豆大福の「松島屋」、英一蝶の墓2024/02/13 07:01

 三田あるこう会の「「御田」から常光寺参拝」、伊皿子から豆大福の松島屋の前を通った。 宮川幸雄さんによると、「東京三大豆大福」は高輪「松島屋」、原宿「瑞穂」、護国寺「群林堂」だそうで、「松島屋」は予約しておかないと買えないと聞いていた、受け取っている人もいたが、直前に電話した人は駄目だったようだ。 我が家で豆大福といえば、虎ノ門の岡埜榮泉だけれど…。 旧高松宮邸の界隈に、かつて虎屋という和菓子屋があって、赤坂や銀座の「とらや黒川」と関係ないので、地元の人は「にせ虎」と呼んでいると、ご近所生れの銀行の支店長に聞いたことがあった。 今は、閉店したようだ。

 高輪消防署二本榎出張所と高輪警察署の少し手前で、私は明治学院中学に通ったという話をしていたら、岡部健二さんが、左手の承教寺にハナブサイッチョウの墓があると言う。 当時、高輪警察の前は、明学の隣の意だろう明隣堂という本屋さんだったが、今はビルの名に残っているだけだ。 ハナブサイッチョウ、聞いたことはあるが、どんな人だったか、その時は浮かんでこなかった。

 雑誌『サライ』3月号の第409回「難航 十字語判断」クロスワード・パズルに、「綱吉の頃の画家。幕府の怒りに触れ三宅島に流罪となり、赦免後に――(9文字)と改名。俳諧をよくし芭蕉や其角とも交友があった。『布晒(ぬのさらし)舞図』『四季日待図巻』」という問題があった。 答を入れていくと、これが「ハナブサイツチヨウ」となった。 『サライ』の「難航 十字語判断」だが、それにはまって「等々力短信」第864号(平成11年12月25日)に「1999年末クロスワード・パズル」というのを書き、自作の問題まで作っているのが、私家本『五の日の手紙 4』370~373頁にある。 以来23年も、ずっとやっていることになる。

 そこでハナブサイッチョウ、英一蝶だが、1652~1724、江戸前期の画家。 英派の祖。 医師多賀伯庵の子として京都に生まれる。 幼名猪三郎、諱(いみな)は信香(のぶか)、字(あざな)は君受(くんじゅ)、剃髪して朝湖(ちょうこ)と称した。 翠蓑翁(すいさおう)、隣樵庵(りんしょうあん)、北窓翁などと号し、俳号に暁雲(ぎょううん)、夕寥(せきりょう)があった。 1659(万治2)年ごろ江戸へ下り、絵を狩野安信に学んだが、いたずらに粉本制作を繰り返し創造性を失った当時の狩野派に飽き足らず、岩佐又兵衛や菱川師宣によって開かれた新興の都市風俗画の世界に新生面を切り開いた。 機知的な主題解釈と構図、洒脱な描写を特色とする異色の風俗画家として成功。 かたわら芭蕉に師事して俳諧もよくした。 1698(元禄11)年幕府の怒りに触れ三宅島に流されたが、1709(宝永6)年将軍代替りの大赦により江戸へ帰り、画名を多賀朝湖から英一蝶と改名した。 晩年はしだいに風俗画を離れ、狩野派風の花鳥画や山水画も描いたが、終生俳諧に培われた軽妙洒脱な機知性を失うことはなかった。 代表作に、いわゆる「島(しま)一蝶」として珍重される三宅島配流時代の作品《四季日待図巻》(出光美術館)や《吉原風俗図鑑》(サントリー美術館)、《布晒舞図(ぬのざらし)まいず》(埼玉・遠山記念館)などがある。(『日本百科全書』榊原悟) 遠山記念館は、昨年3月に三田あるこう会で行った。(遠山記念館で「雛の世界」展を見る<小人閑居日記 2023.3.17.>)

 俵元昭さんの『港区史蹟散歩』(学生社)には、流罪の原因を元禄11(1698)年『当世百人一首』『浅妻船』の図などが将軍幕府を風刺したからとある。 三宅在島11年、58歳で許され、赦免の報に蝶が飛ぶのを見て一蝶と号し、宝永6(1709)年江戸に帰った。 土佐派を折衷した技法で人気に投じた。 享保9(1724)年73歳で死去。 承教寺(高輪二-8-2)は、本堂前の墓碑(都旧跡)に画家らしい辞世「まぎらはす浮き世のわざの色どりもありとや月の薄墨の空」があり、数少ない一蝶の仏画、細密謹厳な筆法の《釈迦如来画像》一幅(区指定文化財)を所蔵する。

