渋沢栄一について書いたこと一覧2017/06/19 07:12

 そのほかにも「小人閑居日記」には、渋沢栄一について、いろいろ書いてい
る。 興味のある方には読んでいただきたいので、関連のものも含めて、ちょ
っと、まとめておく。 「渋沢栄一と福沢諭吉」は、同じ題で三回も書いてい
た。
渋沢栄一と福沢諭吉〔昔、書いた福沢14〕<小人閑居日記 2013.11.29.>
(「時代を動かした四つの瞳」等々力短信 第294号 1983(昭和58)年8月5日)
http://kbaba.asablo.jp/blog/2013/11/29/
福沢諭吉の「西航手帳」〔昔、書いた福沢15〕<小人閑居日記 2013.11.30.>
(等々力短信 第295号 1983(昭和58)年8月15日)
渋沢栄一が欧州で驚いた三つ〔昔、書いた福沢16〕<小人閑居日記 2013.12.1.
>(「『新日本事情』のすゝめ」等々力短信 第296号 1983(昭和58)年8月25日)
王子飛鳥山公園の渋沢史料館<小人閑居日記 2002.5.6.>
「渋沢栄一と福沢諭吉」<小人閑居日記 2002.5.7.>(西川俊作先生講演)
日本史における「会社」<小人閑居日記 2006.12.18.>
「会社」という言葉<小人閑居日記 2006.12.19.>
渋沢栄一と「会社」の普及<小人閑居日記 2006.12.20.>
「拝啓 渋沢栄一様」<小人閑居日記 2007. 3.4.>
世のため、人のために働く喜び<小人閑居日記 2007. 3.5.>
「拝啓 福沢諭吉様」ならば<小人閑居日記 2007. 3.6.>
「商」「町人」諭吉<小人閑居日記 2007. 3.7.>
「壬申 三十七歳ト十一ヶ月」<小人閑居日記 2007. 3.8.>
渋沢栄一と福沢諭吉<小人閑居日記 2012. 6. 14.>(二人の関わりを訊かれて)
福沢諭吉の渋沢栄一宛書簡<小人閑居日記 2012. 6. 16.>
福沢書簡に登場する渋沢栄一<小人閑居日記 2012. 6. 17.>

シベリア鉄道、福沢の日英同盟論2017/06/03 07:14

 1891(明治24)年に着工されたシベリア横断鉄道だが、セルゲイ・ヴィッ テ蔵相が努力して、金本位制を確立し、フランスから資本の導入をはかって、 10年で完成させた。 ヴィッテは日本の歴史に影響を与える。 日露戦争後の 1905(明治38)年、ポーツマス講和会議にロシア全権大使として出て来て、 小村寿太郎と交渉する。 どっちが勝ったか。 ヴィッテは、小村がアメリカ のマスコミ対応を知らないので勝てると思ったと、記者会見などで平民のスタ イルを演じてアメリカのマスコミと世論を味方につけた。 日本は満州南部の 鉄道と領地の租借権などを得たものの、戦争賠償金を得られず、戦争中耐乏生 活を強いられた国民の不満が爆発し日比谷焼打事件が発生した。 だが、日露 戦争の敗北が、ロシア革命につながることになる。

 福沢は1863(文久3)年、遣欧使節の一員としてロシアに行っている。 国 境を決める交渉だったが、応接が立派で、どうも裏には日本人(難民)がいる らしい、福沢はロシアに残らないかと誘われ、気の知れぬ国だ、怖いと感じた。  アレクサンドル2世の時代で、農奴解放をやり、資本家が出てきた。 アレク サンドル2世は1881年、明治14年の政変の年に暗殺された。 アレクサンド ル3世の時代、シベリア横断鉄道を着工、極東への進出をはかり、ビスマルク との三帝同盟(ロシア、オーストリア、ドイツ)を破棄し、1891(明治24) 露仏同盟を結んだが、日清戦争の1894(明治27)年に死ぬ(その子が皇太子 ニコライ(ニコライ2世))。

