福沢書簡に登場する「藤田組」「藤田平太郎」2012/05/09 02:28

 明治19(1886)年~20(1887)年になると、福沢書簡には、「藤田組」が発 展して、同社や関連事業に慶應義塾の卒業生が就職したり、藤田伝三郎の長男 平太郎が慶應義塾に入学したことが出て来る。

 福沢書簡1112   明治19年12月1日付、本山彦一(熊本藩士、慶應義塾 出版社を経て、租税寮出仕、兵庫県学務課長、大阪新報社、時事新報社を経て、 明治19年藤田組に招かれて支配人)宛。 牛場卓蔵(伊勢の農家に生れ、明 治5年入塾、報知新聞社、兵庫県学務課に勤務、勧業課長、内務省にいて明治 14年政変で罷免され、時事新報記者、朝鮮政府顧問、大蔵省に出仕後、本山彦 一の斡旋で藤田組へ)の藤田組入社に異存のないこと、藤田・久原の子息(長 男藤田平太郎、久原庄三郎の次男房次郎(のち房之助))の慶應義塾入塾のこと などを伝える手紙。

 福沢書簡1122   明治20年1月25日付、本山彦一宛。 「藤田、久原二 少年、不相替勉強、富豪千金之子、従来辛酸をなめたることなし」「(保護者の 浜野定四郎と福島(未詳)は)困る者を首尾よく世話することこそ、面白けれ」 「一両年本塾にて修業の上、米国への留学を勧める」

 福沢書簡1133   明治20年2月13日付、本山彦一宛。 山陽鉄道株式引 受と中上川彦次郎の同社社長就任の時事新報社への影響につき相談する手紙。  神戸馬関間の鉄道の株式を十万円引き受けたい、資本を出す三菱(荘田平五郎 がいる)に五万、藤田組に五万の十万にする心づもりと伝える。 次男の捨次 郎が明治21(1888)年に鉄道を学んでアメリカ留学から帰国の予定なので、 そのためにも株式を所有したいので、荘田と藤田伝三郎に伝えてもらいたい。  今後、日本で事を成さんとするには新聞は重要で、中上川彦次郎の抜けた時事 新報は心配だが、ただ人物さえあれば維持は容易だ、と言う。

 福沢書簡1103   明治19年11月11日付、福沢一太郎宛。 「当今ハ日 本も金次第之世ノ中となり」旧工部大学校卒業生で、鉄道局に奉職した者も、 「藤田組等より招きニ参れバ、颯々と辞表を出して立退き候次第、鉄道局にて も困るよしなり」

福沢書簡に登場する「藤田伝三郎」2012/05/08 03:11

 藤田伝三郎、福沢諭吉とほぼ同時代の人なので、思いついて『福澤諭吉書簡 集』の索引を当ってみた。 藤田伝三郎宛の書簡はないけれど、ほかの人宛の 手紙の中に「藤田伝三郎」「藤田平太郎」「藤田組」が登場する。 この索引の 充実しているのが、有難い。

 まず、明治12(1879)年の藤田組贋札事件である。 前年末、各府県から 政府に納められた国庫金の中から贋札が発見され、この年9月15日「ドイツ 滞在中の井上馨と組んで現地で贋札を製造して秘かに持ち込んで会社の資金に しようと企てた」として、藤田伝三郎はほかの7名とともに拘引され、東京に 移送されたが、何も証拠がなく12月20日に藤田は無罪放免となった。 明治 15(1882)年9月に真犯人が判明し、冤罪が晴れた。

 藤田伝三郎が濡れ衣を着せられたのは、長州人脈を頼りに若くして大金持ち になったことを妬まれたこと、さらには薩摩と長州の勢力争いによるといわれ ている。 薩摩側は西郷隆盛の失脚、大久保利通の死と、次々に有力者を失い、 長州に押されていた。 そこで薩摩が支配していた内務省警視局を動かして、 長州系の大物の不正を暴く戦術が練られたというのだ。(2009年 6月7日の日 記で「山城屋事件」について書き、その前後に「尾去沢銅山事件」や「司法制 度の父」江藤新平の非業の死、さらには「福澤諭吉の法典論」にふれている。)

