松下竜一と福沢評価のシーソーゲーム2012/04/29 02:19

 『父を焼く 上野英信と筑豊』の「枯れすすきの幸せ」という一篇は、大分 県中津在住の作家、松下竜一について書かれている。 苦しい豆腐屋の営みの なかから『豆腐屋の四季』という本を自費出版、それが高い評価を得て作家専 業となり、以来2004年に67歳で亡くなるまで数多くの著作を生み出した人で ある。 上野朱さんは「そのいずれにも共通するのは、歴史年表に名を残すこ とはないであろう民草の行き死にを見つめる目であり、人を欺き蹴落としてで も成り上がりたい権力の亡者や、取り返しのつかないほど自然を破壊してでも 「開発」「発展」を求める行政や財界に対して、「ちょっと待ってくれんの」と いう異議申し立てである」という。 「ちょっと待ってくれんか。ほんとにそ れが進歩なんじゃろか? それが人間の幸せなんじゃろか? という問いは、 政府や大企業といった権力だけに向けられたものではなく、たとえば原子力発 電所を作らねば電力が枯渇して原始時代に戻ってしまう、というような恫喝や 論理の欺瞞に気付かない、我々一人ひとりに対する問いかけでもある。」と(こ の本は2010年8月27日の発行)。

 松下竜一は、佐高信さんの『福沢諭吉伝説』(角川学芸出版)の冒頭にも登場 する。 松下竜一に『疾風の人』という、福沢の又従弟(またいとこ)増田宋 太郎を扱った作品がある。 尊皇攘夷思想を奉じた増田は、西洋文明の導入者 としての福沢を仇とし、暗殺しようとさえした。 そして、後に自由民権運動 に近づき、西南戦争に参加して西郷隆盛に殉じて死ぬ。 (『福澤諭吉事典』に よれば、暗殺を企てた後、みずから悟るところあって福沢の説を聞き、感服し て慶應義塾に入学、洋学を学び、在京中は福沢の家に寄寓していたという。そ の後、中津の『田舎新聞』の社長になり、民権自由の説を主張した。明治10 年の西南の役に中津藩士族を率いて西郷軍に呼応、中津支庁、大分県庁などを 襲撃したのち、薩軍に合流して転戦の末、9月24日鹿児島城山で戦死した。) 

太平洋戦争中、福沢は鬼畜米英の手先とされ、中津の旧邸には石が投げ込まれ、 小学校の講堂の福沢自筆の「独立自尊」の額もひきずりおろされ、倉庫に眠ら された。 松下は『疾風の人』の結論に「思えば、この「またいとこ」と同士 の、歴史の流れの中での評価のシーソーゲームは甚だしく劇的である。 敗戦 によって、福沢諭吉がこの国の民主主義の鼻祖として復権した時、増田宋太郎 は触れてはならぬ危険人物として被われ、性急に忘れさられていくことになっ た」と書いた。 佐高さんは、この福沢評価のシーソーゲームから、自身の「福 沢諭吉伝」を書き始めるのだ。

 佐高信さんは、松下が「反・福沢」の増田伝を書いたけれど、福沢と松下に は共通するものがある。 ユーモアのセンスである、という。 松下竜一は、 九州電力豊前火力発電所建設差し止め請求訴訟に敗れた時、「アハハハ……敗け た、敗けた」という垂れ幕を掲げた。 市民運動につきまとう悲観論、深刻癖 を吹きとばすユーモア感覚が松下にはあった。 泣かれるより哄笑される方が 相手は怖いということを松下は知っていた、というのだ。 法曹界から、権威 ある裁判をコケにしたという苦情が来た。 松下は「われわれがコケにしたの ではない。裁判所がコケにしたのだ。最終弁論さえ許さずに裁判を打ち切った “不真面目”な裁判所に恐れ入る必要はない」と書いた。 その官を恐れぬ精 神も、福沢譲りに見える、と佐高さんは書いている。

作兵衛翁を敬愛していた上野英信2012/04/28 02:33

 上野朱さんの『父を焼く 上野英信と筑豊』には、山本作兵衛が何度も登場 する。 上野英信の「筑豊文庫」には、山本作兵衛の炭鉱絵がたくさん保存さ れていた。 その保存状態を、展示のために額装した画材店のプロが褒めたと いう。 「筑豊文庫って、普通の家じゃなかったもの」と、ある人がいったの に、一同は妙に納得したそうだ。 エアコンもなければ、アルミサッシもない、 窓や戸を閉め切ったところで、風は通り放題、柱と戸の隙間からは粉雪が舞い 込み、真冬の室内は外気と大差なかった。

