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    <title>轟亭の小人閑居日記                        　　　馬場紘二</title>
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    <language>ja</language>
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    <pubDate>Wed, 28 Oct 2026 07:22:24 +0900</pubDate>
    <item>
      <title>「世界中から戦争がなくなりますように」と言えるか？</title>
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      <pubDate>Wed, 28 Oct 2026 07:20:35 +0900</pubDate>
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      <description>&lt;p&gt;　神野紗希さんの「抗（あらが）うための十七音」、7月号は「あなたゐないと呟く自由」。　神野さんは、俳句という詩は、社会常識と距離をとり、固定観念や同調圧力、如何ともしがたい運命などにも抗う力をもつことを、これまでの連載で確かめてきたけれど、「抗わない詩」があるとしたら、どんなものだろうか、と始める。　そして、高村光太郎の詩「十二月八日」、「老若男女みな兵なり／大敵非をさとるに至るまでわれらは戦ふ。／世界の歴史を両断する／十二月八日を記憶せよ。」　戦地には宣伝班として文化人部隊が組織され、作家や詩人、画家などが現地での取材内容をもとに、いかに日本が優勢かと新聞などに広報し、戦意高揚を促した。　逆に、戦争のむごさを描き戦意喪失をもよおす作品は、発行禁止の処分を受けた。　厭戦・反戦的な作家は治安維持法による弾圧を受け、検挙・投獄された。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　昭和15年には大政翼賛会が発足、俳壇でも「国民詩たる俳句によって新体制に協力」する日本俳句作家協会が結成される。　17年には「日本文学報国会」が設立される。　詩の部会長は高村光太郎、俳句の部会長は高浜虚子だった。　＜美しき御国の空に敵寄せじ　　高浜虚子＞、＜いくさして富士美しき国の春　　富安風生＞、そもそも俳句では、読者の想像の余地を確保するために「よい／悪い」「美しい／醜い」といった価値判断の明示はさけられるのだが、これらの句では「美しき」とポジティブな評価を示す語が用いられている。　肯定的な言葉を詠みこむことが、体制を支える姿勢を明確にしている。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　＜靖国で會ふ嬉しさや今朝の空　　吉野繁實（しげみ）＞、開戦日、特別攻撃隊として真珠湾に突入し戦死した海軍少佐が、出発前に詠んだ辞世の句だ。　靖国神社で会うということは、戦死を意味する。　征けば死が待つ状況でも、いやだ、怖い、と言うことは許されなかった。　本音は「嬉しさ」の影に隠れ、もう分からない。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　＜熱い味噌汁を啜（すす）りあなたゐない　波止彰夫＞、昭和13年、雑誌『京大俳句』掲載の一句だ。　戦死した従兄を思った句だが、大切な人を戦争にとられた人々の普遍的な思いが、ほろりとこぼれた呟きのかたちで言いとめられている。　続く生活の中で、埋められない喪失を抱く、切実な本音が響く。　波止彰夫は、昭和15年2月14日、治安維持法違反容疑で検挙された。　特高警察は彼らの俳句を「反戦思想を含せしめたる作品」「銃後の生活苦等を素材としたる反戦俳句」とみなし、団結して戦うべきときに国家の治安を乱すとして弾圧したのだ。　彰夫はおよそ一年の拘置所生活を経て、執行猶予付きの有罪判決後、しばらく俳句から離れざるを得なかった。　思想弾圧によって、一人一人の人生は、大きく歪められ損なわれてしまったのだ。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　神野紗希さんは、現在すでに、社会に「戦争反対」と言えない空気が広がりつつある、という。　今年3月、イラストレーターが、穏やかな兎の絵に「世界中から戦争がなくなりますように」というメッセージを添えてＸに投稿したところ、政治思想のためにイラストを利用していると批判を受け、作者が謝罪・削除するという出来事があった。　その後、「#nowarbunny」というハッシュタグで、兎の絵と反戦のメッセージを発信する波が広がっている。　「あなたゐない」と悲しむことが、「戦争がなくなりますように」と祈ることが、勇気の必要な抗いにならず、自然なこころの発露として存在できる自由な社会であるために、言葉にし続けることで、私たちは何度でも、進むべき道を確かめ直すことができるはずだと、神野紗希さんは言う。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　　　簡単なことよ兎は生きている　　紗希
&lt;/p&gt;</description>
      <dc:subject>俳句</dc:subject>
      <dc:subject>等々力短信</dc:subject>
      <dc:subject>文芸</dc:subject>
      <dc:subject>文化</dc:subject>
      <dc:subject>政治</dc:subject>
      <dc:subject>歴史</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>「心も体も、私のもの」抑圧に抗う女性たちの俳句</title>
      <link>https://kbaba.asablo.jp/blog/2026/10/27/9883197</link>
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      <pubDate>Tue, 27 Oct 2026 07:23:32 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-10-27T07:25:57+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-10-27T07:25:57+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;　神野紗希さんの「抗（あらが）うための十七音」、6月号は「心も体も、私のもの」で、5月号の「ホトトギス」「台所雑詠」欄をきっかけに登場した女性俳人たちの、その後の広がりを描いた。　＜ホ句のわれ慈母たるわれや夏痩ぬ　杉田久女＞、ホ句とは発句（ほっく）、俳句のことだ、俳人として芸術の道に厳しく向き合う私と、母として子どもを慈しみ育てる私と、この二つがなかなか両立しない、特に当時の家父長制の厳しい現実の中では難しかった。　＜短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉乎（すてっちまをか）　竹下しづの女＞、当時は母親失格だとか非難が起こったそうだが、漢文を読み下すと「須（すべか）らく捨つるべけんや」、反語になっていて、捨ててしまおうか、否、捨てることはできない。　久女もまた、慈母なる我を捨てない、今ここにある頼りない命を、つらくても深く愛し、捨てられないこそ出口がない。　そんな行き場のない彼女たちの思いを受け止め昇華したのが、俳句だったのだ。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　＜亭主より女房ほしき秋のくれ　稲垣きくの＞、＜草萌ゆる誰かに炊煮まかせたし　及川 貞＞、もがきながら生きた女たちの本音が刻まれている。　＜日の昏れてこの家の躑躅（つつじ）いやあな色　 夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり　三橋（みつはし）鷹女＞、鷹女は「嫌悪」という感情を俳句に昇華させた。　いやなものはいやだとはっきり率直に告げることは勇気のいることだ。　それでも、自分の意志を確かにもつことの凛々（りり）しさを、これらの俳句は教えてくれる。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　＜戦死者の寡婦にあらざるはさびし　　戦争と女はべつでありたくなし　　藤木清子＞，戦時の句だ、清子も「寡婦」だが夫は病死だった、社会の意思決定の外に置かれた「女」は、男の決めた方針に付き従って己や家族を犠牲にせざるを得ない無力を、もどかしいと苦しんでいる。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　＜窓の雪女体にて湯をあふれしむ　　ふところに乳房ある憂さ梅雨ながき　　桂信子＞、桂信子は師・日野草城の感覚ゆたかな俳句に学び、自らもその身体を感覚的に詠み込んだ。　異性にまなざされるのみだった女性が自らの言葉を獲得し、その心と体を能動的に描き得たという点で、エポックメイキングだった。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　自らの言葉で、自らを表現すること。　偽りなき本音を語ること。　抑圧に抗う格闘の軌跡が、女性たちの俳句の中に、今もじんじんと息づいている。
