小室正紀さんの「草間直方と福沢諭吉」[昔、書いた福沢194]2020/01/17 07:11

       「草間直方と福沢諭吉」<小人閑居日記 2003.11.24.>

 22日、福沢諭吉協会の土曜セミナーだが、慶應義塾大学経済学部教授(近 世経済思想史)で最近福沢研究センター所長になった小室正紀(まさみち)さ んの「草間直方と福沢諭吉」という話だった。 草間直方(伊助、宝暦3(1 753)-天保2(1831))は、福沢が生れる前に死んだ(つまり時代が違 う)大坂のビジネス・エリート、京都の商家に生まれ、鴻池に奉公し、鴻池の 三別家の一つ尼崎草間家の女婿となり同家を継いだ。 文化5(1808)大 坂今橋に両替商を開業、大名貸で取引のできた肥後、山崎、南部など諸藩の財 政整理に尽した。 その一方で、貨幣史、物価史の精密な研究『三貨図彙(さ んかずい)』『草間伊助筆記』『篭耳集』などを著した。

 なぜ「草間直方と福沢諭吉」なのか。 草間直方の活躍した19世紀初頭は 転換期、変化の時代であって、そこからの草間の時代認識と展望が、福沢の考 え方につながるのだという。 19世紀初頭が転換期というのは、幕府や藩で 財政システムが行き詰まり、地方の経済が活発に動き出す。 草間は長期的に 米価は低下せざるを得ないと見通し、米(コメ)経済の限界を見た。 それは 大名貸、大坂利貸(りたい)資本の、貸倒れ、不良債権化による危機を意味し た。 草間は米価が下落しても、金銀の融通(流通)さえ円滑にいけば、経済 は問題ないとして、貸出を生産的投資のためのものに振り向け、各藩が特産品 の殖産興業に力を向けるべきだと、考えた。

 変革期の人間が何かを主張するためには、「客観的認識」と「内面的自己確立」 (自らの確信)が必要である。 草間の場合、それは『三貨図彙』にみられる ように変っていく現実をくわしく調べることであり、懐徳堂で学んだ儒学(「折 衷学」…朱子学・古学・陽明学などの派にとらわれず、それらの諸説を取捨選 択して穏当な説をたてようとする)に立脚点を求め、道徳性が経済の信用を支 え、万物の融通(流通)が宇宙の根本に通じると、考えた。 福沢のそれは『福 翁自伝』のいう「数理学」と「独立心」。

 小室正紀さんは新発見資料、金沢市立図書館稼堂文庫蔵の草間が肥後熊本藩 大坂勘局頭尾崎氏あて私書『むだごと草』(文化8年、1811)を主な材料に、 この講演をした。

        コメ経済とゼニ経済<小人閑居日記 2003.11.25.>

 小室正紀さんの指摘した、草間直方の活躍した19世紀初頭は転換期、変化 の時代だったという話だが、司馬遼太郎さんだとこうなる。 草間直方とほぼ 同時期に、大名貸の番頭で、しかも学者だった(草間とそっくり同じ、小室さ んの話にも出た)山片蟠桃(1748-1821)について書いている文章に ある(『十六の話』)。

 「江戸体制を考える上で、はたして、この体制が建前であるコメ経済であっ たのか、それともゼニ経済だったのか、ということに迷ってしまう。」 播州赤 穂の浅野家はわずか五万石ながら、赤穂塩という商品の収入(みいり)で、江 戸初期以来、城下の各戸に上水道がひかれていた。 仙台伊達家は五十九万五 千石、家格の差がありすぎて、たとえば両藩の通婚などはとてもできない。 家 格はコメで量(はか)られ、「貴穀賎金」穀ヲ貴(たか)シトナシ、金ヲ賎シト ナスといわれ、それは幕府の一貫した農本主義を言いあらわしていた。

 しかしながら、実質的にはゼニ経済なのである。 たとえば、仙台五十九万 五千石の米は、入用分をさしひき、余った一部は江戸へ飯米(廻米)として移 出されるものの、大部分は大坂へ換金のために運ばれ、堂島相場によって相応 のゼニに化して仙台に送られた。 仙台藩ではそのゼニでもって藩財政がまか なわれる。 藩は貴であるという建前があるため、それをゼニにする機関にじ かに触れることはできない。 建前では賎しいゼニに触れる機能は、いやしい 町人、大坂の町人がやるのである、と。

