中津・小倉・下関・萩の旅(2)〔昔、書いた福沢120-2〕2019/10/02 06:28

             小倉から下関へ

 小倉のホテルクラウンパレスに泊り、二日目の8日(日)は、小倉城の隅に ある松本清張記念館からスタート。 松本清張は現在の北九州市小倉北区生れ、 43歳の昭和28年『三田文学』に書いた「或る『小倉日記』伝」で芥川賞を受 賞して上京、作家活動に専念した。 再現されている二階建ての書庫、約三万 冊という膨大な蔵書に目を奪われる。 門司へと向かう道が、案外の山中なの に驚く。 先日、下で自衛艦が衝突し火災を起こした関門橋を渡り、下関へ。 安徳天皇を祀る赤間神宮で、平家一門の墓や耳なし芳一堂を見る。 高浜虚 子の句碑<七盛の墓包み降る椎の露>があった。

  冬立つやあはれ小さき平家塚

 春帆楼の隣の日清講和記念館を見学。 日清戦争の明治28(1895)年春、 伊藤博文と李鴻章が交渉し十一か条の講和条約(「下関条約」)を結んだ場所だ。 前日、川崎勝理事(一泊の参加)に見てくるようにいわれた李鴻章の座った 位置、「李鴻章の道」も確認する。 日本側は、目の前の関門海峡に軍艦を通過 させて威嚇したらしい。 狙撃事件後の李鴻章は、大通りを避け、山沿いの小 径を往復したそうだ。 下関といえば河豚(ふく)、名前だけは知っていた春帆 楼で、昼から贅沢な「ふくづくし」となった。

  ふく食ふや春帆楼の昼日中

 関門海峡を見はるかす壇の浦、みもすそ川公園には長州藩が四カ国連合艦隊 を砲撃した八十斤カノン砲のレプリカが並んでいた。 ヘレン・ボールハチェ ットさんが百円玉を入れると、発射音が三回轟き、砲身から煙(蒸気)も出る ことを発見、みんなで楽しむ。

  小春日の関門海峡光る河

 下関から東北へ24キロ、奇兵隊の本拠地、吉田清水山にある高杉晋作の墓 と東行庵(とうぎょうあん)へ。 晋作の愛人だったおうのが、再び紅灯の巷 に戻っていたのを、頭を丸めさせて梅処尼とし、この地で菩提を弔わせること にしたのは「井上馨や伊藤博文のしわざ」という。 本心はどうだったのだろう。 15年後、福沢に大きな影響を与えた明治14年の政変も「井上や伊藤のしわざ」だったことを思う。

  紅葉して晋作行年二十七

 やや色づいてきている秋吉台を眺め、秋芳洞を出口の黒谷口から入口へ向か って約一キロを歩く。 二日目の立派な宿、長門湯本温泉の大谷山荘に着いた。

中津・小倉・下関・萩の旅(1)〔昔、書いた福沢120-1〕2019/10/01 07:09

 『福澤手帖』第144号(2010(平成22)年3月)の「「中津・小倉・下関・ 萩の旅 第44回福澤史蹟見学会」

長年福沢をかじりながら、恥しいことに中津に行ったことがなかった。 福 澤諭吉協会の第44回福澤史蹟見学会、二泊三日で中津・小倉・下関・秋芳洞・ 長門湯本・萩を巡ってきた。 11月7日(土)8時羽田発の日本航空で大分空 港10時着。 快晴、無風、大分空港は国東半島の海辺にあり、中津方面へ行 く間、国東半島に石仏やお寺の多い話を聞く。 宇佐、中津周辺は肥沃そうな 平野が広がり、豊かな土地柄だという印象を持った。

   小春日や九重連山ぽこりぽこり

八面山の金色温泉こがね山荘で、新貝正勝中津市長や中津三田会の皆様と昼 食、鱧しゃぶ、鱈白子天麩羅など、豊前海の幸、山の幸。 青の洞門、耶馬溪 へ。 菊池寛の「恩讐の彼方に」は、中学の国語の教科書で読んだ。 僧・禅 海が競秀峰の難所に三十年の歳月をかけて、鑿と槌だけでトンネルを掘り進め た。 福沢は明治7年11月17日には日田-耶馬溪-中津を結ぶ「豊前豊後道 普請の説」を発表し、明治27年3月帰郷の時以来、競秀峰の風景を保全する ため、三年がかりで一帯の土地を買収し、ナショナル・トラスト運動の先駆け ともいわれている。 羅漢寺門前に、つい3日前の4日に建てられた「福澤諭 吉羅漢寺参詣記念之碑」も見てきた。