 福沢書簡379  明治12年9月22日付、原時行(旧延岡藩士、藩教育の功 労者)宛。 「大阪にては藤田中野(梧一)の捕縛、山師も亦恐るべき哉」

 福沢書簡383  明治12年10月7日付、岩橋謹次郎(和歌山県士族、明治6 年入塾、北海道開拓)宛。 「近日ハ藤田、中野之一条、中々喧しき事なり。 其真実の少しも分らず。何れ一、二ヶ月も過ぎたらバ、明白可相成存候。」

 福沢書簡631   明治14年12月25日付、井上馨宛。  明治14年10月の「明治14年の政変」後、井上馨参議兼外務卿からの会見 の申入れに返答して、「大隈が国会之奏議諭吉之手ニ成りしものデアロウ、三田 之社中ニテ編製したる私擬憲法草案も諭吉之作デアロウ」「大隈と三菱と諭吉は 同穴狐狸デアロウ」云々という「デアロウ」論から脱却することを条件にして 応ずると伝えた手紙である。  「例ヘバ藤田、中野ハ贋札を作りたデアロウ、両人之外ニ誰レ彼レも之ニ関 係したデアロウとて、遂ニ一昨年之不体裁を生したるにあらずや」

松下竜一と福沢評価のシーソーゲーム2012/04/29 02:19

 『父を焼く 上野英信と筑豊』の「枯れすすきの幸せ」という一篇は、大分 県中津在住の作家、松下竜一について書かれている。 苦しい豆腐屋の営みの なかから『豆腐屋の四季』という本を自費出版、それが高い評価を得て作家専 業となり、以来2004年に67歳で亡くなるまで数多くの著作を生み出した人で ある。 上野朱さんは「そのいずれにも共通するのは、歴史年表に名を残すこ とはないであろう民草の行き死にを見つめる目であり、人を欺き蹴落としてで も成り上がりたい権力の亡者や、取り返しのつかないほど自然を破壊してでも 「開発」「発展」を求める行政や財界に対して、「ちょっと待ってくれんの」と いう異議申し立てである」という。 「ちょっと待ってくれんか。ほんとにそ れが進歩なんじゃろか? それが人間の幸せなんじゃろか? という問いは、 政府や大企業といった権力だけに向けられたものではなく、たとえば原子力発 電所を作らねば電力が枯渇して原始時代に戻ってしまう、というような恫喝や 論理の欺瞞に気付かない、我々一人ひとりに対する問いかけでもある。」と(こ の本は2010年8月27日の発行)。

 松下竜一は、佐高信さんの『福沢諭吉伝説』(角川学芸出版)の冒頭にも登場 する。 松下竜一に『疾風の人』という、福沢の又従弟(またいとこ)増田宋 太郎を扱った作品がある。 尊皇攘夷思想を奉じた増田は、西洋文明の導入者 としての福沢を仇とし、暗殺しようとさえした。 そして、後に自由民権運動 に近づき、西南戦争に参加して西郷隆盛に殉じて死ぬ。 (『福澤諭吉事典』に よれば、暗殺を企てた後、みずから悟るところあって福沢の説を聞き、感服し て慶應義塾に入学、洋学を学び、在京中は福沢の家に寄寓していたという。そ の後、中津の『田舎新聞』の社長になり、民権自由の説を主張した。明治10 年の西南の役に中津藩士族を率いて西郷軍に呼応、中津支庁、大分県庁などを 襲撃したのち、薩軍に合流して転戦の末、9月24日鹿児島城山で戦死した。) 

