慶應三連覇を逃す、東京六大学野球・春のリーグ戦2022/05/20 06:58

 東京六大学野球、春のリーグ戦、13日に「春の東京六大学野球、慶應のこれまで」を書き、17日には<等々力短信 第1155号 2022(令和4).5.25.>「慶應野球と福沢諭吉」を早めに発信して、「12時から1勝1敗になった慶明の三回戦があります。勝てば、三連覇に近づきます。」と追伸したのだった。 ところが、慶明三回戦、5回までに明治に10点取られ、慶應は4回萩尾のソロホームランのみ1対10とリードされた。 7回、8回に3点ずつ取って、あと3点と追いかけて試合を面白くしたものの、8回裏に駄目押しの2点を取られ、7対12で敗れた。

 福澤諭吉記念 慶應義塾史展示館、6月6日からの企画展示室の特別展「慶應野球と近代日本」は、都倉武之副館長が期待していたであろう「三連覇記念」を冠せることをは、残念ながら出来なかった。 前田祐吉監督でさえ、18年で8回のリーグ優勝だった。 ドンマイ、ドンマイというところだろう。 そうそう、短信に何人か特別展「慶應野球と近代日本」を見に行くという反響があって、とても嬉しかった。

 春のリーグ戦の優勝は、明日からの第7週、立教と明治の対戦で、勝点を取ったほうが優勝となる。

慶應野球と福沢諭吉<等々力短信 第1155号 2022(令和4).5.25.>2022/05/17 08:09

 5月11日、ひさしぶりに福澤諭吉協会の一日史蹟見学会があった。 時節柄一日ではなく半日で、「慶應義塾展示館を見る」。 まず演説館で、展示館の開設を準備し、副館長を務める都倉武之さんの話を聴いた。 福澤諭吉記念 慶應義塾史展示館は、赤レンガの旧図書館の二階にあり、無料で一般公開されている(月~土 10時~18時)。

 約150点の資料を展示する常設展示室(私の頃の大閲覧室)では、慶應義塾史=「近代日本の格闘そのもの」というコンセプトで、展示した。 福沢を語ることは、近代日本を語るということだ。 福沢の成功物語、完成した偉人伝として描くのではない。 格闘者、挫折者としての福沢、文字だけでなく、行動と激励の人だった福沢の不成功物語として描こうとした。 福沢の主張は結局かなりの部分、未完成で、まだまだほとんど実現していない。 現在進行形だから価値があり、その歴史が示す多くの未解決の課題を提示し、なぜ受け入れられなかったのか、なぜ実現しないかを来場者に考えてもらいたい。 福沢、慶應が本来秘めている激しい反骨精神を内外に意識づけたい、と言う。

 展示の構成は、「颯々の章」福沢諭吉の出発、「智勇の章」文明の創造と学問の力、「独立自尊の章」私立の矜持と苦悩、「人間交際の章」男女・家族・義塾・社会。

 企画展示室の特別展は、開館当初「慶応四年五月十五日」彰義隊の戦争時もウェーランド経済書の講義が行われた学問の伝統についてで、6月6日からは「慶應野球と近代日本」が始まる(8月13日まで)。 2022年は、日本人への野球伝来150年にあたる。 木村毅によると、福沢がアメリカから持ち帰った本Wilson First Reader(1860年出版)に野球の絵があった。 福沢の時事新報論説「体育の目的を忘るゝ勿れ」(体育会創立の翌年、明治26年3月22日)は、健康な身体が学問をやる基礎で、独立の人を支える一要素だと説く。 慶應義塾は日本野球史に欠かせない数々の足跡を刻み、野球部は「エンジョイ・ベースボール」をモットーに、野球界に広く普及した早稲田式の「一球入魂」「野球道」とは、異なるスポーツ観を提示してきた。

