野口米次郎とイサム・ノグチ ― 2025/01/11 07:02
友人の宮川幸雄さんに「「イサム・ノグチ」への旅」というエッセイがある(2003年10月『うらら』47号所収)。 ドウス昌代さんの『イサム・ノグチ―宿命の越境者』(2000年)を読んでいない私は、宮川さんの文章で知ったことが、いくつもあった。
宮川さんは、長年をかけ旧東海道を少しずつ歩いて踏破しようとしているが、その途次、藤沢で偶然、野口米次郎の墓を見つける。 JR藤沢駅から遊行寺の方角へ向かった本町四丁目という宿場町の真ん中、本陣跡の近くにある常光寺の境内にあり、碑面には Yone Noguchi とあるだけだそうだ。 野口米次郎は1947(昭和22)年、疎開先の現在の茨城県水海道市豊岡で亡くなった。 享年71歳。 息子イサム・ノグチの、戦後の活躍を見ることは出来なかった。 その死の直前、夫人と子供たちを集め、「アメリカにいるお前たちがまだ会ったことのない兄が、日本に訪ねてきた時には、心から歓迎してやってくれ」と言ったそうである。
ドウス昌代さんの本によれば、として、宮川さんは書く。 野口米次郎が慶應義塾大学文科教授に就任したのは明治39(1906)年、その翌年にノグチ・イサムを母親と共に日本に呼び寄せている。 野口米次郎は帰国後、既に結婚していたので二重生活だった。 ノグチ・イサムは、明治40年から、13歳になる大正8(1919)年まで日本で教育を受けている。 ノグチ・イサムは、父親の籍に入れてもらうこともなく、「父親がいた生活というものは、まったく記憶にない」と言っているそうだ。 そのような変則的な親子関係なのに、二人にはまるで一子相伝のように似た行動様式が見られる(宮川さんは一例に、二人の「インドへの関心」を挙げるのだが、それは略す)。 ノグチ・イサムがコロンビア大学医学部進学課程に在学していた時、客員教授の野口英世から「君にはお父さんと同じ芸術家の血が流れている。休むことなく頑張りなさい。君はきっとすばらしい芸術家になれることだろう」と助言を受けたことに通じるものだという。
映画『レオニー』で、その助言と励ましは、一貫して母レオニーのものだった。 日本の学校でいじめられ登校拒否になったイサムに、家を建てるので、そのプランを練ってみろと、言ったのは母レオニーだ。 イサムは三角の土地に「三角の家」を設計し、富士山がよく見える「丸窓」を母に贈る。 レオニーは13歳のイサムを単身アメリカに送り出す。 第一次世界大戦が勃発して、学校が閉鎖、連絡も取れなくなるが、親切なE・A・ラムリーが父親代わりになってくれ、高校を優秀な成績で出て、名門コロンビア大学の医学部へ進んだ。 妹アイリスを連れて、ニューヨークに戻ったレオニーが、「芸術家」への道を強力に勧めて、上の野口英世の言葉を述べ、マンハッタンの美術学校に入ることになる。
野口米次郎の詩から<小人閑居日記 2010.12.24.>
野口米次郎は、どんな詩を書いたのか。 初めに略歴を調べるのに参照した、角川文庫『現代詩人全集』第二巻近代IIから、引いてみる。
「私は太陽を崇拝する」という詩には、こんな部分がある。
私は女を禮拝する……
恋愛のためでなく、恋愛の追憶のために。
恋愛は枯れるであらうが、追憶は永遠に青い
私は追憶の泉から、春の歓喜を汲むであらう
「一提案」(部分)
百尺竿頭一歩を進むといふ言葉がありますが、
詩の妙諦もそこですよ、
(中略)
私の詩は(かう申すと大袈裟に聞えませうが)
諸君が到着した所から踏みだして、
人間性の傾向と霊の可能に向つて、
一生面を開拓しようとする努力にあります。
諸君の詩は諸君が歩く道程の説明として有益でありませうが、
私の詩は私が建築する新しい世界の報告に止まります。
(中略)
私も人間として私の存在の原子(エレメント)にかへるといふことを尊重しますが、
それは軈(やが)ては上昇するといふ上に於てのみ是認されます。
詩人が自分の生活と自然の環境を説明するに止まつたならば、
彼は月給で働く一書記に過ぎないではありませんか。
脚注のようなもの。 「百尺竿頭一歩を進む」…すでに工夫を尽くした上にさらに向上の工夫を加える。また、十分に言葉を尽くした後にさらに進めて説く。(『広辞苑』)
