福沢の日清戦争狂詩「李鴻章」と金玉均2024/06/26 06:57

 さて、金文京さんが福沢諭吉協会の季刊誌『福沢手帖』に連載している「福沢諭吉の漢詩」で、金玉均に言及している箇所である。 2022年9月『福沢手帖』第194号の「福沢諭吉の漢詩」49回「日清戦争の狂詩三首――その一「李鴻章」」だ。 明治27年7月に日清戦争がはじまる。 福沢はこの戦争を文明と野蛮の対決と見なして積極的に政府を支持し、個人としては最高額の一万円を寄付するなど、さまざまな支援活動を行なった。

 この時、福沢は清国直隷総督の李鴻章、北洋艦隊提督の丁汝昌および副総督のドイツ人ハイネッケンを揶揄する狂詩三首を作った。 詩は9月22日の『時事新報』に匿名で掲載された。 福沢の「李鴻章」と題する詩は、「黄袍(こうほう)と雀帽(じゃくぼう)を剥奪せらるること頻(しき)りなり。 向寒の砌(みぎり) 御察し申す。 重々の業晒(ごうさらし) 君(きみ)諦め給え、不幸にして長命なるも亦た因縁。」 9月15日に平壌が陥落し、17日には戦局の勝敗を決定した黄海海戦の敗戦があり、李鴻章は責任を問われ、皇帝から頂戴した黄馬掛と三眼花翎を取り上げられたことが伝わっていた。

 金文京さんは、戦争に全面的に肩入れする以上、敵国の総帥を貶めるのは当然だろうが、福沢にはそれ以外にも李鴻章を憎む理由があった、とする。 福沢と親密だった朝鮮の改革派政治家、金玉均が前年の明治27年3月に上海に誘き出され殺害された事件に、李が加担したことを『時事新報』の明治28年3月1日の社説「責、李鴻章にあり」(『全集』15巻)に書いている。 福沢が日清戦争に賛同した第一の理由は、朝鮮の改革を清国が妨害したという点にあった。 金玉均殺害はその象徴的出来事と言えよう、と。

金玉均書の仮名垣魯文墓碑2024/06/25 07:00

 谷中永久寺「猫塚供養碑」の右にある階段を上った墓地内に、仮名垣魯文の墓碑がある。 この墓碑は室町時代の板碑をはめ込んだもので、表に「韓人金玉均書/佛骨庵獨魯草文」(「草文」は「文を草す」)、裏は「遺言本来空/財産無一物」、その下に「俗名假名垣魯文」とある。 金玉均は、福沢諭吉と深い関係があった。 当時の朝鮮改革派の中心人物で、改革派が起こしたクーデター、甲申事変(1884)失敗後、日本に亡命し、囲碁の本因坊秀栄や中山善吉、明治のベストセラー『佳人之奇遇』の作者、柴四朗、さらに榎本武揚など各界の数多くの人物と交際した。 福沢の狂詩をほめているので、日本の文芸にも理解があったらしい。(と、金文京さんが書いているので、『福沢手帖』の連載「福沢諭吉の漢詩」をいくつか見てみたが、発見できなかった。ただ、金玉均に言及している箇所があったので、いずれ触れたい。) ただし、金玉均と魯文との具体的関係は不明だという。 魯文は明治27年11月8日に歿したが、金玉均はその前の3月に上海で暗殺されている。 だから、碑の字は、金の生前に魯文が頼んで書いてもらったものであろうという。

 「猫塚供養碑」は最初、明治11年に浅草公園花屋敷の植木屋六三郎牡丹畠に建てられ、魯文はこの石碑建立に合わせ、同年7月21日、当時書画会会場としてよく用いられた東両国、柳橋の中村楼で珍猫百覧会を開催し、各界から猫にちなむ珍しい書画器玩の出品を求め、2千8百余人が参集したそうだ。 「猫塚供養碑」はその後、谷中墓地内の、これも魯文が建てた高橋お伝の碑の側に移された。 移転の時期は、正岡子規の<猫の塚お伝の塚や木下闇>が明治28年夏の句なので、それ以前である。 永久寺に移された時期は定かでないが、おそらく魯文歿後であろうという。

