「萬歳」から「漫才」へ、吉本興業と「漫才」2026/03/05 07:14

 一昨日「その年がいつだったか、富岡多恵子さんの書き方は矛盾するのだが、秋田がエンタツ、アチャコと会ったのは昭和6(1931)年」で、秋田實が大阪に帰るのは「昭和9(1934)年」と書いた。 その後の「帰郷――「大阪」の発見」の章を読むと、秋田實はエンタツとの出会いで受けたショックを一方にかかえながら、二年余はまだ東京で左翼活動をしていて、東京と大阪を行ったり来たりしていた。 エンタツによって触発され、大衆に交通する具体的な方法を知らされた、秋田の漫才芸への好奇心、そして漫才の世界は、左翼運動の挫折感を救うのである。 昭和9(1934)年9月の室戸台風をきっかけに、大阪の両親の家に戻った秋田は、吉本興業に入社する。

 富岡多恵子さんの『漫才作者 秋田實』を読むきっかけになった、司馬遼太郎『この国のかたち』、自作「索引」ノート<小人閑居日記 2026.2.27.>に、司馬さんは秋田実を「昭和初年に東京大学を出ると、大阪にもどってきて、旧弊なマンザイを一新した人である。万歳を漫才という文字に変えたのもこの人だったと思うが」、と書いた。 昭和6年から9年の東京と大阪の行ったり来たりで、東京大学を卒業はしていないようだ。 「万歳を漫才」についても、富岡本にはこうある。 昭和9年4月25日から三日間、吉本興業は漫才の東京進出をはかって、新橋演舞場で「特選漫才大会」を開いた。 その時つけられた「漫才」という文字は、おそらく東京人がはじめて目にしたものであり、吉本が大劇場にその文字の看板をあげたのもその時がはじめてだったといわれる。 それにふみ切ったのは、吉本の東京での責任者林弘高だという説もある。 というのは、大阪ではすでに、当時吉本興業の宣伝部長(戦後は社長となった)橋本銕彦=鉄彦が、ドル箱のエンタツ・アチャコの新しさを、それまでの「万才」ではないと考えて、「漫才」という文字を使っていた。 芸人にも、マスコミにもすんなり受け入れられなかったが、東京への進出にさいして「漫才」を名乗ってから一般化した。

 富岡さんは、「萬歳」から「漫才」へ、という章で、「漫才」の歴史にふれている。 「まんざい」のルーツは13世紀、正月の宮中に参入していた「千秋(せんず)萬歳」と呼ばれるものであった。 年のはじめに神霊がひとの家におとずれて祝福をもたらすという信仰が大昔から受け継がれてきていたから、神の姿にふんする者がひとの家々にきて祝福することが職業化されてきた。 「萬歳」は祝(ほ)ぎごとであり、それをするのはホガイビトである。

 「宮中萬歳」が「民間萬歳」となって地方の各地(尾張萬歳など)に広まる。 太夫を賢者、才蔵を愚者と定めて、祝福芸の「めでたい」に「おかしい」が入り込んでくる。 明治時代には、玉子屋円辰や砂川捨丸が小屋掛けや劇場で「萬歳」をやり人気になった。

 「萬歳」のカタチはひきずりながらも、実際には宗教性を失って祝福芸とはいえぬ興行萬歳、即ち、ポスト「萬歳」と、まだ「漫才」を意識できぬプレ「漫才」が重なり合っている「万才」の時期があったはずであり、秋田實がエンタツに出会った昭和6(1931)年には、まだ「漫才」の文字がなかった、プレ「漫才」の時期だったのである。 「漫才」という文字=命名は、エンタツ・アチャコの出現が、橋本鉄彦の宣伝マンとしての才能を刺激して生み出されたといっていいだろう。 エンタツ・アチャコは、それほどに、「萬歳」とはもちろん「万才」とも異なるものをもっていたということになる、と富岡多恵子さんは書いている。