田沼意次の「牧之原市史料館」と、坂本竜馬暗殺犯人2025/04/13 07:47

 毎月「等々力短信」に返信して下さる静岡の方から、3月の第1189号「蔦屋重三郎のサロン」に関連して長文のお手紙を頂いた。 御前崎近くの牧之原市の相良城本丸跡に「牧之原市史料館」があって、大河ドラマ『べらぼう』に関連して「蔦屋重三郎と田沼意次」を特集しているので、近く行ってみようと思っている。 そこで一つ、学芸員に聞きたいことがある、という。

 田沼意次は、徳川家重の小姓組番頭・御側から出世して一万石の大名となり、つぎの徳川家治の信任も厚く側用人となり、遠江国相良(さがら)に築城して二万石の藩主となった。 老中、五万七千石にまで進んだが、その経済政策が賄賂政治だという批判があり、嫡男意知(おきとも)が江戸城で暗殺される事件があって権勢が衰え、家治が急病死すると、失脚した。 嫡孫意明(おきあき)が家督を継いだが、一万石に減封され、陸奥国下村に転封となった。

 田沼の賄賂政治と悪くいわれる一方で、意次は、遠江国相良の国元では、町方と村方の統治を明確化し、城下町の整備、東海道藤枝宿から相良までの分岐路の整備(田沼街道・相良街道)、相良港の整備を行い、殖産興業にも力を入れた。 また、郡上一揆の調査と裁定を行なった経歴から、年貢増徴政策だけでは経済が行き詰ることを知っていて、家訓で年貢増徴を戒めたので、領内の年貢が軽いことを百姓が喜んでいたという逸話が残っている。

 静岡の読者が、学芸員に尋ねたいのは、その田沼意次でなく、坂本竜馬を殺した犯人とされる今井信郎の件だという。 犯人には諸説あるが、一応京都見廻り組の今井信郎が自供している。 法政大学の田中優子さんも、今井信郎でいいと思います、と話していたという。 今井信郎は、戊辰戦争で生き残り、牧之原茶園の開拓をして、大井川の近く現在の島田市に住んでおり、亡くなったと、本で読んだことがあったので、それを学芸員に確かめたいのだそうだ。

 私も、坂本竜馬には興味があったので、これまでにも今井信郎について書いたことがあった。 それは、また明日。

水天宮のミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクションと福沢諭吉2025/04/10 07:12

 このところ、ときたま人形町界隈に出没している。 昔、会社の帰りに立ち寄ることがあったので、多少は土地勘があった。 TBS落語研究会が、三宅坂の国立劇場小劇場を建て替えで使えなくなり、2023年11月から2024年5月まで、水天宮に近い日本橋劇場(中央区立日本橋公会堂)を使っていたので、毎月人形町へ行っていたからである。 その日本橋劇場も建て替えで、落語研究会はその後、よみうり大手町ホールでやっている。

 先日は、前から行ってみたいと思っていて、なかなか行けなかったミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクションへ、「南桂子展 小さな雲」(3月30日まで)を観に行った。 浜口陽三が精密な銅版画家で、ヤマサ醤油の創業家の出身であることは、知っていた。 創業者の浜口梧陵(儀兵衛)と福沢諭吉の関係があったからだ。 浜口陽三は、十代目浜口儀兵衛の浜口梧洞の三男として、1909(明治42)年4月5日、和歌山県有田郡広村(現、有田郡広川町)に生れ、幼少時に一家で千葉県銚子市に転居したという。

 「南桂子展 小さな雲」を後回しにして、南海トラフ巨大地震とも関連するので、浜口梧陵(儀兵衛)と大津波、和歌山と福沢諭吉・慶應義塾の関係について、書いたものをまず引いておきたい。

   大津波と浜口梧陵、和歌山と福沢・慶應義塾<小人閑居日記 2019.1.19.>

 浜口梧陵については、まだブログに配信する前の「等々力短信」に、「大津波と浜口梧陵」<等々力短信 第947号 2005.1.25.>を書いていたので、あとで引く。 和歌山と福沢諭吉・慶應義塾の関係、福沢諭吉と浜口梧陵、その和歌山教育史との関係については、下記を書いていた。
拙稿「和歌山と福沢諭吉・慶應義塾」その1<小人閑居日記 2012.9.22.>
拙稿「和歌山と福沢諭吉・慶應義塾」その2<小人閑居日記 2012.9.23.>
「紀州塾」、福沢が方向づけた和歌山の教育<小人閑居日記 2012.9.24.>
〈明治前期〉教育史と紀州の中学の個性<小人閑居日記 2012.9.25.>
県立和歌山中学と、自由民権運動の中学<小人閑居日記 2012.9.26.>