 2期18年にわたって野球部の監督を務め8回のリーグ優勝をした、前田祐吉さんの昭和62年のノートが常設展に展示されている。 「坊主頭は決して高校生らしくない」「グラウンドへのお辞儀は虚礼」「なぜ大声を出し続けるのか」「野球だけでは人間はできない」 このノートに、福沢諭吉が随所に出てくる。 福沢精神の本質は、時流におもねることなく、広い見識にもとづく自己の信念を貫く勇気と反骨である。 福沢を理解し、それを自分のフィールドで活かそうとした前田監督のような人々の連なりが、慶應義塾を始め、いろいろな所で生まれ続けているのが福沢の傑出したところだと、都倉さんは言う。


最近、ブログに下記を出しましたので、覗いてみて下さい。今日、 5月17日12時から1勝1敗になった慶明の三回戦があります。勝 てば、三連覇に近づきます。

春の東京六大学野球、慶應のこれまで<小人閑居日記 2022.5.13.> http://kbaba.asablo.jp/blog/2022/05/13/9490081

慶應野球部出身のプロ選手活躍<小人閑居日記 2022.5.14.> baba.asablo.jp/blog/2022/05/14/9490447

国連を解体し、世界連邦へ<等々力短信 第1154号 2022(令和4).4.25.>2022/04/11 06:58

ウクライナのゼレンスキー大統領は、4月5日、国連安全保障理事会でオンライン演説を行った。 「ロシア軍は我々の国に奉仕した人びとを探し出し、意図的に殺している」と、首都近郊のブチャの惨状を語りつつ、「第二次世界大戦以来、最も凶悪な戦争犯罪」とロシア軍を非難した。 ブチャでの「大虐殺」は「多くの事例の一つにすぎない。世界が全容を知らない都市がまだたくさんある」とも語った。 そして「われわれが相手にしているのは、安保理の拒否権を、死なせる権利に変えようとしている国家だ」と指摘し、常任理事国としてのロシアの拒否権を問題視した。 安全保障理事会の会合は1月末以来、5日で15回目だが、法的拘束力のある安保理決議は一つも採択できていない。 ゼレンスキー氏は、同じことが繰り返されないようにするために「ロシア軍、彼らに命令を下した者たちを、戦争犯罪として裁くこと」が重要だと訴えた。 そして安保理や国連について、「このままでは、各国が自国の安全を確保するために、国際法や国際機関ではなく、武器の力だけに頼るという結末が待っている」と語った。 「安保理が保証せねばならない安全保障はどこにある。安保理は存在しても、何事もなかったかのようだ。国連の創設目的だった平和はどこだ。」と指摘、「国連を解体する覚悟はあるか。国際法の時代は終わったと考えているのか」と問いかけ、「答えが『ノー』なら、すぐに行動する必要がある」とし、例外や特権なく、平和の力が支配的になるような安全保障システム作りをする必要性を訴えた。 そして最後にこう述べた、「我々には平和が必要だ。ウクライナ、欧州、世界に平和が必要だ。」

 もし化学兵器が使われた場合、ウクライナ国民を保護する責任があるとして、NATO側が通常兵器での介入に踏み切る可能性がある。 核兵器が使われれば、NATO側の介入はさらに大規模になり、いずれは米国も軍を派遣し、核使用の可能性もある第三次世界大戦になるだろう。 そうした危機感からG20首脳とグテーレス国連事務総長は、密かにジュネーブに集まり、人類の破滅を防ぐため重大な決断をした。 ゼレンスキー大統領の国連安全保障理事会での演説を、現実のものにすることを決めたのだ。

国連を解体し、国際法に準拠した世界連邦憲法を持つ世界連邦を創設する。 憲法は、「世界人民は、正義と秩序を基調とする世界平和を誠実に希求し、戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、永久に放棄する。核兵器はもちろん兵器は全て廃棄する」と定めた。 ゼレンスキー氏を世界連邦大統領とし、副大統領にはメルケル氏、アメリカ州知事はバイデン氏、ロシア州知事はご老体ながらゴルバチョフ氏、日本州知事は岸田文雄氏。 平和のことならば、エープリルフールは4月中有効としよう。

