井波律子さん、映画2千本観て育った中国文学者2020/10/13 06:54

 中国文学者の井波律子さんが、5月13日に76歳で亡くなった。 新聞の訃報や評伝を読んで、身近な感じがしたのは、年齢が近いせいもあるが、小学生のころ、京都・西陣の家に近い映画館街に通いつめ、中学に入る前に都合2千本も観て、自分を「耳年増」と表現していた、というからだった。 私も両親や、5歳上の兄に連れられて、2千本とまではいえないが、同じ時期の映画を沢山観ている。

 そんな井波律子さんだから、「天声人語」子は、彼女の手にかかると、教室であれほど無味乾燥だった中国史の登場人物にたちまち血が通う、たとえば王莽(おうもう)、前漢を倒し、新という王朝を興した男を「裸の王様」と呼び、聖人君子のふりを演じ続けたペテン師と切り捨てた、と書く。

 名誉教授の井波さんを、国際日本文化研究センター所長の井上章一さんは、こう書いている。 完訳『三国志演義』の翻訳進行中、こぼれ話をしばしば聞いた。 『演義』では、呂布(りょふ)がイケメンになっているけれど、後世が、彼の美形伝説をふくらませたのよ。 だけど、周瑜(しゅうゆ)は正史の『三国志』でも、美将とされていた。 彼の美貌は史実ね。 『三国志曼荼羅』の、関羽と部下の惜別場面の翻訳では、涙がとまらず、ほとんど慟哭しながら、キーボードを叩きつづけた。 読み手の感涙をそそろうとする通俗読み物の手管に、ひややかな目をむけてはいない。 そこはわかったうえで、涙がながせる人だった、と。 そして、エンタメ文芸への共感のいっぽう、井波さんの文章も、機知の心地良さには心をくだいていた、と書いている。

 井波律子さんの本を、読んでみたくなるではないか。 と、本棚を見たら、井波律子著『奇人と異才の中国史』(岩波新書)が積ん読にしてあった。 書評でも見て、買ったのだろう。

『二十四の瞳』の朗読を聴く<等々力短信 第1132号 2020(令和2).6.25.>2020/06/25 06:57

 Stay Home中、パソコン、スマホで聴くNHK「らじる・らじる」の朗読で、 壺井栄の『二十四の瞳』を聴いた(7月2日まで)。 俳優の藤沢恵麻の朗読 だが、淡々と落ち着いた雰囲気がとてもよく、唱歌なども歌う。 『二十四の 瞳』の映画は、木下恵介監督、高峰秀子の主演、昭和29年9月公開の松竹作 品だから、観たのは中学1年生の時だった。 美しい瀬戸内海、小豆島の岬の 分教場、自転車に乗ってやってくる女先生と12人の子供たちの話だというぐ らいで、内容はほとんど憶えていなかった。

 職員室の隣の宿直室に夫婦で住み込む、定年前の男先生が3、4年を受け持 ち、若いおなご先生が、1、2年とぜんぶの唱歌と4年の女生徒の裁縫を教える。  岬の子も5年からは、5キロ先の本校に通う。 今までのおなご先生は、女学 校出え出え、つまり正規の師範出ではなく、芋女といわれた女学校出の準教員 だった。 大石久子は師範出、本校の先の一本松から8キロの道を、洋服に自 転車で赴任して、村人を驚かせた。

2月に第一回の普通選挙があった昭和3年4月4日のことだった。 担任の 1年生は豆腐屋のソンキ磯吉、米屋の竹一、キッチン吉次、おせっかいのニタ 仁太、網元のタンコ正、大工のマッちゃん松江、ミイさんミサ子、料理屋のマ アちゃんマスノ、庄屋の旧家富士子、内気な早苗、チリリン屋(便利屋)のか べこっつる加部小ツル、泣き虫コトエ。 男5人女7人12名の家庭の事情は、 仁太と小ツルがいれば、すぐに判った。

