咸臨丸の一生<等々力短信 第1191号 2025(令和7).5.25.>5/23発信 ― 2025/05/23 07:03
咸臨丸の一生<等々力短信 第1191号 2025(令和7).5.25.>
文芸誌『雷鼓』の誌友、志摩泰子さんが『関寛斎評伝 医は仁なり』を自費出版された。 関寛斎(1830(文政3)年~1913(大正2)年)は、幕末・明治期の蘭方医で、上総(現、東金市)に生れ、佐倉順天堂の佐藤泰然に入門、銚子の浜口梧陵の支援で長崎に赴きポンペに学んだ。 のち、徳島藩医となり、戊辰戦争では新政府軍の奥羽野戦病院頭取を務め、晩年は北海道開拓に尽力した。 志摩さんは、徳島のお生れで、夫君の赴任でオランダ生活もされ、千葉県で刊行されていた『雷鼓』の誌友との関係など、関寛斎との地縁があった。 長く関寛斎に関心を持って、調査を続け、幕末史も渉猟して、4年がかりで原稿用紙500枚に綴ったものを、厳選、推敲してまとめられた。
黒船来航、日米和親条約締結の後、安政2年幕府は長崎海軍伝習所を創った。 安政4年その第二次教師団とともに、出島の商館医としてポンペ・フォン・メーデルフォールトが、幕府が新たに注文した軍艦ヤパン号(日本丸)でやってきた。 ロッテルダム近くのライン河口キンデル・ダイクの造船所で造られた、このヤパン号こそ、和名咸臨丸である。 万延元年、日米修好通商条約批准のための遣米使節団を乗せた米軍艦ポーハタン号に随行して、木村摂津守喜毅、勝海舟、小野友五郎、福沢諭吉、ジョン・万次郎を乗せて太平洋を渡る。 万延元年11月、31歳の関寛斎は長崎に留学する。 3年前に師泰然の次男松本良順の働きかけで設置された長崎養生所医学校で、このポンペに西洋医学を学ぶ。 ポンペ講義録や解剖記録をまとめ、『七新薬』三巻を刊行した。
咸臨丸は、戊辰戦争で、慶応4年8月海軍副総裁榎本武揚の指揮下で、旧幕府艦隊として江戸から奥羽越列藩同盟の支援に向かうが、銚子沖で暴風雨に遭い艦隊とはぐれ、下田港に漂着。 修理のため徳川家のお膝元、清水港に入港し、白布を振っているにもかかわらず新政府軍によって乗組員は惨殺されてしまう。 清水次郎長は、「死ねば皆仏」と遺体を引き揚げ、寺に埋葬した。 その後、咸臨丸は新政府軍の手に渡り、帆船として民間に貸与され運搬船で使われた。 最後は旧仙台藩白石城主である片倉小十郎邦憲の家来の蝦夷地移住者398人を乗せて小樽に向う途中、激しい暴風雨に見舞われ、木古内町の更木崎の暗礁に乗り上げた。 乗船者は無事陸地に辿り着いたが、咸臨丸は明治4年9月25日未明、更木崎に沈没した。 この片倉家家臣団の中に、俳優大泉洋の高祖父、大泉善八郎が乗っていたと、「咸臨丸の一生」という章にある。
長く福沢諭吉から幕末史をかじってきた私も、木村摂津守喜毅の渡米に際し父喜彦が家宝や財産を処分して公費以外に三千両を用意したことなどを始め、多くの詳細なエピソードを本書から学ぶことができた。 労作の見事な誕生を讃えたい。
「花に 雲に 海に 風に」 ― 2025/05/10 06:58
「花に 雲に 海に 風に」
等々力短信 第496号 平成元(1989)年5月15日
隠岐島からの「飯美便り」は、’89・2・16・付の№316を最後に、永久に頂けないことになってしまった(この号は11月下旬からのご闘病中、唯一の「飯美便り」で、おそらく渾身の力をふりしぼって、お書きになられたものであろう)。 横田武さんが4月28日に亡くなられたことを知らせる奥様からのお葉書は、宛名が横田武さんそっくりの筆跡だった。 ただ宛名の下が、空白になっている。 その空白が、悲しい。 そこはいつも横田さんが、題字と詩を書かれていたスペースだった。
’88・9・9・№313「光に風に緑に水に」 静かな心 静かな心は/照らされている心/静かな心は/仰ぎみている心//静かな心は/待ちわびている心〈信州にて〉
