牧野伸顕を、ざっと見てみる2026/08/13 07:12

 私などは、元老、マキノシンケンと覚えていた牧野伸顕を、ざっと見てみる。 (1861(文久元)~1949(昭和24)) 明治から昭和にかけての政治家、外交官。 伯爵。 大久保利通の次男として鹿児島に生れ遠縁の牧野家に入る。 1871(明治4)年父とともに岩倉遣外使節団に同行、アメリカに留学。 1874(明治7)年帰国して東京開成学校に入る。 1880(明治13)年外務省に入りロンドン公使館勤務を経て1883(明治16)年帰国。 以後太政官に移り、制度取調局、参事院、法制局を経て、第1次黒田清隆内閣総理大臣秘書官に就任。 その後内閣官報局長、福井・茨城県知事を歴任して、1894(明治27)年井上毅文部大臣の下で文部次官。

1897(明治30)年外交官に復帰してイタリア大使、オーストリア大使に就任。 1906(明治39)年第1次西園寺公望内閣に文部大臣として入閣、義務教育年限延長に尽力した。 その後枢密顧問官、農商務大臣(第2次西園寺内閣)、外務大臣(第1次山本権兵衛内閣)を歴任し、1919(大正8)年パリ講和会議全権となる。

ついで1921(大正10)年宮内大臣に就任、1925(大正14)年には内大臣に転じ、国際協調主義と立憲政治擁護の立場で摂政裕仁親王を輔佐した。 一貫して親英米派であったが、かえって青年将校から「君側の奸」と目され、二・二六事件などでは襲撃の対象となった。 第二次大戦後に首相となった吉田茂は娘雪子の夫。

川越宗一著『絢爛の法』書評「〝満腔の熱血〟井上毅ここにあり」2026/08/12 07:17

 7月27日から30日まで、下記を書いた井上毅(こわし)だが、その評伝小説のあることを、3月28日の朝日新聞読書欄の書評で知った。
皇室典範改正問題と井上毅(こわし)<小人閑居日記 2026.7.27.>
『福澤諭吉事典』の井上毅(こわし)<小人閑居日記 2026.7.28.>
「「明治十四年の政変」と井上毅」その発端<小人閑居日記 2026.7.29.>
井上毅の「人心教導意見案」<小人閑居日記 2026.7.30.>

 その本は、川越宗一著『絢爛の法』(新潮社)で、「〝満腔の熱血〟井上毅ここにあり」という評者は書評家の吉田伸子さんである。 井上毅の毅を「こわし」と読むことも、大日本帝国憲法を起草した主要人物だったことも、知らなかったほど歴史に昏(くら)いという吉田さんだが、没入して読んでしまう熱量が、この本にはあるという。

 「江戸末期、陪々臣(下級武士)の三男に生れた井上毅は、肺病を病むほどまで身を削って学問を修め、大久保利通や伊藤博文に見いだされた。」

 「明治28年、51歳で没した際には「満腔の熱血を灌(そそ)ぎて国家の為めに竭(つく)せし」「洵(まこと)に痛惜すべし」と当時の新聞で称賛を惜しまれなかった毅だったが、牧野伸顕(のぶあき)はこう振り返る。「(井上は)宴会ではいつもひとりぼっちで、挨拶もろくにできず、愛想もなく」「はっきり言えば、手放しで称賛されるような為人(ひととなり)ではない」。だが、「井上毅はたしかに熱血漢だった」「熱血はひたすら仕事に注がれていた」、と。」

 「その人生のほとんどを「法」に捧げた毅の生き様が、明治の要人とのかかわりとともに描かれていく。下野した西郷隆盛が起(た)った時、「キチノスケサァ」「俺(おい)ニ、オハンヲ討テチ言(ゆ)カ」と嘆いた大久保利通。毅の「ネッキタイ」を締め上げながら「無辜(むこ)の人間を短慮で殺(あや)めた俺は、たぶん碌な死にかたはせん。だからせめて、死ぬまではまっとうでいたいと思っている」と詰め寄った伊藤博文。」

