『時事新報』ロイター契約の衝撃2018/01/17 06:36

 明治初期の新聞の国際ニュースは、舶載されてきた上海、香港、シンガポー ルなどの英語新聞や居留地の英語新聞の記事を翻訳して載せていた。 それら の新聞と契約していたわけでなく、勝手にやっていた。 『時事新報』は1882 (明治15)年3月1日の創刊で、その創刊号に2月14日「龍動発」の電報を 載せた。 以後「外国電報」と「海外新報」に分けて、他紙より国際ニュース に力を入れている。 「外国電報」欄の最初は4月1日の「3月17日倫敦発ロ イター電報」で、半月遅れなのは横浜の英字新聞や舶載の英語新聞に掲載され たロイター電の転載と推定される。 ロイター電報は、イギリスの観点から見 たニュースだから、そこには一定の偏りがあり、日本は格別意識しないまま、 そうした枠組みによって世界を認識するようになった。(これは後でも出て来る が、重要な指摘である。)

 19世紀末、東アジアの国際政治が複雑化し日本もそのなかで大きな役割を果 たすようになっていくのだが、ニュース通信の面ではなかなか思うようになら なかった。 取りあえずは、ロイターと契約もしないまま勝手に転載している 状況を脱したいのだが、それは容易なことではなかった。 日本の新聞社でロ イターと直接契約した最初は、1897(明治30)年3月16日からロイター電を 掲載した『時事新報』と、3月22日創刊の英字新聞『ジャパン・タイムズ』だ。  国際関係はますます重要になってきている。 ロイター電報は高価だったので、 横浜の英字新聞が契約を続けることを廃し、転載ができなくなったので、『時事 新報』は遂に意を決し巨額の費用を擲(なげう)って契約したと、社告した(1898 (明治31)年1月1日)。

 これは他新聞にとっては大変な衝撃だった。 『時事新報』は1898(明治 31)年5月1日付で「電報掲載の制裁」という記事で、他新聞社による『時事 新報』のロイター電報北京電報の転載を非難し、以後禁止することを通告した。  ただし、『時事新報』発行後24時間を経過すれば、転載であることを明記した うえでの転載を認めた。 それは屈辱的なので、他新聞社は大混乱し、新聞界 全体の問題となったため、『時事新報』も交渉に応ぜざるを得なくなり、結局 1899(明治32)年6月妥協が成立する。 『時事新報』も含め東京の10新聞 社が共同で一種のシンジケートを作ってロイターと契約し、料金を公平に分担 することにした。

 これが福沢諭吉存命中の『時事新報』の置かれた国際ニュース環境だった。  ロイターに頼っていれば、質量ともに優れた世界のニュースを入手できる。 し かしそれは余りに高価だし、国際認識もゆがんでしまう危険がある。 なんと かそこから脱し、自立したいのだが、情報のハード・ソフトともに高い壁があ る。 大北電信会社の海底電線独占を解消できたのは1943(昭和18)年、同 社のあるデンマークがナチスドイツに占領された時だったし、ロイターのニュ ース独占を打開したのは1933(昭和8)年、新聞連合社がアメリカの通信社 APと契約をし、ロイターを出し抜いた記念の式典をやった時だった。 情報 の高い壁の打開には、ともに第二次世界大戦の直前までかかったわけで、その ため日本人はイギリス的な世界観を持つに至ったし、大戦にかかわる情報戦に どれだけの不利があったか計り知れない。

 (第二次世界大戦の戦前・戦中は、日本電報通信社と新聞連合社を統合した 同盟通信社があった。1936年設立、政府から独占的特権を与えられた。敗戦後、 占領軍の戦争責任追及で解散、1945年11月1日その業務が二分され、共同通 信社(一般ニュース)と時事通信社(経済ニュースと出版活動)に引き継がれ た。)

