「結婚契約書」と福沢諭吉 ― 2023/09/16 07:06
「結婚契約書」と福沢諭吉<小人閑居日記 2016.10.19.>
「結婚契約書」が出てくると、『ざんぎり頭の高崎』から少し離れて、福沢諭吉に触れない訳にはいかない。 明治7(1874)年10月、富田鉄之助と杉田お縫の結婚に際して、「結婚契約書」が取り交わされ、男女それぞれが署名したあとに、福沢諭吉が「行礼人」として署名し、森有礼が「証人」として署名したということがあった。
富田鉄之助は仙台藩士で、安政4(1857)年藩命で高島流砲術修業のため江戸に出、文久3(1863)年勝海舟に入門、慶應3(1867)年7月には、庄内藩士高木三郎とともに海舟の子息小麓に随行してアメリカに留学した。 幕府公認の留学第一号でもあった。 幕府の瓦解と東北の争乱で一時帰国したが、明治2年2月に再びニューヨークに戻り、商業学校で学び、明治4年2月ニューヨーク在留領事心得を命ぜられ、結婚当時は副領事で賜暇帰朝中であった。 杉田縫は、杉田玄白の孫で蘭学者の杉田成卿の長女。 森有礼は、初代駐米公使。 富田鉄之助は、後にイギリス公使館在勤、大蔵省勤務、日本銀行創設に関与し、副総裁を経て明治21年には総裁に就任。 さらに東京府知事、貴族院議員、富士紡績社長、横浜火災海上保険社長等を歴任した。
森有礼も、結婚は男女対等の立場で行なわれるべきであるという持論を有していて、翌明治8(1875)年2月、自身の広瀬阿常との結婚でも、東京府知事大久保一翁(いちおう)の面前で、男女互いに「結婚契約書」に署名し、最後に「証人」として福沢諭吉が署名している。
『福澤諭吉全集』第21巻295-6頁に、この「婚姻契約書二件」が収録されていて、註に「その契約書の文面も或は福澤の筆に成つたかと思はれる節があると昭和七年刊行石河幹明著『福澤諭吉傳』第二巻四六六頁に記してある」とある。
富田鉄之助と杉田お縫の「婚姻契約」は、こうである。
一、男女交契、両身一体の新生に入るは上帝の意にして、人は此意に従て幸福を享る者なり。
一、此一体の内に於て、女は男を以て夫と為し、男は女を以て妻と為す。
一、夫は余念なく妻を禮愛して之を支保するの義を務め、妻は余念なく夫を敬愛して之を扶助の義を行ふ可し。
森有礼と広瀬阿常との「契約結婚」は、当時の新聞でも報道されて大評判になったというから、慶應義塾出身の小暮篤太郎(武太夫)はもちろん、東京女子師範学校を出た堤清も、よく知っていたのだろう。
「明治の世に男女対等契約結婚」 ― 2023/09/15 07:10
堤克政さんの『ざんぎり頭の高崎』<小人閑居日記 2016.10.15.>
県庁所在地が高崎でなく前橋になった事情<小人閑居日記 2016.10.16.>
楫取素彦県令の食言で県都争奪騒動<小人閑居日記 2016.10.17.>
明治の世に男女対等契約結婚<小人閑居日記 2016.10.18.>
「結婚契約書」と福沢諭吉<小人閑居日記 2016.10.19.>
市民が支えた明治高崎の発展<小人閑居日記 2016.10.20.>
明治の世に男女対等契約結婚<小人閑居日記 2016.10.18.>
「明治の世に男女対等契約結婚」というのが、堤克政さんの『ざんぎり頭の高崎』の第25話である。 ほぼ全文を引いて、紹介したい。 堤さんの祖父・寛敏の妹・清(きよ)は、父の金之亟が下仁田戦争で討死した時は母の胎内にあり、半年後の慶應元(1865)年に誕生、父親代わりの長兄寛敏に「これからも女子でも新しい学問を」と送り出され、数え14歳で群馬県選抜生として東京女子師範学校(現お茶の水女子大)に入学した。 同期に信州松本藩士多賀努の娘春子がいて、清は大変可愛がられた。 五歳年長だった春子は、卒業後早々と鳩山和夫(早稲田専門学校長、鳩山一郎元首相の父)と結婚。 春子との縁から、清は卒業後鳩山家に寄寓して幼児教育を研究。 明治17(1884)年に帰郷し、次兄辰二が校長を務める高崎第一尋常小学校(現中央小学校)に赴任。 児童教育の傍ら開誘室(高崎幼稚園の前身)創設に尽力、開室と共に幼児教育に専念する。