 『図書』6月号は「谷中霊園「中村鶴蔵墓表」」であるが、谷中霊園にあった高橋お伝の碑について、仮名垣魯文が建てたものだが、碑陰の寄付者には、尾上菊五郎、市川左団次など歌舞伎役者が名を連ねる。 みな一代の毒婦といわれたお伝のおかげで一儲けした面々である、とある。

 同じ谷中霊園にある「中村鶴蔵墓表」は、二代目中村鶴蔵(つるぞう)のもの。 二代目の師匠、初代中村鶴蔵は、すなわち三代目中村仲蔵。 落語や講談でおなじみの『忠臣蔵』五段目、斧定九郎を黒羽二重姿の色悪風にしたのは初代仲蔵であるが、三代目も明治の名優で、自叙伝『手前味噌』でも知られるという。

谷中をさらに「碑文探訪」する2024/06/24 07:13

 金文京さんの「東京碑文探訪」、谷中本行寺から御殿坂をさらに進み、経王寺前で左に曲がって朝倉彫塑館の前を過ぎると、間もなく右側の長安寺「狩野芳崖翁碑」(『図書』3月号)。 芳崖は長府藩(山口県)御用絵師の家に生れ、維新後にフェノロサの指導により西洋画を取り入れた日本画を描き、また東京美術学校(現東京芸大美術学部)創設にも尽力、近代日本画の父とよばれる。 絶筆の「悲母観音像」は重要文化財に指定されている。

 長安寺の手前を左に(朝倉彫塑館の方からは右に)曲がり、築地塀のある道を赤塗門の加納院前で左折すると、右側に安立寺(あんりゅうじ)がある。 安立寺には、日本画の下村観山の墓があるけれど、金文京さんが『図書』4月号で扱うのは、「良工市原君墓碣銘」。 明治時代、はじめて西洋式消防ポンプを作った市原求(もとむ)の墓碑である。 市原求は、黒船来航の時期に砲術で功名を立てようと土佐藩に仕官したが、廃藩で伯父を頼って江戸に出、鉄砲師の徒弟となって鉄砲製法を学んだ。 明治6年、川路利良大警視(今の警視総監)がフランスから持ち帰ったハンドポンプを民間に普及させようとしたが、誰も応じる者がいない。 市原はそれを研究し、鉄砲製造の技術を活かして、翌7年に見事おなじものを製造した。 その威力は江戸時代から使われていた木製の簡単な手動ポンプである龍吐水(りゅうどすい)とは雲泥の差で、江戸の華といわれた火事の撲滅に大きく貢献した。 日本橋蛎殻町の市原喞筒(ポンプ)諸機械製作所の製品は、警視庁に採用され、東京から地方にまで急速に普及し、市原は財を成した。

 その安立寺から道なりに進むと三崎坂(さんさきざか)の上に出る。 道を渡ったところにある永久寺は、『安愚楽鍋』、『西洋道中膝栗毛』などで知られる明治時代の作家、仮名垣魯文の菩提寺である。(『図書』5月号) 寺門を入ると、向かって右から猫塚供養碑、猫猫道人紀念碑、山猫めを登(と)塚が並ぶ。 魯文は大の愛猫家、ただし本物の猫だけでなく人間の猫も好きだったらしい。

 「猫塚供養碑」、上部の題額の場所に猫の顔が彫ってあり、文字はない。 題がないが、魯文が「猫塚供養碑」と呼んでいるので、それにしたがう、というのだ。 撰者は成島柳北、もと幕府の奥儒者で、幕末明治期に江戸、東京随一の花街として栄えた柳橋の繁盛とその内幕を描いた『柳橋(りゅうきょう)新誌』の著者として知られる。 「余友(わがとも)仮名垣魯文翁独り猫を愛するを以て称せらる。」「翁遂に自ら号して猫猫(ミョウミョウ(猫の鳴き声))道人と曰う。然れども翁は実は猫を愛する者に非ず。其の刊する所の新聞紙、日々に猫の説話を録する者は何ぞや。蓋(けだ)し猫は獣の至って柔媚(物腰柔らかく人に媚びる)なる者なり。而して世の清声(せいせい)と便体(べんたい・歌声としなやかな肢態)、猫の皮を鼓して(三味線を弾いて)客に侍る者、其の柔媚は或いは焉(これ・猫のこと)より甚だしき者有り。」