イギリスの情報覇権、海底電線と国際通信社2018/01/16 07:20

 当時の最先端技術である電信機器・電信線は先進国だけが保有し利用できる ものだった。 特に大陸間を結ぶ海底電線は、高度の技術、莫大な投資だけで なく、安全な保持・管理に軍事力・海軍力が必要だった。 当時この条件を満 たすのは、イギリス、フランス、ドイツの三国だけ、なかでも被膜樹脂の生産 販売をほぼ独占していたイギリスだった。 英米の実業家たちによって大西洋 横断海底電線の敷設が何度も試みられたが成功せず、シベリア大陸を横断、比 較的狭いベーリング海峡を通って、アラスカから、カナダ、アメリカへという 壮大な計画が生まれた。 ところが1866(慶応2)年に大西洋横断海底電線敷 設が成功し、シベリア・アラスカ回りの英米間電信線は無用の長物となってし まう。 実はこれが日本に深く影響することになる。

 海底電線はイギリスの東方電信会社(Eastern Telegraph Co.=大東電信会 社)によって東にも延び、ロンドンと、植民地インド、シンガポール、中国の 市場は電信線で結ばれた。 もう一方、デンマークの大北電信会社(The Great Northern Telegraph Co.)は放棄されていたシベリアの電信線に目をつけ、ロ シア沿海州へ転進させウラジオストックに出て、日本を中継して上海へ上陸す る電信線を計画した。 思いがけず日本は、地球規模の国際通信網と直面する こととなったのである。 大北電信会社は1870(明治3)年、発足早々の明治 政府に海底電線陸揚げを求めて来て、政府が長崎と横浜への陸揚げを認めたの で、上海・長崎間、長崎・ウラジオストック間の海底電線を完成させた。 こ れによって日本列島は中国大陸、ヨーロッパと電信によって結ばれ、地球規模 の国際通信網の一端に組み込まれた。 朝鮮半島への進出を願望した日本は 1882(明治15)年、長崎・釜山間海底電線を大北電信会社に依頼し、その代 償として同社に日本列島とアジア大陸間の海底電線独占権を認めた。 これは 日本のアジア大陸進出の第一歩となったが、その独占権は長く日本の国際情報 を非常に厳しく縛ることになった。

 大北電信会社はデンマークの会社だが、西欧の共同利益に立っていて、東ア ジアではイギリスの援助を受けていた。 南からの東方電信会社と、北回りの、 大北電信会社は、上海で出会うことになり、香港を境に地域分割協定を結び共 存することになった。 経済力、工業力、軍事力によって、イギリスの優越が 実現された。

 海底電線が延伸されると、国際通信社が進出する。 世界中からニュースを 集め、速報・配信する国際通信社は多額の投資と国際経験・信用が必要な事業 で、当時イギリスのロイター、フランスのアヴァス、ドイツのヴォルフの三社 だけだった。 三社は、それぞれの勢力圏を認め合い、世界を分割し、中国や 日本などの東アジアは知らないうちにイギリスのロイターの勢力圏となった。  1872(明治5)年にロイターは横浜に支局を設立し、最初の客になったのは、 国際ニュースを最も必要としていた日本政府だった。

 これによって、日本および東アジアにおいて、海底電線、それに連動してい る国際ニュース通信の二つ、ハードとソフトをイギリスが握る体制、イギリス の情報覇権が成立し、開国した日本は、否応なくその網の下に組み込まれてし まったのだった。(つづく)

有山輝雄さんの「国際ニュース報道と『時事新報』」序論2018/01/15 07:18

 第183回福澤先生誕生記念会の記念講演は、有山輝雄さんの「国際ニュース 報道と『時事新報』」、知らないことばかりで、たいへん興味深い話だった。 有 山輝雄さんは近代日本メディア史がご専門の元東京経済大学教授で、1967年東 京大学文学部国史学科卒業、1972年同大学院社会学研究科博士課程単位取得退 学。 2014年に『情報覇権と帝国日本』(吉川弘文館)を上梓した。 講演の 要点を書こうと思ったが、レジメが配布されたので、つい長くなった。

 福沢諭吉は『民情一新』(1870(明治12)年)で、西洋の「文明開化」は「人 民交通の便」(コミュニケーションのもたらす便益)によって実現したと喝破し た。 西洋諸国の「文明開化」の真髄は、その「徳教」「理論」の内容にあるの ではなく、それを産み出し・流通させるコミュニケーションにあるという、大 変鋭い指摘をした。 19世紀に西洋諸国は、蒸気船、電信、郵便、印刷の発明 工夫によって、物資と情報の流通における高速化・広範化・大量複製化を実現 し、社会は大きく転換したというのだ。