太平洋戦争中、福沢は鬼畜米英の手先とされ、中津の旧邸には石が投げ込まれ、 小学校の講堂の福沢自筆の「独立自尊」の額もひきずりおろされ、倉庫に眠ら された。 松下は『疾風の人』の結論に「思えば、この「またいとこ」と同士 の、歴史の流れの中での評価のシーソーゲームは甚だしく劇的である。 敗戦 によって、福沢諭吉がこの国の民主主義の鼻祖として復権した時、増田宋太郎 は触れてはならぬ危険人物として被われ、性急に忘れさられていくことになっ た」と書いた。 佐高さんは、この福沢評価のシーソーゲームから、自身の「福 沢諭吉伝」を書き始めるのだ。

 佐高信さんは、松下が「反・福沢」の増田伝を書いたけれど、福沢と松下に は共通するものがある。 ユーモアのセンスである、という。 松下竜一は、 九州電力豊前火力発電所建設差し止め請求訴訟に敗れた時、「アハハハ……敗け た、敗けた」という垂れ幕を掲げた。 市民運動につきまとう悲観論、深刻癖 を吹きとばすユーモア感覚が松下にはあった。 泣かれるより哄笑される方が 相手は怖いということを松下は知っていた、というのだ。 法曹界から、権威 ある裁判をコケにしたという苦情が来た。 松下は「われわれがコケにしたの ではない。裁判所がコケにしたのだ。最終弁論さえ許さずに裁判を打ち切った “不真面目”な裁判所に恐れ入る必要はない」と書いた。 その官を恐れぬ精 神も、福沢譲りに見える、と佐高さんは書いている。

新知見の多かった山手散策2012/04/24 02:59

 フランス山とトワンテ山というのは知っていたが、アメリカ山を知らなかっ た。 20年前の1992(平成4)年4月、福澤諭吉協会の一日史蹟見学会で横 浜に来て、横浜開港資料館で開催中の「トワンテ山とフランス山―幕末の横浜 山手―英仏駐屯軍の四千二百日」という展覧会を解説つきで見た。 イギリス とフランスは、1862(文久2)年に起きた生麦事件の翌年から1875(明治8) 年までの12年間、居留民保護・居留地防衛のため、横浜山手に軍隊を駐屯さ せた。 外国軍隊の駐屯という事態に対し、幕府と明治政府は粘り強い外交交 渉を続け、ようやく主権を回復することが出来たけれど、明治も8年になって いたのだそうだ。 現在の「港の見える丘公園」一帯は英第20連隊の陣地が あったことからトワンテ(twenty)山と呼ばれ、現在のフランス山にはフラン ス軍が駐留していた。

 アメリカ山公園は、2009(平成21)年に開港150周年事業として開設され たという。 アメリカ山の名の由来は、1867(慶應3)年に山手一帯が外人居 留地となった折、ここ山手97番地がアメリカ公使館の用地として予定された が、実際に公使は住まず、書記官のポートマンが住んだことによるらしい。 こ れじゃあ、アメリカ山、知らないわけだ。 第二次大戦後には、アメリカ軍住 宅があったという。 

 エレベーターとエスカレーターで、楽にアメリカ山公園に達した散策一行は、 横浜地方気象台の横を通って、横浜外国人墓地入口前を過ぎ、山手本通りを進 む。 山手十番館の先では、居留地の境界(日本人off limits)を示す石柱が移 設されているのを見、火事で焼け石造りになった山手聖公会の前を通り、 BLUFF CLINICの前でBLUFFとは崖の意だが、外国人が居留地をそう呼んだ ので、THE BLUFFと定冠詞が付くと横浜山手を指すと教わる。 エリスマン 邸とベーリック・ホールの間の細い道を、元町公園に沿って右に入る。 近年 発見発掘されたという、ポンペイの遺跡のような山手80番舘遺跡が現れる。  イギリス人夫妻の住むレンガ造り三階建の建物が、関東大震災で崩壊した地下 室部分で、奥さんが犠牲になり、一時帰国中のご主人は戻ることがなかったと いう。 「冷たい旦那だ!」と感想をもらし、点を稼ぐ。