&lt;/p&gt;</description>
      <dc:subject>俳句</dc:subject>
      <dc:subject>等々力短信</dc:subject>
      <dc:subject>文芸</dc:subject>
      <dc:subject>文化</dc:subject>
      <dc:subject>歴史</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>「写生」知識から感覚へ、「あきらめるより以上の事」</title>
      <link>https://kbaba.asablo.jp/blog/2026/10/26/9883068</link>
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      <pubDate>Mon, 26 Oct 2026 07:18:14 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-10-26T07:19:54+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-10-26T07:19:54+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;「等々力短信」に書いた神野紗希さんの『図書』連載の「抗（あらが）うための十七音」、短信に書ききれなかった回も見てみたい。　3月号は「あきらめるより以上のこと」。　＜毎年よ彼岸の入に寒いのは　正岡子規＞、明治26年作、「母の詞自ら句になりて」と前書きがある。　ふだんの会話がそのまま俳句になっている。　子規は、西洋絵画に影響を受け、「写生」という理念を提唱した。　ある景色や出来事を見て面白いと思ったとき、言葉を飾ったり誇張したりせず、ありのまま見たままに模写するのが良いとする。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　　五月雨をあつめて早し最上川　　松尾芭蕉
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　　五月雨や大河を前に家二軒　　　与謝蕪村
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　子規は新聞に連載していた日記「仰臥漫録」で、当時「俳聖」と崇められていた芭蕉と、埋もれかけていた蕪村の二句を比較し、大胆にも蕪村に軍配を上げた。　芭蕉の句は、雨を「あつめ」るという表現に工夫が見え「甚だ面白くない」、頭で拵（こしら）えたところがつまらない。　対して蕪村の句は、たしかに、溢れんばかりの大河を前に流されそうな家が客観的に描かれ、映像を通して自然の驚異と人間の無力さが伝わる。　蕪村は画家だったから、「写生」はお手のものだっただろう。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　子規の革命は、旧派に残る知識重視の句作りを脱却し、感覚を活かした俳句へと転機を図ったことだった。　言葉の巧さを求めず、ありのままを写し取ること。　その実践の底には、手を加えなくともこの世界はそのままでじゅうぶん面白いという哲学が息づいている。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　＜歯が抜けて筍（たけのこ）堅く烏賊（いか）こはし　子規＞、満身創痍の現状を、対句仕立てで軽快に描いた。　＜糸瓜（へちま）咲て痰のつまりし仏かな　　子規＞、亡くなる十数時間前に詠んだ糸瓜の句では、遺骸となった未来の自画像すら淡々と描いてみせた。　ささやかな光を取りこぼさず、病の身すら己の手でありのまま写すことが、「あきらめるより以上の事」、運命に対する彼の抗いだった、と神野紗希さんは言う。
&lt;/p&gt;</description>
      <dc:subject>俳句</dc:subject>
      <dc:subject>等々力短信</dc:subject>
      <dc:subject>文芸</dc:subject>
      <dc:subject>歴史</dc:subject>
      <dc:subject>日本語</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>抵抗するための俳句＜等々力短信 第1208号 2026（令和8）.10.25.＞</title>
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      <pubDate>Sun, 25 Oct 2026 07:56:11 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-10-25T07:57:57+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-10-25T07:57:57+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;　俳人・神野紗希（こうの さき）さんが、岩波書店の『図書』に1月号から連載中の「抗（あらが）うための十七音」を、感心しながら読んでいる。　実は、神野紗希さんを知らなかった。　1983（昭和58）年本場松山市生まれ、県立松山東高で俳句同好会を立ち上げ、2001年第四回俳句甲子園で団体優勝、＜カンバスの余白八月十五日＞が最優秀句に選ばれる。　お茶の水女子大学文教育学部に進み、同大学院博士課程修了。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　「抗（あらが）う」とは、どういうことか。　1月号の「だめって言うちから」では、俳句は、いかんともしがたい現実に、言葉で抗い、いまこの瞬間を肯（うべな）うための力を、数百年かけて静かに蓄えてきた、という。　＜病間や桃食ひながら李（すもも）画く　正岡子規＞、子規は死を目前にして「平気で生きて居る」ことを悟った。　松尾芭蕉は、「古池や」の句で、和歌の昔から決まっていた季語や地名の詠み方に抗して、鳴く声を詠むものと決まった蛙（かわず）を、水に飛び込む音で表現した。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　2月号は「規範に抗う生のうた」。　＜花よりも団子やありて帰る雁（かり）　松永貞徳＞、江戸初期の俳人は、桜が咲いたのに、雁が北方へ帰っていくのは、団子があるからだろうかと、俗語の食べ物を配して、俳諧味を出した。　俳人たちは常識とされていた雅語限定のセオリーに抗い、言葉や素材を選別しないことで、どんな世界の片隅でも、どんなありきたりに見える日常でも、そこに見るべきものを発見してきた。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　4月号は「権威に抗い、無冠を寿ぐ」。　句会では、名前を伏せて俳句を出し合い、良いと思う作品を互いに選び合う。　身分や権威から解放され、誰もが平等に尊重される自由な場なので、俳句は「座の文学」ともいわれる。　＜木瓜（ぼけ）咲くや漱石拙（せつ）を守るべく　漱石＞、「拙」は陶淵明の詩にある生き方で、世渡りが下手で愚直なことを良しとする思想だ。　漱石は明治44年、文部省から文学博士の学位を授与するとの報を受けたが、今後も「ただの夏目なにがしで暮したい」と、辞退した。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　5月号は「当たり前の日々を生きて暮らす」。　＜女三界に家なき雪のつもりけり　鈴木真砂女＞、そんな時代の中、俳壇の権威となりつつあった高浜虚子は、雑誌「ホトトギス」に女性限定の「台所雑詠」欄を創設し、投句するよう呼びかけた。　この欄をきっかけに女性俳人が次々登場し、男性中心だった俳句界に新たな風を呼び込んだ。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;＜灰に落ちし涙見られし泣初め　阿部みどり女＞、＜子の床によりて句作の夜寒かな　長谷川かな女＞、＜足袋つぐやノラともならず教師妻　杉田久女＞。　日常の些事をおろそかにせず、俳句に詠む姿勢には、詠まなければ見過ごされてしまう時間にも価値があり、光が見出せるのだ、という強い信念が宿る、と神野紗希さんは言う。
