ブログ以前の「轟亭の小人閑居日記」<小人閑居日記 2019.10.12.>2019/10/12 07:02

 そんなことがあって、従来からの〔昔、書いた福沢〕シリーズの続きをASAHI ネットの電子フォーラム「等々力短信/サロン」と、ブログ「轟亭の小人閑居日 記」に発信するようにしたら、昨年5月末でASAHIネットが「電子フォーラ ム」のサービスを終了してしまった。 こういうことが起こるのだ。 ASAHI ネットがブログ「アサブロ」を引き続き長く運営してくれることを祈りつつ、 「轟亭の小人閑居日記」で〔昔、書いた福沢〕シリーズを「今、書く福沢」に つなげていきたいと毎日やっている。

 「轟亭の小人閑居日記」は、2001(平成13)年11月28日から書き始め、 ブログを始めた2005(平成17)年5月25日以前にも、電子フォーラム「等々 力短信/サロン」に出していたので、その3年半ほどの間の、ブログでは読めな い〔昔、書いた福沢〕をこれから拾ってみたい。 2001(平成13)年末とい うのは、前年暮に経営していたガラス工場の火を落とした後、残務整理と会社 清算の目途も立って、ようやく新たな生活を始めた頃であった。 福澤諭吉協 会の旅行にも参加できるようになったので、『福澤手帖』に書かせてもらったも のの、もとになった話も出てくる。  明日から、しばらく、その3年半のものを発信することにしたい。

追悼 服部禮次郎さんの温顔と心遣い〔昔、書いた福沢123〕2019/10/07 07:31

 『福澤手帖』第157号(2013(平成25)年6月)の「追悼 服部禮次郎さん の温顔と心遣い」。(写真(林荘祐さん撮影)は、もちろん『福澤手帖』非掲載 のもの)

 服部禮次郎さんには、偉い人ほど「律儀・丁寧・親切」だということを教わ った。 昨2012年夏も、暑中見舞のお葉書を頂いた。 暑中見舞を出す習慣 のない私は、直立不動で拝読したのだった。 添書に「毎々貴重な通信をお送 りいただき、ありがとう存じます。天候不順のおりからご自愛切にいのり上げ ます」とある。

私が長く続けている個人通信「等々力短信」を読んで頂くようになったのは、 1996(平成8)年5月に、佐藤朔さんの後を受けて福澤諭吉協会の理事長にな られてからだった。 以来、土曜セミナーや総会で、博覧強記の見事なスピー チや総会議長の司会ぶりを、つぶさに拝聴することになった。

協会の史蹟見学会の旅行などでご一緒するようになって、直接お話を伺い、 いろいろと教えて頂く機会もできた。 毎回、企画の段階から周到に計画を練 られ、きちんと下見をなさって、解説の冊子まで準備されていた。 ご著書『福 澤諭吉と門下生たち』(慶應義塾大学出版会)の、「福澤諭吉ゆかりの史蹟めぐ り」の章を読むと、中津、大阪、横浜、久里浜・浦賀、名塩・有馬・三田(さ んだ)・京都、浜松・鳥羽・近江、上州・信州、長岡・小千谷・柏崎、長沼・佐 倉など、ご一緒した旅行でのあれこれが思い出される。 慶應連合三田会会長 の威力(ただ、それだけでないことは後述する)は抜群で、各地の三田会の方々 は、われわれ福澤協会一行を暖かく迎えて下さり、とてもいい思いをさせて頂 くことが出来た。

2005(平成17)年10月の鳥羽の御木本真珠島では、VIPルームにゆったり 座って海女の実演を見ることが出来た。 孫の門野進一さん・豊子さんご夫妻 に迎えられた門野幾之進記念館では、靄渓山人、門野幾之進の横額「源泉滾々」 の滾々(こんこん)が読めずにいると、服部さんが『福翁百余話』にあると教 えて下さった。 『福翁百余話』八「智徳の独立」に、「独立自尊の本心は百行 (ひゃっこう)の源泉にして、源泉滾々到らざる所なし。是れぞ智徳の基礎の 堅固なるものにして、君子の言行は他動に非ず都(すべ)て自発なりと知るべ し」。 福沢精神の核心、まさに源泉なのであった。

