大相撲幕内力士[富士組]6名[海組]5名2023/11/24 07:00

 幕内力士42名を醜名(しこな)の末尾で分類してみた。 「四股名」は当て字とする『広辞苑』が例に挙げている梅ヶ谷・常陸山の「谷」は、今いない。 関脇・明武谷というのがいたな。 「川」も最近見ない、大関・清水川。 「岩」もいない、大関・名寄岩、私も古いね、『名寄岩 涙の敢斗賞』という映画があった。 昭和31(1956)年の日活作品。 小杉勇監督、池波正太郎原作、名寄岩を岩壁静男、ほかに高田敏江、山根寿子、滝沢修、沢村國太郎、芦川いづみの出演。

ベストスリーは[富士組]6名、[海組]5名、[山組][龍組]3名。 個人的に好きなのは[猿組][春組][炎組]、そして、建設かソレっぽい[遠藤組][山本組]。 [若組]琴ノ若は、まもなく[桜組]になれそうな勢いだ。

[富士組]照ノ富士 北勝富士 翠富士 熱海富士 宝富士 錦富士
[海組]湘南乃海 御嶽海 平戸海 佐田の海 美ノ海
[山組]朝乃山 豪ノ山 金峰山
[龍組]豊昇龍 妙義龍 東白龍
[勝組]貴景勝 隆の勝
[翔組]大栄翔 剣翔
[鵬組]北青鵬 王鵬
[島組]霧島
[春組]若元春
[若組]琴ノ若
[炎組]阿炎
[良組]宇良
[代組]正代
[生組]明生
[安組]高安
[猿組]翔猿
[木組]錦木
[咲組]阿武咲
[電組]竜電
[鷲組]玉鷲
[遠藤組]遠藤
[雅組]狼雅
[若組]北の若
[風組]友風
[山本組]一山本
[光組]琴恵光

もうちょっと勉強して、と吉永小百合2023/10/03 07:10

 渡哲也も、高倉健も、樹木希林もなくなって、ひとりぼっちになってしまった。 『こんにちは、母さん』の撮影途中まで、吉永小百合は、山田洋次監督とのこの映画を最後の作品にすることも考えていたようだ。 見学に来た犬童一心監督(天海祐希と共演した『最高の人生の見つけ方』の)にも、引退をほのめかしていた。 山田監督は、「吉永小百合、最後の映画」なんて、見たくないと言う。 「依然として、なんかこうフレッシュで、依然として美しくて、引退なんてふさわしくない。」 「同じ問題は、僕にもある。僕だってもうそろそろ引退だけど、最後の映画なんて作りたくない。作り終えて『その次作りたかったけれど、できなかった』ってことで、それでいいわけであってね。」

 テロップ…「終わりを決めるのは、自分ではない。」

 試写会を見終わった吉永小百合は、こう話した。 「私はもうちょっと、もうちょっとやらないと。うまくならなくてもいいの。もう芝居してないように見えるくらいに、透明感を持ちたいという、ちょっとまだね。もうちょっと勉強して、もうちょっと表現力、力をつけたいって、今、思ってますね。」

 9月1日の初日舞台挨拶でも、「123本でやめようと思っていた。1、2、3で外に飛び出すような数なんで、もう少しやってみようと思っています」と言った。 大泉洋も、永野芽郁も笑いながら拍手し、あの田中泯さえ大口を開けて笑っていた。

 プロフェッショナルとは? 山田洋次監督は、「息子や孫の代の人間がその仕事を見て、ああ、いい仕事をしているなと思うようなことを、俺はやらなきゃならないという良心を持っている。いいものを作りたいという思いを持っている。それがプロフェッショナルというもんじゃないの。」と。

 テロップ…「二人は祈る。この仕事が誰かの希望になればいいと。」

山田洋次監督、92歳の果たせぬ夢2023/10/02 07:01

 山田洋次監督は、撮影開始にあたって、100人を超えるスタッフに、こんな話をした。 「昔から映画に「艶(つや)」があるということが言われた。「艶」とは何か。スタッフの気持、その映画に寄せた気持が、その映画作りに皆が抱いていた喜びが、画面に不思議に出る(映る)のが映画だし、それを信じなきゃいけない。」

「映画には、魂が映る。魂があるかどうかっていうのは、いちばん大事なんじゃないかな。どんだけその作品に愛情を持っているか。どれくらいその映画を大事に思って作ったかという。それが必ずフィルムに映るんだということを信じなきゃいけない、監督ってのはね。」

 山田監督は『プロフェッショナル仕事の流儀』のカメラに向かっても、こう語った。 「映画を見終わってね、ふと観客が大笑いしても、涙を拭いてもいいんだけども、ふと元気になるっていうかな、『明日からまた俺も頑張っていこう』って思うような映画を作れば、文句ないね。さらに言えば、『ああ笑った、笑った、腹減っちゃった』、そんなふうに人を笑わせる映画を作れれば、もっともっと、夢だね、僕のね。果たせぬ夢です。」

 今年2月28日、『こんにちは、母さん』、身内の完成試写会に、風邪で欠席した山田監督の挨拶。 「映画作りは、いつでも後悔の塊のようなものです。演出はミスだらけ、演技だって完成にほど遠いことは、俳優さんご自身がいちばん感じているところだろうけど。しかし、それを超えたもの、何か願いとか祈りとか、そんな種類のことが、作品全体から匂ってきてはいないだろうか。というようなことを、僕はひそかに思っています。」