&lt;/p&gt;</description>
      <dc:subject>俳句</dc:subject>
      <dc:subject>等々力短信</dc:subject>
      <dc:subject>文芸</dc:subject>
      <dc:subject>歴史</dc:subject>
      <dc:subject>日本語</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>ミーハー散歩、様変わりの渋谷と自由が丘</title>
      <link>https://kbaba.asablo.jp/blog/2026/10/24/9882657</link>
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      <pubDate>Sat, 24 Oct 2026 07:14:11 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-10-24T07:17:27+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-10-24T07:17:27+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;　ついでに、「ミーハー散歩」も再録する。　30年で、渋谷も、自由が丘もまったく違う街になった。　そこに書いていたことに、文献的（2001年『五の日の手紙4』14頁）・歴史的価値があるかもしれないと思った。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　　　　　　　ミーハー散歩　＜等々力短信　第686号　1994.10.15.＞
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　黒井千次さんの『カーテンコール』を入手したのは、似合いの本屋だった。　自由が丘のマリー・クレール通りにある青山ブックセンターである。　この通りで買物をしても、マリをくれる訳ではない。　通りに名前が付いて、最初に看板を見た時は、笑ってしまった。　昔から自由が丘を知っている者は、駅の裏側がこんな風に開けてくるとは、思ってもみなかった。　板坂元先生ご推賞のＬ．Ｌ．Ｂｅａｎの店まで出来た。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　黒井さんの小説には、聞き慣れていたり、土地勘のある地名が出てくるので、物語自体がとても身近な感じになる。　劇作家は妙正寺川がくねる鷺宮の弛い登り坂に住んでいるし、女優のアパートは、よく似た地形の、久我山の神田川を渡った坂の上にある。　 お向いの劇作家の先生とか、角のアパートの美人の女優の卵とかが、恋をしているような気がするのだ。　これなら案外、自分も恋物語の主人公になれるかも、と錯覚させるところが、ミソである。　しかし元来、向う三軒両隣に住んでいるような、ごく普通の人が登場する恋愛小説というのは、とても難しいのだろう。　あまり思い浮ばない。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　この長い不景気の間に定着した、テレビのトレンディー・ドラマというジャンルは、そのへんの盲点をついて成功したのかもしれない。　たしか、ずばり『東京ラブ・ストーリー』というのがあったし、ポケベルを小道具に、緒方拳の中年サラリーマンが、隣のおねえさんみたいな女優の演ずる、娘の友達と恋仲になる話もあった。　これはあそこの家だ、あの通りだ、そこの学校を使ったんだとか、等々力周辺をロケ地にしたドラマがあった。　こんな近くに新しいバス停が出来たんだわ、これは便利になったと、ご近所の人が喜んでバスを待っていたら、ドラマのバス停だったりした。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　『カーテンコール』の終幕近く、雑誌のグラビア撮影で青山のスタジオへ行く女優と、久我山のアパートを連れ立って出た二人は井の頭線で渋谷に出る。　青山まで歩いて行くという女優に、劇作家は「それじゃ、東急プラザの前まで一緒に行こう」という。 信号が青になり、うながされて女優は、長い横断歩道を一息に渡り、ＪＲ線の下をくぐって東側の広場を抜け、何かが待っている青山のスタジオへ向う。　疑問１・青山へ行くのに、東急プラザの前まで行くだろうか。　疑問２・鷺宮へ帰る男が、なぜ東急プラザの前で別れるのか。　思うに、女は別れが辛かったし、男は東急プラザの紀伊国屋書店に「等々力短信」で知った『カーテンコール』を買いに行ったのだ。
&lt;/p&gt;</description>
      <dc:subject>等々力短信</dc:subject>
      <dc:subject>身辺雑記</dc:subject>
      <dc:subject>文芸</dc:subject>
      <dc:subject>文化</dc:subject>
      <dc:subject>歴史</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>女優との恋、黒井千次さんの『カーテンコール』</title>
      <link>https://kbaba.asablo.jp/blog/2026/10/23/9882492</link>
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      <pubDate>Fri, 23 Oct 2026 07:18:24 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-10-23T07:21:06+09:00</dcterms:modified>
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      <description>&lt;p&gt;　黒井千次さんの『老いの深み』で、どうやら「春の道標」の棗（なつめ）が、70数年を経て「老化監視人」となったらしい。　その30年前、黒井千次さんの初老の劇作家と新進女優の恋愛小説『カーテンコール』を読んで、官能を刺激されて書いた「等々力短信」も再録したい。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　　　　　　　女優との恋　＜等々力短信　第685号　1994.10.5.＞
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　「地位利用？　してません、一切、してません」。　故田中角栄元首相のセリフで、記憶に残っている一つだ。　「地位」の「ち」が「ち」と「つ」の中間、「い」も「い」と「え」の間の音だった。　早口で、切り捨てるように、答えていた。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　映画監督が女優さんを奥さんにしている例は、すぐに、いくつか挙げることができる。　黒井千次さんの書き下ろし長編『カーテンコール』（講談社）では、初老の劇作家寺脇滋有が、中堅劇団“Ｂ”の新進女優赤坂絢子（じゅんこ）と恋をする。　寺脇の妻華子にしても、劇団の研究生だったとき、動きの固い不器用なのを、寺脇に「少し男と遊んだ方がいいんじゃないか」といわれて、掠（かす）れた声で「私と遊んでくれますか」と答えて、そうなったのだった。　黒井さんは「掠れた」「嗄れて」のような、最近見慣れぬ漢字の使い方がうまい。　二度目に絢子の舞台を紀伊国屋ホールで観た夜、寺脇は絢子に誘われて行った靖国通りに面した地下のカフェ・バーで、絢子の上口唇に薄く残ったビールの泡を、つと手を伸ばして親指の腹でふき取る。　そして照れからか「泡がついてる」と、無意味なことを言う。　その「滋有の声は掠れていた」。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　初演で失敗し、主演女優の名前まで抹殺してしまった寺脇の旧作を、劇団“Ｂ”が再演したいといってきたところから物語は始まる。　主役のマナコ役をふられたのが赤坂絢子で、稽古の当初から作者に特別の関心を示した。　再び傷を負わせることになるかもしれない負目もあって、寺脇の内側でも、この目許の強い女優が徐々に体温を持ち始める。　先を急いで帯の文句を借りれば「「マナコ」を介して、二人の関係は急速に深く濃密になっていく。　一途に燃え盛る絢子の恋慕。　狂おしい歓びと悔いの暗いうねりに翻弄される滋有」。　女優としてのステップに足を掛けるところまできた絢子にとって、滋有を捉えたという歓びの中には、劇作家の名前の大きさがあるのも確かだった。　寺脇もまた、罪の意識に苛まれつつ、「打って付けの餌食」絢子の生身を盗み、身体の奥から絢子のイメージを汲み出しながら、ヒロインが死ぬことになる新しい戯曲を書き上げる。　この恋物語がハッピーエンドになっては、読者が納得しないだろう。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　黒井さん構想十年という小説世界に、「掠れた」官能を刺激されながら、一気に読みきった『カーテンコール』は、「人それぞれ書を読んでゐる良夜かな　山口青邨」の、読書の秋の幕開けに、ふさわしい読みものだった。　拍手、拍手。
