高橋誠一郎さん〔昔、書いた福沢12〕 ― 2026/08/17 07:14
等々力短信 第243号 1982(昭和57)年2月25日
福沢の身近で三年
高橋誠一郎さんがなくなった。 明治17(1884)年生れ、97歳、数年前まで、福沢諭吉協会の土曜セミナーに出て来られた。 当日のスピーカーの講演を聴いたあとで、感想を述べられる。 話し出すと止まらず、周囲の心配をよそに20分も続くといった調子であった。
バリバリの福沢研究者の名講演も、高橋さんの「福沢家の広くて静かな書庫に一人入りこんで、手当り次第雑多な本を書架からぬき出して読んだものだ。 福沢先生が時折顔を出して『何か面白いものが見つかったか』と声をかける。 実は先生に見せられない草双紙なども読んでいた」といった体験談の前には、すっかり色あせてしまったものだ。
高橋さんが慶應に入ったのは明治31(1898)年、13歳の時だから、3年ほどを福沢の身近で過したことになる。 われわれは長生きそれ自体が価値であることを示した記憶力抜群の生き証人を失った。
等々力短信 第244号 1982(昭和57)年3月5日
高橋誠一郎さんのユーモア
高橋誠一郎さんのスピーチには独特のユーモアがあった。
若い時、留学中の英国で結核をやっている。 「私は毎日病人のような気持で生活しておりまするが、間もなく八十になろうといたしております」
「私はたった一度福沢先生が外国人と話しておられるのを聞いた。 相手のマコーリというユニテリアンの宣教師は英語でしゃべっておる。 福沢先生も英語をしゃべっているつもりかもしれないが、日本語の中に変な発音の英語が二つ、三つ入っておるだけだ。 それでちゃんと相手にわかるのだから、福沢先生ほどの人になると偉いものだと思って感心しておった」
天皇在位五十年のお祝いに芸術院長、最年長者として「陛下なんかこの高橋から見ればまだ春秋に富んでいらっしゃる。 五十年なんてケチなことをお祝いになってちゃダメだ。 祝うなら百年をお祝いになって、ただし、その時は必ず高橋を招んでいただきたい。」
等々力短信 第245号 1982(昭和57)年3月15日
高橋誠一郎文部大臣
高橋誠一郎文部大臣によって教育基本法と学校教育法が公布されたのは昭和22(1947)年3月31日で、翌日には六三新学制による小学校、中学校があわただしくスタートした。 それにはスタッダード博士を団長とするアメリカ教育使節団の人権尊重と機会均等を求める報告書にもとづいて、GHQが六三制の早期実施を強く迫っていたという事情がある。
私が小学校に入ったのは、それから一年後の昭和23年で、学校は過渡期の試行錯誤の中にあった。 フラッシュ・バックすれば土盛りした奉安殿跡、新制中学の同居と二部授業、ガリオアのミルク、ひらがな先習カタカナ無視、自由研究、グループ学習、子供議会、という時代である。
高橋さんがなくなって、初めて教育基本法を読んだ。 そして、教育基本法の精神や制定前後の事情がもっと研究されてもよいと思った。 それは私たちの受けた、そして現在の、教育の枠組を決めたものだから。
吉田茂と『帝室論』〔昔、書いた福沢13〕 ― 2026/08/16 07:43
等々力短信 第255号 1982(昭和57)年6月25日
武見太郎さん
武見太郎さんといえば、ケンカ太郎、ゴリ押しの印象だった。 先日、ある会で武見さんの講演を聴いて、著書も読み、考えを改めた。 牧野伸顕伯の長女が吉田茂夫人で、孫が武見夫人である。 吉田、武見両氏とも、マスコミにさんざん叩かれたのも因縁かもしれぬ。 最近、吉田さんはだいぶ名誉を回復したが、武見さんはどうなるだろう。
武見さんは医師会以前の四十代前半に、大きな仕事を残している。 それは吉田茂の政治に重要なかかわりを持ったことだ。 優秀な開業医として、学界、政、財、官界に豊富な患者人脈を持っていた武見さんは、その人脈をフルに活用して吉田さんに協力したのである。
主な一つは銀座(教文館)の武見診療所開設から支援した岩波茂雄につらなる岩波文化人達であり、もう一つは理研を中心とする科学者集団である。 吉田内閣の政策決定、ひいては現在に至る日本の方向づけに、このブレーンの果した役割は、まことに大きい。