 勝海舟は日清戦争に反対だった(『氷川清話』)。 兄弟喧嘩だとし、やれ ば簡単に勝つが、恐い、清国が張り子の虎だということが分かれば、ヨーロッ パがどんどん来る。 シベリア横断鉄道のシヨートカットは1895(明治28) 年、清が日清戦争の日本への賠償金を、フランスから借りるのをロシアが保証 して助けた。 中国づいたドイツが、遼東半島をパッと取り、ロシアも旅順を 取り、シベリア鉄道の南進を図る。

 福沢は、金玉均に入れ込んで、朝鮮の開化派を支援した。 勝海舟は、覚め た態度だった。 日清戦争が終った頃の、福沢の時事新報の論説(1895(明治 28)年6月21日、『福澤諭吉全集』15巻)に「日本と英国との同盟」がある。  日本が日清戦争に勝った結果、非常な名誉利益を得たが、この権益を一つの国 で保つのは大変だ。 ヨーロッパのある強国とタイアップ(同盟)して、双方 の利益を謀るべきだが、ヨーロッパの国々は相互の関係が込み入っている。 ひ とりイギリスだけは、そのパワー・バランスに加わっておらず自由なので、長 く組むことが出来る。 イギリスの利害は、ロシアの南進を防ぎたいという多 年の外交戦略にある。 ロシアの南進運動は近来、トルコ、アフガンの侵略に 満足せず、満州朝鮮にもなすところがある。 かのシベリア鉄道が完成すれば もちろんだが、その前にも活発な運動を目撃するだろう。 日本と英国との同 盟は、両国にとって非常な利益になる、というのである。

 日露戦争直後の1905(明治38)年、来日したアメリカの鉄道王ハリマンは、 南満州鉄道(満鉄)の日米共同経営計画を日本政府に提案した。 日本ではほ とんどが賛成で、桂太郎首相との間で桂・ハリマン覚書(協定)が交わされた が、ヴィッテにやっつけられ、ポーツマス条約の締結を終えて帰国した小村寿 太郎外相が強く反発したため、覚書は消え去ることとなった。

 竹森俊平教授は、ここは(もし福沢がいれば)福沢の出番だった。 もしア メリカと組んでいれば、その後のアメリカとの衝突は回避されたのではないか、 と言った。 初めに書いたようによくわからないのだが、ワグナーの『ニーベ ルングの指環』が、要所要所で引き合いに出されたことだ。 死を免れようと すれば、巨人族=軍人と戦わない手があった。 ラインの乙女に指環を返せば、 命が助かるジークフリートは福沢、日本。 ほかに、アルベルヒは資本家、ヴ ォータンはロシア皇帝、「神々の黄昏」は三帝同盟など。 このへんのストー リーが、お分かりの方はご教示ください。

岩倉使節団、憲法調査、伊藤博文と福沢2017/06/02 07:03

 そのビスマルクは、明治日本と微妙に関わっていた。 岩倉使節団は、廃藩 置県後の1871(明治4)年11月から翌々年9月にかけて米欧に派遣されたが、 2年目の10月、ビスマルクに会って演説を聞いた。 木戸孝允、大久保利通、 伊藤博文は、強い印象を受けた。 プロイセンは後進の小国で苦労した、ドイ ツと組まないか、留学生を送れ、など。(プロイセンが普仏戦争で勝ったばか りだったので、以後、陸軍に始まり、憲法、法学や哲学、医学、音楽もドイツ 式になっていく。) ビスマルクは絶頂の時期だし、大久保利通もそうだった。  大久保利通は1874(明治7)年、立憲君主制と言い出す。 王権(兵力)と議 会を分離する。

 日本でビスマルクとイメージが直結するのは、伊藤博文。 1882(明治15) 年に、1890(明治23)年発布と約束した憲法の調査のため、ドイツへ行き、 シュタインの講義を聞いた。 ウィルヘルム2世の時代で、国会を開くのは日 本のためによくない、プロイセンは議会を骨抜きにし、皇帝とビスマルクが牛 耳っている。 法律と行政を別に考えるべきだ。 政府と行政の組織を確立す るのが大事。 皇帝に忠実なロイヤル・サーバントの、冷静な判断力が必要だ。