      等々力短信 第947号 2005(平成17)年1月25日
                 大津波と浜口梧陵

 番組表に「浜口梧陵」の名前があったので、13日NHK放送の“その時、歴史が動いた”「百世の安堵をはかれ―安政大地震・奇跡の復興劇」を見た。 黒船に開国を迫られた幕末の動乱期、三つの巨大地震が日本を襲った。 嘉永7(1854、改元されて安政元)年11月4日、下田でプチャーチンのディアナ号を大破した安政東海地震が発生、その30時間後の5日の夕方には、紀伊半島南部と四国南部が震度6以上の安政南海地震に見舞われ、紀伊半島南西岸から土佐湾沿岸を大津波が襲って、多数の死者が出た。 銚子と江戸で醤油醸造業(ヤマサ)を営み、半年は故郷の紀州広村(現、広川(ひろがわ)町)で暮していた浜口梧陵は、地震直後、海の様子を見に行き、真っ暗で、閃光が走り、雷のような物凄い音を聞いた。 津波の襲来を予感した梧陵は、村民に高台の八幡神社への避難を呼びかけて回り、暗闇で道がわからないと見ると、たいまつで稲むらに火を放ち、避難路を照らした。 地震発生から40分で津波の第一波が到着、5回にわたり最大5mの津波が押し寄せた。 浜から神社まで1.7km、避難には20分かかる。 津波を予感した梧陵の早い判断と的確な避難指示によって、全村民の97%の生命が救われた。

しかし地震と津波による被害は甚大で、梧陵が私財で仮小屋50軒を建て、農具などを提供しても、離村者が出るようになった。 梧陵は村人に希望と気力を取り戻させるため藩に願い出て、私財を投じ、村人の働きには給金を出し、津波を防ぐ大堤防の建設に着手する。 翌安政2(1855)年の安政江戸地震で江戸の醤油店が罹災、閉鎖に追い込まれたものの、銚子で最高の生産高を上げて堤防建設に送金し、安政5(1858)年12月、これだけの規模の盛り土堤防は世界最初、村民の自助努力で防災と生活支援を同時に実現した復興事業も画期的という「広村堤防」が完成する。 下って昭和21(1946)年、M8.0の昭和南海地震では、高さ4mの津波が襲ったが、村の大部分は被害を免れた。

『福澤諭吉書簡集』に、浜口儀兵衛(梧陵)あて書簡が3通、浜口の名の出てくる書簡が10通ある。 梧陵は慶応4(1868)年、和歌山藩の藩政改革で抜擢されて勘定奉行となり、翌明治2年藩校の学習館知事に転じ、明治3年松山棟庵の協力を得て洋学校・共立学舎を設立した。 この時、旧知の福沢を招聘しようとしたが、福沢は受けなかった。 だが二人の交際は続き、晩年の梧陵が計画し明治18(1885)年ニューヨークで客死することになる世界一周視察旅行には、福沢が格段の配慮をしている。

柚木沙弥郎さん、年の差90歳の少年との文通2025/04/09 07:08

 毎度書いているけれど、昭和50(1975)年2月に「等々力短信」の前身「広尾短信」を始めたのは、何事も電話ですます世の中に、手紙の楽しみをなんとか復活させ広められないか、ハガキでどれだけのコミュニケーションができるか実験のつもりという趣旨だった。 先日、楽しい手紙のやりとりの見本のような手紙を、NHKの『日曜美術館』「Oh! SAMMY DAY 柚木沙弥郎101年の旅」で見た。

 日本の西の方に住む10歳の田添琉乃介君は、生れた時から心臓に重い疾患を抱えていて、何度かの壮絶な手術をくぐりぬけ、酸素を吸うパイプを鼻につけてはいるが、両親に温かく見守られ、毎日絵を描いている、小三治の落語を聞きながら…。 戸棚には「琉乃介作品集」というファイルがぎっしり並んでいる。 「妖怪1000大物語」は、1番「チョキチョキ」から始まり、100番「ブイイ」を経て、現在380番まで進んでいる。 2022年4月、島根県浜田市の世界こども美術館で、100歳の柚木沙弥郎(ゆのきさみろう)さんの作品に出合い、心を動かされて、柚木さんに手紙を書いた。 書く場所の決まった便箋などでなく、絵などもまじえた自由奔放な書き振りだ。 「柚木沙弥郎さま はじめまして りゅうくんだよ 10才で絵を描いている 柚木さんの本は『千年万年』が好き 100才おめでとう これからも絵をかいてね たのしみにしてるよ 版画のワニをプレゼントします」

 さっそく柚木沙弥郎さんから5月1日付けの、大好きだというパイナップルの絵が描かれた返事が来る。 年の差90歳の友達、楽しい手紙の交流だ。

 東京帝国大学文学部美術・美術史科中退の、柚木沙弥郎の原点は、24歳で岡山倉敷の大原美術館に就職し、芹沢銈介の型絵染のカレンダーを見て、模様に開眼したことにあった。 民藝運動を提唱した柳宗悦の日本民藝館へ行き、柳宗悦に師事し、静岡由比の正雪紺屋で染物の修業をする。 1948年、独立して倉敷で紅型(びんがた)風型染布を作り始める、《近県民藝分布図》など。 「良心的なものを、心を込めてつくる、暮らしを豊かにする布を」。 型染に魅せられ工芸の道を歩んで75年、版画、切り絵、絵本など工芸の枠をこえて、自由に世界を広げていった。 宅急便の伝票裏のカーボンや、指の爪などを始め、日常的に見る形をヒントに、そのアイデアはスクラップブック80冊に、無数の模様を集めている。 「天気がよい日曜日のように、嬉しければいい、面白ければいい」と。