’88・5・26・№309「お寒いことで」 日常 いま/せんならんことを/一生懸命でする/ただ それだけで/そんなつね日ごろ/いまの重味/いま三昧/いま
’87・12・20・№304「暖冬」 書く 字も/文も/いまの/自分を/書いて/いるんですね
昨年の夏、布施村が朝日森林文化賞の優秀賞を受けたことをきっかけとして、等々力短信に「森を守る村」「ノリノス・メノハノス」「神在る里」の隠岐シリーズを書いた。 横田さんはたいへん喜ばれ、「この冬にでも、この里の習俗を書き留めてみようかなどと」思っているというお手紙を下さったのだが、残念ながらその時間はなかったのではなかろうか。 ’88・11・10・№315には、もうご不調だったろう10月下旬。 兵庫県柏原町で開かれた「巨木を語るフォーラム」に出張された記事が見え、添え書きに「巨木フォーラムで「森を守る村」が六百の全員にコピーして配られました おゆるしを」とあった。
横田武さんは、ふるさと隠岐の教育に生涯を捧げられた方で、小学校長を定年退職後も、隠岐に住んで、地域の発展のためにつくし、隠岐を愛し、隠岐を書きつづけてこられた。 その著『隠岐の四季 わたしの心象風景』の序文で、横田さんの先生である森信三さんに「『天』はあの隠岐という日本海上に孤絶する一小島にも、著者のごとき一偉材を配して、遠く民族の心ある人々のために、その断面の概要を残さしめられたとしか、この書の感慨は表白の仕様がないのである」と言わしめた。 その本に、独特の温かい書体で、サインして下さっている。 「花に 雲に 海に 風に」。 ご冥福をいのる。
「森を守る村」 ― 2025/05/09 06:59
森を守る村
等々力短信 第468号 昭和63(1988)年7月25日
隠岐島の布施村が、朝日森林文化賞の優秀賞を受けるという6月27日付け朝日新聞朝刊を読んで、うれしくなり、すぐ布施村飯美の横田武さんに、お祝いのハガキを出した。 横田さんは、隠岐の自然と風土、その四季の移りかわりを、手書き謄写版刷りのハガキ通信「いいび便り」に綴って(ほぼ月一回)送り続けていらっしゃる。 私が『五の日の手紙』の本を出した時、息子の同級生のお祖父様である横田さんが、この道の大先輩であることが、わかった。 以来、「いいび便り」と「等々力短信」の交換をさせていただいている。 だから「隠岐」や「布施村」という字を見ると、とても親しい感じがする。
私のハガキに対して、横田さんは、さっそく「’88・7・1・天然林が森林文化賞に輝いた日に」という、ご署名入りの『造林始祖二百年祭記念誌』を送って下さった。 布施村は、昨、昭和62年11月3日、造林始祖二百年祭を挙行して、江戸時代の享保年間に、貧しかったこの村で、杉の植林の事業を始めた五人の人物に感謝状を贈ったのだ。 杉を植えることを教えた老医と、その教えを実践した当時の若者四人に、である。 その人々の先見と努力が、布施村林業の、ひいては隠岐島林業の礎になったためだそうだ。
「故 藤野孫一殿 あなたは 享保の昔 旧元屋村 原玄琢翁に教を受け 郷党相計り相扶け 荒地を開墾し杉の植林に 刻苦精励されました このことが 本村林業の先駆となり 経済基盤の確立ともなりました」。 布施村長の感謝状の「あなたは 享保の昔」という書き出しの文句には、感動した。 五人の始祖の子孫の人々が、島内はもとより松江や茨木、西宮から駆けつけ、揃って式典に参列しているのも、とてもよい。
隠岐布施村の、この話には、都会にあって、めまぐるしい変化にさらされながら、毎日を送っている私たちが、忘れてしまった大切なものが、あるような気がした。 なつかしい、あたたかい心がある。 なによりも「物指し」の長いところが、いい。 輸入材の方が安いからといって、日本中の森林を荒廃するにまかせておいて、いいはずがない。 森林の生育には、五十年、六十年という歳月を必要とすることを考える時、この「物指し」の長さは、とても大切なことに思われるのだ。