 二学期の初め、二百十日の嵐の翌日、子供たちと浜に打ち上げられた石を片 付けて、「あわてどこ屋」など歌った後、大石小石先生はアキレス腱を切って入 院してしまう。 唱歌は男先生がオルガンの稽古をして、ドレミでなくヒフミ で、「千引きの岩は重からず/国家につくす義は重し」という「千引きの岩」を 教えたりした。 大石先生を慕う1年生たちは相談し、親に内緒で8キロの道 を歩いて、先生を見舞いに行くのだ。

後任はもうすぐ40歳の「老朽」後藤先生と決まり、大石先生は本校に転任 となる。 不景気、東北や北海道の飢饉、満州事変、上海事変がつづいて起こ り、昭和8年、5年生になった岬の子らの担任となる。 不況でズックの運動 靴やアルマイトの弁当箱を買うのも容易ではない。 軍国主義と治安維持法が 学校にも入り込み、同僚がアカだと警察に引っ張られる。 それは大石先生に 消し難いかげりをもたらし、教壇を離れる。 船員と結婚し、息子2人と娘を 産む。 戦争は夫と娘、岬の3人の教え子を奪った。

 教師になった早苗の計らいで、昭和21年、再び岬の分教場に赴任する。 病 死したコトエの墓、兵隊墓の仁太、竹一、正を参り、5月マスノの料理屋で歓 迎会が開かれる。 早苗、小ツル、ミサ子、松江、吉次、失明して除隊になっ た磯吉が集まる。

ニュース映画専門劇場2020/06/23 07:17

 高校は慶應義塾志木高校、中延の家を出て、東急池上線の荏原中延から五反田、山手線に乗り換えて池袋まで行き、東武東上線で志木まで通った。 東上線の準急に乗れても、1時間半弱かかった。 今、最寄りの自由が丘駅に行くと、志木行きの直通電車などが来て、夢のようだ。 通学途中には、渋谷、新宿、池袋があって、寄り道するところにはことかかなかった。 逗子、鎌倉から、朝日の昇るのを見ながら、通ってくる友達と、帰りによく渋谷で下車した。 新宿と池袋は、ちょっと怖かった。 寄り道して、遊ぶといっても、初心な高校生だから、大したことはしない。 喫茶店でコーヒーを飲んで、おしゃべりをするぐらいだ。 ロロという店や、コロンバンに行った。 もう一つ、ちょうど東急文化会館(今のヒカリエの所)が出来た頃で、地下にニュース映画専門の映画館(東急ジャーナルという名前だったか)があって、入場料が10円と高校生にはもってこいの値段、映画を観る気分も味わえるので、よく行った。 日本と海外のニュース映画を7、8本も上映していただろうか。

 「消えた映画館の記憶」の「1960年の映画館」に、渋谷以外にも、ニュース映画専門の映画館があったことが出ていた。 日劇ニュース、神田ニュース(神田鍛冶町1-5)、東京ニュース劇場(京橋1-2)、新橋ニュース劇場(芝新橋3-6)、内外ニュース劇場(角筈2-78)、新宿ニュース劇場(角筈3-25)。 渋谷以外では、ニュース映画専門の映画館に行ったことはなかった。

 なお、ついでに見てみた「1953年の映画館」に、スバル座(有楽町)の次に、オリオン座(有楽町)があった。 私が長く探していた映画館の名前は、オリオン座だったようだ。 死んだ兄に聞けば、たちまちわかるのにと、改めて思った。

 昨夜、風呂に入っていて、中延の(住所は戸越かと思う)タンクのニュース映画を観た映画館の名は、デンキカン(電気館)だったのではないか、と頭に浮かんだ。

ニュース映画というものがあった2020/06/22 06:51

 タンク(戦車)が轟音とともに、客席で観ている私たちの方に迫ってきて、 目をつぶる。 タンクは頭の上を越していく。 物心ついて最初の映画の記憶 は、ニュース映画の、そんな恐ろしい場面だった。 中延の家から、第二京浜 国道を五反田方面、戸越銀座の方へ行くと、ロータリーがあって交番があった。  家と、そのロータリーの中間の右角に、映画館があった。 名前は憶えていな い。 そこで観たのだ。 戦争中のニュース映画だったのだろう。 とすると、 太平洋戦争が始まる年の4月に生まれた私は、昭和20年5月24日夜の空襲の 記憶が、最初の記憶だと思って書いてきたのを、訂正しなければならない。