 2023年1月、日本民藝館で自作の展覧会。 12歳の琉乃介君の年賀状で、浜田市の展覧会に「ワクワクして」四回行ったと知り、「ワクワクしたことは一生記憶する。ワクワクした気持、情熱が、こういうものをつくる原動力になる、それがだんだん広がっていけばいい」と返信した。

 柚木沙弥郎さんは、2024年1月31日101歳で亡くなった。 琉乃介君は手紙を書く、終りに涙を流している自分の絵を描き、柚木さんが天国へ乗って行くようにと龍の作品を入れて…。 田添琉乃介君の一家は、はるばる車で東京の日本民藝館までやって来て、柚木さんの展覧会を見る。 ワクワクした琉乃介君は、柚木さんのご長男たちに落語「宿屋の富」を披露したのだった。

蔦屋重三郎のサロン<等々力短信 第1189号 2025(令和7).3.25.>2025/03/25 07:03

 本能寺の変の前、明智光秀は連歌の会で「ときは今あめ(天)が下知る五月かな」と、詠んだといわれる。 中世から日本詩歌のベースに「連」でつくる「俳諧の連歌」があった。 複数の人間の集まる場、「座」「連」でつくられるものは、それ以前から和歌、狂歌、物語、小説、絵画、演劇、音楽におよぶ日本文化の特徴であった。 それは基本的に、神の降り来たる「神座」だった。 複数の人間によって「ノリ」が生じると、個々が一人でおこなう場合の数倍の力を発揮する。 労働には早くからこの方法が取り入れられ、田植えからはじまる農耕では節目節目で、鳴り物を鳴らし、唄を唄い、踊った。 船頭も、馬子も、唄を唄った。 「連」の場のもう一つの機構は、「連なり」であり、サロンを構成する全員が集まらなくても、互いに影響を受け合い、連なりの中で才能を発見し、発見され、それを磨き、文化が形となっていく。 ここにも、時代の空気を濃厚に受けた「ノリ」が存在する。 その一例が、蔦屋重三郎のサロンであると、田中優子さんは『江戸はネットワーク』(平凡社)の「連の場」で指摘していた。

 蔦屋重三郎は吉原に生れ育ち、ガイドブック『吉原細見』を独占刊行していた鱗形屋の「改め」(編集)となって、小売取次商となる。 鱗形屋が海賊版事件で没落すると、『吉原細見』を独占、吉原大門口に書店・蔦屋耕書堂を開く。 その店に、地の利と蔦重の人柄で、吉原を使う作家や画家が集まり、サロンになっていく。 まず鱗形屋専属だった武士で黄表紙作家の朋誠堂喜三二、挿絵画家の北尾重政。 蔦屋のサロンから輩出した天才、山東京伝は当初、重政の弟子の挿絵画家、北尾政演(まさのぶ)だった。

 蔦重は、北尾重政の画で遊女を花に見立てた『一目千本』を刊行した。 吉原は江戸詰め武士の社交場でもあり、妓楼で生け花の会が開かれていた。 生け花は茶の湯に関連した武士の世界のものだろうが、その武士が江戸文化に狂歌師や戯作者として乗り出してきて、彼らの担った文化は江戸で町人文化と交叉する。 町人の版元が経営する出版業界に、多くの武士たちが、その深い教養と文化ごと入って来たのである。

 蔦重は、蔦唐丸(つたのからまる)の名で狂歌連に積極的に入り、狂歌を刊行するようになる。 天明2(1782)年秋、無名の喜多川歌麿は上野で宴席の主催者となった。 出席者は大田南畝、朱楽菅江(あけらかんこう)、恋川春町、志水燕十(しみずえんじゅう)、南陀伽紫蘭(なんだかしらん・絵師の窪俊満)、芝全交(しばぜんこう・大蔵流狂言師・山本藤十郎)、竹杖為軽(たけつえのすがる・蘭学者の森島中良)、北尾重政、勝川春章、鳥居清長など、名だたる狂歌師、絵師たちである。 おそらく蔦重の戦略で、この後、歌麿はこの狂歌連衆と組んで仕事をするようになり、「大首絵」を描くことになる。

等々力短信 第1188号は…2025/02/25 07:07

<等々力短信 第1188号 2025(令和7).2.25.>等々力短信五十年、量と質 は、2月18日にアップしました。 2月18日をご覧ください。