「私の存在の原子(エレメント)にかへる」…偶然、「是にて自分も元素に復して死するを得」という、幸徳秋水が最期に面会した堺枯川に語った言葉が帯にある『朝日新聞の記事にみる 追悼録〔明治〕』(朝日文庫)が、机の上にあった。 その言葉の前段は「自分は死刑の申渡を受けたる後初めて一切の責任を解除されたるが如き心地したり」となっている。
ヨネ・ノグチ=野口米次郎と、映画『レオニー』 ― 2025/01/10 07:02
ヨネ・ノグチ、野口米次郎<小人閑居日記 2010.12.20.>
奥山春枝と同じ1890(明治23)年に、慶應義塾に入った野口米次郎について調べる気になったのは、映画『レオニー』を観たからだ。
野口米次郎は、詩人、慶應義塾大学部文学科初代教授。 1875(明治8)年、愛知県海部郡津島町(現津島市)に生れた。 慶應義塾で英語、歴史、経済学を学んだが卒業せず、1893(明治26)年19歳の時単身アメリカに渡る。 雑役夫などをして苦学の後、オークランドの詩人ウォーキン・ミラーの学僕となって詩作に関心を持ち、詩壇への登場も助けられた。 渡米後三年目に第一詩集『Seen and Unseen』(1897)を出版して注目された。 その後1902(明治35)年イギリスに渡り、ロンドンで『From the Eastern Sea』(1903)を自費出版して、トーマス・ハーディやアーサー・シモンズから賞賛を受け、英国の詩人たちと往来するようになった。 1904(明治37)年、11年ぶりで帰国、慶應義塾の英文学教授となり、以後40年間にわたって詩の講義を担当した。 「あやめ會」を起して詩人の国際的交流を図り、1913(大正2)年イギリスの詩人W・B・イエイツに招かれて、1914(大正3)年にオックスフォード大学などで日本の詩について講演を行った。 これらの講演は『The Spirit of Japanese Poetry』(1914)、『The Spirit of Japanese Art』(1915)として刊行され、「ヨネ・ノグチ」の盛名を馳せた。 浮世絵や能に造詣が深く、のちに『六大浮世絵師』(1919)などを出している。 日本語の詩集としては『二重国籍者の詩』(1921)、『林檎一つ落つ』『沈黙の血汐』(1922)、『山上に立つ』(1923)、『表象抒情詩』全四巻その他があり、多量の芸術、詩歌に関する著作がある。 1947(昭和22)年7月13日没、享年71。 墓所は神奈川県藤沢市の常光寺。 息子に彫刻家のイサム・ノグチがいる。
以上は、『慶應義塾史事典』「野口米次郎」(この項、新倉俊一さん)と、角川文庫『現代詩人全集』第二巻近代IIの略歴によった。 前者で1897年とある『Seen and Unseen』は、渡米後三年目=1896年の出版かもしれない。 映画プログラムの研究者星野文子さんの記述、『明界と幽界』は1896年。
『レオニー』という映画は、ニューヨークで野口米次郎と恋に落ちて、1904年ロサンゼルスでイサム・ノグチを産んだ、レオニー・ギルモアの物語である。
ヨネ・ノグチを支えたレオニー・ギルモア<小人閑居日記 2010.12.21.>
映画『レオニー』で、英国の女優エミリー・モーティマーが演じたレオニー・ギルモアは、1901年にフィラデルフィアの名門女子大ブリンマーを卒業(在学中にソルボンヌへも留学)、編集者になりたいという夢を捨てきれないまま、ニューヨークで教鞭をとっていた。 新聞で編集者募集の三行広告を見つけて、日本から来た青年詩人ヨネ・ノグチ、野口米次郎に出会い、雇われることになる。
プログラムにある星野文子(国際基督教大学大学院博士後期課程)さんの研究エッセイによると、1896年、日本人として初めて英詩集『明界と幽界』(『Seen and Unseen』)をカリフォルニア州で出版し、「東洋のホイットマン」などと賞賛されたヨネは、文筆業での成功を夢見てニューヨークに赴いた。 そのために英語添削者を新聞広告で募集したところ、応募してきたのがレオニー・ギルモアだった。 二人三脚の文筆業は、頻繁な手紙のやり取りと会談で行われていたことが、当時のヨネの書簡からわかるのだそうだ。 最初に取り掛かったのがヨネ初めての小説『日本少女の米国日記』だった。 書簡からは、ヨネがレオニーに積極的な添削を求め、レオニーもその要望に献身的に応えて、この小説はニューヨークで出版される。 ヨネはロンドンに渡り、英米で成功することになるが、それを全面的に支えたのはレオニーであった。