&lt;/p&gt;</description>
      <dc:subject>等々力短信</dc:subject>
      <dc:subject>文芸</dc:subject>
      <dc:subject>文化</dc:subject>
      <dc:subject>歴史</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>黒井千次さんの『老いの深み』</title>
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      <pubDate>Thu, 22 Oct 2026 07:09:22 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-10-22T07:11:22+09:00</dcterms:modified>
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      <description>&lt;p&gt;　一昨年の夏、「等々力短信」に、黒井千次さんの『老いの深み』を書いていた。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　　　黒井千次さんの『老いの深み』　＜等々力短信　第1182号　2024.8.25.＞
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　黒井千次さんの『カーテンコール』（講談社）、初老の劇作家と新進女優の恋愛小説を読んで、官能を刺激され「等々力短信」に綴ったのは、1994年10月5日の第685号「女優との恋」と15日の「ミーハー散歩」だった。　何と30年の歳月が流れた。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　新聞広告で黒井千次さんの中公新書『老いの深み』を知った。　前に、『老いのかたち』『老いの味わい』『老いのゆくえ』が出ていて、4冊目だった。　月に一度の『読売新聞』夕刊連載だそうだが、こちらのお爺さんは、ジャイアンツの試合は見ても、『読売新聞』は読んでいなかった。　黒井さんは92歳、私の九つ年上になる。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　『老いの深み』、身に沁みることばかりである。　冒頭の「片方だけの眼で読む、書く」、黒井さんは80代にかかった頃、左眼の視界の左上隅に黒い染みが出ているのに気づき、出血性の緑内障と診断された。　医者は、まだ病んでいない右眼に異常が起らぬようしっかり対処することが大切だと言った。　原稿は60年以上四百字詰め原稿用紙に万年筆で書いている。　書く方は、速度が遅くなったものの、何とか復活できたが、字を読む困難のほうが遙かに大きい、と言う。　実は、私も閑居生活に入った頃、加齢黄斑変性で、黄斑円孔となり、左眼の視力が弱く、緑内障の気もあるとのことで、ずっと検査と眼圧を下げる点眼を続けている。　何とか、右眼を頼りにやっているのだ。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　家の中に、「老化監視人」とでもいうメンバーがいて、年寄くさい立居振舞いがあると、たちまち警告を受ける。　たとえば、立ち上がって歩き出そうとすると、つい尻の落ちた前傾姿勢を取りがちになる。　誰とは言わない、女性であるようだ、というにとどめるが、その監視はなかなか厳しく、家の中に「老化」の気配が侵入するのを見張っている。　わが家にも「老化監視人」がいて、「膝を伸ばして」とか、言われる。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　一日一度は必ず散歩に出るというのが、50代にかかった頃の医者との約束だ。　ある時、散歩の足を少しのばしてやや長い坂を下ったところ、帰りにその坂を上ろうとするとそれが困難で、タクシーでも呼ばなければ帰れないのではないかと慌てる失敗をした。（「広がる立入禁止地帯」）　それでも一日に一度は最短でも20分は歩く、だがある時期から、後ろから来た歩行者に追い抜かれるようになった。　自分よりやや若い老女が前を行く、ふとひそかに追い抜いて、その喜びを味わえるのではないかと、速度を少し上げた。　なぜか、老女の姿はそれ以上の早さで遠ざかり、路上から消えた。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　「錠剤を押し出す朝」、老人には簡単な仕事ではない、錠剤を一粒ずつ封入した包装をPTPというと看護師さんに教わり、知人の調べで、「press through pack」とわかる。　なお、わが家では、家人が薬局で、これを破る道具を見つけて使っている。
&lt;/p&gt;</description>
      <dc:subject>等々力短信</dc:subject>
      <dc:subject>身辺雑記</dc:subject>
      <dc:subject>文芸</dc:subject>
      <dc:subject>文化</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>黒井千次さん、阿刀田高さんと都立西高校</title>
      <link>https://kbaba.asablo.jp/blog/2026/10/21/9882216</link>
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      <pubDate>Wed, 21 Oct 2026 06:47:55 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-10-21T06:49:25+09:00</dcterms:modified>
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      <description>&lt;p&gt;　黒井千次さんが、12日に亡くなった、94歳、肺炎のためという。　私が黒井千次さんに魅せられたのは、朝日新聞の連載だったと思うのだが、自伝的青春小説「春の道標」だった。　私は城南の生まれ育ちで、東京の西郊、中央線沿線にはちょっとコンプレックスがあった。　その東京西郊の物語である。　高校2年生の明史（あけし）には密かな心躍る風景があった。　毎朝、灌木の連なる小径の彼方から、その少女は軽やかに歩いて来るのだった。　ある日、自転車に乗る彼の前に、突然彼女が現れる。　棗（なつめ）という名前で、中学3年生だった。　その年、公立高校の男女共学が認められ、明史は棗に同じ高校への進学を進める。　ある日、灌木の小径の先の丘の上で、棗は「好き」という言葉と共に明史のくちびるを求めた。　そして、何事もなかったような時間が過ぎた。　合格の決まった日、明史は棗を丘の上に誘った。　二人は、くちびるを求めあった。　しかしそれ以降、棗との連絡が取れなくなってしまう。　数日後、ようやく会えた棗は、明史に告げる。　「もうあの丘には行かないわ」、そして言う。　「お友達になってくれる？」
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　昨年10月号の新潮社『波』に、黒井千次さん93歳と阿刀田高さん90歳の「90代の歩き方」という対談があった。　阿刀田さんの『90歳、男のひとり暮らし』（新潮選書）刊行記念の対談である。　阿刀田さんが、都立西高等学校の1年生だったとき、黒井千次さんは3年生、黒井夫人の千鶴さんは阿刀田さんと同じ1年生だった。　その学年から本格的な男女共学になって、一学年400人の中に女子が一気に100人も入って来た。　男ばかりの上級生たちは色めきたって、1年生の授業が終わるのを教室の外で今か今か待っていたりした。　阿刀田さんによると、女生徒の方も、阿刀田さんたち同級生には目もくれず、上級生に夢中で、黒井さんは憧れの的だったという。　今でも同窓会で女性たちから「長部（おさべ）さん（黒井さんの本名）はどうなさってる？」と訊かれるそうだ。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　19日の朝日新聞に阿刀田高さんが、黒井千次さんの追悼文を書いている。　都立西高校で阿刀田さんは新聞部、黒井さんは文芸部、黒井さんは阿刀田さんのいとこと同級生で、同人雑誌「ひとで」の仲間だったので、すぐに紹介され、エッセーを頼みに行ったという。　黒井さんは、志の高い小説を書き、さっそうとしていて、ナイスガイだった。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　当時、高校で共同募金を集めるかどうか議論になった。　慈善事業の大切さを述べる生徒がいる一方で、政府の社会福祉の財源になる、つまり政府の手先になるのと同じだという意見が出て、大論争になった。　議長が2、3回交代して、いよいよどうするかというところで、黒井さんが議長になった。　黒井さんがなんとか場を収めて収拾しようとしたとき、1年の女子生徒が手を挙げた。　「どうしてそんな簡単にまとめようとするんだ」と詰め寄った。　彼女こそ、のちの黒井さんの奥さんの千鶴さんだった。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　その頃には二人の仲は多少進んでいたらしい。　阿刀田さんは、黒井さんが壇から降りていって、二人で何か話をしていた姿をよく覚えている、という。　関係を知っている人たちは周りでやんやと騒いで…。　だけど、黒井さんのおかげで意見がまとまった。　この人が言うならと、みんなに思わせる人だった。　阿刀田さんも、憧れの目でみつめていた、と書いている。