『新編 虚子自伝』(岩波文庫)を読む<等々力短信 第1180号 2024(令和6).6.25.>6/22発信2024/06/22 07:12

 生誕150年の高浜虚子『新編 虚子自伝』が岩波文庫で刊行された(岸本尚毅編)。 昭和23(1948)年虚子74歳の菁柿堂版と、昭和30(1955)年81歳の朝日新聞社版をまとめて編集している。 まず「需(もと)めらるるままに、ごく平凡な人間のことをごく平凡に簡単に述べてみましょう」と始まる。 自伝というもの、なかなかこうはいかないだろう、どうしても自慢話になりがちだが、みずから信じてきた道を歩んできた自由人としての虚子の、ありのままが語られている。

 伊予松山藩士の父池内(いけのうち)庄四郎政忠は剣術監、御祐筆だったが、一旦朝敵となった廃藩置県で、松山から三里「西の下(にしのげ)」に帰農したけれど、武士の農業だった。 清(虚子)8歳の時、一家は松山に帰り、祖母が亡くなったので、虚子はその生家高浜の姓を継いだ。 20上の長兄は県庁下級官吏となって生計を支え、17上の中兄は師範学校、15上の三兄は靴職工を志し、清は近所の小学校に入った。 中学ではトップの成績だったが、工科とか法科とか軍人を目指す者が多い中で、一人文科を志願する。 同窓の河東秉五郎(碧梧桐)から正岡子規のことを聞き、手紙を書く。 子規は「請ふ国家の為に有用の人となり給へ、かまへて無用の人となり給ふな。真成の文学者また多少の必要なきにあらず。」と返信する。 京都の第三高等中学校から、学制変更で仙台へ行くがすぐ退学、東京でも京都と同じく碧梧桐といた下宿が梁山泊のようになり、俳句に没頭した。

 日清戦争に記者として従軍し大喀血をした子規を虚子が看病した。 そのあと道灌山で子規から後継者になれ、書物を読めといわれて、決裂した。 虚子は、生来の性質が呑気にやってゆく風で、母に「危ないところに近よるな」といましめられたままの臆病の弱虫、22、3から74歳の今日まで、書物より自然をよく見、自然を描くこと、俳句を作ったり、文章を書いたりして文芸に遊びつつ、荘子のいわゆる「踵で息をする」というような心持でやってきた。 仏道修業に定心散心という二つの道があるという。 定心は三昧ともいい、懸命に修業すること。 散心は、正常心でいて、それで仏の道を忘れずにいること。 虚子はどちらかというと、後者を選ぶものである、と。

 昭和30(1955)年「ホトトギス」700号記念に、自選した48句に感想を付け加えたものがある。 虚子の代表句がすべて含まれているが、実はこんな句もあった。

<悔もなく誇もなくて子規忌かな><障子しめ自恃庵(じたいあん)とぞ号しける>何者にもわずらわされず何者にも動かされず、ただ自ら恃む。<懐手して論難に対しをり>戦後、新聞記者が必ず戦争は俳句に影響したかと聞いた。影響されません、と答えた。<萩を見る俳句生活五十年><恵方とはこの路をたゞ進むこと>

御三家尾張藩の青松葉事件と「今尾藩」2024/06/21 07:07

 幕末の大村藩、大村騒動のような事件が、徳川御三家の尾張藩でも、幕末、尊王攘夷派と佐幕派の対立抗争があり、それを書いたことがあったのを思い出した。 しかし、どういう題だったか思い出せず、<小人閑居日記>のindexを「徳川家」や「尾張」で検索したが、出て来ない。 しかたなく、ここ10年程の<小人閑居日記>を「尾張」で検索して、「青松葉事件」というものだったことが判明した。 これが『図書』の連載で読んだことだったのも、共通していて面白い。 事件後、今尾藩という藩が生まれ、中勘助の父勘弥が家令を務めたので、中勘助は神田の旧今尾藩邸で生まれていた。 そうした尊王攘夷派と佐幕派の対立抗争は、おそらく全国の諸藩であったのであろう。

