英一蝶の元禄綱吉の時代から、馬場文耕の家重の時代へ ― 2024/10/19 06:58
その英一蝶だが、サントリー美術館が「没後300年記念 英一蝶―風流才子、浮き世を写す―」展を開催中(11月10日まで)で、「日曜美術館」でも取り上げられていた。 このところ、沢木耕太郎さんの『暦のしずく』で、ただ一人その芸で死刑になった芸人(講釈師)<小人閑居日記 2022.10.10.>、馬場文耕を書いていたので、英一蝶が幕府の怒りに触れ三宅島に流されたことがどういう理由だったのかに興味を持った。
英一蝶が三宅島に流されたのは1698(元禄11)年、文耕が獄門になったのは1758(宝暦8年)、60年ほどの差がある。 江戸時代、17世紀半ばの三代将軍徳川家光の後半から18世紀前半の八代将軍吉宗までに政治支配のあり方が「文治(ぶんち)政治」に移行したとされる、武断政治に対して、法律・制度の整備や教化の充実に基づく政治である。 英一蝶の元禄時代は五代将軍徳川綱吉の時代、文治政治が展開し、町人の勢力が台頭して社会は活況を呈し、上方を中心に独特の文化が生まれた。 馬場文耕の九代将軍徳川家重の時代は、八代将軍吉宗の享保の改革の延長で、表面上幕府財政は安定していたが、全国各地で百姓一揆が頻発、その一つが郡上一揆ということになる。
高浜虚子『斑鳩物語』の法起寺三重塔 ― 2024/10/17 06:53
高浜虚子が、「塔は京都より奈良のほうが素晴らしい」と書いているのが、どこなのかわからないが、小説『斑鳩物語』に法起寺の三重塔に登る話があるのは、知っていた。 たまたま、雑誌『サライ』11月号の特集が「うるわしき「奈良」へ」で、その第1部が「「塔」がわかれば「奈良」がわかる」だった。 薬師寺東塔、法隆寺五重塔、法起寺三重塔、當麻寺東西両塔(三重塔)、室生寺五重塔、浄瑠璃寺三重塔、失われた東大寺東塔(七重塔)、興福寺五重塔を紹介している。 私は『夏潮』渋谷句会で<猿沢の浮草紅葉塔映し>と詠んだが、興福寺五重塔は今、十年以上かけた大規模修理工事中で、素屋根で覆われ、傍に巨大クレーンが立っているのだった。
薬師寺東塔については、先日、『プロジェクトX』「薬師寺東塔大修理」を見た。 1300年ほど前の建築、令和3年に全面的な解体修理を終えた。 西岡常一さんに学んだ宮大工棟梁石井浩司さん(奥さんの支えと死があった)、心柱の白蟻に喰われたところを、つぎ足しでなく刳り抜いて嵌め込んだ松本全孝さん。 石井浩司さんは、『サライ』でも、「先人たちは残してやろうと思ってこの塔をつくったわけではないと思います。鑿(のみ)で材木を削るにしても、当時の宮大工はひと思いにザクッと削っている。腕自慢より、この塔を何としてでも完成させるんだという、信念のようなものが感じられます。」と、語っている。
日本人は、ずっと古い建築を大事にしてきた。 古くなっても、解体修理して建築物を使い続ける文化があり、それは単に技術の継承ではなく、各時代の人々の心を受け継ぐことで、古建築はその想いと努力の結晶だといわれる。
法起寺(ほっきじ・ほうきじ(法隆寺などと合わせて))は、聖徳太子が『法華経』を講じた岡本宮をあらためたものとされ、古くは岡本寺と呼ばれた。 卍崩しの高欄が特徴の三重塔を、高浜虚子が訪れたのは明治40(1907)年で、『斑鳩物語』はその経験をもとに著された。 私は『斑鳩物語』をポプラ社の「百年文庫」『音』で読み、ポプラ社の「百年文庫」『音』<小人閑居日記 2010.12.4.>を綴っていた。 そこに、『斑鳩物語』については別のところに書いたとあったので、探したら俳誌『夏潮』の虚子の一句(明治)に書いていた。
虚子の一句(明治) 後家が打つ艶な砧に惚れて過ぐ 虚子
『五百句』所収。明治三十九年九月二十四日、虚子庵での第二十六回「俳諧散心」の会、第一回の運座での句。掲句は、「砧」が季題で秋。砧はキヌイタ(布板)の約、布地を打ちやわらげ、つやを出すのに用いる木槌。また、その木や石の台。秋の夜、いつもの道を歩いていると、近所で評判の美しい未亡人の住む家から、心に響くような、砧を打つ音が聞こえてくる。ちょっと、恋心へ誘われた、というのである。惚れっぽい虚子の面目躍如といったところだ。
「俳諧散心」「砧十句」には<新田のお辰が打てる砧かな>の句もある。松山での思い出か、明治の東京では、砧を打つ音が普通に聞こえていたのだろうか。
