正岡子規と樹木希林さん(鷲田清一『折々のことば』)2018/09/20 07:06

 朝日新聞朝刊1面連載、鷲田清一さんの『折々のことば』については以前、 私が切り抜いていたものを、いくつか紹介したことがあった。 その後も、気 に入ったものや、心に引っかかったものを、切り抜いている。 それをまた、 書いてみようかと思って、前に書いた2016年9月4日の「鷲田清一さん「折々 のことば」500回」を見たら、何と、その中に、次の二つもあったのだ。 17 日に書いた「樹木希林さん、平気で生きているという強さ」、バッチリそのまま であった。

 341「悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた。   正岡子規」 (『病牀六尺』から)

 437「がんになると「いつかは死ぬ」が「いつでも死ぬ」になる。それじゃあ生きている間、おもしろがりたい。   樹木希林」

 樹木希林さんの「百点対談」が載っていた『銀座百点』9月号だが、グラビ アが『LOCUS AMOENUS』と題する、謎の洋風の庭の写真であった。 その話は、また明日。

樹木希林さん、平気で生きているという強さ2018/09/17 07:23

 15日に交詢社で仲間内の情報交流会の打合せと、福澤諭吉協会の土曜セミナ ーがあって、銀座に出た。 銀座千疋屋でもらってきた『銀座百点』9月号の 山川静夫さんの「百点対談」で、樹木希林さんの「平気で生きていく強さ」を 読んだのが16日の午後だった。 テレビで大相撲9月場所の中日を見ていた ら、ニュース速報で「樹木希林さん死去(75)」というテロップが流れた。

 対談で、樹木希林さんが、「最近になって、松尾芭蕉や正岡子規ってすごいん だなって思えるようになったんですね。」と言っている。 「子規が書いてるで しょ、「悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間 違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居ることであつた」っ て」。

 樹木さんは、一昨年、宝島社の正月の新聞全面広告に出た、水に沈むオフィ ーリアの扮装で、キャッチコピーは「死ぬときぐらい好きにさせてよ」。 『ハ ムレット』のオフィーリア、あのテート・ブリテン美術館のジョン・エヴァレ ット・ミレーの絵の、デンマークの川で歌を口ずさんでいる姿だ。 「いつで も死ねる覚悟がある人間だということで選ばれたんだと思うし、自分でもそう 思ってはいたけど、子規は違うというのね。いつでも、どんな場合でも平気で 生きているという強さ、それこそが悟りだと。だからわたしも病気にかかって この年齢になった今こそ、やっと平気で生きているんだと、みなさんにお伝え できるのね。」

スバル座とガード下の飲み屋街2018/06/25 07:15

 映画館・有楽町スバル座は、敗戦の翌年、昭和21(1946)年にオープンし た。 GHQが対米感情を和らげるためには、アメリカ映画の文化を日本に浸 透させるのが一番と、アメリカ映画の配給会社をつくり、その受け皿として、 第一生命を接収していたGHQに近い有楽町につくったのが、スバル座だった。

昭和21(1946)年12月31日にグリア・ガースン、ロナルド・コールマン 主演の『心の旅路』で開館した。 当時の写真を見ると、“Subaru Theatre” (treに注目)、“ROAD SHOW”“RANDOM HARVEST”(『心の旅路』の原題) とある。 「つづくガーシュインの伝記映画『アメリカ交響楽』が新作だった ので「帝都唯一のロードショウ発祥の映画館」と称した」といわれているが、 写真では既に『心の旅路』の時に“ROAD SHOW”の看板があった。

わが家も、まんまとGHQの思惑にはまり、よくアメリカ映画を観た。 私 は昭和21(1946)年には5歳だったが、おそらく翌年、母親に連れられて行 って、イングリッド・バーグマンの『ガス燈』(看板の写真に“GASLIGHT” とあった)に退屈したり、フランス映画『美女と野獣』(ジャン・コクトー監督、 ジャン・マレー主演)が怖くて後ろを向いていたのは、スバル座だったろう。  スバル座は、7年後の昭和28(1953)年9月6日の夕刻、火事を出して焼けて しまった。 H・G・ウエルズのSFを映画化した『宇宙戦争』を上映中で、観 客は最初、映画と本物の火事の見分けがつかなかったという。 この『宇宙戦 争』も、火事で焼ける前に観ていた。 スバル座の隣にも映画館があって、そ ちらにも行っていたのだが、その名前が「カリオカさん」と同じく、思い出せ ない。 ご存知の方は、ご教示を。 映画も、ジャズも、野球も、そして慶應 義塾の新聞研究室や図書館学科も、さらにいえば民主主義、六三制の戦後教育 も、GHQの方針や思惑があったと考えると、それにどっぷり使って生きて来 ただけに、ある種の重い感慨が横切らなくもない。

 「TOKYOディープ」は次に、ガード下の飲み屋街、通称「けむり横丁」へ 行った。 スバル座が焼けた昭和28年創業の「もつ焼き ふじ」で、皆さん楽 しそうに飲んでいた。 有楽町駅中央西口の辺りには、レンガのアーチ状の高 架橋(ガード)がよく見られる場所がある。 明治43(1910)年に10年かけ て、浜松町―呉服橋(仮停車場)間の高架橋が完成し、途中の高架上に有楽町 駅がつくられた。 電車の音が響く、108年経つガード下だ。 銀行に入った 私は、ここの焼き鳥屋さんや、ちゃんこ屋さんに集金に行っていた。 お店に 帰って、お札を数え直していると、脂の染みついた、独特の臭いがしたものだ。  ちゃんこ屋さんは「吉葉さん」、横綱吉葉山の経営とか聞いていた。

