等々力短信 第1178号は…2024/04/25 07:18

<等々力短信 第1178号 2024(令和6).4.25.>学際と雑学『ブラタモリ』 は、4月19日にアップしました。 4月19日をご覧ください。

絶世の美女と噂の弁内侍を救う2024/04/24 06:57

 楠木多聞丸正行が、なんと22歳の若さで死んだことを、今村翔吾さんはあまりにも可哀想だと思われたのだろう。 『人よ、花よ、』で、弁内侍(べんのないし)こと茅乃という女性を登場させた。

 1月の「等々力短信」第1175号「無性に知りたい芋づる式」に、「羽林家(うりんけ)」という言葉を知らなかった、と始めて、今村翔吾さんが高師直(こうのもろなお)が好色な男だったことに関連して、時々、舞台回しとしての女を登場させるのだが、その一人が羽林家のとある公家の娘だった、と書いた。 弁内侍は、容姿端麗と評判の南朝の女官で、灰左がたまたまお顔を拝見して、その美貌は噂以上で、腰を抜かしそうになったと、多聞丸も聞いていた。

 北朝への帰順の道筋を探っている野田四郎正周が、その弁内侍に、高師直が酷く興味を持っているという情報をつかんで来た。 弁内侍といっても、『広辞苑』にもある女房三十六歌仙の鎌倉中期の歌人、藤原信実の娘で後深草天皇が東宮の頃から奉仕した『弁内侍日記』の著者ではない。 多聞丸の従兄弟、和田新兵衛行忠が、若い者の噂で弁内侍は日野俊基の子ではないかと。 弁内侍は嘉暦2年の生まれ、多聞丸より一つ年下になり、今は20歳、7年前の13歳の時、後醍醐帝が崩御する直前に朝廷に出仕することになった。 その時、内侍司に4人しかいない次官の典侍(ないしのすけ)に異例の若さで抜擢されたという。

 弁内侍が駕籠に乗り、三刻前に吉野を出立したという情報が入った。 行先はわからないが、大和、和泉、河内のいずれかだろう。 多聞丸は、大塚惟正の提案で、父の陣形の一つ波陣を使い、総勢157騎で弁内侍を見つけることにした。 波陣は、前後一里、左右二里、五人一組で索敵、伝令を繰り返す。 報せるべきことが出来(しゅったい)した場合、一人を切り離して本陣へと走らせる。 残り四人は索敵を続け、最後の一人になるまで四回は伝令を出せる。

 河内国高安郡方面の野田四郎から、行商が三十人ばかりの男の不穏な集団を見たという情報が伝わり、多聞丸と大塚惟正らの本陣も、弟の次郎正時たちを探す5騎を残して、17騎で野田ら二組に合流するために疾駆する。 野田からの伝令が、その集団が襲い掛かってきたので、戦っていると伝え、師直の手の者だという。 女官らしい着物も見える現場へ、楠木党16騎、気勢を上げて突貫した。 駕籠を守り、敵を押し捲っているところへ、次郎たち20騎も駆け付けて来た。 敵は、蜘蛛の子を散らすように逃げ出す。 取り残された者のうち、まだ息のある者は、自ら命を絶った。 年嵩の女官が、恐る恐る尋ねるのに、「楠木です」と名乗ると、安堵の表情へと変わった。 女たちはみな無事だったが、護衛の青侍三人は悉く斬られた。

 駕籠から出た弁内侍、絶世の美女という噂に違うことはない。 二重瞼ではあるものの切れ長の涼し気な目、一切迷いなく通る高い鼻梁、やや口角の上がった口元、薄紅色の唇が白い肌に恐ろしいほど映える。 得も言われぬ上品さがあるのは間違いないが、何処か艶やかな色香も滲んでいる。 刺すほどの美しさであった。

学際と雑学『ブラタモリ』<等々力短信 第1178号 2024(令和6).4.25.>4/19発信2024/04/19 06:59

   学際と雑学『ブラタモリ』<等々力短信 第1178号 2024(令和6).4.25.>

 3月でレギュラー放送が終了したNHK総合テレビの『ブラタモリ』、好きでずっと見ていた。 2016(平成28)年2月25日の「等々力短信」第1080号には「全国版『ブラタモリ』賛」を書いた。 「高低差を見逃すな」「下を向け!」の『ブラタモリ』で、都市や観光地の発展に、地形や地質との密接な関係があることを学んだ。 「チャート」「水冷破砕溶岩」「溶結凝灰岩」「柱状節理」などの言葉を知った。 制作チームは、「国民的人気番組によって、古くから日本の文化や産業には地盤とそれを形成する地盤構造物が深くかかわっていることを一般市民に広く発信し、地盤工学の社会的イメージの向上に多大な貢献をした」と、地盤工学会の平成29年度地盤工学貢献賞を受賞した。 先月発行の『最新 地学事典』では、「ブラタモリ」が新しい項目になったそうだ。