レオニーは、なぜここまでヨネに尽くしたか。 星野文子さんは、レオニーには、英語での小説家として、また、詩人としての成功という無謀な夢を抱くヨネに、芸術家としての素質が見え、そこに惹かれたためではないか、そして、何があろうと、芸術家ヨネを支え続けることこそ、自分の使命と感じたためでないのか、という。
映画で、ヨネ・野口米次郎を演じて、英語でしゃべるのが中村獅童(観客が、その私生活と重ねて見てしまうところが微妙だ)。 レオニーが妊娠したことを喜んで、白い百合の花を買って帰ってきたのに、「嘘だ」と叫んで、百合をぶちまける「悪いヤツ」だ。 1904年、野口米次郎は一人日本に帰り、レオニーはロサンゼルスの母親のところへ行って、男の子を産む。 1907年、日露戦後の排日の動きもあり、レオニーは3歳の子供を連れて、日本にやって来る。 森鴎外の『舞姫』、アンナ・ベルタ・ルイーゼ・ヴィーゲルトの一件を思わせる。 横浜港で出迎え、わが子にイサム(勇)と名付け、住まいと女中、定収入に三人の英会話の生徒を用意していた野口米次郎だったが、実は日本に正式な妻がいたのだった(しかも帰国後の結婚らしい)。 日本では普通のことだと、うそぶくヨネは、「悪いヤツ」である。
レオニーも、監督も、女優も…<小人閑居日記 2010.12.22.>
映画『レオニー』の松井久子監督(64)は7年前に、ノンフィクション作家ドウス昌代さんの『イサム・ノグチ―宿命の越境者』を読んで、レオニー・ギルモアという女性の存在を知り、即座にレオニーの生涯を映画化したいと思ったそうだ。 「米国人の女性が100年前に日本に渡り、一人で子育てをするのはどれほど困難だったか。自分で人生を切り開いていく彼女の姿を、女性たちに伝えたいと思った」と、朝日新聞の諸麦美紀記者に話している。 この松井久子監督の人生そのものが、レオニーに重なるのだ。 その11月3日付朝日朝刊の記事によると、大学を出てすぐに同級生と結婚し、27歳で息子を産んだ。 生活のために始めた芸能雑誌のフリーライターの仕事が順調になればなるほど、物書きを目指す夫と気持がすれ違い、33歳で離婚。 息子の存在が大きな支えとなり、自分で何でも決断するキャリアウーマンの道を歩む。 俳優のマネジャーになり、俳優プロダクションを設立、39歳でテレビ番組の制作会社を立ち上げた。 中学を卒業した息子が留学したいと言い出し、「仕送り地獄」をがんばった。 50歳で撮った監督デビュー作『ユキエ』、5年後の『折り梅』、観客動員数は合せて200万人を突破し、各地で自主上映会が続いているという。
『レオニー』も、製作費13億円を集めるのに6年。 撮影と編集に1年かかった。 脚本は14回、書き直した。 携わったスタッフは400人。 過去2作品の根強いファンと、松井さんの挑戦に共感した女性たちが2005年、支える会「マイレオニー」を結成、賛同金を募り、会員は3千人を超えたという。
『レオニー』には、プロデューサーが3人いる。 アシュク・アムリトラジ、永井正夫、伊藤勇気。 アシュクはインド人、ハリウッドで最も成功したプロデューサーの一人といわれる、ウィンブルドンにも出た元テニスプレーヤー。 伊藤勇気は、ドイツから合流した松井さんの留学した息子、アメリカとの交渉役を務めた。 日常会話程度の英語力で日米合作映画を撮ったという松井監督、監督の製作日誌を読むと、この息子さんの支えが大きかったことがわかる。 レオニー役のエミリー・モーティマーは、日本での撮影を前に妊娠していることが判った。 エミリーは、それを監督に知らせて気を使わせてはいけないと、伊藤勇気プロデューサーだけに打ち明け、最後までひた隠しにしたまま、すべての撮影を滞りなくこなした。 冷たい海で泳がせたり、深夜の坂道を何度も走らせたりした監督は、後でゾッとして、冷や汗を流しながらも、そのプロ根性に感心したという。 半年後、二人目はやっぱりレオニーと同様、女の赤ちゃんだったという知らせを受けた監督は「恐るべし、エミリー・モーティマー!」と、舌を巻くしかなかったと書いている。
大相撲幕内力士[富士組]6名[海組]5名 ― 2023/11/24 07:00
ベストスリーは[富士組]6名、[海組]5名、[山組][龍組]3名。 個人的に好きなのは[猿組][春組][炎組]、そして、建設かソレっぽい[遠藤組][山本組]。 [若組]琴ノ若は、まもなく[桜組]になれそうな勢いだ。
[富士組]照ノ富士 北勝富士 翠富士 熱海富士 宝富士 錦富士
