした表情を浮かべて彼を見つめる、そのモテぶりについて書いた。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　紙幅の関係で書けなかったのだが、そのモテ方は、ジャン・ルノワールが自伝の中で書いていたサン＝テクジュペリの魅力と同質のモテ方だろう、とあった。　金井美恵子さんが、姉さんと一緒に映画を見に銀座に出て、たまたま喘息の発作が起きかけたので映画館を出てきたという吉行さんに、ばったり会ったりしたことが二度ほどあった。　そのどちらのときも銀座のバーのホステスなのだろうかと見える女性と一緒だったのだけれど、二言三言その女性に小声でなにかを言ってごく自然に、自分たちに気をつかわせずに別れて、お茶でも飲むかい？　と誘ってくれるのだった。　別のとき、銀座の小さなバーで夕方待ち合わせてそれから別のところで食事をご馳走してくださるというので行くと、お客の来ていない店内に銀座のホステスには見えない、ホット・パンツの若い女性が二人いて、自分たちはホステスではなくアンマだと言うのである。　マッサージを？　と眼を丸くして訊くと、二人は、首を振ってパンマ、パンマと明るく答えるのだった。　少しして現れた吉行さんは、あれ、いたの？　と彼女たちに声をかけ、彼女たちは、うん、もう行くところ、と答えて店を出た。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　「パンマ」を知らなかったので、検索すると、ＡＩは、「戦後日本の隠語・俗語で、進駐軍などを相手にした街娼である「パンパン」と「按摩・マッサージ」を合わせた言葉（「パンパン的なあんま」の略称）です」と答えた。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　これはNHKの『チコちゃんに叱られる！』には出ないだろうが、「何で「純喫茶」というのか？」という問題は、あった。　文春文庫の『おしゃべりな銀座』の、詩人・仏文学者・翻訳家の宗左近さん（1919－2006）の「思い出の街は銀座」（2005年11月号）に、その答があった。　北九州戸畑に育ち、旧制小倉中学を出て、旧制高校への浪人をしている頃、父が死に上京する。　東京での生活費のほとんどは自分で稼がなければならない。　「求人」の貼り紙を見て、直接当たったのが、「まず、国鉄新橋駅のすぐ前の、新興喫茶『処女林』。　普通の喫茶店と違っての〝新興〟とは、女給さんがお客さんの好きなところを触らせてくれる革新性をもつ、ということでした。わたしの仕事は、入れ込みのボーイ。「イラッシャイ、マセ！」と抑揚をつけて、怒鳴ってから、席まで案内すること。一晩でサヨナラしました。わたしだけが、「処女」ならぬ処男だったからです。」
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　銀座百点編『おしゃべりな銀座』（文春文庫）、小人閑居老人も、いろいろと勉強になる。
&lt;/p&gt;</description>
      <dc:subject>等々力短信</dc:subject>
      <dc:subject>文芸</dc:subject>
      <dc:subject>文化</dc:subject>
      <dc:subject>歴史</dc:subject>
      <dc:subject>日本語</dc:subject>
      <dc:subject>テレビ</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>隈研吾「ブルーノ・タウトの小箱」</title>
      <link>https://kbaba.asablo.jp/blog/2026/08/29/9873562</link>
      <guid>https://kbaba.asablo.jp/blog/2026/08/29/9873562</guid>
      <pubDate>Sat, 29 Aug 2026 07:37:54 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-08-29T07:39:20+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-08-29T07:39:20+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;　＜白服の街頭写真父銀座＞という句をつくったことがあった。　銀座といえば、「街頭写真」だったが、今の人は知らないだろう。　その父は、『文藝春秋』とか『オール読物』とか以外、あまり本を読む人ではなかったが、中延の家の二階の廊下にあった開きの中に、若い頃に読んだのであろう本が何冊かあったのを覚えている。　『道徳科学講義録』の揃い、『法隆寺』、ブルーノ・タウトの『日本美の再発見』。　それを思い出したのは、文春文庫の『おしゃべりな銀座』に、建築家の隈研吾さんが「ブルーノ・タウトの小箱」（2005年5月号）があったからだ。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　隈研吾さんが小学生のころ、父親が応接間の棚の上の方から、小さな木製の箱を下ろしてきた。　直径20センチ、高さ10センチほどの、上品な光沢のある、円形の蓋付きの箱だった。　ブルーノ・タウトという有名な建築家がデザインしたもので、銀座七丁目の店で買ったと自慢話をした。　父は明治42（1909）年生まれで（馬場の父より2年上）、日本橋に育ち、二十代の遊びざかりは銀座を庭にしていたらしい。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　その小箱の裏には、カタカナと漢字で「タウト／井上」という焼き印が押してあった。　