2007(平成19)年10月の軽井沢では、万平ホテル勤務の私の友人がもたら した情報に興味を示された。 福沢一太郎の長女遊喜(雪)は小山完吾に嫁し たが、小諸の小山家の蔵にその荷物があるというのだった。 服部さんは、早 速ご存知の小山家の関係者に問い合わせる調査をなさっている。

旅行の最後を締めるご挨拶にも、毎回感心した。 旅行の意義を見事に総括 なさった後、関係者への感謝はもとより、バスの運転手さんやガイドさんにも、 配慮を忘れなかった。

 雲の上のような方だったのに、私のような者でも、対等に扱って下さった。 2003(平成15)年10月に『福澤諭吉かるた』を出された時には、交詢社の土 曜セミナーで「このかるたの元祖は、馬場さん」と、言って下さった。 その 年の2月、私が「福沢諭吉いろはがるた」を試作していたからである。 服部 版は「い 一月十日は生誕記念日」「ろ ロンドン・パリーをつぶさに視察」「は  母・兄一人・姉三人」と、福沢の一生を扱ったもので、私のは「は 馬鹿不平 多し(全集二十巻、472頁)」「つ つまらぬは、大人の人見知り(百話九十八)」 「ね 鼠を捕らんとすれば、猫より進むべし(百話五十六)」と、福沢の言葉で つくったものだった。

 一番の思い出は、わが生涯の最良の日となった2009(平成21)年7月4日、 友人たちが青山ダイヤモンドホールで開いてくれた「『等々力短信』千号を祝う 会」である。 服部さんはこうした会にもご出席下さったばかりでなく、祝辞 に当って、わざわざ馬場夫婦を壇上に上げ、とくに家内の「等々力短信」千号 への貢献に言及して下さったのだった。

 服部さんの温顔と濃やかな心遣いは、接する者に等しく、温かい気持と笑顔 をもたらした。 この一文を書かせて頂いて、それが人を動かす力を持ってい たことに、改めて気づいた。 慶應義塾にとっても、福沢研究においても、大 きな貢献をされた大切な方であった。

ある老作家の人生<等々力短信 第1123号 2019(令和元).9.25.>2019/09/25 07:01

 2月の1116号で乙川優三郎さんの『二十五年後の読書』を紹介した。 最後に著者が仕 組んだのは、老境のスランプに陥った作家が書き下ろしの新作に挑み、生きる気力を失っ てスールー海で静養中の愛人の書評家に、編集者がその書評を依頼に来る話だった。 そ の題名は『この地上において私たちを満足させるもの』(新潮社)と長い。

 高橋光洋(こうよう)は、71歳になる今も小説を書いているが、二、三十枚の短篇しか 書かなくなっていた。 胃癌の手術後、故郷の反対側、御宿の高台に海を見晴らす終の棲 家を求め、家政婦としてフィリピンから来て5年のソニアと暮らしている。

 高橋家は、東京の下町で大衆食堂を営んでいたが、父が出征、祖父母と母と兄は店員の 縁故で袖ケ浦に疎開した。 家は東京大空襲で焼け、復員した父は虚無感から働かず、戦 後は農業と母の担ぎ屋で暮す貧苦のどん底の中、光洋は生れ育つ。 4歳の時、父は肺結核 で死んだ。 16歳の冬が最初で、心臓に強い痛みを覚える発作を繰り返すようになる。 彼 は、これからはいつ死んでもいいような生き方をしなければなるまいと、考えた。 よく て40年の人生と思い定めて、残る20余年を有意義に生きる。 自分らしい生活を築き、 世界の知恵から学び、誰かを愛し、酒と料理の美しい食卓を愉しむ。

 母が妊娠して家を出、兄が五枚の田圃と生活苦を背負う。 臨海部の製鉄所に勤めた光 洋は、独身寮で読書と音楽に慰めを求めた。 旬の作家に有吉や曾野、庄司や五木がおり、 「ゲバラ日記」、ヘミングウェイやチェーホフやユゴーから世界のありさまや人間を学んで いった。 スペインになんとなく憧れて、いつか外国へ行くために、英語を独学した。 社 員の事故死の労災認定で会社を告発する先輩に誘われ、少し関係したことで、年収の数年 分を得、退職して世界旅行に旅立つ。 パリの丘の上の下町、ベルヴィルで絵の修業をす る日本人女性の部屋、スペインのコスタ・デル・ソルでヘミングウェイの息子と称する乞 食の家、マニラの白タクの運転手ドディの家を泊まり歩く。 ドディの妹、シングルマザ ーのラブリイの娘の教育資金に、カジノで一か八かの勝負をして得た大金を渡し、会議場 での働きぶりを見て誘われたパラオのホテルへ旅立つ。