 2018年3月10日・17日放送「#98鹿児島」「#99鹿児島の奇跡」、共にお題は「なぜ鹿児島(薩摩)は明治維新の主役となれたか?」だった。 九州南部には、巨大噴火による「姶良(あいら)カルデラ」があり、火山から噴き出た火砕流が固まってできた、2万9千年前の「シラス」台地と、その崖下に50万年前の「たんたど石」と呼ぶ「溶結凝灰岩」がある。 「シラス」台地は、「城山」の曲輪や武器弾薬庫に好都合で、「溶結凝灰岩」は「柱状節理」という割れ目が加工しやすく石材に最適、江戸の台場よりも早く天保11(1840)年に築かれた台場や、さまざまな近代的事業に使われた。

 朝日新聞は、4月7日の社説に「緊張高まる中東 ガザの戦闘 止める時だ」とともに、「ブラタモリ 独自の探究を楽しもう」を掲げた。 地質や地理が、歴史学、農学、工学、文学とも、学問分野が融合している。 専門家が自身の啓発活動を見直す機会にもなった。 いまやブラタモリという言葉は、野外調査が必要な学問を社会に広げる活動の代名詞でさえある。 専門家が自らの取り組みを「ブラ○○○」と称すると、訴求力が高まる。 金沢大学の地理学者・青木賢人准教授は公開講座を「ブラアオキ」と名付け、地域を歩いて自然条件と街の発達を解説、土地の履歴から恵みと恐ろしさが表裏一体だと説いているそうだ。 能登半島には、地震の被害を受けた千枚田のように、昔の地滑りでできた緩斜面を利用した農地が散在する。 土地の特徴の探究は、その背景にあるリスクを知り、防災にもつながる。 地元や旅先で、興味のおもむくまま自分なりの「ブラ」を深めるのは、きっと楽しいことだろう、と朝日社説は勧めている。

 学問の分野はますます専門化して、タコツボのようになっている。 世の中の役に立つためには、学際的で多様な交流が必要だろう。 一神教でなく、八百万の神の日本に存在価値がある。 雑学「等々力短信」「ブラこうじ」に我田引水lol。

等々力短信 第1177号は…2024/03/25 07:09

<等々力短信 第1177号 2024(令和6).3.25.>『池大雅―陽光の山水』展 は、3月21日にアップしました。 3月21日をご覧ください。

三浦按針研究、中村喜一さんのサイト「按針亭」2024/03/22 07:00

 15日に、NHKスペシャル『家康の世界地図~知られざるニッポン“開国”の夢』から、家康が海外に関心を持ったきっかけは、慶長5(1600)年イギリス人航海士ウィリアム・アダムス(後の三浦按針)が豊後国にオランダ船リーフデ号で漂着したことだった、と書いた。 ウィリアム・アダムス(三浦按針)については、大学時代のクラブ文化地理研究会の二年先輩の中村喜一さんが、その研究者で「按針亭」というホームページ(https://willadams.anjintei.jp/index.htm) に「三浦按針 ゆかり」を書いていらっしゃる。 中村喜一さんは、以前、「等々力短信」第1151号「ある同“窓”会の物語」(2022(令和4).1.25.)の、ドイツの詩人、ルートヴィヒ・ウーラントの「渡し場」の詩の探究から始まる同窓会メンバーのお一人だ。

  「三浦按針 ゆかり」の、三浦按針プロフィールを読む。 三浦按針(ウイリアム・アダムス)Wiliam Adamsは、イギリスのジリンガム(メッドウェイ市)で1564年に生まれた海の男。 1600年4月、関ケ原合戦の半年前、帆船(リーフデ号)に乗って九州備後(現、大分県臼杵市佐志生(さしう)黒島沖)に来航。 日本に来た初めてのイギリス人。 リーフデ号で一緒に来航したヤン・ヨーステン(耶揚子)と共に大坂城で徳川家康の引見を受け、家康から重用されて、外交顧問となり、江戸(東京都中央区)に屋敷を与えられた。

 1604年から1605年頃に家康の命により伊東(静岡県)の松川河口で日本初の洋式帆船(80トンと120トン)を建造したことにより、慶長10(1605)年に相州三浦郡逸見(現、神奈川県横須賀市)に知行地を与えられて、三浦按針と名乗った。(『徳川家康のスペイン外交』(新人物往来社)などの著書のある、鈴木かほる説では、洋式帆船建造は関ケ原合戦の直後。) 三浦按針は、「青い目のサムライ」といわれている。

 三浦按針は、家康の亡き後は、幕府が外国からの侵略を防ぐため、キリスト教を本格的に禁じる政策に転じたことから不遇であったようで、故国イギリスに帰ること叶わず、1620年5月、平戸(長崎県)で病により56歳の生涯を閉じた。

 三浦按針供養塔が、京浜急行按針塚駅(私は、こんな駅があるのも知らなかった)南方の塚山公園(横須賀市西逸見町)内の眺望の良い所にあるそうだ。 中村喜一さんに、「明治38年の按針塚発掘調査に関わる報告書を含む周辺史料群二つを発見して」や「按針塚発掘調査報告書を尋ねて」などの論文があるという。