[海組]湘南乃海 御嶽海 平戸海 佐田の海 美ノ海
[山組]朝乃山 豪ノ山 金峰山
[龍組]豊昇龍 妙義龍 東白龍
[勝組]貴景勝 隆の勝
[翔組]大栄翔 剣翔
[鵬組]北青鵬 王鵬
[島組]霧島
[春組]若元春
[若組]琴ノ若
[炎組]阿炎
[良組]宇良
[代組]正代
[生組]明生
[安組]高安
[猿組]翔猿
[木組]錦木
[咲組]阿武咲
[電組]竜電
[鷲組]玉鷲
[遠藤組]遠藤
[雅組]狼雅
[若組]北の若
[風組]友風
[山本組]一山本
[光組]琴恵光
もうちょっと勉強して、と吉永小百合 ― 2023/10/03 07:10
渡哲也も、高倉健も、樹木希林もなくなって、ひとりぼっちになってしまった。 『こんにちは、母さん』の撮影途中まで、吉永小百合は、山田洋次監督とのこの映画を最後の作品にすることも考えていたようだ。 見学に来た犬童一心監督(天海祐希と共演した『最高の人生の見つけ方』の)にも、引退をほのめかしていた。 山田監督は、「吉永小百合、最後の映画」なんて、見たくないと言う。 「依然として、なんかこうフレッシュで、依然として美しくて、引退なんてふさわしくない。」 「同じ問題は、僕にもある。僕だってもうそろそろ引退だけど、最後の映画なんて作りたくない。作り終えて『その次作りたかったけれど、できなかった』ってことで、それでいいわけであってね。」
テロップ…「終わりを決めるのは、自分ではない。」
試写会を見終わった吉永小百合は、こう話した。 「私はもうちょっと、もうちょっとやらないと。うまくならなくてもいいの。もう芝居してないように見えるくらいに、透明感を持ちたいという、ちょっとまだね。もうちょっと勉強して、もうちょっと表現力、力をつけたいって、今、思ってますね。」
9月1日の初日舞台挨拶でも、「123本でやめようと思っていた。1、2、3で外に飛び出すような数なんで、もう少しやってみようと思っています」と言った。 大泉洋も、永野芽郁も笑いながら拍手し、あの田中泯さえ大口を開けて笑っていた。
プロフェッショナルとは? 山田洋次監督は、「息子や孫の代の人間がその仕事を見て、ああ、いい仕事をしているなと思うようなことを、俺はやらなきゃならないという良心を持っている。いいものを作りたいという思いを持っている。それがプロフェッショナルというもんじゃないの。」と。
テロップ…「二人は祈る。この仕事が誰かの希望になればいいと。」
山田洋次監督、92歳の果たせぬ夢 ― 2023/10/02 07:01
山田洋次監督は、撮影開始にあたって、100人を超えるスタッフに、こんな話をした。 「昔から映画に「艶(つや)」があるということが言われた。「艶」とは何か。スタッフの気持、その映画に寄せた気持が、その映画作りに皆が抱いていた喜びが、画面に不思議に出る(映る)のが映画だし、それを信じなきゃいけない。」
「映画には、魂が映る。魂があるかどうかっていうのは、いちばん大事なんじゃないかな。どんだけその作品に愛情を持っているか。どれくらいその映画を大事に思って作ったかという。それが必ずフィルムに映るんだということを信じなきゃいけない、監督ってのはね。」
山田監督は『プロフェッショナル仕事の流儀』のカメラに向かっても、こう語った。 「映画を見終わってね、ふと観客が大笑いしても、涙を拭いてもいいんだけども、ふと元気になるっていうかな、『明日からまた俺も頑張っていこう』って思うような映画を作れば、文句ないね。さらに言えば、『ああ笑った、笑った、腹減っちゃった』、そんなふうに人を笑わせる映画を作れれば、もっともっと、夢だね、僕のね。果たせぬ夢です。」
今年2月28日、『こんにちは、母さん』、身内の完成試写会に、風邪で欠席した山田監督の挨拶。 「映画作りは、いつでも後悔の塊のようなものです。演出はミスだらけ、演技だって完成にほど遠いことは、俳優さんご自身がいちばん感じているところだろうけど。しかし、それを超えたもの、何か願いとか祈りとか、そんな種類のことが、作品全体から匂ってきてはいないだろうか。というようなことを、僕はひそかに思っています。」
『こんにちは、母さん』のラストで、福江の吉永小百合は、美しい笑顔で、こう言い放った。 「しょうがない、母さんの出番だね。悲しんでばかりいる場合じゃないね。」
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