&lt;/p&gt;</description>
      <dc:subject>身辺雑記</dc:subject>
      <dc:subject>文芸</dc:subject>
      <dc:subject>歴史</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>谷崎潤一郎、千代、佐藤春夫三名連記の挨拶状</title>
      <link>https://kbaba.asablo.jp/blog/2026/10/20/9882091</link>
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      <pubDate>Tue, 20 Oct 2026 07:29:41 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-10-20T08:08:39+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-10-20T08:08:39+09:00</dcterms:created>
      <description>河野龍也編著『佐藤春夫読本』、河野龍也さんの「佐藤春夫の足跡（年譜と業績）」で、そのあたりを見てみる。　「小田原事件」を機に、春夫文学は急旋回した。　まず、詩作を再開。　古風なスタイルで恋の苦さを余すところなく詠い上げた『殉情詩集』（新潮社、大正10（1921）年）は、時の好尚に投じ広く愛誦された。　また、散文も一変、派手な怪奇小説から、市井の幸福を夢見る男の落魄した心境を綴るようになる。　「私小説」「心境小説」は後の震災前後の流行語だが、春夫の作品はその典型例と目された。　『剪られた花』、「侘しすぎる」、「一情景」、「この三つのもの」など。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　関東大震災で新宮に帰郷。　翌大正13（1924）年初め上京、西信濃町の弟秋雄方に寄寓し、3月に秋田出身の小田中タミとここに住み始めた。　タミは「徳勇（あるいは太子）」と名乗った赤坂の芸妓で、春夫詩集の愛読者。　改造社の山本実彦の紹介で馴染みになったとされ、一女美代子を連れて春夫に嫁した。　15（1926）年4月、長編執筆を約して報知新聞社の客員となる。　小石川区関口の旧前島密邸の分譲地を購入、夏に自邸の新築を開始、昭和2（1927）年3月に入居する。　当時『改造』に「小田原事件」の心理経過を複数の人物の視点で描いた「この三つのもの」を連載中だったが、15年5月以降、江戸川橋周辺に出没する「魔女」（山脇雪子）の誘惑に春夫が籠絡され、9月、谷崎夫妻に相談したことで友情が復活。　連載は10月で中止され、未完となった。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　昭和5（1930）年6月、小田中タミと離別。　下旬、関西に旅行。　その後、8月18日付で谷崎潤一郎、千代、佐藤春夫三名連記の挨拶状を出し、千代と結婚した。　結婚は当事者間で十分協議した上での決断だったが、慎重を期した挨拶状がかえって物議を醸し、「細君譲渡事件」として騒がれた。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　拝啓&#13;&lt;br&gt;
炎暑之候尊堂益々御清栄奉慶賀候&#13;&lt;br&gt;
陳者我等三人此度合議を以て千代は&#13;&lt;br&gt;
潤一郎と離別致し春夫と結婚致す事&#13;&lt;br&gt;
と相成潤一郎娘鮎子は母と同居致す&#13;&lt;br&gt;
可く素より双方交際の儀は従前の通&#13;&lt;br&gt;
に就き右御諒承の上一層の御厚誼を&#13;&lt;br&gt;
賜度何れ相當仲人を立て御披露に&#13;&lt;br&gt;
可及候へ共取敢□寸楮御通知申上候&#13;&lt;br&gt;
敬具&#13;&lt;br&gt;
　昭和五年八月　日&#13;&lt;br&gt;
　　　　　　　　　　　　谷崎潤一郎&#13;&lt;br&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　千代&#13;&lt;br&gt;
　　　　　　　　　　　　佐藤春夫&#13;&lt;br&gt;
　　　　　　　　　様&#13;&lt;br&gt;
　　　　　　　　　　　侍史&#13;&lt;br&gt;
　　尚小生は當分旅行致す可く不在中&#13;&lt;br&gt;
　　留守□は春夫一家に託し候間この&#13;&lt;br&gt;
　　旨申し添へ候&#13;&lt;br&gt;
　　　　　　　　　　谷崎潤一郎&lt;br&gt;
</description>
      <dc:subject>文芸</dc:subject>
      <dc:subject>文化</dc:subject>
      <dc:subject>歴史</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>「小田原事件」とは、何か？</title>
      <link>https://kbaba.asablo.jp/blog/2026/10/19/9881953</link>
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      <pubDate>Mon, 19 Oct 2026 07:17:38 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-10-19T07:20:01+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-10-19T07:20:01+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;　県立神奈川近代文学館の「情（こころ）あらば伝へてよ 佐藤春夫展」、佐藤春夫と神奈川との縁にあった「小田原事件」とは、何か。　辻本雄一監修、河野龍也編著『佐藤春夫読本』（勉誠出版・2015年）で見てみたい。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　大正9（1920）年10月21日、3か月半に及ぶ台湾から帰還した佐藤春夫は、郷里の新宮にも寄らず、大阪の宿から一路小田原を目指した。　春夫は知らなかったのだが、この日は熱海線小田原駅開業の日で、国府津からオダデン（小田原電気鉄道）に乗り換えて町に着くと、沿道には祝賀の飾付けが雨にそぼって残っていた。　旅装を解いたのは、十字町の谷崎潤一郎宅だった。　谷崎は大正4（1915）年5月に石川千代（小林から伯母の養女に入り石川）と結婚、翌年3月に娘の鮎子を得た。　一家は8（1919）年12月、北原白秋の世話で、本郷から小田原町十字町3丁目706番地（現南町2丁目3番地）に転居、その家は閑静な別荘地を貫く西海子（さいかも）通りの角にあり、現在の小田原文学館（旧田中光顕邸、昭和12年築）がある敷地の西隣に建っていた。　丸竹の籬垣を背に大きな蜜柑の木が一本植わっていた。　恐らくこれが、「秋刀魚の歌」の絶唱に出てくる蜜柑であろう。　ここに潤一郎・千代・鮎子の親子、潤一郎の弟終平、千代の妹せい、石川のお婆さん（千代の養母）と女中が住んでいた。　小田原時代の谷崎は、大正9年4月に横浜山手町で旗揚げされた大正活映の脚本部顧問として活躍していた。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　谷崎はもと、向島の料理屋「嬉野」の女将初子に求婚して断られ、勧められるままに妹の千代を娶ったが、伝法肌の姉とは正反対の千代に失望し、性格が初子に似た妹のせいを密かに愛人にしていたのである。　