 「教科書で得た知識でしかなかった彼らが、物語の中で血肉を得、生身の人間として泣き、怒る。曲者だらけの男たち、彼らの血は、日本という国造りのために流された。」

 「600ページを超える長大な物語だが、白眉は、敗戦後の日本国憲法施行の当日であり、序章に呼応する終章だ。牧野は思い起こす。「不磨の憲法など作っていない」と言う毅に、では、何を作ったのか牧野は問う。その答えが、胸の奥に突き刺さる。「呪われるべき憲法を、そうとも知らず、幸あれと願いながら産んだ人々」を思い牧野が流す涙は、私の頬をも濡らした。」

『銀座百点』8月号に「わたしの銀座」を書きました2026/07/31 07:16

 毎度書くように高校新聞出身なので、誤植や意味の伝わらない記述が気になる。 例えば、田中ひかる著『明治のナイチンゲール 大関和(ちか)物語』(中公文庫)だと、76頁の「同志社英学校(現同志社大学)を創設した新島譲によって、同志社病院と京都看病婦学校が設立され」で、新島襄が「譲」になっているのに、気づく。

 この春、『銀座百点』3月号を見ていて、カラー・グラビア特集の「縄文から未来へ」で、いくら読んでも、製作者の苗字はあるが、フルネームがないこと(写真の中の名札にはあるが)に気づいた。 日ごろ口ずさむ福沢諭吉の『福翁百話』五十九「察々の明は交際の法にあらず。」を思い出し、どうしようかと迷った。 「察々の明は交際の法にあらず。十人は十人、百人は百人、大瑕瑾(かきん)小瑕瑾、都(すべ)て疵(きず)持つの身にして、智徳言行の完全なる者とては殆(ほと)んど一人もあるべからず。朋友を容(い)るゝの度量は広くして聊(いささ)か漠然たるを要す。」 それでも我慢できず、『銀座百点』編集部にメールしたら、編集長から問題発生の経緯の説明、校正者や関係者の確認も経ていたのだがと、再発防止に努めるとの、丁寧な返信があった。 それで、昔、銀座に勤めたことがあったともらしたことから、「わたしの銀座」を書かないか、と言われたのだった。 掲載は夏ごろと聞いていたのが、『銀座百点』8月号になったのだ。

 肩書は、普通「読者」とするとのことだったが、できれば「ブロガー」と望んだら、そうしてくれた。 パソコン通信時代からの朝日ネットの先輩、繁野美和さんに『86歳ブロガーの毎日がハッピー毎日が宝物』(2014年・幻冬舎)という本がある。 「気がつけば82歳」というブログをまとめたものだが、私も、毎日この「轟亭の小人閑居日記」を書いていて、4月には何と「気がつけば85歳」になっていた。 各社のブログが終了する中で、朝日ネットの「asablo」もいつまで続くのか心配しているが、なんとか存続してもらいたいものだ。

 『銀座百点』8月号、今週から各店頭に出まわっているそうだ。 ご興味のある方は、「わたしの銀座」をご覧下さい。

井上毅の「人心教導意見案」2026/07/30 07:08


     井上毅の「人心教導意見案」<小人閑居日記 2018.9.30.>

大久保啓次郎さんの「「明治十四年の政変」と井上毅―福沢諭吉の文明開化思想から井上毅の儒教思想へ―」は、つづいて北海道開拓使官有物払下げ事件から政変に至る動きを追う。 政府内では、大隈重信と大隈派の官僚(福沢門下が多い)が払下げに反対だった。 世論の激しい批判が巻き起こって事件となったのは、大隈が政府内の機密を漏らし、親しい福沢や資金を提供した三菱の岩崎弥太郎と組んで、薩長閥を追い落とすために仕組んだからだとの、大隈陰謀説が流れた。 激怒した薩摩派は大隈追放に動き、大隈との連携を模索した伊藤博文も最終的には、大隈追放に戦略を変更した。 10月11日、閣議で大隈罷免と官有物払下げ取り消しを決定、12日、明治23年の国会開設を閣議で決定。