              念願の中津を歩く

中津に着く。 寺町を散策、石畳できれいに整備してある。 福沢家の菩提 寺、明蓮寺は古い木造の大きな寺だった。 曾祖母の墓、福沢家とほとんど一 体ともいう親戚飯田家の墓があった。 明蓮寺とその末寺の光善寺が不仲にな っているのを、福沢が直接本山に苦情を言った大谷光尊宛書簡がある(『福澤諭 吉書簡集』第四巻992番)。 偶然その書簡の発見を仲介したことを思い出す。 黒田如水孝高の謀略で知られる合元寺の赤壁はどぎつい色だった。 大法寺 (日蓮宗)では、福沢の長姉、小田部礼の墓を見た。

   小春日の中津寺町歩く幸

 いよいよ福沢旧居に到着。 以前福澤協会の旅行で知り合った相良照博さん が待っていて下さった。 福澤記念館で毎月開かれる「福沢諭吉の本を読む会」 などの講師をなさっている。 福沢と中津についてしばし歓談、最後は握手を して別れて来た。 福澤記念館の展示の中に、小幡篤次郎が小旗の号で詠んだ 俳句があった。  <映ふて水に花増す人の影(花時大坂桜宮)><うぐいすの法華経清し彼岸 寺><大仏や三千世界春の雲>。

 昔はなかった(有力な説)のに、昭和39年に“再建”された中津城天守閣 や、中津が海に面した町であることを、はっきりと見られなかったのは、少し 残念だった。

「徳島慶應義塾・内田彌八・子規と松山」の時代(3)〔昔、書いた福沢115-3〕2019/09/25 06:59

         正岡子規と俳句の都・松山

 10月29日、ふなやの朝湯を楽しむ。 正岡子規がこのあたりで「亭ところ どころ渓に橋ある紅葉哉」と詠んだという庭園が素晴しい。 山頭火の句碑が あった。 「朝湯こんこんあふるるまんなかのわたくし」。 道後温泉を出て、 四国八十八ケ所の五十一番札所、子規が「南無大師石手の寺よ稲の花」と詠ん だ石手寺を参詣。 松山市立子規記念博物館へ。 常設展示にも、短時間では とても見きれないほどの正岡子規があったが、この日から11月24日まで特別 企画展「子規と故郷」の開催中だった。 「春や昔十五万石の城下哉」「城山の 浮み上るや青嵐」「松山や秋より高き天守閣」の正岡子規を中心に、松山は高浜 虚子、河東碧梧桐、中村草田男、石田波郷など数多くの俳人を輩出し、今も俳 句がさかんで「俳都」と呼ばれている。 ところどころに「観光俳句ポスト」 が設置されていて、投句用紙が置いてある。 私も川柳もどきを二句詠んだ。 「冬近しぼっちゃーんと入る道後の湯」、松山城四百年祭「マドンナの時給はい くらそぞろ寒」。 砥部焼観光センター、伊予かすり会館などに寄り、松山空港 から帰京した。

          『坂の上の雲』の時代

 明治のこの時期は、明るい希望と颯爽とした青春のある時代だった。 それ は政治の季節でもあった。 慶應義塾の徳島への誘致にも、自由民権運動の政 治結社「自助社」が蜂須賀家の援助を受けて、活動したらしい。 『自由党史』 に「自助社」は、土佐とも通じ、同地の立志社につぐ名声を博したとあるとい う。 城泉太郎の徳島慶應義塾についての回顧談によると「演説が主で、教授 は従」だったそうだ。 徳島慶應義塾に学んだ学生たち一人一人が、その後の 自由民権運動や日本の近代化にどのようにかかわったかは、興味深い研究テー マだろう。

 子規記念博物館の「子規と故郷」展に、明治11(1878)年6月草間時福(と きよし)の北予変則中学校(松山中学の前身)の総教辞令、13(1880)年4月 西川(河)通徹の松山中学校長兼総教辞令があった。 草間も西川も慶應義塾 の出身者で、進歩的な思想を持つ愛媛県権令岩村高俊によって抜擢された。 岩 村は、人々の自由な主張の場である新聞を二紙発行させ、中学校にも草間のよ うな自由民権思想を抱く人物を配し、松山に自己の確立と民権の向上を論じる 新しい風を吹かせたのであった。 自由民権思想の持つ、土地の習慣に縛られ ない全国的な視野と意識は、若い世代の多感な感情を揺さぶった。 少年期の 正岡子規も、強い影響を受け、政治に興味を持ち、演説に熱中していたという。