お節料理の「田作り」「ごまめ」考2024/01/07 07:26

 お節料理、俳句の季題で重詰めのものを「食積(くいつみ)」というのを知ったのは、ここ数年のことだ。 お節のなかで、人気がなくて、終わりまで残っている、「田作り」「ごまめ」と呼ぶのがある。 カタクチイワシの幼魚(鯷(ひしこ))を干したもの、また、それを炒って、砂糖・醤油・みりんを煮詰めた汁の中に入れてからませたもの。

 なぜ、「田作り」というのか、という「チコちゃん」のような疑問が頭をかすめた。 江戸時代、イワシを干したのを「干鰯(ほしか)」と呼んで肥料にしていたのは聞いたことがあったから、それで「田作り」というのではないかと、連想した。

 辞書で「田作り」を見ると、「ごまめ。昔、田の肥料にしたことからの名という。正月の祝い肴(さかな)にする。」とあって、予想が当たってニヤッとする。 その辞書はさらに、[季 新年]として正岡子規の<田作りや庵の肴も海のもの>が引いてあった。 季題だったのだ。 「ごまめ」も見る。 鱓という字を書く。 「ことのばら」ともいうようだ。 こちらには、松根東洋城の[季 新年]<噛み噛むや歯切れこまかに鱓の香>が引いてある。

 そこで『角川俳句大歳時記』にあたる。 [新年]田作【たづくり】の立項で、傍題に「五万米(ごまめ)」「小殿原(ことのばら)」。 解説「鯷(ひしこ)(カタクチイワシの幼魚)の乾燥したものを炒って飴煮にしたもの。田作りという語源は田の肥料にしたことから、豊作を祈念して五万米といい、武家では、小さいながらもお頭がついていることから小殿原とよんだ。正月に欠かせないお節料理の一つである。(岩淵喜代子)」

 「考証」には、「鱓(ことのばら)」「韶陽魚(ごまめ)」「伍真米(ごまめ)」「小殿腹と称して、子孫繁栄の義を祝するなり」「鮎の至つて小さきものを韶陽魚と称して、俗に〈ごまめ〉といふものなり。その源、押鮎より起れるならし」などの表記や記述がある。

以下のような例句があった。

臆せずも海老に並ぶや小殿原       一箕
田づくりや鯷の秋をむかし顔        士巧
自嘲して五万米の歯ぎしりといふ言葉  富安風生
田作りや碌々として弟子一人        安住 敦
ごまめ噛む歯のみ健やか幸とせむ    細川加賀
田作りやむかし九人の子沢山       岬 雪夫
田作を噛みて名前の忘れ初め       榎本好宏
百歳まで生くるてふ夫ごまめ噛む     村山たかゑ
片隅にごまめの目玉ひしめきて      塩野典子
田作や昭和と同じ齢重ね          宮武章之
姉が来てごまめ作りをはじめけり     小圷健水

令和五年『夏潮』「雑詠」掲載句2024/01/01 08:02

 明けましておめでとうございます。 まず、大晦日年越しクイズの、答は「ちまき」。 「ちかき」のあいだに「か」はならず、「ま」入りまする、で「ちまき」。 そこで、元日の恒例になった昨年の『夏潮』「雑詠」掲載句を、お笑い草にご覧に入れることにしたい。

    一月号
コスモスも御接待なる遍路道
ディスプレイ夜業の顔を照らし出し
    二月号
末枯や何かと傘寿鼻にかけ
徒然に檸檬転がす掌
強さうなぬすびとはぎも末枯れて
   三月号
ポインセチア閑居一隅明るくし
冬ざれの八十路の坂の嶮しかり
   四月号
そそり立つメタセコイアに月の冴ゆ
冬の月ルオーの街を照らしをり
ケータイに友の訃報や冬の月
数へ日ののどか賀状も出し終へて
   五月号
ロゼットの蒲公英花を上げんとす
江戸からの上水に沿ひ冬の草
はちやめちやの新作落語笑ひ初め
   六月号
(締め切り遅れ掲載無し)
   七月号
静けさをまとひて立てる山桜
夕まぐれ棚田に茅花吹かるるよ
卒業の子ら手をつなぎ青き踏む
 (前号追加)
春の海ゆるり休めと言ふ如く
まんまるに門の白梅刈り込まれ
    八月号
麗らかや芝生に円くジャズ囲む
白牡丹男鰥の塀際に
ネモフィアの太平洋へなだれこみ
    九月号
紫陽花に音なく雨の降りかかる
鬼灯の律儀に花を開きをり
今年また歯医者に通ふ梅雨の頃
    十月号
沖の島見ゆる高さに簾巻き
西向きの安アパートや青簾
温泉の桶音響き伊予簾
    十一月号
暑い暑いとなまけ心を甘やかし
土用鰻ふんはりが好き江戸風の
    十二月号
笹舟の形の器水羊羹
いつの間に莟立ち上げ玉すだれ