小田原に来た谷崎は葉山三千子の名で彼女を映画出演させ、銀幕に踊るせいの西洋的な肉体美に陶酔した。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;春夫の自伝的作品「この三つのもの」（『改造』大正14年6月～15年10月）によれば、はじめ傍観者だった春夫の心に千代の存在が大きく映り始めたのは、大正7（1918）年夏以後のことらしい。　実弟から過ちを告白され、千代の境遇が他人事と思えなくなった春夫は、共に語り苦しみを共有したいと願うようになるが、真相を暴露すれば千代を傷つけ、親友谷崎を裏切ることにもなる。　また、夫婦関係の修復を願う弟の健気さに報いるためにも、春夫は家庭の立て直しに義務感を抱いていた。　不憫にも夫を信じ続ける千代に心惹かれながら、周囲に義理立てして本心を押し殺した春夫は、窒息寸前になって郷里へと帰っていく。　そこで偶然旧友の東煕市（ひがしきいち）に出会い、彼のすすめで台湾・福建を放浪して来たのである。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;やがてこの膠着した事態に意外な所から転機がもたらされる。　当時、小田原の伝肇寺（でんじょうじ）境内に建てた「木莵（みみずく）の家」と呼ぶ小笠原風の草庵に住んでいた北原白秋は、その裏手に西洋館の建築を計画。　大正9（1920）年5月2日、地鎮祭にあたって芸妓数十名、見物客約300名を集める盛大な園遊会を催した。　その晩、町内の料亭「花菱」の二次会で、北原鉄雄（白秋次弟）と山本鼎（義弟）が白秋の妻・章子（あきこ）の派手なやり方を難詰。　これに白秋の弟子が加わって殴り合いとなる乱闘のさなか、章子が報知新聞記者と行方をくらます事件が発生した（地鎮祭事件）。　結局白秋夫妻は三週間後に離婚。　間に立った谷崎が章子を自宅に預かった際、千代は谷崎の秘密を章子から聞いている。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;一方、台湾放浪中に春夫は米谷（まいや）香代子（結婚して『田園の憂鬱』の田園生活を共にした遠藤幸子と離別後、同棲した後輩女優）との離別を決意していた。　彼が十字町の谷崎邸を訪れたとき、千代との関係にどこまで期待を抱いていたかは不明だが、すでに事態は動き、春夫は弟と谷崎とに対する義理立ての必要性から解放されていたのである。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「この三つのもの」の記述によれば、（作品では別の名前だが）千代と春夫が白秋邸へ行くと、白秋は春夫に、「君、谷崎に何とか言ったらいいだろう」と発言、春夫はそれを千代への警告になったことを恐れた。　家に帰って、すでに疑惑を持っていた千代が、春夫に問いただして、返答に窮しているところに、谷崎が帰宅した。　翌日、東京の料理店で千代を離縁する谷崎の決意が動かぬことを聞いた春夫は、その晩米谷香代子に別れを告げ、谷崎の了解のもと、千代との結婚に進むはずだったのだが……。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;現実にはこの後、せいに結婚を拒まれた谷崎が翻意、疎んじていたはずの鮎子を楯にとって前言を撤回し、千代も従わざるを得なくなったことから、春夫は違約に憤慨し、谷崎夫妻と絶交に至る。　これが「小田原事件」である。　「秋刀魚の歌」は、春夫の千代への失恋の苦しみを謳っている。
&lt;/p&gt;</description>
      <dc:subject>文芸</dc:subject>
      <dc:subject>文化</dc:subject>
      <dc:subject>歴史</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>「情（こころ）あらば伝へてよ」、「なさけ」でなく「こころ」</title>
      <link>https://kbaba.asablo.jp/blog/2026/10/18/9881786</link>
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      <pubDate>Sun, 18 Oct 2026 09:32:03 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-10-18T09:34:52+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-10-18T09:34:52+09:00</dcterms:created>
      <description>　県立神奈川近代文学館「情（こころ）あらば伝へてよ 佐藤春夫展」の、「情（こころ）」というタイトルについて、私は「なさけ」と読んで記憶しており、角川文庫『現代詩人全集』第三巻現代IIIの佐藤春夫にも、「なさけ」というフリガナがあった。　そこで、県立神奈川近代文学館に問い合わせると、この展覧会担当の方から下記のような丁寧な回答を頂いた。　佐藤春夫の自作朗読も、「こころ」と読んでいたのだった。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　「情あらば伝へてよ」のルビにつきまして、展覧会としましては、春夫自身も朗読で読み、人口に膾炙した「こころ」を使用しております。&#13;&lt;br&gt;
　初出雑誌「人間」（1921年11月）や初めて詩が収録された図書『我が一九二二年』（1923年）にルビはなく、1932年刊行の『佐藤春夫全集』（改造社）には「なさけ」とございます。&#13;&lt;br&gt;
　現在も流通している、1936年刊行の岩波文庫『春夫詩抄』では「こころ」とルビがあり、以降このほかの図書でも踏襲されたようです。&#13;&lt;br&gt;
　お手元の角川文庫『現代詩人全集』は、「なさけ」とルビの付された図書を底本に使用したのかもしれません。&#13;&lt;br&gt;
　また、当展覧会の編集委員・河野龍也先生のご著書でも「こころ」と読んでいます。&lt;br&gt;
</description>
      <dc:subject>文芸</dc:subject>
      <dc:subject>歴史</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>「情（こころ）あらば伝へてよ 佐藤春夫展」</title>
      <link>https://kbaba.asablo.jp/blog/2026/10/17/9881639</link>
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      <pubDate>Sat, 17 Oct 2026 07:20:20 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-10-17T07:24:51+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-10-17T07:24:51+09:00</dcterms:created>
      <description>　秋刀魚の季節である。　今年の秋刀魚は、歴史的な不漁で、値段が去年の二倍以上と高く、目黒のさんま祭も去年のさんまを解凍したとかテレビのニュースでやっていた。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
「情（こころ）あらば伝へてよ 佐藤春夫展」を、横浜・山手 港の見える丘公園内の県立神奈川近代文学館へ見に行った（11月29日まで）。　佐藤春夫と神奈川との縁は、24歳のとき、神奈川県都筑郡中里村（現・横浜市青葉区。田園都市線の市が尾あたりだと、この展覧会でわかった。以前、鉄（くろがね）という地名で調べたことがあった。）に暮らし、その体験をもとに書き上げた小説「田園の憂鬱」で作家としての地位を確立した。　また、いわゆる「小田原事件」を背景に生まれた「秋刀魚の歌」が日本近代詩を代表する抒情詩として知られるなど、神奈川ともゆかりの深い文学者だと、パンフレットにある。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　会場で佐藤春夫が自作朗読している「秋刀魚の歌」を聴いた。　あとで確認すればよかったと思ったのだが、私はずっと「情あらば伝へてよ」の「情」を「なさけ」だと読んで記憶していた。　角川文庫『現代詩人全集』第三巻現代IIIの佐藤春夫には、「なさけ」というフリガナがあったのだ。　念の為、県立神奈川近代文学館に問い合わせると、丁寧な回答をもらった。　それは、明日紹介したい。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　　　秋刀魚の歌&#13;&lt;br&gt;
あはれ&#13;&lt;br&gt;
秋かぜよ&#13;&lt;br&gt;