「伐採すれば、村はその利子だけで食っていけるが、山はもうおしまいだ」。 優秀賞の天然林について、大田正春村長はそう語ったそうだ。 村は超過疎で、財政もひっぱくしている。 それでもなお、天然林を守ろうという心意気が、すばらしい。
「ぷろふぃる 三人三様」と道元「愛語」の世界 ― 2025/05/08 06:55
私が隠岐の島の先生、横田武さんと知り合った事情は、「等々力短信」に書いたことがあるので、いずれ引くけれど、『花蓮陀の本 慈』の巻末に「ぷろふぃる 三人三様」というのを、発行所の手鞠舎主人が書いている。 「横田先生は隠岐布施村生れ。1910年のこと。だから歳は勘定しやすい。島根師範を出てからずっと島の先生だった。横田先生の先生は哲学者森信三先生。森先生は横田先生の前著『隠岐の四季』の序文に「天は隠岐という日本海に孤絶する一小島に著者如き偉材を配した」と記す。横田先生の純真さは間違いなく隠岐の風土が生み育てたものだ。」
画の佐藤勝彦さんは、「勝彦さんは無茶苦茶である。その無茶苦茶が風穴を開ける。だから勝彦さんの周囲はいつも涼風が吹き抜けている。この風通しのよさの由来をたどると、大連1940年生れにゆきあたる。鳥取大学を終えて奈良帝塚山学園小学部の絵の先生である。一人一光、生命全開と叫ぶ勝彦さんはやはり型破りな先生らしい。」
序文の渡辺誠弥さんを、「ジャンボさん、と皆がそうよぶ。185センチ、85キロ。あるときジャンボには英語でノロマの意があるというとスワヒリ語でコンニチワの意もあるとの返事。これはいゝ。縁こそ財(たから)がジャンボさんの口癖だからだ。挨拶は縁の始まり。房州育ち1941年生。NHKの現役アナウンサーである。」
今回、改めて『花蓮陀の本 慈』を再読して、その渡辺誠弥さんの序に、驚いたのだった。 私の寝室の頭の上に架けてある良寛書の道元禅師の「愛語」が出てきたからである。(永青文庫の「心のふるさと良寛」展<小人閑居日記 2018.5.17.>参照)
「私は横田先生の詩と佐藤先生の画を拝見したとき、これは道元さん云う処の愛語の世界だなと思いました。愛語というのは道元さんの正法眼蔵に出てくる言葉です。
道元さんは愛語について次のような言葉を添えております。
「慈念することなほ赤子のごとしおもひをたくはへて言語するは愛語なり」と。
さらに言葉をくわえて
「愛語よく廻天のちからあることを学すべきなり」とも。
相手を慈しむ心から生まれた言葉というものは聞く人の人生を変えるぐらいの大きな力があるものですよと道元さんはおしえてくれています。
その意味で詩画一体となったこの『花蓮陀の本 慈』は文字通り愛語の世界、慈しみの本です。」
『花蓮陀の本 慈』横田武さんの詩 ― 2025/05/07 07:01
顔
人さまの顔は
見えるのに
自分の顔は
見えない
人さまのことは
わかるのに
自分のことは
わからない
このように造られた
ふしぎをおもう
わたし
これっぽっちしか
できないんです
それでいい
それでいいのですね
あれも これも
ではなくて
あれか これか
なのですね
天来の惠
長寿の要諦は
粗食
ですと
まったく
有難いことに
ござります
ひかえて
ひかえて
日々
生かされて
ある
よろこびを
くらしの
なかに
ねむり
一日のおわりに
ねむりがあり
一生のおわりに
ねむりがあり
平安なる
ねむりのために
一日一生がある
ふと
そんな想念
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