隈さんは、大学で建築を勉強しはじめ、ブルーノ・タウトについて調べているうちに、「タウト／井上」が、建築史のエピソードとして知られる、価値のあるアイテムであることを知った。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　ブルーノ・タウトは、ナチス・ドイツから共産主義者という嫌疑をかけられ、1933年シベリア鉄道でドイツを脱出し、日本海を渡って日本にたどり着いた。　身寄りも知人もない極東の異国日本で、この建築家を助けたのが、高崎の建築会社、井上工業のオーナー井上房一郎だったのである。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　井上は高崎の達磨寺という寺の一室をタウトに提供しただけでなく、タウトに家具や小物を自由にデザインさせ、それらを販売する店「ミラテス」を銀座七丁目の角に開いた。　そこで売られていた物にはすべて、「タウト／井上」の焼き印が押してあった。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　井上房一郎は、戦後も映画『ここに泉あり』で知られる群馬交響楽団の設立の中心人物として活動したり、自分のアートコレクションを寄付して、群馬県立近代美術館をたちあげ、設計を若き磯崎新にまかせるなど、目利きの文化のパトロンとして活躍する。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　1989（平成元）年、バブルの真最中、隈さんはタイのプーケットの沖、マイトンという小島に、リゾートホテルをつくるプロジェクトの設計を依頼される。　その中心人物が、井上房一郎の孫、健太郎さんだった。　どうしても話が聞きたくて、90歳を超す房一郎さんを高崎に訪ねると、「タウトは、図面を書くのが早い男で、もぞもぞひとり言をいいながら、あっという間に図面を仕上げちゃうんです」と、記憶は鮮明だった。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　1993（平成5）年、バンダイの山科誠社長から熱海のゲストハウスの設計を頼まれた。　敷地を調査していると、隣の婦人が挨拶に見え、興味をもたれるだろうと、その家を案内してくれた。　それがブルーノ・タウトが設計したまぼろしの住宅といわれる日向邸だったのである。　日向邸はすばらしかった。　タウトの人生の蓄積が、そのディティールの隅々に込められていた。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　隈研吾さんは、振り返ってみれば、父が棚の上の方から大事そうに下ろしてきたあの小箱が、自分の人生をリードしてくれたような気がする。　タウトが導くままに図面をひいてきたといってもいい。　とすればある日の夕方、会社帰りの父が、銀座七丁目の角のショーウインドウをのぞいていた一瞬から、すべてがはじまったのかもしれない、と書いている。
&lt;/p&gt;</description>
      <dc:subject>等々力短信</dc:subject>
      <dc:subject>身辺雑記</dc:subject>
      <dc:subject>美術</dc:subject>
      <dc:subject>文化</dc:subject>
      <dc:subject>歴史</dc:subject>
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      <title>蔦に覆われた高級洋食店、「みかわや」</title>
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      <pubDate>Fri, 28 Aug 2026 07:18:50 +0900</pubDate>
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      <description>&lt;p&gt;　銀座の食べ物屋の思い出は、いろいろある。　母親の買い物に、付いて行った幼少の頃、銀座へは第二京浜国道の中延から東京駅行の東急バスで行った。　当初は横浜駅が出発点で、途中から多摩川大橋からになった。　大型のトレーラーバスだった時期もあった記憶がある。　五反田から、猿町（今の高輪台）に出て右折、高輪台上の道を伊皿子から聖坂を降りて、日比谷通りに出て、増上寺の山門を右折、第一京浜に出て、新橋、銀座に至るコースだった。　当時、白牡丹の隣あたりに（今のコアビルか）、月ヶ瀬とコックドールが並んでいて、路地の奥にあんみつの若松があった。　洋食というとコックドールで、中華は五十番か大三元（？）、甘味屋は小倉アイスの立田野だった。　大好きな「スマックアイス」という棒状のチョコレートでコーティングしたアイスクリームが懐かしい。　売っていたのは、オリンピックか、不二アイスという店だったか。　五丁目近辺の店が多いのは、松坂屋の前の小松ストアが、当時は新しく洒落た感じだったので、母がよく行ったのだろう。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　後年、家族で誕生日などの食事となると、みかわやと、八丁目の千疋屋だった。　八丁目の千疋屋がなくなったのは、今でも残念だ。　みかわやでは、岡田三郎助の油絵の掛かった、隣のテーブルで、棟方志功がお仲間と身振り手振りを加え、大声でしゃべっていたことがあった。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　みかわやについては、文春文庫の『おしゃべりな銀座』に、グラフィックデザイナーの寄藤（よりふじ）文平（1973年、長野生れ）が「ステーキとノコギリ女」（2014年5月号）を書いている。　20年前、銀座四丁目の王子製紙前の王子サーモンの店になっているところが画廊で、美術大学でつくった作品を展示することになり、初めて銀座に来た。　準備が終わった後、あまりに腹が減っていたので、三越の裏手を歩いて、蔦に覆われたボロい定食屋に入った。　ほかのお客さんがジロジロ見ていて、「お食事、召しあがりますか？」と聞く店員の眼が微妙に困惑している気がした。　膝の抜けたジーンズにヨレヨレのパーカー、しかも風呂に入っていなかったから顔は黒く髪はフケだらけだった。　あとで知ったが、そこは「みかわや」という高級洋食店であった。　しかし、ここで帰るのはなんだか悔しいような気がした。　このまま帰ってたまるか、食ってやる。　断固、食ってやる！　そんな意味不明の憤りがこみ上げてきたのである。　「この、フィレステーキのやつ、ください」