今日、車の音や宣伝放送など、いろいろな騒音に囲まれている。かりに砧の音があったとしても、心には響かないのではないか。この句で、私は「ホトトギス」明治四十年五月号掲載の虚子の小説『斑鳩物語』を思い出した。<村の名も法隆寺なり麦を蒔く>の句もある、法隆寺南門前の宿屋に泊る。宿を手伝いに来る色の白い、才はじけた十七八の隣の娘、お道は平生(ふだん)家で機械機(きかいばた)を織っている。蛙の声がする静かな夜。カタンカタンと冴えた筬(おさ)の音がする。筬の音に交って唄が聞こえる。お髪サンに聞いて、お道サンのと知れるのだった。
沢木耕太郎さん、郡上一揆と馬場文耕を書くきっかけ ― 2024/10/08 06:52
沢木耕太郎さんの初めての時代小説『暦のしずく』、9月20日からずっと「あらすじ」を綴ってきたが、書いているうちに面白くなって、つい長くなってしまった。 ところが、「終章 獄門」は二回分しかなく、ごく短い。 それも不思議な終わり方をした。 初めに読んだときは、何が起こっているのか、どうもよくわからなかった。 あらためて、「あらすじ」を綴ることで、私も「そうか!」と思ったのだった。 悲劇の主人公、源義経は生きていた、チンギス・ハーンになったという判官贔屓の伝説もある。
9月3日、沢木耕太郎さんの「『暦のしずく』連載を終えて」「小さな出来事 そのひとことから」が、朝日新聞朝刊に出た。 沢木さんが馬場文耕の名を知ったのは、かなり若い頃で、過激な講釈をしたため獄門に処された、ということくらいの知識しかなかった。 それでも、心のどこかに引っ掛かりつづけていたのは、その名に「耕」の文字が含まれているからというようなつまらない理由からだった。 ところが、七、八年前、ひとつの小さな出来事に遭遇した。 その日、名古屋から足を延ばし、初めて郡上八幡を訪れ、白山長滝という駅にある白山文化博物館へ行った。 郡上八幡は、郡上踊りで有名だが、歴史的には郡上一揆で有名な土地でもある。 沢木さんは、傘連判状を見てみたかったのだ。 一揆の農民たちが、筆頭に書かれた人物、つまり首謀者を特定されないための工夫で、名前を円形になるように記した連判状だ。 掛け軸に表装されたそれは、あたかもダンゴムシのように丸くなることで身を守ろうとしているかのようであり、同時に、それぞれが中心に向かうことで固い団結の意味を示しているようでもある。 捺された印も、黒い血の血判のようなまがまがしさを放っていた。
適当な宿がなく、小さなビジネスホテルに泊まることにして、鰻屋で早めの夕食をとり、タクシーを呼んでもらった。 感じのいい中年の運転手は、かつて緒方直人主演で作られた『郡上一揆』という映画に、エキストラで出演したとわかり、話が盛り上がった。 ホテルの前で、料金を払い、おつりを受け取る段になって、振り向いた運転手が、驚いたような声を上げた、「沢木……さんですか?」 そんなことは滅多にない、生涯に一度の経験だった。 恐る恐る訊ねると、「『一瞬の夏』以来、ずっと読んでいるもんですから……」 そして、さらに、「郡上一揆について、何かお書きになるんですか?」と言った。
沢木さんは、ホテルでチェックインをし、薄暗い廊下を歩きながら、もしかしたら、将来、自分は馬場文耕について書くことになるかもしれないな、と思っていた、という。
連載の最終回に、「参考文献は単行本に明記します。」とあった。 いずれ、単行本になるのだろう。 たまたま、「田中優子・松岡正剛『日本問答』」を「等々力短信」第1183号(2024(令和6).9.25.)9月18日に発信したが、『日本問答』(岩波新書)の82頁で、松岡正剛さんが、こう発言していた。 「西山松之助さんの『家元制度の研究』によると、日本で最初に家元とよばれた家は、歌道を継承する御子左家(みこひだりけ)らしい。今日つかっているような意味での家元の初見は宝暦年間(1751~64)で、馬場文耕の『近世江都著聞集』にあるようですね。」
一月晦日、里見は田沼に呼ばれて、吉原の俵屋へ行く ― 2024/10/07 07:09
夕刻、里見樹一郎は心の裡(うち)で文耕に別れを告げたいと思い、小塚原の刑場に行き、真新しい獄門台の上の、文耕の首を見た。 眼を閉じているためか文耕らしさが伝わってこない。 遠巻きにして、恐る恐る見物人がそれを眺めている。 破門された伝吉や、深川のお六もいた。