鮟鱇もわが身の業も煮ゆるかな2023/12/22 07:06

 久保田万太郎については、今までいろいろ書いていた。 特に、毀誉褒貶の事情と、俳句の魅力、小説『火事息子』などである。 久保田万太郎についての拙稿をリストし、ブログで読めないものの内、三田演説館で行なわれた久保田万太郎を偲ぶ会での江國滋さんの講演「万太郎俳句の魅力と特色」を再録する。

等々力短信 第315号 1984.3.15. 渋亭渋沢秀雄さん/久保田万太郎宗匠「いとう句会」、全人格の円熟にかかる(『五の日の手紙』110頁)
等々力短信 第367号 1985.9.5. いもづる式/池田弥三郎『手紙のたのしみ』川口松太郎『久保田万太郎と私』高峰秀子『人情話 松太郎』(『五の日の手紙』214頁)
等々力短信 第722号 1995.10.25. 万太郎の友達/林彦三郎―俵元昭『素顔の久保田万太郎』①(『五の日の手紙 4』86頁)
等々力短信 第723号 1995.11.5. 家賃の旦那/②「吉原の芸者」『半死半生語』が生きていた頃(『五の日の手紙 4』88頁)
江國滋さんの講演「万太郎俳句の魅力と特色」<小人閑居日記 2002.7.7.>
万太郎俳句の佳汁<小人閑居日記 2002.7.11.>
小澤實さんの『万太郎の一句』<小人閑居日記 2006.6.14.>
久保田万太郎の「夏場所」の句<小人閑居日記 2012. 5. 16.>
K氏、久保田万太郎と佐藤春夫<小人閑居日記 2013. 1. 18.>
万太郎の『火事息子』、「重箱」と山谷(さんや)<小人閑居日記 2013. 3. 3.>
江戸から明治へ、「重箱」の四代<小人閑居日記 2013. 3. 4.>
“万梅”のおしげさんの“万梅”<小人閑居日記 2013. 3. 5.>
二度全焼した山谷「重箱」<小人閑居日記 2013. 3. 6.>
その後の「重箱」、わがご縁<小人閑居日記 2013. 3. 7.>

    江國滋さんの講演「万太郎俳句の魅力と特色」<小人閑居日記 2002.7.7.>

 図書館に行ったら、江國滋さんの知らない本があって、借りて来た。 亡くなられた後、悲しくてあまり読む気にならなかったのが、そろそろ読んでみようという気になるほどの、時間が経過したということかもしれない。 『あそびましょ』、新しい芸能研究室というところから、1996年11月に出ている。 新しい芸能研究室というのは、小沢昭一さんの主宰するところのようで、巻末の出版広告を見ると、東京やなぎ句会の連衆の、それぞれ面白そうな本を出している。 大きな広告をするような所ではないので、見逃していたのだろう。

 『あそびましょ』に、1988年5月7日、三田の演説館で行なわれた久保田万太郎を偲ぶ会で、江國さんが行なった「万太郎俳句の魅力と特色」と題する講演が載っている。 万太郎俳句を大きくくくると、その基調をなすものが三つあるという。 第一に、“すがた・かたち”がいい。 ぱっと見た瞬間の印象が、実に美しい。 第二に、リズムが快い。 字あまり、字たらず、句またがりといった、破調の句がない。 第三の特色は、わかりやすい。 難解な句がなく、一瞥、すっ、と頭に入る。 それは、とりもなおさず、“俗談平語”に徹しているということにほかならない。

 江國さんは、この講演のために、万太郎全句集を二度読み返して真剣にチェックしながら、江國さんなりの分類を試み、117句を選句し、14項目に分類した「参考資料」を作って、当日配布している。 その話は、また。

     万太郎俳句の佳汁<小人閑居日記 2002.7.11.>

 7日に書いた、江國滋さんの「万太郎俳句の魅力と特色」「参考資料」で分類された14項目の話の続き。 それぞれの分類に6、7句が選句されているのだが、ここではあえて、その中から独断で(あれば季節の句を)一句ずつを選んでみたい。