情（なさけ）あらば傳へてよ　　　（←情は立心偏に靑）&#13;&lt;br&gt;
――男ありて&#13;&lt;br&gt;
夕餉（ゆふげ）に　ひとり&#13;&lt;br&gt;
さんまを食ひて&#13;&lt;br&gt;
思ひにふける　と、&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
さんま、さんま、&#13;&lt;br&gt;
そが上に青き蜜柑の酸（す）をしたたらせて&#13;&lt;br&gt;
さんまを食ふをその男がふる里のならひなり。&#13;&lt;br&gt;
そのならひをあやしみなつかしみて　女は&#13;&lt;br&gt;
いくたびか青き蜜柑をもぎて夕餉にむかひけむ。&#13;&lt;br&gt;
あはれ、人に捨てられんとする人妻と&#13;&lt;br&gt;
妻にそむかれたる男と食卓にむかへば、&#13;&lt;br&gt;
愛うすき父を待ちし女の兒は&#13;&lt;br&gt;
小さき箸をあやつりなやみつつ&#13;&lt;br&gt;
父ならぬ男にさんまの腸（わた）をくれむと言ふにあらずや。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
あはれ&#13;&lt;br&gt;
秋かぜよ&#13;&lt;br&gt;
汝（なれ）こそは見つらめ&#13;&lt;br&gt;
世のつねならぬかの團欒（まどゐ）を。&#13;&lt;br&gt;
いかに&#13;&lt;br&gt;
秋かぜよ&#13;&lt;br&gt;
いとせめて&#13;&lt;br&gt;
證（あかし）せよ、かの一ときの團欒ゆめに非ず　と。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
あはれ&#13;&lt;br&gt;
秋かぜよ&#13;&lt;br&gt;
情（なさけ）あらば傳へてよ&#13;&lt;br&gt;
夫（おっと）に去られざりし妻と&#13;&lt;br&gt;
父を失はざりし幼兒とに&#13;&lt;br&gt;
傳へてよ&#13;&lt;br&gt;
――男ありて&#13;&lt;br&gt;
夕餉に　ひとり&#13;&lt;br&gt;
さんまを食ひて&#13;&lt;br&gt;
涙をながす　と。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
さんま、さんま、&#13;&lt;br&gt;
さんま苦いか鹽つぱいか&#13;&lt;br&gt;
そが上に熱き涙をしたたらせて&#13;&lt;br&gt;
さんまを食ふはいづこの里のならひぞや。&#13;&lt;br&gt;
あはれ&#13;&lt;br&gt;
げにそは問はまほしくをかし。&lt;br&gt;
</description>
      <dc:subject>文芸</dc:subject>
      <dc:subject>文化</dc:subject>
      <dc:subject>歴史</dc:subject>
      <dc:subject>食べる</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>なぜ沖縄出身の芸能人が多いのか？</title>
      <link>https://kbaba.asablo.jp/blog/2026/10/16/9881504</link>
      <guid>https://kbaba.asablo.jp/blog/2026/10/16/9881504</guid>
      <pubDate>Fri, 16 Oct 2026 07:16:17 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-10-16T07:18:10+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-10-16T07:18:10+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;　朝ドラ『ブラッサム』の母親役・国仲涼子や、13日テレビ朝日「世界遺産ふたり旅！」で米倉涼子とエジプトを歩いていた比嘉愛未（ひがまなみ）を見て、ふと沖縄出身の芸能人がなぜ多いのかと思った。　それで、こういうのはＡＩが得意かなと思って、試みに検索してみた。　なるほど、なるほどと思い、考えてみるヒントを得ることができた。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　なぜ沖縄出身の芸能人が多いのか？　沖縄出身の芸能人が多い理由は、日常的に歌や踊り、三線などの伝統芸能が身近にある風土や、人を喜ばせる文化が根付いているためです。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　　　「主な理由・背景」
・生活と音楽・踊りの距離の近さ
　琉球舞踊や沖縄芝居、三線演奏などが生活や行事に溶け込んでおり、幼い頃から人前で踊ったりすることに慣れています。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　・「人を楽しませる」おもてなしの気質
　お祝い事（エイサーや宴会など）が多く、人前で表現したり場を盛り上げたりする文化が日常にあります。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　・ポジティブで親しみやすいキャラクター
　「なんくるないさ（なんとかなるさ）」に代表されるおおらかさや、人懐っこい空気感が、テレビやステージなどのメディアにおいて強い魅力や親近感（ブランド）として受け入れやすい傾向があります。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　・高い歌唱力や表現力を生む歴史的背景
　琉球王国時代からの交易や歴史の変遷、米軍統治下でアメリカン・ポップスやロックが日常的に流れ、洋楽と琉球芸能がミックスされた独自の音楽シーン（コザの街など）が培われてきたことも影響しています。
&lt;/p&gt;</description>
      <dc:subject>文化</dc:subject>
      <dc:subject>歴史</dc:subject>
      <dc:subject>書くこと・情報処理</dc:subject>
    </item>
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      <title>『万国政表』『増訂華英通語』の刊行、英字新聞の翻訳要約を売る</title>
      <link>https://kbaba.asablo.jp/blog/2026/10/15/9881386</link>
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      <pubDate>Thu, 15 Oct 2026 07:19:56 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-10-15T07:23:06+09:00</dcterms:modified>
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      <description>&lt;p&gt;まだ、2. 需要を読むのだ。 は続く。　時流に合った情報を伝えることでお金を稼ぐ、――福澤が体験したことは、まさにジャーナリズムそのもので、出版事業そのものであった。　近代文化のマスメディアとはそういうことだ。　福澤の場合、最初にマスメディアとして出版したのは『万国政表』、オランダ人プ・ア・デ・ヨングの『地球上の全ての国々についての統計表』を翻訳した作品だ。　人生初のアメリカ行きが決まったため、適塾の後輩で、のちに慶應義塾の初代塾長になる岡本周吉に任せて渡米、岡本の訳者名で出版した。　福澤にとって統計は、「時流に合った貴重な情報」――つまり当時の日本には存在していないが、今後絶対に必要になる学問そのものだった。　実際、15年後に執筆した『文明論之概略』では、「スタチスチク」（統計）こそが、社会にとって必要だと強く説いている。　人口、物価、婚姻数、出生数、死亡数、病患者数……それぞれ数値を示した表をつくり、比較することで真実がわかるのだ、と。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;『万国政表』刊行と同年の万延元（1860）年、サンフランシスコで手に入れた『華英通語』を翻訳した『増訂華英通語』を自分の名前で出版した。　英語にカタカナで読みをつけ、広東語の漢字の横に日本語の訳語を付記した。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;3. キュレーション雑誌で学費をつくる。　福澤は、幕府に翻訳方として勤め、同時に副業で福澤塾を経営しているときも、翻訳で金を工面することを思いつく。　中津藩の藩命で始めた塾を、元治元（1864）年に拡大を狙って中津から6人ほど優秀な若者を呼び寄せ、英語を勉強させて、塾の講師役を手伝ってもらおうとした。　彼らの生活費が必要で、福澤はご近所さんだった友人に頼る。（木挽町汐留の中津藩上屋敷の近く、旧新橋停車場鉄道歴史展示室のあたりに仙台藩の上屋敷があった。福澤塾は、築地鉄砲洲の中屋敷。）