文明開化で国民の意識が変化しつつある中で、国会開設までの長い9年間を心配した井上毅は、11月「人心教導意見案」という五項目の意見書を提出した。 前段で、維新以来「福沢諭吉ノ著書ヒトタヒ出テ、天下ノ少年、靡然(びぜん=草木が風になびくように、なびき従う)トシテ之ニ従フ」という状況が続き、福沢の文明開化思想が、若者に大きな影響を与え、その流れが過激な自由民権運動の温床となっている事を指摘し、その対応に細心の注意を払うべき必要があるとし、五項目の各論につなげている。

 (1)「都下ノ新聞ヲ誘導ス」…マスコミ対策、政府の意見を発表する官報及び政府系の新聞が必要。 (2)「士族ノ方向ヲ結フ」…士族授産の強化で、士族が粗暴民権家に走ることを防ぐ。 (3)「中学並職工農業学校ヲ興ス」…士族の子弟が徒に上京して民権運動に向うことのないように、国庫補助による中等教育、実業教育の充実を求める。なお中学では国文と漢学を用い、洋書は翻訳書を用いることとしている。 (4)「漢学ヲ勧ム」…「忠君恭順ノ道ヲ教ユル為ニ」漢学を奨励する。 (5)「独乙(ドイツ)学ヲ奨励ス」…法政や軍事科学等を学び、「保守ノ気風ヲ存セシメル為ニ」。
これらの案は、結果的には英学中心の福沢諭吉や慶應義塾に不利な影響を与えることになった。

福沢は、日本を近代国民国家にするために明治12年の『国会論』や『民情一新』で、国会開設を求め、英国型立憲政体を称賛していた。 それで国会開設を求める世論は大いに盛り上がり、自由民権運動を一層高揚させた。 13年には交詢社を立ち上げ、福沢の門下生たちは、英国型議会をモデルにした「交詢社私擬憲法」案を出す。 井上毅は、「国会開設」と「憲法制定」が議論される過程で、福沢の文明開化思想と国内世論の動向に、強い危機感を抱いて、福沢の言論活動の影響力の全てを否定することを政策目標としたのだった。

 この問題、「明治十四年の政変」後の福沢の近代化構想の運命に関連して、私は諸先生(松崎欣一さん、西澤直子さん、米山光儀さん、松浦寿輝さん、寺崎修さん、飯田鼎さん、平石直昭さん)に教えて頂いた、主に「耳学問」を下記に綴っていた。
福沢の筋書(理想)と現実との乖離<小人閑居日記 2004.11.30.>
「福沢の女性論・家族論は「最後の決戦」に勝ったか」<小人閑居日記 2005.11.12.>
福沢は表慶館での自分の展覧会を、どう思うか<小人閑居日記 2009. 2.10.>
『学問のすゝめ』と、明治政府の「学制」<小人閑居日記 2009. 2.11.>
教育政策についての福沢の批判<小人閑居日記 2009. 2.12.>
慶應義塾の教育<小人閑居日記 2009. 2.13.>
福沢の近代化構想は実現したか(1)<小人閑居日記 2012. 3. 14.>
福沢の近代化構想は実現したか(2)<小人閑居日記 2012. 3. 15.>
福沢の近代化構想は実現したか(3)<小人閑居日記 2012. 3. 16.>
『飯田鼎著作集』福沢の「民権と国権」<小人閑居日記 2014.11.13.>
飯田鼎先生の「明治14年政変の背景」<小人閑居日記 2014.11.14.>
官僚制、法制、教育もドイツ流へ<小人閑居日記 2014.11.15.>
福沢への影響と『時事新報』の創刊<小人閑居日記 2014.11.16.>
官と民、「慶應義塾の最大の役割」<小人閑居日記 2014.11.17.>
「青木功一著『福澤諭吉のアジア』」読書会に参加して(『福澤手帖』第163号(2014(平成26)年12月))

「「明治十四年の政変」と井上毅」その発端2026/07/29 07:10

 井上毅について、私が書いたものの内、まず次の二本を二日に分けて再録する。
「「明治十四年の政変」と井上毅」その発端<小人閑居日記 2018.9.29.>
井上毅の「人心教導意見案」<小人閑居日記 2018.9.30.>