松崎欣一著『三田演説会と慶應義塾系演説会』の「梅木忠朴の場合」による と、草間時福が明治12(1879)年7月任期を終って松山を去った時、たくさ んの門下生が前後して上京し慶應義塾に入っている。 山路一遊、村井保固、 宮内直挙、矢野可宗、浅岡満俊、門田正経、梅木忠朴、細井重房で、ほかにも 三菱商業学校、司法省法律学校、東京府商法講習所などに入学した者もいた。  当時一般的だった地方青年の遊学熱が、松山では草間時福という指導者を得て、 それが一層大きなものになったのだという。

 内田彌八について、服部理事長は井川町公民館佃分館での見事なお礼の挨拶 で、次のような話をされた。 当時全国の勉学を志すたくさんの若者の内で、 東京へ行けた者も、行けなかった者もいた。 行けなかった多くの若者の、声 なき声に支えられて、その代表、阿波の選抜選手、チャンピオンとして、内田 彌八は東京という勉学の場、全国大会に出て、大活躍をした。 いよいよ本戦 という時期に、東南アジアやオーストラリアから貿易の可能性を郷里の新聞に 寄稿するなど、相当いい所まで行き、残念ながら病を得、あたら若い命を落と した、と。 ここにも、明治の青春の一つがあった。 子規も、彌八も、病に 倒れたけれど、どこか明るいのは、時代を反映しているのだろう。

「和歌山・高野山・白浜を訪ねる」(4)〔昔、書いた福沢114-4〕2019/09/22 07:43

               南方熊楠

 熊野のカラスがカァと鳴いて、10月23日(火)は一転、快晴になった。 白 浜の陽光がまぶしい。 宿泊したコガノイベイホテルの中庭には、ブーゲンビ リアやストレリチア(極楽鳥花)が咲いていて、ここの温暖な気候を如実に物 語る。 田辺市の一般には公開していない南方熊楠旧邸へ出発。 倉持さんと 同期の学徒出陣組で、田辺で学校の先生や図書館長をなさり、南方熊楠邸保存 顕彰会に関係しておられる杉中浩一郎氏、田辺三田会の榎本三郎氏、廣本喜亮 氏、田辺市教育委員会の松場聡氏らの暖かい出迎えを受ける。 杉中氏から旧 邸や熊楠の説明を聴く。 庭には熊楠ゆかりの楠、粘菌を発見した柿、普及を 計った安藤みかんの木などがあり、特別に書庫も開けて頂いて、膨大な資料が 整理されている様子も拝見した。 蚊取り線香を焚いて下さったのに、蚊には ぼんやりした人物が判るらしく、手の甲を刺される。 松江のラフカディオ・ ハーン旧居を詠んだ高浜虚子の句をそっくり頂戴する。 この「もす」は、モ スキートにかかっているのではないかと、にらんでいる。

  くはれもす熊楠旧居の秋の蚊に

 南方熊楠記念館へ向うバスの中でも、杉中氏の熊楠と慶應義塾の関係の話を 聞く。 熊楠は福沢を銀座通りで見かけたことがあるという程度だったが、「福 沢先生」と書いているそうだ。 熊楠が生涯で先生と呼んだのは、和歌山中学 で習った異色の生物学者で軍艦マーチの作詞者鳥山啓(ひらく)ただ一人だっ たから、福沢に相当の敬意を持っていたのだろうという。 記念館は360度の 眺望を誇る臨海の丘の上にある。 南方熊楠(1867~1941)は、世界的な民俗 学者・博物学者でありながら、在野の人。 大英博物館東洋調査部員。 帰国 後、熊野に3年いて、田辺に定住した。 粘菌(ねんきん)を研究し、18か国 語に通じ、滞英中から学術誌『ネイチャー』等にしばしば寄稿していた。 一 生に書いた手紙は何万通になるのか分からないという。 筆まめは『書簡集』 全九巻が刊行中の福沢に通じるものがある。 杉中氏が熊楠と関係のあった塾 員として挙げたのは、ロンドンで世話になった横浜正金銀行支店長中井芳楠、 中井宅で会い後に生涯の友となる土宜(どき)法龍(高野山管長)、旧藩主徳川 頼倫(よりみち)のロンドン旅行に随行した鎌田栄吉の三人だった。