 小室正紀さんは講演のあとの質疑のなかで、19世紀初頭以来、全国の大小 260藩、各藩が行き詰まった経済をなんとかしようと苦闘した。 勘定方の 武士を中心に、藩札を出したり、物産を開発したりして、「国益」をはかった(「国 益」という言葉は、漢語ではなく、この頃できた新しい考え方だそうで、この 国は藩)。 その7~80年の試行錯誤の経験が、維新後に生きた(江戸時代と 明治の連続性)という話をした。

         山片蟠桃(ばんとう)<小人閑居日記 2003.11.26.>

 「コメと大坂」という題で、山片蟠桃について書いていたのを思い出した。  司馬遼太郎さんの『十六の話』(中央公論社)の「山片蟠桃のこと」という文章 を読んで、その清々しい生き方につよく惹かれたからだった。

    コメと大坂(等々力短信 第748号 平成8年(1996)9月5日)

 江戸中期以後、貨幣(流通)経済が盛んになると、コメを基本にして成立し ている各藩の財政は、どこも苦しくなってきた。 その対策として、外様藩は 換金性の高い商品、たとえば蝋、特殊な織物、紙、砂糖などを生産することに よって、金銀貨幣を獲得するように努めた。 その点、譜代藩はおっとりして いて、ことに中津奥平家は累代幕政に関与したから、幕府の直轄領政治が産業 に鈍感だったのに影響されてか、ほぼコメ依存のままだから、とくに苦しかっ たという。(『街道をゆく』「中津・宇佐のみち」) 

 福沢諭吉は天保5(1835)年、大坂堂島浜通りの中津藩蔵屋敷内の勤番長屋 で生まれた。 父百助(ひゃくすけ)が、回米方という蔵屋敷詰の役人だった からである。 回米方は、コメその他の藩地の物産を売りさばいて、換金する のを職務とする役人であるが、その実は、藩の物産を担保にして大坂の豪商か ら借金することや、その返済遅延の言い訳けをするのが、主な仕事だったらし い。 『福翁自伝』には、百助の人物について、普通(あたりまえ)の漢学者 で、金銭なんぞ取り扱うよりも読書一偏の学者になっていたいという考えだか ら、そんな仕事が不平で堪らなかった、と書いてある。

 藩も蔵屋敷も、お侍としての威厳は保っているものの、実権はカネを持って いる豪商が握っていた。 福沢百助の時代より少し前、豪商のひとつ升屋に、 高砂から13歳の久兵衛少年が奉公に来る。 久兵衛は、のちに『夢の代(し ろ)』を書く山片蟠桃(ばんとう・1748-1821)になる。 主の重賢は、読書好 きの蟠桃に、大坂でもっとも権威のあった学塾懐徳堂に通うことを許した。 こ の恩は蟠桃にとって終生のものとなる。 重賢が死に、主家はにわかに傾く。  蟠桃は24歳の若さで、6歳の遺子重芳を擁して、升屋の再建にのりだす。 1 1年間の苦闘の末、天明3(1783)年、伊達59万5千石の仙台藩との信頼関 係を確立する。 蟠桃は、年貢を取り立てたあとの農民の「残米」を藩が現金 で買い取る方式を提案し、その「買米」を日本最大の消費地である江戸に回し た。 江戸市民の食べる米のほとんどは、仙台米になった。 仙台藩は、その 売上げで得た現金を、両替商に貸して得た莫大な利息によって、財政の建て直し に成功する。 コメ経済に、貨幣経済を組み込んだ合理的なシステムが、いか にも蟠桃らしいという。 仙台藩は、あたかも一藩の家老のように、蟠桃を遇 した。 あくまでも主家を立てた蟠桃は、番頭だからと蟠桃と号した。(司馬遼 太郎『十六の話』)

「福澤諭吉かるた」と「諭吉かるた」[昔、書いた福沢193]2020/01/16 07:07

       「福澤諭吉かるた」<小人閑居日記 2003.11.23.>

 7日に浅草のちんやでクラス会をやった時、級友のひとりが「福澤諭吉かる た」なるものを持って来た。 酒好きらしい彼が「す」の札を紹介した。 「す きなお酒も次第に減らす」。 料理店や飲食店を経営する卒業生でつくっている 「料飲三田会」の企画・発行、服部「ネ豊」次郎文言・監修、橋本金夢絵、平 成15年10月7日出版である。 内容は福沢諭吉の一生をわかりやすく48 の文言にまとめたもので、「き」北里博士を賞讃・応援、「お」男を叱る「新女 大学」、「ね」年中こまめに手紙を書く、といった調子である。