 山本作兵衛は、上野英信が、労働者として、記録者として、そして酒飲みと しても、最も敬愛していた人物だったという。 山本作兵衛は、桁外れの酒好 きだった。 栓を開けたままにすると、酒はどんどん蒸発して水になるという のが、作兵衛翁の信念で、必ず冷やで、器はコップか湯呑だった。 昔、自分 の父親が猪口で酒を飲んでいて、急いで飲んだはずみに猪口を喉に詰まらせて しまった。 苦しい息の下から「作兵衛よ、お前は口より小さなもので酒を飲 むな」と言い残した。 親の遺言は、何があっても守らなければならぬ、とい う理屈である。 これはもちろん作兵衛翁一流の冗談なのだが、客もその信念 と遺言に従うのが、流儀であり礼儀であった。 「自分も年をとったから、酒 は一日一升に控えるようにした」と聞いたのは、80歳を迎えた頃のことだった という。

 筑豊の記録者として生涯を貫こうとした上野英信は「作兵衛さんを尊敬せず して誰を尊敬するのか」といい、作兵衛の家をたびたび訪ねた。 一人で行く こともあれば、大切な来客を案内しても行った。 晴れ晴れと行き、晴れ晴れ と帰ってきた。 心から大切に思う人に会うことができる、おまけに同じ酒豪 である。 英信本人も、並はずれた酒好きのうえ、酒をふるまう以外に人をも てなす途を知らない人だった。 良い酒が手に入ると「水にならないうちに作 兵衛さんに飲んでもらおう」と勇んで届けに行ったものだという。

「世界記憶遺産」山本作兵衛の炭鉱絵2012/04/27 02:48

 25日の短信に「NHK「日曜美術館」で、その炭鉱の絵が世界記憶遺産に登 録された山本作兵衛を取り上げた時、上野英信の息子・朱(あかし)さんがい い人なのに感心した。」と書いた山本作兵衛のことに触れる。

 山本作兵衛(1892(明治25)~1984(昭和59))は、筑豊の地で生涯を暮 した坑夫で、明治の半ばに7歳でヤマに入り、中小炭鉱を渡り歩き、あらゆる 職種を体験、炭鉱が斜陽化し、閉山した後は不要になった機材を売り払う炭坑 の保管場所の夜警をしていた。 その夜の時間に、子供の頃絵を描くのが好き だったことを思い出し、昔のヤマの有様を、ありのままに書いておこうと思っ たという。 60歳を過ぎて始め、92歳で亡くなるまで、千枚を越すといわれ る絵を描いた。

 カンテラの照らす坑道で、背中に刺青(いれずみ)の入った半裸の男がツル ハシを振るう。 腰巻だけの、後山(あとやま)の女が、石炭をザルで函に入 れる。 男女混浴が当り前の風呂場風景、日本刀を振りかざしてのけんか騒ぎ など、くわしい説明文とともに、いろいろな炭坑風俗を、事故や道具の類など の細部まで、驚異的な記憶力をもって、余すところなく、いきいきと描いてい る。 明治から昭和にかけて、日本の近代を支えた炭鉱が、いかに過酷な世界 であったか、そしてそこに暮す人々が、どれほどたくましい生活力を持ってい たかを、山本作兵衛の「隠居仕事」が伝えることになった。 この「画家」が いなければ、忘れ去られていたかもしれない「民衆の記録」だ。 昨年、ユネ スコがその絵580点などを、日本で初めて「世界記憶遺産」に登録した所以で ある。 文章では、書き残した原稿が沢山あったのだが、差しさわりがあるか らと妻が言うので、破棄したというのは、惜しい。

 「日曜美術館」では、画家・安岡茂久馬(もくま)さんが、画集として出版 に尽力して、世に紹介したと言っていた。 山本作兵衛著『画文集 炭鉱(ヤマ) に生きる 地の底の人生記録』(講談社)が、昨年再刊されている。 『王国と 闇』(葦書房・1981年)という本もある。 その山本作兵衛、上野英信と密接 なつながりがあった。

上野英信という人2012/04/26 03:10

葉室麟さんが『蜩ノ記』で、主人公戸田秋谷のモデルにしたという上野英信 とは、どんな人だったのか。 息子の上野朱さんの『父を焼く 上野英信と筑 豊』(岩波書店)から、その足跡をたどってみたい。

本名は上野鋭之進、1923(大正12)年、周防灘に面した山口県阿知須(あ じす)に生まれた。 半農半漁の静かな所、昔は瀬戸内海を通って米や石炭を 運ぶ回船業の町として栄えた。 市場に並ぶ魚はぴちぴちと跳ねている土地、 よく獲れるアイナメは4、5月が旬で、「籾種(もみだね)失い」の異名がある。  余りの美味しさに、苗代作りに保存していた籾種まで食べてしまうということ らしい。 メバルは筍と同時期なので「タケノコメバル」、旧暦の2月8月に 鍋が割れるほど脂がのる「チン」(チヌ鯛=黒鯛)は「ニッパチ月の鍋割りヂン」 という。 どれも旨そうで、上野英信が刺身を好まなかったのは、幼い頃に食 べていた魚の味を舌が覚えていたからかもしれない、という。