 本日のガイドは『小さな旅』の番組に、山手のご自宅書斎が出て来ていた。  エリスマン邸の横を通ったので、「サイトー邸は、どの辺?」と聞くと、モゴモ ゴ言っていた。 山手80番舘遺跡の少し先の角に、「関東学院の源流 横浜バ プテスト神学校発祥の地」記念のプレートがある。 「1884年10月6日、こ こ山手でA.A.ベンネットが横浜バプテスト神学校を設立した。関東学院キリス ト教教育の源流はここに発する。 校訓「人になれ 奉仕せよ」2009年10月 創立125周年記念」とある。 「ガァガーーーーーン」のサプライズ、その地 に建つ豪邸が「サイトー邸」なのであった。 「歓迎 慶應大学 六四の会ご一 行様」の貼り紙があり、心づくしの缶ビールやジュースが冷やされ、チョコレ ートなどが用意されていた。 桜は終わっていたが、元町公園の緑に包まれ、 プールを見下ろし、横浜全体が一望できる好立地である。 立派な庭には、シ ャクナゲやライラック、スズランが咲いていた。

 ダンスホール「クリフサイド」を左に見ながら、急な階段を降りると代官坂 の途中、元町に下り、前田橋を渡って、朱雀門から中華街へ、媽祖廟の先を左 折、すぐ左側の富筵(ふえん)で昼食となった。 ベテラン・シティガイド「人になり 奉仕する」斎藤さんの周到な案内と、シニア向けの配慮もあって、横 浜散策の小さな旅は、すこぶる楽しい旅になった。

「奴雁(どがん)」福沢と前川日銀総裁2012/04/22 03:00

 「奴雁(どがん)」という言葉を、ご存知だろうか。 福沢諭吉の使った言葉 で、私はどこかで読んだことがあったのだが、その場所も、意味も、すっかり 忘れていた。

 服部禮次郎さんが、財界人文芸誌『ほほづゑ』2012年春・第72号に書かれ たコラム「好きなことば」で、その疑問は氷解したのであった。 それは明治 7(1874)年6月、『民間雑誌』第三編に寄せた論説「人の説を咎む可らざるの 論」(『福澤諭吉全集』第19巻512~5頁)にあった。

 「語に云く、学者は国の奴雁なりと。奴雁とは群雁野に在て餌を啄むとき、 其内に必ず一羽は首を揚げて四方の様子を窺ひ、不意の難に番をする者あり、 之を奴雁と云ふ。学者も亦斯の如し。天下の人、夢中になりて、時勢と共に変 遷する其中に、独り前後を顧み、今世の有様に注意して、以て後日の得失を論 ずるものなり。故に学者の議論は現在其時に当ては効用少なく、多くは後日の 利害に関るものなり。甘き今日に居て辛き後日の利害を云ふ時は、其議論必ず 世人の耳に逆はざるを得ず。これがため、或は虚誕妄説の譏(そしり)を招く ことあれども、其妄説なるものは唯、今世の耳に触れて妄説なるのみ。其耳と 其説と孰(いずれ)が正しきや、今日を以て裁判す可きに非ず。」といい、一例 として、仮に天保年間に断髪廃刀の説を唱える者がいたとしたら、どうだった ろう、と言っている。

 服部禮次郎さんは、この「奴雁の説」が100年をへだてた1980年代になっ て、時の前川春雄日銀総裁によって大きく取り上げられたことを、紹介してい る。 前川総裁は「日銀は、まさに国の奴雁であるべきだ」という固い信念を 持っていたというのである。 前川は入行5年目ぐらいの時、神戸支店長の遠 田淳が年頭訓示で、福沢の奴雁の説と日銀の役割について話したのを聞いたの だそうだ。 在任5年で総裁を辞した2年後1986年の「前川レポート」は有 名だが、貿易摩擦を回避して内需依存型へ転換し、そのために産業構造を改変 し、閉鎖市場を開放するなどの提言を、服部さんは「二十五年さきの現在の日 本の課題をお見通しのような処方箋であったといえよう」という。 浪川攻(お さむ)著『前川春雄「奴雁」の哲学―世界危機に克った日銀総裁』(東洋経済新 報社2008年)という評伝があるそうだ。