一 男の「台所俳句」……市井の身辺些事
     枝豆に塩たつぷりとふりしかな
 二 万太郎語彙……絢爛たる田舎っぺい
     この町に医者のべたらの残暑かな
 三 万太郎ダンディズム……おッしゃれー
     うすもののみえすく嘘をつきにけり
 四 味の決め手……決定的スパイス
     夏場所やもとよりわざのすくひなげ
 五 即興性……「浮かぶものです」
    人に示す
     秋晴れや人がいゝとは馬鹿のこと
 六 パロディ性……才気とユーモア
     去るもの日々にうとからず盆の月
 七 メモがわり……駄句にしあれど
      オスロ
     土曜日のまためぐり来し白夜かな
 八 季重なり……主従なし
     茄子は茄子きうりはきうり秋隣
 九 平仮名づかい……視覚的効果
     あさがほにふりぬく雨となりにけり
 十 前書きの名人……寡黙と饒舌と
     こゝろよきもの
     夏あさき女の一人ぐらしかな
 十一 挨拶人生……外づら・内づら
     “細雪”自家版を読了、たゞちに作者におくる
     下の巻のすぐにもみたき芙蓉かな
 十二 したたかな平常心……「どれがほんと」
     湯豆腐やいのちのはてのうすあかり
      鮟鱇もわが身の業も煮ゆるかな
 十三 万太郎俳句の佳汁……平凡こそ
     あさがほやまずあさあさの日のひかり
 付・慶應義塾
    ふたゝび慶應義塾評議員に就任
     これといふ手柄とてなき案山子かな

「久保田万太郎と現代」シンポジウム2023/12/21 07:02

 午後からの「久保田万太郎と現代」シンポジウム。 今年は1963(昭和38)年に亡くなった久保田万太郎の没後60年になる。 万太郎は慶應義塾大学文科の学生だった明治末年に、新進気鋭の作家として幸運なデビューをする。 以来半世紀にわたって、特異な才能を発揮して、小説、戯曲、俳句などの創作から、演劇の制作・演出、放送界での活躍に至るまで、ジャンルを超えて重要な業績を残した。 また万太郎は自らの文学を育んだ母校慶應義塾に深い愛情を注ぎ、三田で教鞭を執るかたわら、『三田文学』で多彩な活動を展開した。 そして晩年には自身の著作権の全てを母校に寄贈し、その遺志は「慶應義塾久保田万太郎記念資金」として結実し、慶應義塾の文化・教育の事業に大きな貢献を果たしてきたが、2013年没後50年で著作権が切れたこともあり、今回の特別展とシンポジウム、10月発刊の『久保田万太郎と現代 ノスタルジーを超えて』(平凡社)の出版で使い切ったという。

 シンポジウムは小平麻衣子文学部教授の司会で、まず三人の基調講演があった。 恩田侑布子さん(俳人)「やつしの美の大家 久保田万太郎―「嘆かひ」の俳人よさらば」、石川巧立教大学文学部教授「久保田万太郎から劇文学の可能性を考える」、長谷部浩東京藝術大学美術学部教授(演劇評論家)「万太郎と戸板康二―劇作と批評について」。

 私は寡聞にして恩田侑布子さんという俳人を知らなかったが、岩波文庫の『久保田万太郎俳句集』2021年の編集を担当、著書『星を見る人』(春秋社・2023年)で万太郎の魅力と名句の詳しい観察をしているそうだ。 珠玉の俳句が生まれた五つの理由に、1. 幼少期、祖母と東京中の芝居・寄席めぐり、2. 幅広い俳句の師友、3. 少年期から「近代」に違和感、4. 散文化しえないエッセンスを俳句に注ぐ、5. 職人気質の推敲と厳選。

 石川巧さんは、久保田万太郎がどのような戯曲を書いたかの実例を6つレジメにしてくれ、久保田万太郎が107本の脚本を残したという話をして、「レーゼドラマ」という言葉を使った。 私はこの「レーゼドラマ」が分からず、あとで調べると、ドイツ語で「上演を目的とせず、読むだけのために書いた戯曲。演出の表現を離れて、思想表現に重点を置く」とあった。

 長谷部浩さんは、浅草生まれの万太郎(1889~1963)と三田生まれの戸板康二(1915~93)とは32歳の年の差、二人の関係を話した。 万太郎は、東京に30以上あった小芝居を見て育ち、演劇評論家として出発した。 万太郎は、戸板の父と普通部の同級で、康二が山水女学校の教師になったのを「松杉を植えるな」(定住するな)といい、雑誌『日本演劇』『演劇界』を出していた日本演劇社を紹介、それで『日本演劇』の編集長になった恩人である。 私は、戸板康二が三田の戸板女学校の関係者だということを知らなかったのだが、近年、没後に蔵書類が散逸する事例が多いのに、幸運にも戸板の蔵書類は戸板女子短大に「戸板文庫」として整理保管されているという話だった。

 その後、塾生有志による久保田万太郎の「大寺学校」をもとにした能のような形式の朗読があった(作・演出 五十嵐幸輝君(文学部4年))。