等々力短信 第256号 1982(昭和57)年7月5日
国の存亡をかけた修羅場で
武見太郎さんの話や、『戦前戦中戦後』(講談社)、『武見太郎回想録』(日経)といった本の面白さは、国の存亡をかけた修羅場で吉田茂、牧野伸顕といった人物が、どういうやりとりをしたか、そこに立会った臨場感にある。
総理大臣になることが決った時、「自信がおありですか」とたずねる武見さんに、吉田さんは「戦争で負けて、外交で勝った歴史はある」とキッパリいったそうだ。
日本を何から復興すべきかということを、武見人脈のブレーン連中が議論して、まず鉄鋼の自主生産からということになった。 しかし、GHQは日本の鉄鋼生産の再開を絶対に許可しない。 行きづまって、次善の策を考えようということになった時、吉田さんは「いちばんむずかしい問題は、私がやります」といって、トルーマン大統領に長電話で談判し、許可を取ってしまった。 これが、後の経済発展の基礎になったのである。
等々力短信 第257号 1982(昭和57)年7月15日
『帝室論』と高橋誠一郎文相
吉田内閣の時、天皇陛下から、民主主義の時代に国民と皇室の関係はどうなければならないかというご下問があった。 即答できずに、「本来なら切腹だ」と、真青な顔で官邸に帰ってきた吉田さんに、福沢諭吉の『帝室論』のことを話したのが、武見太郎さんだった。
早速『帝室論』を読んだ吉田首相が、小泉信三さんに文部大臣を頼もうといい出す。 使いの武見さんに、小泉さんは戦災のけががまだ治っていないからと断わる。 それでは高橋誠一郎さんだということになり、武見さんは「先生、福沢の弟子として、こういう時に福沢の遺志が政府に伝わるのは非常にいいことなので、それをする義務は先生にだってあるでしょう」という殺し文句を使って、高橋さんを官邸に連れ込む。
「帝室は政治社外のものなり」「我帝室は日本人民の精神を収攬するの中心なり」「帝室は独り万年の春にして、人民これを仰げば悠然として和気を催ふす可し」。 今年は『帝室論』百年である。
牧野伸顕を、ざっと見てみる ― 2026/08/13 07:12
私などは、元老、マキノシンケンと覚えていた牧野伸顕を、ざっと見てみる。 (1861(文久元)~1949(昭和24)) 明治から昭和にかけての政治家、外交官。 伯爵。 大久保利通の次男として鹿児島に生れ遠縁の牧野家に入る。 1871(明治4)年父とともに岩倉遣外使節団に同行、アメリカに留学。 1874(明治7)年帰国して東京開成学校に入る。 1880(明治13)年外務省に入りロンドン公使館勤務を経て1883(明治16)年帰国。 以後太政官に移り、制度取調局、参事院、法制局を経て、第1次黒田清隆内閣総理大臣秘書官に就任。 その後内閣官報局長、福井・茨城県知事を歴任して、1894(明治27)年井上毅文部大臣の下で文部次官。
1897(明治30)年外交官に復帰してイタリア大使、オーストリア大使に就任。 1906(明治39)年第1次西園寺公望内閣に文部大臣として入閣、義務教育年限延長に尽力した。 その後枢密顧問官、農商務大臣(第2次西園寺内閣)、外務大臣(第1次山本権兵衛内閣)を歴任し、1919(大正8)年パリ講和会議全権となる。
ついで1921(大正10)年宮内大臣に就任、1925(大正14)年には内大臣に転じ、国際協調主義と立憲政治擁護の立場で摂政裕仁親王を輔佐した。 一貫して親英米派であったが、かえって青年将校から「君側の奸」と目され、二・二六事件などでは襲撃の対象となった。 第二次大戦後に首相となった吉田茂は娘雪子の夫。
川越宗一著『絢爛の法』書評「〝満腔の熱血〟井上毅ここにあり」 ― 2026/08/12 07:17
皇室典範改正問題と井上毅(こわし)<小人閑居日記 2026.7.27.>
『福澤諭吉事典』の井上毅(こわし)<小人閑居日記 2026.7.28.>
「「明治十四年の政変」と井上毅」その発端<小人閑居日記 2026.7.29.>
井上毅の「人心教導意見案」<小人閑居日記 2026.7.30.>
その本は、川越宗一著『絢爛の法』(新潮社)で、「〝満腔の熱血〟井上毅ここにあり」という評者は書評家の吉田伸子さんである。 井上毅の毅を「こわし」と読むことも、大日本帝国憲法を起草した主要人物だったことも、知らなかったほど歴史に昏(くら)いという吉田さんだが、没入して読んでしまう熱量が、この本にはあるという。