 以前は、一般の映画作品の上映前に、ニュース映画が2、3本上映された。  日本のニュース映画と、外国のニュース映画。 今は、おびただしい数の騒が しい予告編とCMが15分以上も流れて、毎度閉口する。 ニュース映画、タ イトルバックの緊迫の音楽に、独特な早口のアナウンス、なかなかいいもので、 私は好きだった。 スケートリンクのレーンで、丸い石を投げて滑らせ、箒の ようなもので掃く、滑稽で不思議な競技のあることも、たびたび観た。 カー リングというものだと知ったのは、ずっと後のことである。

 最近どこかで、ニュース映画が上映されるようになったのは、戦前の国策宣 伝のためであったというのを、読んでなるほどと思ったのだが、どこだったか。  タンク(戦車)が轟音とともに、迫ってきたのは、そんなニュース映画だった のだろう。 ウィキペディアの「ニュース映画」には、1941(昭和16)年以 降、終戦までの情報統制で、自由な製作はできなくなり、全国の映画館で上映 が義務付けられていた。 また皇室、戦争・皇軍に関連したもの、国外ニュー スの一部については陸軍省・海軍省の厳格な審査・検閲が必要で、「陸軍省(海 軍省)検閲済」の字幕が表示された。 それ以前1934(昭和9)年頃から、ト ーキーの発達に伴い新聞社を主体にニュース映画の製作が活発になっていたが、 皇室、大日本帝国国軍関連のニュースについては、必ず冒頭に取り上げられた。  それらのニュースでは、敬意を表するために、画面右端に「脱帽」の大きな縦 書きの文字が入った、とある。

映画とそれを観た映画館2020/06/21 08:07

朝、BSプレミアムで朝ドラ『エール』を見て、火野正平の「にっぽん縦断 こ ころ旅」を見る。 先日、その後にやる予告で、ジェームズ・スチュワートと キム・ノヴァク主演のヒッチコック監督の映画『めまい』を放送する、という のをやっていた。 それで思い出したのが、ヒッチコック監督の映画『裏窓』 だ。 ジェームズ・スチュワートとグレース・ケリーの主演で、兄と「恵比寿 本庄(ほんじょう)」という映画館で観たことを思い出したのだ。 映画とそれ を観た映画館を、分かちがたく記憶しているのは、子供でまだ頭が柔らかかっ たせいなのかもしれない。

 「恵比寿本庄」、不思議な名前だ。 本庄さんという人が経営していたのだろ うか。 インターネットを「恵比寿本庄」で検索したら、「消えた映画館の記憶」 の「1960年の映画館」という有難いものを書いている人が出てきた。 渋谷区 33館の内に、「エビス本庄映画場(公会堂通1)」があった。 「映画場」とい うのが、時代を感じさせる。

 「1960年の映画館」を参考にしながら、思い出す。 当時、よく観たのが、 品川区の映画館だ。 中延の自宅近くの、荏原センター劇場(松竹と日活)、荏 原オデオン座(洋画)。 五反田の五反田セントラル、五反田大映、五反田名画 座、五反田劇場、五反田東映。 武蔵小山の武蔵小山大映、プリンス座、南星 座、巴里座、バラ座。 大井町の大井昭栄館、大井映画座。 目黒区になるが、 目黒東宝、目黒スカラ座、自由ヶ丘南風座、自由ヶ丘ロマンス座、自由ヶ丘武 蔵野館。  日比谷と銀座では、有楽座、日比谷映画劇場、日劇、丸の内東宝、日劇ニュ ース劇場、ピカデリー、スバル座、テアトル銀座、テアトル東京、銀座文化、 並木座、東劇、松竹セントラル。

 ところで、火事で焼ける前のスバル座の隣にあった映画館の名前がどうして も思い出せない。 ご存知の方は、是非ともお教え下さい。