 昨22日、福沢諭吉協会の土曜セミナーがあり、セミナー終了後、このかる たの話題が出た。 服部「ネ豊」次郎理事長は、「福澤諭吉かるた」は今年の初 めにこの席にいる馬場さんがつくったものがあって、それを参考にしたので、 馬場さんが家元だと披露してくれた。 <1475> 福沢諭吉いろはがるた<等々 力短信 第924号 2003.2.25.>につけた試作「福沢諭吉いろはがるた」 2003.2.15.のことである。 光栄なことだったが、私の方は福沢の言葉を中心 にしていて、内容はまったく異なる。(参照 : 福沢諭吉いろはがるた〔昔、書いた福沢100〕<小人閑居日記 2019.8.18.>、試作「福沢諭吉いろはがるた」 〔昔、書いた福沢101〕<小人閑居日記 2019.8.19.>)

 別の筋から聞いた話では、「福澤諭吉」が商標登録されているため、増刷にあ たって「諭吉かるた」に名称を変更せざるを得ないのだそうだ。 「阪神優勝」 みたいな話だが、驚くべき商標が登録許可されるものである。

やさしくかくということ[昔、書いた福沢186]2019/12/30 06:21

       再録:やさしくかくということ<小人閑居日記 2003.8.26.>

 <等々力短信 第930号 2003.8.25.>に書いた「漢字仮名交じり文の運命」 だが、そのテーマで<小人閑居日記>に書いていたことを、思い出した。 毎 日書き飛ばしていると、ぜんぶ憶えているわけにはいかなくなる。 それは昨 年12月7日の「やさしくかくということ」で、加藤秀俊さんの中公新書『暮 らしの世相史 かわるもの、かわらないもの』を読んで書いた何回かの一回だ った。 この問題もまさに「かわるもの、かわらないもの」なので、まず、そ の12月7日の日記を再録する。

        やさしくかくということ<小人閑居日記 2002.12.7.>

 加藤秀俊さんの『暮らしの世相史』に「日本語の敗北」という章がある。 「日 本語の敗北」とは何か。 明治以来、日本語の表記について、福沢諭吉『文字 之教』の末は漢字全廃をめざす漢字制限論、大槻文彦の「かなのくわい」、羅馬 字会や田中館愛橘のローマ字運動などがあった。 戦前の昭和10年代前半、 鶴見祐輔、柳田国男、土居光知が、それぞれ別に、日本語はむずかしいとして、 改革案を出した。 当時、日本語が世界、とくにアジア諸社会に「進出」すべ きだという政治的、軍事的思想があった。 しかし、日本語を「世界化」する ための哲学も戦略もなく、具体的な日本語教育の方法も確立されなかった。 な にしろ国内で、「日本語」をどうするのか、表記はどうするのかといった重要な 問題についての言語政策が不在のままでは、「進出」などできた相談ではなかっ た。 日本は戦争に破れ、文化的にも現代「日本語の敗北」を経験した、とい うのである。

 戦後、GHQのローマ字表記案を押し切って制定された当用漢字は、漢字の 数を福沢が『文字之教』でさしあたり必要と推定した「二千か三千」の水準に、 ほぼ一致した。 だが、その後の半世紀の日本語の歴史は、福沢が理想とした さらなる漢字の制限とは、正反対の方向に動いてきている。 それを加速した のが、1980年代にはじまる日本語ワープロ・ソフトの登場で、漢字は「か く」ものでなく、漢字変換で「でてくる」ものになったからだという、加藤さ んの指摘は毎日われわれの経験しているところである。 加藤さんや梅棹忠夫 さんは、福沢の「働く言葉には、なるだけ仮名を用ゆ可し」を実行して、動詞 を「かたかな」表記している。 私などは、見た目のわかりやすさから、そこ まで徹底できないで、「きく」「かく」と書かず「聞く」「書く」と書いている。  それがワープロ以降、次第次第に、「聞く」と「聴く」を区別し、最近では手で は「書けない」字である「訊く」まで使っているのだ。 「慶応」も気取って、 単語登録し「慶應」にしてしまった。 福沢のひ孫弟子くらいのつもりでいた のに、はずかしい。 深く反省したのであった。