     「今尾藩」と青松葉事件<小人閑居日記 2015.10.14.>

 9月25日の「等々力短信」第1075号「もう一つの中勘助」に、菊野美恵子さんの『図書』(岩波書店)連載を読んで、中勘助について新知見が出てきたと書いた。 中勘助の兄嫁が、吉田松陰の弟子、入江九一・野村靖兄弟の、弟の方の娘だったことが、一つ。 姻戚関係の説明が複雑だったので、図を描いてくれたという良き読者が二人もいた。

 新知見のもう一つは、「今尾藩」についてである。 中勘助の父は岐阜の今尾藩の藩士で、勘助が明治18(1885)年にその東京藩邸内で生まれたことは知っていた。 だが「岐阜の今尾藩」について、どんな藩なのか、つっこんで調べることはしなかった。 菊野美恵子さんは9月号の「ぬぐえぬ影」で、その「今尾藩」に触れている。 中勘助はしばしば「中家に子孫はいらない、忌まわしいことに関わった中家は絶えたほうがいい」と、身内の者たちに話したという。 その言葉と中家の出身地を合わせると、維新前夜に尾張名古屋で起こった青松葉事件に突き当たる、と菊野さんは書いている。

 青松葉事件という奇怪な事件は、直後から意図的に覆い隠され、後世の研究でも謎が深まるばかりで、時がこう流れては真実が明らかになることもあるまいと思われる、のだそうだ。 城山三郎の小説『冬の派閥』(新潮社・1982年)や関連資料を参照すると、事件はおよそ以下のようである、という。

 慶應4年1月、尾張藩で突然佐幕派粛清事件が起こった。 妙な事件名は、最初に処刑された重臣渡辺在綱の屋敷が青松葉と呼ばれていたことに由来するという。 徳川御三家の尾張藩でも、幕末、尊王攘夷派と佐幕派の対立抗争があった。 成瀬家と竹腰(たけのこし)家が家老として大きな力を持っていたが、当時は成瀬派が「金鉄組」と名乗り尊王攘夷を唱え、それに対し渡辺在綱らの竹腰派は金鉄をも溶かす「ふいご党」を名乗って佐幕的な立場をとっていた。

 14代尾張藩主、徳川慶勝(よしかつ)は政情渦巻く京都にいたが、1月20日に急遽尾張に帰国し、同日、「ふいご党」の渡辺在綱ほか2名の重臣を朝命として斬首した。 「朝命が一藩の人事に及ぶはずがない、説明を」との望みも聞き入れられず、また弁明の機会も与えられなかった。 同様に、続く4日の間に藩士11人が殺され、家屋敷はただちに竹矢来がめぐらされ、遺族たちは蟄居、他家預け、家名断絶、財産没収など厳しい処分を受けた。 遺族の中からも憤激や悲嘆のあまり、切腹する老父や自害する妻などが次々に出た。

 これだけのことが起こりながら、その原因については、岩倉具視の謀略、征長総督をつとめた藩主慶勝への長州の復讐、薩摩藩の陰謀など、さまざまな説があり、真相がはっきりしない。

 さらに、これだけの犠牲を払った事件後の展開は、奇妙なものだった。 事件の双方の当事者、成瀬家、竹腰家がともに、突如新たに大名として新政府に認められたのである。(明治元年立藩、明治2年版籍奉還) 昨日まで粛清の対象であったのに、何ごともなかったかのように今尾藩藩主になった当の竹腰家はもとより、尾張藩の皆が狐につままれたような気持になったことであろう、と菊野さんは書いている。

 勘助の父、中勘弥は、この新しい今尾藩の初代にして最後の藩主竹腰正旧(たけのこしまさもと)の家令として上京し、勘助もそのため神田の今尾藩邸で生まれている。 さらに竹腰正旧の正室は勘弥の養女であったのだから、勘弥が「ふいご党」の中心人物たちときわめて近い存在だったことは、間違いない。 なぜ勘弥が、無念の思いをのみ込んで死んでいった14人の中に含まれず、そして、生涯沈黙を守ったのか、今となっては知るよしもない、という。