 よく晴れた白浜の三段壁や千畳敷で雄大な海景を堪能し、円月島の落日も見 た。

  秋の涛地球は丸き千畳敷

 「各自でご夕食」の予定が、白浜空港近くの白浜エクシブのレストランで田 辺三田会の「ご接待」に与る。 一同恐縮、大満足、JAS 55分間の飛行で無 事羽田に帰着した。

「和歌山・高野山・白浜を訪ねる」(3)〔昔、書いた福沢114-3〕2019/09/21 07:01

               高野山・木の国

 10月22日(月)バスは関ケ原の戦いに敗れた真田昌幸・幸村親子の幽居の 地、九度山(くどやま)を経て、高野山への道を登る。 高野山は、真言宗の 開祖・空海(弘法大師)が弘仁7(816)年に開いて以来千二百年になる一大聖 地。 標高900メートル、東西6キロ、南北3キロの山上盆地に、人口3千3 百人、内千人がお坊さん、全町お寺の借地という。 高野山高校、高野山専修 学院、高野山大学がある。

  秋光やルーズソックス高野山

 大門前で交代した専門のガイドが、必ず落ちのつく名調子で案内する。 ま ず壇上伽藍で、派手な朱塗の根本大塔、葉が三本で財布に入れておくと金が貯 まるという三鈷(こ)の松などを見る。 総本山金剛峯寺をお詣りし、総持院 で精進料理の昼食をいただく。 白身のお刺身も、赤身のまぐろもコンニャク、 蒲焼はやまいも、肉の佃煮風はお麩を使い乾かしたものとか。

  茸飯折目正しき給仕僧

 時間の関係で、中の橋から奥の院参道に入る。 一番の巨木で樹齢7百年と いう老杉の木立の中、奥の院参道の両側にはズラリと20万基を超すという石 塔・墓石が並ぶ。 織田信長、明智光秀、武田信玄、上杉謙信、戦国武将・諸 大名が敵も味方も仲良く、各企業の供養塔や最近建てられた2億8千万円とか いう墓まで、諸行無常の趣がある。 奥の院の最奥には大師信仰の中心となる 聖地、弘法大師御廟がある。 灯明と香煙の絶えない拝所で、団体参拝の信者 の方々が一心に般若心経を唱えておられる姿には、心打たれるものがあった。

 高野山にいる間、幸い降っても小降りだった雨が、バスで白浜温泉へ出発す る頃から本格的な降りになった。 高野・龍神スカイラインの護摩壇山付近を 通過中、倉持幸一さんの「海瀬さんのお家は、高野山のあの大杉と同じく7百 年続いている」という見事な紹介で、この旅行で何かとお世話になった海瀬亀 太郎さんから林業のお話を聞く。 北海道や東北の森林に国有林が多いのにく らべ、関東や西日本では国有林が少ない。 和歌山県では山林面積で94・5% が、海瀬さん達の民有林なのだそうだ。 今、走っている道路の右側が和歌山 県、左側は奈良県なのだが、右側の山林は全部海瀬さんの所で管理していると 聞いて、びっくりする。 この道路からして、林道として開拓したものを、後 に和歌山県が道路に整備したものだそうだ。 森林は80年から100年という サイクルで育成する必要がある。 海瀬さんが今伐採しているのは四代前、曾 祖父に当たる方が植えたものだという。 そして四代後を考えて、木を植えて いかねばならない。 林業は昭和40年代から、国際的な自由競争にさらされ、 事業として成り立ちづらい状態が続いている。 しかし、山林は川の源流域に あり、水を安定的に流して行く「山づくり」が必要で、南方熊楠の「命あるも のが共生する」エコロジーの考え方からも、林業界だけでなく国民みんなの課 題なのだ。 福沢記念育林会「育林友の会」のことも紹介された。

  尾根の右「すべてわが山」ブナ黄葉

 雨の中、真っ暗になった道を、白浜のホテルに向けて、ひたすら下る。 な かなか着かない。 思えば和歌山県を縦断する距離なのだ。 途中、晴れてい れば星空を見るのに最適という場所もあり、東京では考えられない闇の連続だ。