      加藤秀俊さんの日本語自由化論<小人閑居日記 2003.8.27.>

 近所の図書館で、井上ひさしさんの『ニホン語日記』(文藝春秋)のすぐそば に、加藤秀俊さん監修、国際交流基金日本語国際センター編の『日本語の開国』 (TBSブリタニカ・2000年←当時加藤さんは同センター所長)があった。  『日本語の開国』のはじめに、加藤さんの「四つの自由化-「日本語新時代」 をむかえて」という文章がある。

 現在、世界で日本語を勉強しているひとびとの数はすくなく見つもっても五 百万人、体験的に日本語を身につけた人口をふくめて推測すると、たぶん一千 万人をこえるひとびとが日本語をはなすようになってきている、という。 少 数の学者や物好きなインテリでなく、一般大衆が世界のあちこちで「日本語」 をつかいはじめた、そうした「日本語新時代」をむかえて、加藤さんはいま「日 本語」の根元的な「自由化」がもとめられているという。

 (1)完全主義からの自由化。 「ただしい日本語」の基準、モデル的な日 本語などありはしないのだから、日本人と外国人のつかう日本語のちがいは「完 全さ」の「程度」のちがいにすぎない。  (2)文学からの自由。 ごくふつうの日常の言語生活を基準にすると、「文 学」は異質の世界のいとなみ。 いま必要とされているのは、簡潔で意味が明 確につたわる「実用日本語」、日本語の「はなしことば」。  (3)漢字からの自由。 ワープロの登場で、漢字がおおくなった。 漢字 の呪縛からみずからを解放することによって、日本語はよりわかりやすく、よ みやすく、そしてかきやすいものになる。  (4)文字からの自由。 「読み書き能力」がなくても日本語はつかえる。  「文字」がわからなくとも「言語」は学習できる。

     加藤秀俊、梅棹忠夫、そして司馬遼太郎<小人閑居日記 2003.8.29.>

 若いとき、加藤秀俊さんや梅棹忠夫さんの本を読んで、おおきな影響を受け た。 一つには、その文章が読みやすかったということがあった。 それが『日 本語の開国』にあるような、日本語の自由化や国際化につながるものであると いうことまでは、気がつかなかった。

 加藤秀俊さんの(梅棹さんもそうだが)かき方(この段落はその方式でかく) 原則は、できるだけ「やまとことば」をつかい、かな表記し、そのなかで「音 読み」するばあいにかぎって漢字をつかう。 漢字の量がへって、文章はあか るい感じになる。

 いただいたばかりの木村聖哉、麻生芳伸往復書簡『冷蔵庫 7』(紅ファクト リー)の麻生さんの手紙に、岡本博さんという方のことを書いたのがあって、 なかに司馬遼太郎さんが岡本さんの本『映像ジャーナリズム』に寄せた序文が 引用されている。 司馬遼太郎さんも、読みやすい文章を書いた。 短文なが ら、岡本博さんという人のことがよくわかり、「雨ニモマケズ」ではないが、そ ういう者になりたいように描かれている。

 「岡本博は、経歴をみるとおそろしいばかりにオトナくさい元肩書がならん でいるが、自分自身を少年の心のままにとどめることにこれほど努力してきた 人はまれだし、そのことにみごとに成功した人である。  かれの感受性と洞察力は、澄みとおってしかも多量な少年のそれそのもので あり、自分の「見てしまったもの」をばらしたり組みあわせたり、あるいはも う一度のぞきこんだりする能力は、いうまでもなくかれのすぐれた知性と教養 である。  岡本博は、群れて歩いている人ではない。独りで歩き、独りで観客席にすわ り、ひとりでデモに加わり、ひとりで公園の水を飲んでいる。ひとりが似合う、 あるいはひとりが風景をなしているという人は、私の友人のなかでもきわめて すくない。                          司馬遼太郎 」

     「漢字をつかわない日本語」の方向<小人閑居日記 2003.8.30.>

 井上ひさしさんの漢字仮名交じり文についての考えと、加藤秀俊さんの日本 語自由化論をならべてみて、あらためてつくづく、ひとつの問題にもいろいろ な見方があることを感じた。 私などは、加藤論にひかれながら、井上論も捨 てがたく、「ゆれ」ているというのが実情である。