明けて宝暦九年、一月晦日、里見は田沼意次に呼ばれて、吉原の俵屋へ行った。 なぜ田沼の屋敷でなく、吉原で会わなくてはならないのかわからなかった。 俵屋小三郎に案内され、内所の奥の部屋に続く板戸を開けると、田沼がいた。 「今日は馬場殿の月命日」と里見が言うと、田沼はいま初めて気がついたようだった。 里見は、半月ほど前から、文耕の部屋に移り住んでいた。 文耕の世話をして暮らしの助けを受けていたので、困っているお清に、文耕の代役を務めることにしたのだ。 田沼の使いが里見の部屋を訊ね、手間取ったというので、その経緯を説明すると、田沼は「それはよいことをなさった」と言った。
その夜は、酒肴のたぐいは出されず、里見は拍子抜けのような気分を味わいながら、俵屋を辞去した。 話の途中であらためて田沼家への仕官を早めるように勧められたが、里見は断った。 多くの死を止めることができなかったからと。 市井にあって世のためになる道を選ぶつもりだと告げると、田沼は簡単に引き下がってくれた。
大門を出た里見は、日本堤を歩きながら、奇妙な思いを抱きつづけていた。 果たして、田沼は何故、俵屋に自分を招いたのだろう。 この夜のやり取りの中で、最も強く反応したのが、長屋のお清と信太母子のことだった。 だが、田沼に興味のあることとは思えない。 では、誰にとって最も関心があることだったろう……と、そこまで考えが及んだとき、里見は歩みを止めた。
「そうか!」 そして、不意に哄笑した。 なぜ田沼が俵屋で、しかも内所の奥の部屋で会おうとしたのかがわかった。 誰かに、二人の話を聞かせようとしていたのだ。 そして、この里見樹一郎に、あることを知らせようとしていたのだ。 里見はふたたび歩きはじめると、暗い夜空に向かって小さく叫びかけるように言った。 「信太、喜べ!」 そして、続けた。 「馬場殿は、生きておられるぞ」 (了)
金森騒動に関する判決、文耕は引き廻しの上、獄門 ― 2024/10/06 08:28
十二月二十五日、評定所で金森騒動に関する裁許、判決が出された。 藩主、金森頼錦は領地召し上げのうえ盛岡南部家へ永預け、また、家老をはじめ用人など多くの家臣が遠島や追放や叱責。 これは「お家断絶」を意味するものだったが、死に至る刑までは科されなかった。 二十六日、多くの立者百姓たちに申し渡された刑罰は、幕閣の重臣や金森頼錦やその家臣たちに科されたものと比べて、桁違いに厳しいものだった。 喜四郎、定次郎ら四名が獄門、死罪に至っては十名を数えた。 これほどの犠牲を出してもなお、百姓たちの望みは何ひとつ叶えられなかった。
馬場文耕に関わる者たちへの判決が出たのは、なぜか三日遅い十二月二十九日のことだった。 貸本屋、藤兵衛は江戸払い、藤吉以下七名は所払、栄蔵は軽追放、長兵衛は過料三貫文。 江戸払いは、本所、深川からと、品川、板橋、千住、四谷といった大木戸があるところから外への追放、所払は、住んでいる町からの追放である。 文耕の弟子の源吉、竹内文長は中追放。 文耕の判決は、「重々不届き至極に付き、松平右近将監殿の御指図により、宝暦八寅年十二月二十九日見懲らしめのため町中引き廻し、浅草に於いて獄門を申し付ける」 みせしめのため引き廻しの上、牢屋敷で斬首、浅草の小塚原で首を晒すというのだ。
翌十二月三十日は旧暦の大晦日だったが、その朝、小伝馬町の牢屋敷から、文耕を引き廻す行列が裏門を出た。 江戸中引き廻しは、日本橋をはじめとした古い町を巡る。 文耕は後ろ手に縛られたまま馬に乗せられていた。 十蔵長屋の住人たちは、多くが人形町通りに並んで見守った。 里見樹一郎の傍らには、文耕の部屋の隣に住んでいるお清と信太の母子もいた。 馬上の文耕の顔を見て、里見は胸をつかれた。 頬がげっそりと痩(こ)け、すっかり面変わりしている。 牢屋敷で面談した田沼から、ほとんど以前と変わっていなかったと聞いていただけに、わずか半月足らずでここまで窶(やつ)れているのが痛ましく思えた。 信太が「文耕さん!」と叫び、文耕は声のした方に眼を向けたが、信太をまるで見知らぬ他人を見るような眼で眺めている。 「あれは、文耕さんなんかじゃねぇ!」「文耕さんだったら、くるぶしの上に梅干しがあるはずだ!」「文耕さんは、小さいとき、湯たんぽで梅干しができたんだ。馬に乗っている人に梅干しがなかった!」
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