 特に画期的な技術革新は「電信」だった。 「電信」は、人や物資の移動を ともなわずに情報そのものの高速の流通を可能にする技術だった。 その発明 以来、大規模な資本と技術が投入され、電信線は地球規模ではりめぐされてい く。 ハードの情報伝達技術だけでなく、もう一つ重要なのは、交通路を流れ る情報を生産し、流通させるソフトの社会組織の発達だ。 新聞社・通信社・ 出版社などを設立し、それら組織の円滑な活動を可能にする法的政治的社会的 制度の整備があって初めて技術は活きる。

 開国した日本は、こうした地球規模のコミュニケーション(交通)革命、情 報通信革命の国際社会にいきなり入っていかなければならなかった。 福沢諭 吉・『時事新報』は、福沢の存命中から、国際情報報道の役割を認識して、国際 ニュースに力を入れ、けして平坦な道でない、この非常に厳しい環境の中で、 悪戦苦闘の活動をした。 厳しい環境は、ハードとソフトの両面にあった。(つづく)

長谷山彰塾長の「年頭挨拶」2018/01/14 08:09

 長谷山彰新塾長、落ち着いていて、ゆったりと語る人だった。 「新年発会」 の明治12(1879)年は、西南戦争後で秩禄処分による士族の窮乏化も進んで 塾生の数が減少し、慶應義塾の経営が閉鎖の危機に瀕していた時期でもあった。  福沢は、政府から維持資金四十万円を借用することを考え、働きかけを行った が、井上馨と伊藤博文が強く反対して実現しなかった。 井上馨宛の手紙(明 治12年2月10日)に、三菱会社商船学校に毎年一万五千円を補助しているの は、国に商船の航海者を作るの趣意だろう、岩崎弥太郎は船士を作り、福沢諭 吉は学士を作る、海の船士と陸の学士と固(もと)より軽重あるべからず、と 書いている。

 資金調達計画に失敗した福沢は廃塾の決意を固めたが、小幡篤次郎を始めと する社中の人々は、自分たちの手で寄附金を集め、義塾の存続を図る計画をま とめた。 明治13(1880)年の慶應義塾維持法案で資金を公募し、その資金 によって維持・運営されることになったため、義塾の経営主体と責任を明確に するため、明治14(1881)年慶應義塾仮憲法により、慶應義塾の運営は福沢 の手を離れ、維持社中の選挙で選ばれる理事委員に移った。 長谷山塾長は、 これを「会社組織」になったと語り、その社中一致の根本理念は、先に見た福 沢の「明治12年1月25日慶應義塾新年発会之記」に現れているとした。

 塾長は理事長を兼ねていて、資金獲得が使命である。 自己資本の比率を高 めて、研究の自由を確保したい、福沢基金や小泉基金を充実させたい。 日吉 記念館は2020年春に建替完了、オリンピックのイギリス選手団が使用する予 定、2020年までに博物館を創設するために設立準備室を立ち上げた。

 ほかに長谷山塾長の「年頭挨拶」で書いておくべきだと思ったのは、つぎの ような点である。 今年は明治150年、慶應義塾命名150年、福沢は官と民の うち、民の強化による近代化を目指した。 幕末の戦乱の中でも、学問で社会 に貢献しようとした。 明治初年の学校は、医学、法学、工学など、みな専門 の学校だけだった。 その中で、慶應義塾だけはリベラルアーツ教育、全人格 的教育を行なっていた。 ウェーランドの経済書と同時に、ウェーランドのモ ラルサイエンス『修身論』も講じていた(コモン エデュケーション)。 「慶 應義塾規約」の第2条には、「慶應義塾は教育を目的とする」(研究はなく)と のみ書かれている。 実業界から、音楽やスポーツに至るまで、広く人材を送 り出す、人材育成の使命は、慶應義塾の誇りである。

 昨年は、体育会創立125年の記念式典を開催した、体育会は43部、文武両 道の「考えるアスリート」を目指している。 体育会ばかりでなく、文科系で も、正課と課外のバランスが大切だ。

 オックスフォード大学のルイーズ・リチャードソン学長(初めての女性学長 らしい)にお会いして、慶應義塾の第19代塾長だと言ったら、自分は221代 目の学長だと言われた、あちらは千年に近い歴史がある。