 『日本語の開国』の野元菊雄元国立国語研究所長の「日本語改革の思想史」 には、戦争の時代、生産力や軍事力を上げるために、用語の簡素化と発音式仮 名遣が推進されたこと、井上ひさしさんの本にあったように満州事変で新聞紙 面に中国の地名人名が多く出て漢字制限が無意味になった後も、漢字制限の底 流は依然として流れていたことが書かれている。 戦後割に早く、新かな・当 用漢字という今の表記法などが確立したのは、それなりの準備があったからで、 その中心になったのは保科孝一(1872-1955)という人物だったという。

 野村雅昭早稲田大学文学部教授(前に短信676号で『落語の言語学』をと りあげた)は『日本語の開国』の「漢字をつかわない日本語」で、漢字制限と 言文一致という語彙の改良をおしすすめ、正書法が可能なハナシコトバにもと づく語彙体系を確立する必要を説いている。 日本語をかえなければならない のは、わたしたちが近代国家としての言語を自分のものにし、それを世界中の 人々に解放するためである。 いうならば、真の精神の自由を獲得することに ほかならない。 言論の自由の保証は、ハナシコトバにもとづくものでなけれ ばならない。 できることからはじめる必要がある。 できるだけ漢字をつか わないようにという加藤秀俊、梅棹忠夫両氏のこころみなどは、その準備であ る。 漢字をつかわない日本語の時代は、まちがいなくおとずれる、と野村教 授は断言している。

『サイラス・マーナー』<等々力短信 第1126号 2019(令和元).12.25.>2019/12/25 07:09

『サイラス・マーナー』は読んだことがなく、作者のジョージ・エリオット がジョージなのに女性だというのも、知らなかった。 1861年の刊行当時、女 性の作品というだけで軽視されたことと、彼女が妻子のいるパートナーと暮し ていたという事情があった。 恩師の奥様、小尾芙佐さんが9月、光文社古典 新訳文庫から『サイラス・マーナー』を上梓された。 高校生の時に出合って いたが、2016年本屋大賞(翻訳小説部門)を受賞された『書店主フィクリーの ものがたり』(その年6月25日の短信1084号で紹介)に好きな小説の一つと して出て来て、原作を再読、感動し、この物語の素晴しい魅力を、今の人たち にもぜひ伝えたいと、強く感じられたのだそうだ。 私などは翻訳本を読むだ けでもかなりの時間を要したから、翻訳のご苦労は如何ばかりかと思った。

 機織り職人のサイラス・マーナーは、婚約者がいたが、親友の裏切りで金を 盗んだという無実の嫌疑を受け、教会の御神籤で有罪とされ、親友と婚約者が 結婚して、故郷を遠く離れラヴィロー村の採石場近くに移り住む。 すっかり 人間嫌いになり、機を織って稼いだ金貨を眺め数えるだけを唯一の楽しみに、 孤独な守銭奴となって15年になる。 村には、経済格差の二つの階級があっ た。 郷士のキャス家を筆頭に、地主の旦那衆、医師、獣医、牧師、教区執事、 治安判事など。 他方に、肉屋、車大工など商工人、そして農民、小作人。 教 会でも、居酒屋の虹屋でも、それぞれの席が決まっていた。

 キャス家の長男ゴッドフリーは、ラミター家の美人ナンシーと結婚したいの だが、実は秘密の結婚で子があり、そのため次男のダンスタンに脅されている。  サイラスは貯めた虎の子272ポンド余を盗まれ、悲嘆に放心状態となり、犯人 のダンスタンは姿を消す。 キャス家では大晦日の大宴会があり、そこへ子を 抱いて乗り込もうとした秘密の妻モリーが雪の中で倒れ、子供だけがサイラス の小屋にたどりつく。 たまたまの発作から覚めたサイラスは、炉端に金貨か と見違えて黄金色の巻き毛の幼子を見つける。