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　自分の意地と今月の生活費の全額をそのステーキに張ったのである。　だが、小さい。　腹ぺこの学生にとって、あまりに小さい肉だった。　なるほど、これが銀座のステーキか、わかった、これで腹はふくれまい。　そのかわり完璧に食ってやる。　俺が銀座に負けてないところを見せてやる。　父に教わった丁寧なナイフの使い方をするために、背筋を伸ばした。　おそらく、人生で最も丁寧に味わったステーキであろう。　正直、味はわからなかったが、その所作は完璧だったと思う。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　その七年後、寄藤文平さんは、銀座にデザイン事務所を構えることになって、それから十三年、銀座にいたという。　あれっきり一度も行っていないけれど、次に行くときは、きちんとした格好で行こうと思っているそうだ。
&lt;/p&gt;</description>
      <dc:subject>等々力短信</dc:subject>
      <dc:subject>身辺雑記</dc:subject>
      <dc:subject>文化</dc:subject>
      <dc:subject>歴史</dc:subject>
      <dc:subject>食べる</dc:subject>
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      <title>「銀座の老舗のうなぎ屋」</title>
      <link>https://kbaba.asablo.jp/blog/2026/08/27/9873175</link>
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      <pubDate>Thu, 27 Aug 2026 07:12:34 +0900</pubDate>
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      <description>&lt;p&gt;　3月に家内と東銀座の画廊に友人の写真展を見に行き、どこかで昼飯をということになって、五丁目の竹葉亭に行った。　私は鯛茶、家内は幕の内弁当にして、味はもちろん、落ち着いた老舗らしい雰囲気とサービスに、満足した。　脱線するが、先日幕の内弁当について、崎陽軒がシウマイ弁当の値段を維持するために、鶏肉をエビチリに変更したとかいうテレビの話題で、「幕の内弁当」は大相撲観戦で食べることと関係していて、小さなおむすび（小結）が中に入っているとか、言っていた。　これはどうも俗説で、「（芝居の幕間に食べたことから）胡麻をかけた小さな握り飯とおかずを詰め合わせた弁当。幕の内弁当。」と、『広辞苑』にある。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　実はこの時、竹葉亭で『銀座百点』をもらって来たことが、今回の掲載のきっかけになったのだが…（『銀座百点』8月号に「わたしの銀座」を書きました＜小人閑居日記　2026.7.31.＞。　竹葉亭では、私はいつも鰻重を食べる。　「銀座の老舗のうなぎ屋」が、竹葉亭とは書いていないが、文春文庫の銀座百点編『おしゃべりな銀座』に、小説家の乾ルカ（1970年、北海道生まれ）が「田舎者、銀座を歩く」（2015年10月号）に、面白い話を書いている。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　7、8年前、老両親と中年女（自分）の三人で、珍しく夕食に焼き肉をすることになった。　二種類の焼き肉のたれを用意し、なんとなくラベルを見た。　賞味期限が切れていた、それも派手に年単位で。　ぎょっとして、もう一つを見ると、2000年と印字されていた。　とにかく世紀をまたいでいる、前世紀の遺物だった。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　しかし、父は動じなかった。　「そんなもん、銀座の老舗のうなぎ屋なら、三百年も前から秘伝のたれを使っている」。　父の一言で、あっけないほどあっさりと事は収まった。　「ああ、なるほどな」と納得してしまったのだ。　三人で美味しくいただき、お腹もこわさなかった。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　ここで言いたいのは、『銀座』という言葉が持つ説得力には、並々ならぬものがある、『老舗』がつけばなおさら、田舎者をねじ伏せる一層の力を発揮する、ということだ。　生半可なことでは物事は続かない。　お店ともなれば、必ずや顧客からの信用、信頼がなくてはならない。　高級感あふれる立地で、信用、信頼を得ているところは、安心できる。　利用して間違いないと思える。
&lt;/p&gt;</description>
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