明治12年「慶應義塾新年発会之記」2018/01/13 07:24

 10日は第183回福澤先生誕生記念会、毎年、会の初めに幼稚舎生の歌う『福 澤諭吉ここに在り』は、上野の彰義隊の戦争の日に福沢が悠然とウェーランド 経済書の講義を続けていたエピソードを、佐藤春夫が作詞したものだ。 昨年 5月に就任した長谷山彰新塾長最初の年頭挨拶を聴く。 長谷山塾長は、その 日から12年、明治12(1879)年1月25日に慶應義塾で催された新年の発会 で、大喜びだったという福沢先生の演説から始めた。

 帰宅して、その「慶應義塾新年発会之記」を探す。 『福澤諭吉全集』の索 引から、17巻の278頁と282頁を見ると、1月29日の岡本貞烋(さだよし) 宛と、2月4日の藤野善蔵宛書簡で発会に触れていて、「内外の学生360名ばか り」が賑やかに参加したとわかる(この学生は、学問の仲間の意だろう)。 こ の書簡を『福澤諭吉書簡集』第2巻でみたら、岡本貞烋宛に同封した「拙文一 編」が『福澤諭吉全集』4巻の『福沢文集二編』にあることがわかった。 533 頁に「明治12年1月25日慶應義塾新年発会之記」はあって、ようやく読むこ とが出来た。

 「温故知新、人間の快楽、何ものか之に若かん。」と始まり、22年前の安政 5(1858)年10月江戸鉄砲洲の中津藩邸内で数名の学生を教えて創立、同年は アメリカを始め5か国と条約を結び、英書を読む必要を悟って英書を講じ、攘 夷の議論が沸騰する中でも、次第に塾生は増加、百余名になっていた。 そこ に王制維新の騒乱、塾生も分散して数十名を残すのみとなったが、(長谷山塾長 は「中津藩から独立して」と)慶應3(1867)年12月から芝新銭座に新校舎 を建設、竣工の明治元(1868)年4月は東征の官軍が箱根を越え、上野には彰 義隊が屯(たむろ)して、「東京城市、風雨腥(なまぐさ)きの時なり」。 「蓋 (けだ)し此新築の塾を慶應義塾と名けたるは、当時未だ明治改元の布令なき を以てなり。」

 維新後、入社生も増え、新銭座も手狭になったので、明治4(1871)年、三 田に移転、常に300余名の学生を教えて今年まで全8年を経た。 「即ち今日 の会は開塾以来第22年、慶應義塾改名より第12新年の発会なり。新に逢ふて 旧を想ふ。人間の快楽これに過ぐるものある可らず。諭吉も亦幸に健康無事に して、諸君と共に此快楽を與(とも)にする其中心の喜悦は、口に云ふ可らず、 筆に記す可らず。唯衆客の忖度(そんたく)を待つのみ。」 忖度が出てきた(笑)。

 「末文に尚一言することあり。抑(そもそ)も我慶應義塾の今日に至りし由 縁は、時運の然らしむるものとは雖(いえ)ども之を要するに社中の協力と云 はざるを得ず。其協力とは何ぞや。相助ることなり。創立以来の沿革を見るに、 社中恰(あたか)も骨肉の兄弟の如くにして、互に義塾の名を保護し、或は労 力を以て助るあり、或は金を以て助るあり、或は時間を以て助け、或は注意を 以て助け、命令する者なくして全体の挙動を一にし、奨励する者なくして衆員 の喜憂を共にし、一種特別の気風あればこそ今日まで維持したることなれ。今 や前後入社生の散じて日本国中に在る者四千名に近し。其中には往々社会上流 の地位に居て事を執る人物も亦少なしとせず。実に我社中の如きは天下到る處 同窓の兄弟あらざるの地なしと云ふも可ならん。人間無上の幸福と云ふ可し。 吾輩既に此幸を得たり。豈(あに)偶然ならんや。されば今後とても此兄弟な るもの、益相親み益相助けて、互に其善を成し、互に其悪を警しめ、世に阿る ことなく、世を恐るゝことなく、独立して孤立せず、以て大に為すあらんこと、 諸君と共に願ふ所なり。既往を悦ぶの余り兼て又将来の企望を記し、以て本日 の演説を終ふ。」

 長谷山塾長は、現在の塾員35万人、福沢の理想は達成された、と語った。