 サイラスは、金貨の代りにやって来た二歳の幼子を、救貧院にやらず、自分 で育てる決心をし、妹の名を採ってエピーと名付ける。 車大工のおかみさん ドリーの強い助けもあり、娘エピーがサイラスと世間の絆を結びつけてくれる ことになる。 庶民階級のドリーが、サイラスの過去の受難、教会の御神籤で 有罪とされた件を聞いて、いろいろと考えた、いわば「哲学」が、とてもいい。  「わたしらが知るかぎりの正しいことをしてな、あとは信じるだけなの。」 父 親のサイラスの格別な愛情のもとで、エピーは成長する。 純粋な愛というも のには詩のいぶきが感じられ、このいぶきは、ずっとエピーをとりまいていて、 エピーの心はいつまでも初々しさを保っていた。

《築地明石町》モデルの孫2019/12/13 07:13

 11日に東京国立近代美術館で「鏑木清方 幻の《築地明石町》特別公開} を観て来たので、一日「昔、書いた福沢」を休み、《築地明石町》のモデルの孫に ついて以前書いた「等々力短信」を出すことにする。 東京国立近代美術館は、 15日の会期末前で、ものすごい人だった。 2007年に行った鎌倉市鏑木清方 記念美術館は、閑散としていたのに…。

      等々力短信 第1052号 2013(平成25)年10月25日

               パリに生れ、パリに死す

 ヨーコ・タニ、谷洋子という名の女優を、ご記憶だろうか。 グレアム・グ リーン原作の映画『静かなアメリカ人』(1958年)で助演、同年の『風は知ら ない』ではダーク・ボガードと共演、第二次大戦末期、日本人捕虜の尋問のた めに空軍中尉がインドのジャイプールで日本語を学び、教えてくれる美しい女 性と恋に落ちる、そのスズキ役。 『バレン』(1960年)ではアンソニー・ク インとイヌイットの夫婦を、『青い目の蝶々さん』(1962年)では日本に単身赴 任したイヴ・モンタンの夫が浮気したのではと疑い、ゲイシャに扮して探るシ ャーリー・マクレーンの妻に、化粧や着付けをする芸者を演じた。 フランス のテレビ番組や舞台にも出た。 日本映画では、1956年の久松静児監督、田中 澄江脚本『女囚と共に』に出ているが、その共演者がすごい。 田中絹代、原 節子、木暮実千代、香川京子、淡路恵子、久我美子、杉葉子、浪花千栄子。 前 田敦子と大島優子の区別はつかないのに、こちらは皆、顔が浮ぶのは、年を取 った証拠だろう。

 森まゆみさんが、岩波の『図書』8、9月の上下で書いた「谷洋子のポルトレ」 を読み、谷洋子(1928(昭和3)年~1999(平成11)年)の本名が、猪谷洋子、 その母の名が妙子と知って、私にはピンと来る本があった。 富岡多惠子さん の『中勘助の恋』(創元社)である。 中勘助の“恋人”が、猪谷妙子だったか らだ。 妙子とその母江木万世(ませ)は、中勘助の人と文学を考える上で最 も重要な二人で、共に中勘助に「愛の告白」をしている。 万世は、中勘助の 一高以来の友人、新橋の江木写真館の息子、江木定男の妻で、鏑木清方の代表 作《築地明石町》(1971年切手になった)のモデルになったほどの美人だった。

 中は若い友人夫妻の娘妙子を、幼い頃から大層可愛がり、江木定男が妙子13 歳の時に亡くなると、父親代りの役を務める。 膝の上の妙子にねだられてし たお話を、東京高商で経済学を専攻フランスに留学した猪谷善一と結婚し、パ リで洋子の母になった妙子に請われて、書き上げたのが『菩提樹の蔭』だった。

 猪谷一家は1930年に帰国、洋子は母も出た東京女高師附属女学校(現お茶 の水女子大附属中学・高校)から津田塾大学に進み、英語を身につけ二番で出 た。 女学生の時、母妙子が死ぬ。 どうしても外国に出たくて1950年カソリ ックの縁で渡仏、パリ大学にも通った。 最初は画家を志し、なかなか帰国し ないので、父が仕送りを止め、レビューに出た。 「日本から持って行った着 物を重ねて着て、一枚ずつ脱いだらすごく受けたのよ」、異国で女一人、気風よ く生きた。 『天井桟敷の人々』のマルセル・カルネ監督に見出されて映画デ ビューする。 俳優と結婚して別れ、長い付き合いの恋人ロジェと幸せに暮し、 70歳で没、ブルターニュのお墓に一緒に入ったという。