「江戸末期、陪々臣(下級武士)の三男に生れた井上毅は、肺病を病むほどまで身を削って学問を修め、大久保利通や伊藤博文に見いだされた。」
「明治28年、51歳で没した際には「満腔の熱血を灌(そそ)ぎて国家の為めに竭(つく)せし」「洵(まこと)に痛惜すべし」と当時の新聞で称賛を惜しまれなかった毅だったが、牧野伸顕(のぶあき)はこう振り返る。「(井上は)宴会ではいつもひとりぼっちで、挨拶もろくにできず、愛想もなく」「はっきり言えば、手放しで称賛されるような為人(ひととなり)ではない」。だが、「井上毅はたしかに熱血漢だった」「熱血はひたすら仕事に注がれていた」、と。」
「その人生のほとんどを「法」に捧げた毅の生き様が、明治の要人とのかかわりとともに描かれていく。下野した西郷隆盛が起(た)った時、「キチノスケサァ」「俺(おい)ニ、オハンヲ討テチ言(ゆ)カ」と嘆いた大久保利通。毅の「ネッキタイ」を締め上げながら「無辜(むこ)の人間を短慮で殺(あや)めた俺は、たぶん碌な死にかたはせん。だからせめて、死ぬまではまっとうでいたいと思っている」と詰め寄った伊藤博文。」
「教科書で得た知識でしかなかった彼らが、物語の中で血肉を得、生身の人間として泣き、怒る。曲者だらけの男たち、彼らの血は、日本という国造りのために流された。」
「600ページを超える長大な物語だが、白眉は、敗戦後の日本国憲法施行の当日であり、序章に呼応する終章だ。牧野は思い起こす。「不磨の憲法など作っていない」と言う毅に、では、何を作ったのか牧野は問う。その答えが、胸の奥に突き刺さる。「呪われるべき憲法を、そうとも知らず、幸あれと願いながら産んだ人々」を思い牧野が流す涙は、私の頬をも濡らした。」
『銀座百点』8月号に「わたしの銀座」を書きました ― 2026/07/31 07:16
毎度書くように高校新聞出身なので、誤植や意味の伝わらない記述が気になる。 例えば、田中ひかる著『明治のナイチンゲール 大関和(ちか)物語』(中公文庫)だと、76頁の「同志社英学校(現同志社大学)を創設した新島譲によって、同志社病院と京都看病婦学校が設立され」で、新島襄が「譲」になっているのに、気づく。
この春、『銀座百点』3月号を見ていて、カラー・グラビア特集の「縄文から未来へ」で、いくら読んでも、製作者の苗字はあるが、フルネームがないこと(写真の中の名札にはあるが)に気づいた。 日ごろ口ずさむ福沢諭吉の『福翁百話』五十九「察々の明は交際の法にあらず。」を思い出し、どうしようかと迷った。 「察々の明は交際の法にあらず。十人は十人、百人は百人、大瑕瑾(かきん)小瑕瑾、都(すべ)て疵(きず)持つの身にして、智徳言行の完全なる者とては殆(ほと)んど一人もあるべからず。朋友を容(い)るゝの度量は広くして聊(いささ)か漠然たるを要す。」 それでも我慢できず、『銀座百点』編集部にメールしたら、編集長から問題発生の経緯の説明、校正者や関係者の確認も経ていたのだがと、再発防止に努めるとの、丁寧な返信があった。 それで、昔、銀座に勤めたことがあったともらしたことから、「わたしの銀座」を書かないか、と言われたのだった。 掲載は夏ごろと聞いていたのが、『銀座百点』8月号になったのだ。
肩書は、普通「読者」とするとのことだったが、できれば「ブロガー」と望んだら、そうしてくれた。 パソコン通信時代からの朝日ネットの先輩、繁野美和さんに『86歳ブロガーの毎日がハッピー毎日が宝物』(2014年・幻冬舎)という本がある。 「気がつけば82歳」というブログをまとめたものだが、私も、毎日この「轟亭の小人閑居日記」を書いていて、4月には何と「気がつけば85歳」になっていた。 各社のブログが終了する中で、朝日ネットの「asablo」もいつまで続くのか心配しているが、なんとか存続してもらいたいものだ。
『銀座百点』8月号、今週から各店頭に出まわっているそうだ。 ご興味のある方は、「わたしの銀座」をご覧下さい。
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