   「「明治十四年の政変」と井上毅」その発端<小人閑居日記 2018.9.29.>

 『福沢手帖』第178号で、もう一つ注目したのは、大久保啓次郎さん(鴨川義塾理事)の「「明治十四年の政変」と井上毅―福沢諭吉の文明開化思想から井上毅の儒教思想へ―」である。 「明治14年の政変」については、私も日本にとって重要な歴史の転換点であったと考えていて、福沢の慶應義塾と大隈重信の早稲田で共同研究をしたらどうかと書いたことがあった。

「明治14年の政変」の共同研究を<等々力短信 第1064号 2014.10.25>
http://kbaba.asablo.jp/blog/2014/10/25/7473082

 大久保啓次郎さんは、この事件の勝敗を陰で操ったのが井上毅(こわし)であって、これを契機に井上は明治国家形成に深く関わることになったとし、一方、福沢諭吉の文明開化思想は、政府や教育への影響力を狭められていった、とする。 そして、井上毅が「明治14年の政変」の黒子であったことを最初に明らかにした昭和27年の大久保利謙著『明治十四年の政変と井上毅』を始め、井上毅伝記編纂委員会編『井上毅伝・史料編 第一』などから、政変における井上の動きや、その「人心教導意見書」を紹介して、彼を動かした思想の一端に光を当てている。

 井上毅(1844~1895(満51歳))は、肥後国(熊本県)出身、藩校「時習館」で朱子学を学び、儒教思想を習得し、その後の人生で儒教思想への親近感は強い。 慶應3年、藩命でフランス語習得のため江戸へ出る。 明治4年、司法省に入り、翌5年司法省の仲間7人とパリやベルリンに行き、そこで岩倉使節団と合流する。 6年に帰国するが、その間の2年間は主としてボアソナードらのフランス法学者の講義を受けた。

 「明治14年の政変」の経緯と井上毅。 明治天皇は各参議に立憲政体についての意見書提出を命じ、明治12年末の山縣有朋案、13年の伊藤博文案が提出されたが、筆頭参議の大隈重信はなかなか出さず、14年3月、密書として有栖川宮に提出した。 盟約関係の伊藤、井上馨に見せず、国会開設時期が明治16年と早く、英国型議院内閣制立憲政体の憲法というものだった。 これを見て驚いた岩倉右大臣は、6月初旬、太政官大書記官井上毅に見せ、反駁書を書かせ、調査を命じた。 6月14日、井上毅は岩倉に「大隈の意見書は、福沢諭吉著『民情一新』に見られる、福沢の政体構想と共通であり、それは天皇の権限を無視した英国型立憲政体である」との報告書を出した。 6月21日、岩倉はプロイセン型を念頭に大臣主導により進むべく、井上毅に憲法作成の案を用意するよう命じて、伊藤に憲法問題を任せた。 井上毅は「憲法制定意見書」を伊藤に送付、主導権を取るよう強く要請した。 伊藤は井上毅意見書が自分の考えとほぼ同じと知り、7月2日大隈意見書を「急進的」と激しく非難、岩倉も同様に不同意を表明した。 同5日、岩倉は、伊藤に書簡を送り、プロイセンをモデルとした憲法制定を示唆した。 同12日、井上毅は伊藤への書簡で、福沢を中傷しプロイセン型憲法制定を急ぐよう強調、政党内閣制阻止との自説を再説した。 同22日、井上毅は、京都に岩倉を、宮島に井上馨を訪ね、大隈孤立化への多数派工作を開始した。 同27日、井上馨は伊藤への書簡で、井上毅の訪問を踏まえ、プロイセン型憲法制定、早期国会開設に賛成する事を表明。 また井上毅は、松方正義、黒田清隆、西郷従道などにも大隈孤立化工作を懇願。 既にこの時点で、大隈意見書の採用は、宮中、政府内ともに多数派となり得ないことが、明らかになっていた。(つづく)