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;大童信太夫、2歳年上の彼は、洋風趣味で、洋書も大好き、仙台藩の重臣・留守居役だった。　ちなみに同じ仙台藩の開国論者・大槻磐渓は『万国政表』に序文を書いている。　大童が福澤に頼んだのは、「仙台藩の資金で購入した毎週発行の英字新聞の主要記事を、翻訳し買ってもらう」という案だった。　福澤は「今週読むべき記事」をキュレーションし、翻訳したものを毎週仙台藩に売ったのである。　これは「横浜出版日本形勢新聞」とか「横浜開板日本新聞」とか題して10冊ほどの写本になり、熊本藩や佐賀藩などの留守居（いわば諸藩の外交官的な部署）に定期購入してもらった。　この英字新聞は、文久元（1861）年からイギリス人のA・W・ハンサードが横浜居留地で創刊した『ジャパン・ヘラルド』で、上海から輸入した輪転機を使用したらしく、このとき協力した日本人はその後日本語の日刊新聞の創刊にかかわることになる。　そこに掲載される政治的意見は、イギリス人から見た日本、という見方を意識させるのにじゅうぶんだっただろう。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;需要に合わせれば、人は文章を買ってくれるという体験は、のちに『学問のすゝめ』や『時事新報』という書籍や新聞の執筆につながったのではないか、と三宅香帆さんは考える。　福澤にとって文章とは、最初は自分の想いを綴ったりするものではなく、まずは相手の期待に合わせて翻訳するものだったのである。　時勢の学問を理解していなければ、ただの飯を喰う字引になってしまうからだ。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この時期、福澤は幕府の公務として外交文書を翻訳しつつ、イギリス人から見た日本政府を英語でずっと読んでいた。　そしてその技術で、福澤はお金を稼いだ。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;だが同時期、福澤は著作『唐人往来』を著し始めている。　自分の意見をテキストに書くようになるのである。　まとめサイトの編集長では終わらない。　自分自身の文章を、提言を、文体を、書くようになる。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;三宅香帆さんは、脚注6で『増訂華英通語』について、福澤がどうやって出版したのか謎で、矢放昭文氏が誰か出資者がいたのではないかと指摘してはいるが、ご存じの方がいたらぜひ教えてほしい、と書いている。　富田正文著『考証 福沢諭吉』上（岩波書店・1992年）には、『増訂華英通語』の表紙の見返しに「快堂蔵版」とあり、慶應義塾図書館の元副館長伊東弥之助氏は木村摂津守の日記から研究して、木村喜毅家が版元であったとしている、とある。　蔵版元の「快堂」は木村喜毅の別号「楷堂」と音通である、と。　それで私は、新潮社『波』編集部にその旨メールし、三宅香帆さんに伝えてもらうように頼んだ。
&lt;/p&gt;</description>
      <dc:subject>福沢</dc:subject>
      <dc:subject>慶應</dc:subject>
      <dc:subject>身辺雑記</dc:subject>
      <dc:subject>文化</dc:subject>
      <dc:subject>経済</dc:subject>
      <dc:subject>歴史</dc:subject>
      <dc:subject>日本語</dc:subject>
      <dc:subject>書くこと・情報処理</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>福澤、情報はお金になると気づき、需要を読む</title>
      <link>https://kbaba.asablo.jp/blog/2026/10/14/9881248</link>
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      <pubDate>Wed, 14 Oct 2026 07:21:39 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-10-14T07:24:12+09:00</dcterms:modified>
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      <description>&lt;p&gt;三宅香帆さんの新潮社『波』連載「福澤諭吉をよみなおす」、9月号の第3回「幕末、饒舌は武器にならなかった」を、この日記の9月1日「福沢諭吉と慶應義塾「社中」の由来」に、7月号の第1回「動画の時代に読み直す福澤諭吉」を、9月2日の「「演説」喋りで他人を説得するメディア、相手に伝わる「文体」」、8月号の第2回「なぜ福澤諭吉の書く本は売れたのか？」を、9月3日の「福澤、世間より個人が大切、時代の潮流に乗る」に書いて来た。　たまたま、三宅香帆さんがNHKの『スイッチ・インタビュー』で、大相撲の湊川親方（元大関・貴景勝）と対談しているのを見たので、10月号の第4回「きっと儲かる翻訳のススメ」を読むことにしたい。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;1. 福澤父の働いていると本が読めない日々。　福澤のいた中津藩は、江戸後期、換金性の高いコメ以外のものを作る貨幣経済への変化に乗り切れず、譜代藩ののんきさがたたったのか、借金が多かった。　朝ドラ『あさが来た』で有名な豪商・加島屋（廣岡家）に、どれだけの融資を求めたかの記録が残っている。　中津藩の平均収入は1年間に米14万俵、平均支出が24万俵だったらしい。　10万俵の赤字に、借入金が約29万6537両・利子付き、とんだ大赤字藩である。　大坂蔵屋敷に詰めて、財務担当役人、借金工面の係だったのが、福澤の父だった。　もともと漢学者で、本が好きだったのに、大坂商人の番頭の接待飲み会やら、働いてばかりで本が読めない。　結局、福澤が3歳の時に亡くなった。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;一家で中津に帰るが、大坂の自由で経済の匂いのする空気は、福澤家に漂っていて、中津では身分制度に嫌な思いをすることが多々あった。　士農工商の役割分担がはっきりしていて、武士が稼ぐことを軽蔑していた江戸時代に、福澤は幼少期に是から先き何になる積りかと兄に聞かれて、「先ず日本一の大金持になって思うさま金を使うて見ようと思います」と答えた。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;2. 需要を読むのだ。　中津から長崎へ蘭学を学びに出て、山本物次郎という砲術家の家に住み込んだ。　時代はペリーの黒船のうわさが日本中を駆け巡っていた。　眼病を患う先生の身のまわりの世話から何から何でもこなして可愛がられる。　そのうちに、砲術関係の書籍の「写本」が儲かることに気づく。　山本家秘伝の本を写し、貸す時は高額のレンタル料を取った。　福沢はオプションに、大砲の図面を引いて、図入りでわかりやすく砲術の講義をし、出島オランダ屋敷に行きたい人のアテンドをした。　山本家に1年もいないうちに、砲術のプロみたいな顔をして他藩の役人に講義していたのかと、ツッコミを入れたくなるが、おそらくこの時「需要に合った情報を伝えれば人はお金を払ってくれる」ことにも、気付いたのだろう。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;山本家を出た福澤は、生涯の師・大坂の緒方洪庵のもとで学ぶことになる。　洪庵の適塾でも、学費が払えなかった福澤は、中津藩の家老の息子から借りて密かに写本を作っていたオランダ要塞造営の書籍を訳して渡す、ということで学費の代わりにしていた（『福翁自伝』）。　情報はお金になる、ということである。
&lt;/p&gt;</description>
      <dc:subject>福沢</dc:subject>
      <dc:subject>慶應</dc:subject>
      <dc:subject>文化</dc:subject>
      <dc:subject>経済</dc:subject>
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