 帰国し下落合の御留山で、新人賞を目指す作家生活に入り、佐川景子という編集者に恵 まれる。 50歳で名のある文学賞を受賞した後、優秀な編集者で未亡人、46歳の矢頭早苗 と月島に住む。 早苗は明るく、光洋をよく励ましたが、忙し過ぎて先に死んだ。

今日という日をとにかく生きて笑う。 老いても精魂を傾けることがあるのは幸せだと 思う。 たとえ十行でも佳い文章が書ければ作家の良心を維持できる。 共に暮らす素直 で勉強家のソニアは、日本永住を決意した。 ドディの孫娘だった。

                                  (轟亭・馬場紘二)

 「『桃源の水脈』を尋ねて」を7月の1121号に書きましたが、リニューアルされた大倉 集古館で、『桃源郷展』―蕪村・呉春が夢みたもの―が開催中です。 11月17日まで(月 曜休館)。 呉春、幻の屏風初公開!―蕪村から呉春へ、受け継がれる思い。 大倉集古館 は、東京都港区虎ノ門2-10-3 電話03-5575-5711  http://www.shukokan.org

バルトンとバートン(4)〔昔、書いた福沢112-4〕2019/09/15 07:53

    三 スコットランドの家系探索

 没後百年バルトン忌のシンポジウムで、日本スコットランド協会理事稲永丈 夫さんから、W・K・バルトンの家系探索が着々と進んでいるという報告があ った。 稲永さんを通じて、バルトンやバートンをめぐるエピソードや曽孫鳥 海幸子さんのことが、スコットランドに伝えられ、4月には現地の新聞ザ・ヘ ラルドに、5月にはエジンバラ・イブニング・ニューズ紙に記事が掲載された。  するとバルトンの母方、イネス家の子孫にあたる女性が名乗り出られ、7月現 地調査に赴いた稲永さんに、鳥海幸子さんをぜひスコットランドに招きたいと 語ったという。 その調査で稲永さんは、バルトンの家系図の空白をかなり埋 め、ジョン・ヒル・バートンやコスモ・イネスの墓石も確認してきている。 ジ ョン・ヒル・バートンの生地アバディーンの図書館では、クレイグ教授の論文 の脚注にも出てくるジョン・ヒル・バートン著『ブック・ハンター』1882年版 所収のキャサリン夫人(W・K・バルトンの母)の「ジョン・ヒル・バートン・ メモアー」を読んできた。 手紙がふんだんに挿入された、達意の文章だそう だ。 ジョン・ヒルが最初の夫人を亡くした時、無二の親友であったコスモ・ イネスとの長い散歩が慰めであり、6年後イネスの娘キャサリンと結婚するこ とになる。

    四 シャーロック・ホームズの登場

 7月、日本シャーロック・ホームズ・クラブのメンバーが、青山墓地のバル トンの墓を訪ねた。 メンバーからの問い合わせで、水道関係のバルトン研究 者とのつながりも出来た。 没後百年バルトン忌で、シャーロック・ホームズ 研究家の石井貴志さんは、W・K・バルトンと、シャーロック・ホームズの作 者で3歳下のアーサー・コナン・ドイル(1859-1930)が、1860年代、スコッ トランドのエディンバラで兄弟のようになかよく幼少年時代を過ごした親友だ ったという話をした。 ジョン・ヒル・バートン家が、物心両面でドイル家を 援助していたためだそうだ。 やがてドイルは医師になったが、ドイルの短編 小説にバルトンが実名で登場したり、来日後のバルトンが英国の写真雑誌に連 載していた評論記事の原稿料をドイルが送金したりと、二人の友情は終生変る ことなく続いた。 バルトンの急逝がなければ、コナン・ドイルは日本を訪問 する予定だったという。