 竹森俊平教授は、福沢諭吉と近いタイプは、伊藤博文だと言う。 ただ明治 14(1881)年の政変、薩摩を追い出すパワーゲームで、仲が悪くなるが、後に 仲直りする。 伊藤博文は甲申の変の折、天津で李鴻章と会談し、日清両方で 撤兵することを決めた。 いつも「冷静な判断力」でストップをかけるのが、 伊藤だった。 福沢の独立自尊も、国民一人一人の自由と独立がなければ、マ クロの国の独立はないとする、下から盛り上げるナショナリストだった。

 1891(明治24)年、ロシア皇太子ニコライ(ニコライ2世)が世界一周の 途中日本に来遊、警察官に斬りつけられて負傷する大津事件が起きる。 日本 に来る直前、ニコライはウラジオストックで、シベリア横断鉄道の定礎式を行 っていた。 シベリア横断鉄道は、満蒙を通った方がシヨートカットできる。  これが世界史を変える重要な意味を持っていた、中国とロシアの接近である。  鉄道をさらに南に延ばし、旅順まで(のちの満州鉄道)行くのは、完全に産業 上のプロジェクトだった。 中国市場を視野に、百年の先見の明だ。(つづく)

ビスマルクが築いた安定、戦争で崩壊2017/06/01 07:17

 5月27日、福澤諭吉協会の総会と記念講演会が交詢社であり、竹森俊平慶應 義塾大学経済学部教授の「福沢諭吉は『日露戦争』をどう受け止めただろうか」 という話を聴いてきた。 竹森俊平教授については『国策民営の罠 原子力政 策に秘められた戦い』(日本経済新聞出版社・2011年10月)を読んで、4月 19日から24日までの当日記に書いたばかりだったので、この講演を楽しみに していた。 言うまでもないけれど、福沢諭吉は1901(明治34)年に死んで いるので、1904(明治37)年~1905(明治38)年の日露戦争は知らない。

 竹森俊平教授はレジメを用意していなかったので、これから書くことは、海 図のない航海のようなものだということを、ご承知願いたい。 さらに竹森教 授は、ワグナーの『指環』すなわち『ニーベルングの指環』を要所で引き合い に出したので、『ニーベルングの指環』を知らない教養不足が露呈して、理解 できないところがあった。

 竹森俊平教授は、ビスマルクの写真を掲げて話を始めた。 ケインズは1919 (大正8)年の第一次世界大戦のパリ講和会議でイギリス代表の一員だったが、 その後著した『平和の経済的帰結』の中で、大戦前は貿易と金融のグローバル 化の絶頂期だった、ロンドンで紅茶を飲みながら、電話で世界中に注文すると 物が届き、投資もできたのに、その素晴らしさは災害のように起こった戦争で 終わってしまった、と述べた。

 通信や運輸の発達、鉄道がなければ、日露戦争は起きなかった。 シベリア 横断鉄道によって、ロシアは地球の半分の距離のところに120万人を集結させ、 日本は90万人を集結させた。 ロシアも、日本も、1897(明治30)年、同時 に金本位制を採用した。 日本は、ロシアとの戦争準備のため、金を借りる必 要があった。 戦艦を造るのに、国際貿易・金融を活用し、一隻はイタリアか らも買っている。 第二次世界大戦の時期には、金本位制の国はどこにもなく、 世界経済はブロック化されていて、戦艦は自前で建造した。

 ケインズが1914(大正3)年まで続いていたと言ったバランス・オブ・パワ ーは、ビスマルクが築いた時代だった。 言わばビスマルキアン・グローバリ ゼーション。 普仏戦争で、1871(明治4)年プロイセンが勝ち、アルザス=ロ レーヌを取り、ドイツ帝国が出来た。 ビスマルクは、1873(明治6)~87(明 治20)年三帝同盟(ロシア、オーストリア、ドイツ)をつくり、フランスの孤 立化を図った。 1891(明治24)~94(明治27)年、露仏同盟できる、諸悪 の根源。