清は明治20(1887)年、22歳の春、鳩山和夫の媒酌で小暮篤太郎と結婚した。 小暮家は伊香保温泉で「子(ね)の小暮」と呼ばれる安土桃山時代以来続く名門旅館で、代々武太夫を襲名し、篤太郎は二十四代目だった。 万延元(1860)年に生れ、12歳の時に東京へ出て新しい学問習得に励み、福沢諭吉の家僕として慶應義塾に学んだ。 福沢の諭しにより家業に戻り、温泉街の改革発展に尽くす。 一方、25歳の若さで県会議員に当選し、在任中廃娼論を唱え、先ず伊香保温泉の湯女(ゆな)廃止を断行し、日本最初の廃娼県とした。 結婚後、衆議院議員として活躍する。
名門を継ぎ旧弊の改革を成し遂げる新進気鋭の武太夫と、家老家格の家に生れたが父を戦で失い、秩禄奉還で厳しい生活を強いられていた清。 二人の立場は、客観的には玉の輿の様ながら男女同権の約束を交わしての結婚であった。 結婚契約書は、互いに配偶者になることから始まり、結婚は終身継続すべきことで共に離婚を求めない。 旧来の「七去(しちきょ)」という些細な理由で夫が一方的に追い出す離婚は、今日の法律・道徳上許されないと周囲に宣言。 夫婦の関係は最も親密であることを要し、親族その他何人からも干渉させないよう努めること。 婦権尊重の約束を取り交わし、契約項目の対等に加え、互いに署名捺印し二通作成して各自が所持するという、進歩的な知識人の契約で当時の新聞紙上を大いに賑わしたという。
「結婚契約書」の写真を見ると、鳩山和夫は「証人 鳩山和夫」と署名捺印した「証人」の横に“witness”と書いている。
「国政の椅子を争う昔の主従」 ― 2023/09/14 07:03
そこで、堤克政さんの『ざんぎり頭の高崎』の「国政の椅子を争う昔の主従」の、脱藩と衆議院議員選挙の件である。 明治23(1890)年の第一回衆議院議員総選挙で、西群馬郡の高崎町は群馬県第四区に編入され、伊香保の木暮武太夫が当選。 明治25年の解散総選挙は矢島八郎が、その後は毎回木暮が当選していた。 明治35年の第七回から高崎は独立選挙区となり、無所属の大河内輝剛48歳と帝国党の宮部襄55歳が立った。 二人は高崎藩の主従だった。
輝剛は、高崎藩最後の殿様輝声公の弟。 宮部は高崎藩家老を務めた宮部氏の一族。 自由党に加わり自由民権運動の闘士として活躍、政府密偵謀殺教唆の容疑で検挙され6年間も収監された。 特赦で放免され、憲政党を経て帝国党結成に創立委員として参加。
脱藩一件は、明治3(1870)年に宮部は藩の若手幹部と謀り、知藩事輝声公を引退させ輝剛を擁立するために密かに高崎から出奔させ、自分たちも三条実美や岩倉具視など新政府の有力者に意見書を提出した。 このとんでもない事件は不成功に終り、輝剛は捜索の末に発見され説諭されて帰藩。 宮部たちも廃藩置県直前の不安定な時期のため不問となる。
問題の明治35年の第七回衆議院議員総選挙である。 大河内輝剛派は主に実業界の支持、宮部襄派は旧自由党から帝国党員まで幅広い政党人の支持。 しかし、二人は共に高崎藩の首脳だったため旧藩士の間は二分された。 堤克政さんの祖父・寛敏の日記には、両者は互角の戦いで、僅差の予想だったが、282票対179票で、維新時に担がれた方が担ごうとした方に勝った。 祖父は日記に「吾党勝利」と記しているそうだ。
大河内輝剛は、当選したものの、桂内閣と議会が対立し議会はすぐに解散。 翌年の総選挙では、高崎城下の町年寄の跡を継いだ関根作三郎が打って出て三つ巴の争いとなり、再び輝剛が勝った。 が、またもや解散となり、翌年の第九回では無所属の一騎打ちとなり、242票対184票で宮部が雪辱した。 第十回では、高崎の有力者に推薦された落下傘候補〝天下の成り金〟鈴木久五郎が当選、宮部は一期で終わってしまった。 一方の輝剛は、明治39年に歌舞伎座社長に就任し立候補せず、二人とも僅かな時間の国会議員であった。
大河内輝剛を、高崎の堤克政さんに尋ねる ― 2023/09/13 07:01
大河内輝剛に興味を持った私は、文化地理研究会の後輩で、「高崎城主大河内家の家老等を務めた堤家の十三代目」の堤克政さんにメールして、大河内輝剛について尋ねた。 すると、「大河内輝剛氏はユニークな人物で、兄の輝聲公に代わって当主の座に就けようと図った、後に自由民権運動のリーダーになった宮部襄たちに載せられ脱藩したり、その宮部と衆議院議員選挙で争ったりしています。/塾に学んだ背景は承知していませんが、福沢先生の指導で広島県尋常師範学校長を務めています。/祖父の堤寛敏と交流があり身近な存在です。」という、興味深々の返信があった。