父の転職で北九州の黒崎へ移り、旧制八幡中学から満洲国建国大学へ、2年 8か月を学んで1943(昭和18)年12月、兵隊に取られる。 見習士官をして いた宇品で被爆。 筑豊の独身寮や炭坑長屋に木をたくさん植えた上野が、「ぼ くは、夾竹桃は、見たくない」といっていたのは、1945年8月、広島の原子野 に、その赤い花だけが咲いていたからだ。 敗戦後、編入学した京都大学文学 部中国哲学科を中退、最終学歴を問われると「京都大学首席中退」と答えてい たという。

中退後、九州で「一生、ひとりの坑夫として生きたい」と願って、炭坑労働 者となる。 しかし、原爆症と石炭産業の斜陽化、そして文学への欲求は、ツ ルハシをペンに持ち替えさせた。 1958年、谷川雁、森崎和江らと炭坑や農山 漁村の労働者の連帯と革命を掲げた自立共同体「サークル村」を結成、機関誌 『サークル村』を刊行する。 1960(昭和35)年、『追われゆく坑夫たち』(岩 波新書)を出し、筑豊在住の記録文学者として知られるようになる。 1964(昭 和39)年、妻晴子、長男朱(1956生れ)と三人で、筑豊炭田の片隅の廃坑集 落・鞍手に移住した。 筑豊の地底から追われた炭坑夫のために一生を捧げる、 筑豊を根城として日本の近代と戦うという決意のもとに…。 競売物件の崩れ かけた炭坑長屋一棟と共同便所を9,500円で買い取り(その年、学校を出て就職した私の初任給は21,000円だった)、補修して「筑豊文庫」 と名付け、地域のための公民館兼図書館、ゆくゆくは労働者のための文化セン ターに育てたいと考えていたのだ。

上野英信は、炭坑長屋の名残をとどめる、その「筑豊文庫」で後半生を過ご し、1987(昭和62)年11月に食道がんのため64歳で亡くなった。

あと十年をどう生きるか<等々力短信 第1034号 2012. 4.25.>2012/04/25 02:49

 兄とやっていた家業のガラス工場を、円満に畳んだのは60歳の時だった。  責任のない、自由な時間がたっぷりあるのは嬉しかったが、一方で、あとは死 ぬだけだという感じもあった。 せいぜい十年かとも思った、その十年が過ぎ てしまった。 先月『福澤手帖』(福澤諭吉協会)152号に「『福翁自伝』の表 と裏―松沢弘陽さんの読みなおし―」を書かせて頂いた。 松沢さんが綿密な 校注をなさった「新日本古典文学大系 明治編」『福沢諭吉集』(岩波書店) によ って、今まで能天気に面白い面白いと、読んだ積りになっていた『福翁自伝』 が、まったく別の顔を持っていたことがわかった。 81歳の松沢さんより十歳 下の私は、この本の脚注と補注を手掛かりに、『福翁自伝』を読みなおすことか ら、つぎの十年を始めねばなるまい、と告白したのであった。

 葉室麟さんの直木賞受賞作『蜩ノ記』(祥伝社)を読んだのは、2月18日の 「週刊ブックレビュー」の特集で、私より十歳下の作者ご本人の話を聞いたか らだった。 豊後羽根藩の郡奉行から江戸の中老格用人になっていた戸田秋谷 (しゅうこく)は、殿様の側室と密通し、小姓を斬り捨てた疑いで、十年後の 切腹を命じられ、旧所領の村に幽閉、藩の家譜編纂を続けている。 切腹まで あと三年、城内で刃傷沙汰を起こした若い檀野庄三郎が、監視と家譜編纂の手 伝いに派遣される。 庄三郎は、秋谷の揺るがぬ姿勢、家族との温かい暮し、 百姓たちと共に生きようとする在り方に、共感を募らせる。

葉室麟さんは、勤め人は50歳になると、定年が見えてきて、あと十年と考 える、自分も60歳になって、あと十年という感覚があった、と話した。 残 り時間をどう生きるか、を考える。 十年後の切腹という設定は残酷だが、誰 もがいつかは死ぬ。 武士の矜持、覚悟、死の尊厳を描きたかったという。 武 士、イコール日本人のストイックで優しい生き方である。 死に向かう態度が 問題になるが、誰でも死を受け入れ、毅然として亡くなることができる。 葉 室麟さんの念頭には、筑豊炭鉱の上野英信を訪ねた体験があった。 上野は突 然やって来た若い学生に、きちんと対応してくれた。

NHK「日曜美術館」で、その炭鉱の絵が世界記憶遺産に登録された山本作兵 衛を取り上げた時、上野英信の息子・朱(あかし)さんがいい人なのに感心し た。 今、上野朱著『父を焼く 上野英信と筑豊』(岩波書店)を読んでいる。  表題の一篇は、火葬の棺に、著作にどれだけの金と時間と命を注ぎ込んだか知 り尽していた母が、最晩年の作品、大量の本を抱かせた為、係が残業して追い 炊きする大事になった話だ。