バルトンとバートン(3)〔昔、書いた福沢112-3〕2019/09/14 07:18

              W・K・バルトン余滴

 この「等々力短信」を読まれた福澤諭吉協会の竹田行之氏から、さらなる調 査と、その『福澤手帖』での報告を依頼されながら、私の怠慢のために今日ま で報告が遅れてしまった。 それはW・K・バルトン関係で、いくつか確認し たいことがあったためでもある。 なかなか調査が進められないのだけれど、 没後百年をきっかけに、本稿を書いたのは、福澤諭吉協会の皆様にジョン・ヒ ル・バートン、W・K・バルトン親子にかかわる興味深い事実をご紹介し、広 く研究を進めていただきたいと考えたからである。

   一 滝本誠一教授

 バルトンの遺児多満(明治24年生れ)さんの長女たへさんは昭和9年、京 都の日出新聞学芸部記者(のちに朝日新聞学芸部記者)の鳥海一郎さんと結婚 した。 一郎さんは母上が鳥海神社宮司の家系であるため鳥海姓を継いでいた が、父上は慶應義塾大学経済学部教授の滝本誠一博士であった。 たへさんの 長女、バルトンの曽孫にあたる鳥海幸子さんは、没後百年バルトン忌にも参加 されていたが、滝本誠一教授の著書『欧州経済史』を所蔵しておられる。 稲 場日出子さんは、W・K・バルトン没後百年特集(上)を組んだ『水道公論』 誌1999年7月号に「バルトン家と福沢諭吉」という一文を寄せ、「『欧州経済 史』は、まさに『西洋事情』の続編ともいうべき内容である。滝本博士は、将 来子息の夫人になる人の曾祖父がその本の原著者であることなど想像もせずに 教室で図書館で『西洋事情外編』を手にされたに違いない」と書いておられる。  おそらく、その通りであったのだろう。 厳密には『三田評論』『三田学会雑誌』 などのバックナンバーで、滝本誠一教授の論文等を調べる必要があろうが、そ こまで及べないでいる。 『慶應義塾百年史』第一章「総合大学の確立」に、 大正11(1922)年度の慶應義塾学事及び会計報告から大学各学部と予科の教員 氏名が出ている。 文学部の日本経済史と経済学部の中古経済史、日本経済史、 研究会の担当として法学博士滝本誠一の名前がある。 「チェンバーズの『政 治経済学』」は、高橋誠一郎先生が昭和の初め、イギリスの古書目録の中から発 見して取り寄せるまで、日本では誰もこれを知らなかったという。(富田正文『考 証 福沢諭吉』上) 高橋誠一郎先生ご自身は、留学中に買い集めて来た本の中 にあったと書いている。(『随筆 慶應義塾』266頁) 滝本教授が高橋先生から、 この本の話を聞いた可能性はある。 滝本誠一博士は、1932(昭和7)年8月 に亡くなっている。 アルバート・M・クレイグ教授の論文「ジョン・ヒル・ バートンと福沢諭吉」は、ずっと下って、1983(昭和58)年4月の成稿、1984 (昭和59)年10月西川俊作教授による翻訳が『福澤諭吉年鑑』11に、原文は 1985(昭和60)年3月慶應義塾福沢研究センター紀要『近代日本研究』第1 号に掲載された。

    二 永井荷風の父と長与専斎

 W・K・バルトンは、どのようにして来日することになったか。 稲場紀久 雄教授の『都市の医師』によれば、日本は1886(明治19)年悲惨なコレラの 大流行に襲われた。 そこで上下水道工学をイギリスに学ぶため新進気鋭の学 者を招聘する必要があるという意見が興る。 それより先、内務省衛生局の有 能な事務官永井久一郎(作家永井荷風の父)は、1884(明治17)年5月から 翌18年9月まで主に英・独・仏の上下水道を視察調査した。 渡英直後の明 治17年7月、ロンドンで万国衛生博覧会が開催された。 当時の衛生局長長 与専斎の自伝『松香私志』に「バルトンは、英国の工学士にして倫敦市の水道 事務局に勤務し、衛生工事には熟練の人なりしを、先年倫敦に万国衛生会を開 かれるとき、衛生局より永井(久一郎)出張してその会に参列しけるが、この 時よりバルトンと知るに至り、帰京ののち推薦するところありき」とあるそう だ。