そこで私は、『福澤諭吉事典』『福澤諭吉書簡集』で調べた情報の概略を伝えて、脱藩や、広島県尋常師範学校長を務めたのや衆議院議員選挙に出たりしたのは、何年頃か、伝記や研究論文のようなものはあるのか、再度尋ねてみた。
それに対し、堤克政さんは自著『ざんぎり頭の高崎』(あさを社・2015年)を贈ってくれた。 その第36話に「国政の椅子を争う昔の主従」があるのだが、そこに書かれた大河内輝剛の略伝については上毛新聞社発行の『群馬県人名大事典』により、選挙のことは祖父・寛敏の日記によったが、旧高崎藩士の間のことなので、この部分のことは殆んど世に知られていないと思う、とお手紙にあった(後段については、また明日)。
「国政の椅子を争う昔の主従」で、大河内輝剛、脱藩は明治3年、衆議院議員選挙は明治35年の第七回から、翌年の第八回と当選、明治37年の第九回は落選とわかった。 実業界に転身後、日本精糖・東洋印刷・京浜電鉄の重役とあったが、私の調べにあった、「明治25年からは日本郵船に勤め、明治27年の日清戦争の頃は、清岡邦之助(福沢の三女しゅんの夫)とともに、広島宇品に勤務していた」の日本郵船は出てこなかった。
なお、ウィキペディアに、広島県尋常師範学校長は、1887(明治20)年4月で1892(明治25)年6月まで、その年日本郵船会社勤務とあった。 大河内輝剛、1855年1月16日(安政元年11月28日)~1909(明治42)年10月9日。 日本郵船会社では、近藤廉平の代理として大本営の御用を務める。 1906(明治39)年に歌舞伎座社長となるが、在任中に胃癌のため死去、墓所は青山霊園、ともあった。
『福澤諭吉書簡集』の大河内輝剛 ― 2023/09/12 06:56
つづいて『福澤諭吉書簡集』の大河内輝剛を見てみる。
第二巻、書簡番号287、渡辺洪基宛、明治11年12月12日付。 8月26日の「渡辺洪基宛ほか、関連の福沢書簡」に書いたように、渡辺洪基に、馬場辰猪の学習院教師採用を催促し、大河内輝剛の教員就職を依頼するもの。
第三巻、書簡番号585、浜野定四郎宛、明治14年4月29日付。 この時塾長だった浜野定四郎に、大河内輝剛の塾監就任への働きかけを依頼する。
書簡番号592、渡部久馬八宛、明治14年5月23日付。 義塾の事務を取り仕切る塾監で、帰郷途中の渡部久馬八から受けた便りに、後任の人選に当惑していたが、大河内輝剛に頼むことにしたと伝える。
書簡番号598、小泉信吉・日原昌造宛、明治14年7月8日付。 塾監の渡部久馬八帰国、代りに大河内輝剛君を頼み、誠に好都合に御座候。
書簡番号602、永井好信宛、明治14年8月19日付。 塾卒業生、永井好信の郵便汽船三菱会社の大阪転勤の挨拶状に返礼し、書簡番号598と同じことを伝える。
第七巻、書簡番号1813、荘田平五郎宛、明治27年1月22日付。 山名次郎の日本郵船入社に賛成を願う。 委細は大河内輝剛(明治25年から日本郵船勤務)に聞いてくれ。
第八巻、書簡番号1902、清岡邦之助宛、明治28年1月4日付。 清岡邦之助は、福沢の三女しゅんの夫、この時、大河内輝剛とともに日本郵船会社広島支店に勤務。 日清戦争の戦地から持ち帰ったドンキー(ロバ)を子供のために買い受けたいと述べる。 旧冬大河内輝剛出京の節、一頭の分捕ものあり、贈るべし云々と約束したのと、同じものか、と。
書簡番号1911、清岡邦之助宛、明治28年1月22日付。 先だって大河内輝剛、広島より帰来、今度は横浜住居云々と語りし間もなく、にわかに宇品出張となった。
書簡番号1916、清岡邦之助宛、明治28年2月25日付。 大河内輝剛その他によろしく。 大河内は、過日出京来訪の節、居合の運動の最中で、失礼した。 これは老生の養生ゆえ、勅命にても止められ申さず。
書簡番号2102、荘田平五郎宛、明治29年10月10日付。 日本郵船会社の要職にある岩永省一、大河内輝剛が外遊から帰国したので、近日海外談を聞くつもり、と。
第九巻、書簡番号2540、山田(伊東)要蔵宛、明治20年3月。 別表の、慶應義塾維持金収入表、凡ソ五ケ年間払込約束之部に、大河内輝剛、申込金額六百円、払込金額二百四円、とある。
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