 対ソ封じ込め政策を立案したアメリカの外交官ジョージ・ケナンは、ビスマ ルクはドイツのナショナリストではなく、皇帝の忠実なサーバントだと言った。  皇帝は帝国の一つのメカニズムだという昔風のモラルを持っていた。 20世紀 になって世界秩序が崩れた。 戦争のスタイルが崩壊し、それは外交の延長の 限定的戦争でなく、相手を徹底的に叩きつぶすようになった。 ドイツをあれ ほど叩かなければ、パワー・バランスを維持できたはずだ。

 そのビスマルクは、明治日本と微妙に関わっていた。(つづく)

「国のかたち」の大変化と憲法制定・改正2017/05/23 07:04

 福沢が訪れたアメリカは、南北戦争の直前と直後で、南北戦争をはさむ大き な変革期のアメリカだった。 最初の訪米は1860年で、南北戦争の一年前、 南北の対立激化と内戦の迫り来る時期だったが、サンフランシスコにしか行っ ていない。 2度目の訪米は1867年で、南北戦争終了から2年後、戦後の政 治対立、南部再建、憲法改正の時期で、ニューヨーク、ワシントンに行き、リ ンカーン暗殺で大統領になったアンドリュー・ジョンソンにも面会している。

 南北戦争(1861-1865)は、アメリカ史上最大の戦争で、奴隷、領土、産業 政策など「国のかたち」をめぐって、建国以来の南北の対立が爆発した。 独 立と建国の理念、合衆国と憲法存続の危機であった。 新しい領土にも奴隷を 認めるのか、お互いに干渉しないという契約の州権主義と、国民との約束、信 託の合衆国という考え方の対立があった。 南部諸州の連邦脱退による分裂と、 北部諸州勝利による統一の維持という結果になった。 新しい「国のかたち」 と三つの憲法修正条項制定(これを福沢が書いていたら、面白かったと、阿川 さん)。 修正第13条(1865年)奴隷制の禁止。 修正第14条(1868年)市民権、法の適正手続、法の平等保護。(州に直接適用され、アメリカは独立国 家になった。) 修正第15条(1870年)投票権の平等。

 一方、日本では、南北戦争とパラレルで、幕末維新の動乱、戊辰戦争があっ た。 ペリーの黒船来航という安全保障の危機、存立危機事態に、日本という 「国のかたち」の論争となった。 日米両国はそれぞれ、「国のかたち」の大き な変化に直面したのだ。 19世紀後半には、各国で内戦と国家統一があった。  アメリカ、日本のほか、ドイツとイタリアでも統一戦争があった。 「国のか たち」の変化にともなう痛みがあり、日本では、戊辰戦争、士族叛乱の弾圧な しに、明治国家は実現せず、アメリカでは、奴隷制廃止なしに、今日のアメリ カ合衆国はなかった。 佐幕と南部は似ている。

 新しい「国のかたち」を表現するのが、憲法典の制定・改正である。 国家 統一の実現、政治と社会の安定、近代化・産業化の進展。 明治日本はドイツ 色の強い大日本帝国憲法を制定し、アメリカ流の憲法は維新から80年後の日 本国憲法を待たねばならなかった。

 憲法典と「国のかたち」の関係には、狭義の憲法と広義の憲法(実質的憲法、 慣習法)がある。 「国のかたち」の変化が憲法制定・改正をもたらすのか?  憲法制定・改正が「国のかたち」の変化をもたらすのか? 憲法改正に関する 現在の議論と、日本という「国のかたち」の変化について、阿川尚之さんは次 のように話したと、私は聴いた。 文字の上でいじるのは、大事だけれど、本 質ではない。 約70年間、機能してきた憲法は国民の生活と慣習の中で、「国 のかたち」となっている。 変化が起こっているのか、「国のかたち」を変えた いのか、変えるべきなのか。 真っ当な議論をして、真っ当な結論を出す必要 があるだろう。

 そして、阿川尚之さんは19日に書いた結論、「国のかたち」を示した福沢諭 吉とエイブラハム・リンカーンに話を進めたのである。 

 阿川尚之さんの憲法改正に関する考えは、下記に書いていた。

アメリカ憲法史から日本の改憲を考える<小人閑居日記 2017.3.29.>

トクヴィルと福沢の見たアメリカ<小人閑居日記 2017.3.30.>

自治のアメリカ、群れるアメリカ<小人閑居日記 2017.3.31.>