映画と実際、虚実のあわい2018/06/13 06:38

「豊島区立 熊谷守一美術館だより」2018年春号vol.52に、熊谷守一次女の 榧館長(89)が、映画『モリのいる場所』について書いている。

脚本を最後まで読ませてもらう条件で、映画にする話を承諾した。 脚本が 届いて、事実と違うところや、モリが絶対に言わないセリフなどがあったので、 何度か手紙を出した。 撮影の前に、沖田修一監督が訪れ、出来れば大きな修 正をしないまま作らせて欲しい、映画はドキュメンタリーでなくフィクション だということを理解して欲しい、という丁寧な説明を受けた。 結局は、榧さ んがどうしてもというところ以外は、沖田監督が最初に書いた脚本に近い感じ で撮られたという。

モリのことを好きだという山崎努さんは、顔の感じや着ているものを良く似 せていた。 母は、樹木希林さんみたいに聡明でなくて、女学生のまま婆さん になったような人だったから……、希林さんの方が素敵だった。 アトリエな どはよく再現されていたけれど、庭と家の中は、あんなに広くない。 モリは 人が好きだったんだけど、家に男の人をあげるのを嫌った。 どんなに仲が良 くても、信時潔さんですら家に泊めたことがない。 だから映画にあったよう に、知らない男が大勢うちの居間で夕食するってことは、まず考えられない。  家の敷地から一歩も出られなくなったのは最後の数年だし、母方の姪の恵美ち ゃんも、映画とちがって本当はとてもおとなしい性格だった。

あくまで映画は映画。 心配なのは、エピソードや会話がすべて事実に忠実 だと誤解されないかということ。 勲章内示の電話のくだりなんかは、特にね。 映画に関わった多くの方の、心に描いた[熊谷守一]が、ひとつの作品となっ ているので、それを楽しんでいただければいいかなと思う。

私も、まったく同感である。 沖田修一監督と、そのスタッフ、キャストは、 [熊谷守一]という画家の世界「モリのいる場所」の雰囲気を、一本の映画に つくりあげた。 テレビドラマでは、「このドラマはフィクションです」という お断わりが出る。 それとは、ちょっと意味が違うけれど、この映画もフィク ションである。 その証拠に、深海に棲むチョウチンアンコウのように、額に 生えたものの先に光を灯した、見知らぬ謎の男(昼間も家に来ていた)が登場 して、モリに「この狭い庭から外へ出て、広い宇宙へ行きたいとは思いません か?」などと、尋ねるのだ。 そういえば、警視庁のマスコット「ピーポくん」 も、額に生えたものの先に光を灯しているが、あれは世の中を照らしているの ではなく、世の中の動きをキャッチするアンテナらしい。

さりげないユーモアが支える99分2018/06/12 07:15

 映画『モリのいる場所』の熊谷家の一日を描いた1時間39分は、けして退 屈ではない、それを支えるのは、さりげないユーモアだ。 熊谷守一(山崎努) は、妻・秀子(樹木希林)と碁を打つ。 守一が長考し、その間雑誌か何かを 読んでいた秀子は、ささっと指して、相手の石を取る。 

 熊谷家の守一手書きの表札は、たびたび盗まれる。 今日もまた、郵便配達 が、姪の美恵の所に知らせに来た。 美恵は、郵便配達の顔を上目遣いに見な がら言う、「あんたが盗るんじゃないでしょうね」。

文化勲章の電話もそうだが、訪問客の矢面に立つのは、秀子である。 近所 でマンションを建設中の、オーナー(剣道着か何かを着ていて、オーナーらし くないので、誰なのかと思った)と現場監督が、熊谷家の塀の建設反対の看板 (守一を尊敬する美大生たちが立てかけた)を外してくれと抗議に来る。 現 場監督をやっているのが、大河ドラマ『西郷どん』で「国父」島津久光の青木 崇高。 守一は出かけているといわれて(守一は外出しないことに、近所の人 が知らないのは粗忽だが)、秀子と話し合っている内に、小便がしたくなって トイレに行くと、守一が入っている。 それで守一に、実は妻に言われて来た のだがと、設計図を入れる筒から出した子供の絵を見てもらう。 丸がいっぱ い描いてある、何を描いたのか分からない絵だ。 自分は判らないのだが、妻 は「天才だ」と言っている、と。 守一は、「下手だ……下手でいい。下手も絵 のうちです」と、言う。

 信州の温泉旅館「雲水館」の主人(光石研)が看板に、守一の書をもらおう と、目止めをした檜の板を担いでやって来る。 秀子が、庭にいる守一に聞く と、案外簡単に、書くと言う。 そこにいた画商たちや写真家などがみんなで 見守る。 横書きで「雲水館」と書いてもらうつもりだったのだが、守一は板 を縦にして、書き始める。 書いた字は、「無一物」だった。