 『こんにちは、母さん』のラストで、福江の吉永小百合は、美しい笑顔で、こう言い放った。 「しょうがない、母さんの出番だね。悲しんでばかりいる場合じゃないね。」

「ふたりのキネマ 山田洋次と吉永小百合」2023/10/01 06:35

 90作を監督した巨匠と、123本の映画で80作以上の主演をした女優。 山田洋次監督は、人としての吉永小百合を高く評価し、吉永のための映画の企画を考え続けてきた。 『母べえ』(2008(平成20)年)、『おとうと』(2010(平成22)年)、『母と暮せば』(2015(平成27)年)。 母三部作の『母べえ』と『母と暮せば』については、この日記の9月22日~25日に、『おとうと』は「等々力短信」第1027号 2011(平成23).9.25.に書いた。

 山田洋次監督は、言う。 「小百合さんと仕事をするってのは、大きな喜びだからね。あの豊かな人格に触れられるってことですよね。小百合さんは、特別なんだからねえ、感受性から思想から生き方、全てにおいてね。小百合さんはそういう位置にいる人なんじゃないかな。」

吉永小百合は、「今回の監督の思いはすごいですよ。今までと全然違う。ひとつずつ、1カット、1カット考えて、本当に鋭利なナイフで切っていくようなね。」と言い、その矛先は吉永にも向けられたと語る。

 吉永小百合にも、山田監督は厳しい。 教会で牧師(寺尾聡)の説教を聞いているシーンで、吉永に耳打ちして、はっきり聞いていると、自然にそれが出ると指摘する。 「『自然な芝居』と『リアルな芝居』は違うんだ。そういう意味で自然じゃなきゃいけませんよ。自然な芝居なら子供でもできる。子供のほうがうまい。犬や猫はもっとうまいけどな。」

 78歳での主演、セリフの覚えが悪くなったと、撮影の合間に、何度もセリフを繰り返している。 足袋用の工業用ミシンで、牧師さんに上履きをつくる大事なシーンでは、足袋職人の女性に来てもらって指導を仰ぎ、家でも目が真っ赤になるまで練習していたと、マネージャーがその女性に明かしたという。 この場面、唯一、山田洋次監督からお褒めの言葉が出た。 撮影に立ち会った指導の女性に、吉永がお礼を言うと、その人が目のあたりを拭いていた。

吉永小百合の結婚2023/09/30 07:08

 27日放送のNHK『プロフェッショナル仕事の流儀』「ふたりのキネマ 山田洋次と吉永小百合」を見た。 昨年10月1日からの映画『こんにちは、母さん』の撮影現場に密着した。 山田洋次監督(先日誕生日を迎えて)92歳、吉永小百合78歳。

 9月21日の<小人閑居日記>「吉永小百合『男はつらいよ』寅さんのマドンナ二本」に、渥美清がからんだ、その事情を書いたように、山田洋次監督と吉永小百合、1972(昭和47)年の『男はつらいよ 柴又慕情』のマドンナが最初だった。 当時の吉永小百合は、一年に10本も映画に出ている超売れっ子の「時の人」だったけれど、日記に「私は、魂のない人形」と書いていたという。 そこへ山田洋次監督から手紙が届いた。 「とらやに遊びに来るような気持で来て下さい」とのひと言があり、吉永はもうちょっと肩の力を抜いて、その場に行けばいいのだろうと感じ、とっても気持が楽になったのを覚えているそうだ。 それは求められる役を演ずる現場とは、どこか違っていた。 「作品に対する向き合い方がとても柔らかくて、普通って言うか、特別なことをするんじゃなくて、なんか語り合いながら一つの作品を作っていくという。その風情は、今まで出て来た映画とまた違う感じがしましたね。」

 撮影を終った時、押し込めて来たものが、こみ上げて来た。 「自分に、正直に、生きたい」 「『もう一回、人間らしい生活をしてみよう』というふうに思ったんですね。それで結婚して一年間休んで…。その一年は、とても大きな一年だった。もしあのとき休んでなかったら、途中でどうなっていたか分からないっていうかね。俳優を続けることができなかったような気がするんですけどね。『山田学校』って、私が言っていますけれども、私にとっては学校。」

 山田洋次監督は、朝日新聞連載の「夢をつくる」19回(7月8日)「吉永小百合さんを迎えた喜び」に、こう書いている。 「この作品(『男はつらいよ 柴又慕情』)が超満員の劇場で封切られてしばらくすると、小百合さんは結婚して日本中のサユリストをがっかりさせることになるのだけど、彼女が結婚を決めたのはロケ先で渥美さんと語り合ったことが大きく影響したようです。/『小百合ちゃん、役者なんていつやめたっていいんだよ。自分の人生が大事なんだ、役者をやめたら自分でなくなるなんて考えちゃだめだよ』というようなことを言われて、そのとき結婚を決めた、という話を小百合さんから直接、僕も少々がっかりしながら聞いたものでした。」

 1年ほどの休養の後、吉永小百合は1974(昭和49)年の山田洋次監督の『男はつらいよ 寅次郎恋やつれ』で二度目のマドンナになった。