<等々力短信 第1153号>は、2022/03/25 07:24

<等々力短信 第1153号 2022(令和4).3.25.>「津田梅子の父、仙」は、 3月14日にアップしました。3月14日をご覧ください。

江上剛さんの『創世(はじまり)の日』を読む2022/03/18 07:15

 文字通り「巻措く能わざる」を経験した。 2月の「等々力短信」第1152号「文京区へ「小さな旅」」に書いた、江上剛さんの『創世(はじまり)の日 巨大財閥解体と総帥の決断』(朝日新聞出版)である。 短信を長く読んでもらっている高校の同級生が、実は江上剛さんとゴルフ仲間だったのだ。 短信のコピーを江上さんに届けたところ、『一冊の本』2月号の巻頭随筆「なぜ私だけが苦しむのか」と、『創世(はじまり)の日』のサイン本を送ってくれたという。 それで友人はすでに入手してあった本を、私に贈ってくれたのだ。

 私は短信に、「岩崎久彌は彌太郎らと違い、書き物を一切残していない、戦後の財閥解体で、東洋文庫、清澄庭園など多くの岩崎家の資産を公的団体に寄付した。 江上さんは「神のものは神に返しなさい」という聖句を思い出し、久彌の潔さに感動した、という。」と書いた。 久彌が寄付した資産には、東洋文庫の近くの六義園もあった。 さらに、清澄庭園と六義園の東京市への寄付は、「戦後の財閥解体」前で、清澄庭園は大正13(1924)年、六義園は昭和13(1938)年のことだった。 東洋文庫だけは、戦後の財閥解体の混乱で散逸の危機に瀕したが、昭和22(1947)年に理事長に就任した幣原喜重郎元首相の尽力で、国会が支援に乗り出し、昭和23(1948)年同じく三菱財閥傘下の静嘉堂文庫とともに、発足したばかりの国立国会図書館の支部となったのだそうだ。

 『創世(はじまり)の日』は巻末に沢山の参考文献が列挙されているが、フィクションだから、三菱財閥、岩崎家は花浦家になっている。 三菱、創業者は岩崎彌太郎、二代目は弟の彌之助、三代目は彌太郎の長男久彌、四代目は彌之助の長男小彌太である。 花浦家では、岩崎彌太郎が花浦弥兵衛、弟の彌之助は真兵衛、三代目久彌は久兵衛、四代目小彌太は藤兵衛という名になっている。 物語は、三代目久彌の久兵衛が主人公だ。

 岩崎久彌は、明治26(1893)年に三菱合資会社社長に就任し、大正5(1916)年に退任している。 慶応元(1865)年、彌太郎の長男として土佐国安芸(あき)郡井ノ口村で誕生し、明治8(1875)年に慶應義塾幼稚舎に入り、3年後に父が開設した三菱商業学校を経て、慶應義塾普通部を卒業後、明治19(1886)年にアメリカに留学、明治21(1888)年ペンシルヴェニア大学ウォートン・スクールに入った。(久彌がペンシルヴェニア大学のあったフィラデルフィアで、三菱商業学校で教わった馬場辰猪の病気と客死の面倒をみた話は、岩崎久弥・叔父弥之助と馬場辰猪<小人閑居日記 2010.12.26.>、「外からの改革」と馬場辰猪の客死<小人閑居日記 2016.7.11.>に書いた。)

 『日本歴史大事典』に、岩崎久彌は「温和で地味な性格で自然を愛し、小岩井農場や東山農場(とうざんのうじょう)(韓国)をはじめ、多くの農場を経営。一門の長者としてシンボル的な存在であり、三菱財閥の実際の経営は叔父の彌之助や従弟の小彌太が指揮した。」(三島康雄)とあった。