久保田万太郎の「夏場所」の句2012/05/16 03:40

 「夏場所」の俳句といえば、まず久保田万太郎だろう。 季題研究でも、例 句として、私の大好きな万太郎の句を並べたのだった。

  いまは年寄粂川新右衛門の

鬼龍山まだ生きてをり五月場所   (昭和9年『春泥』)

 万太郎らしい、祭とのコラボレーションは、昭和26年。

五月場所三社の祭をりからや

 昭和28年、「去年の“秋場所”よりの引っかかりにて、またしても、NHK より狩り出されての相撲見物なり 五句」という前書があって、有名なつぎの 五句がある。

夏場所や土俵いのちの名寄岩

夏場所やもとよりわざのすくひなげ

夏場所やけふも溜りに半四郎

夏場所の土俵灯れりすでにして

夏場所とより五月場所風薫る

 これも忘れられない次の句を含む三句は、昭和29年の作。

夏場所やひかへぶとんの水あさぎ

夏場所やけふも土俵のあれに荒れ

夏場所や遽かにいたる夏げしき

  相撲、はじまる

大関によるとしなみや五月場所

 この夏場所は、鶴竜が新大関になり史上初の「六大関時代」を迎えたが、こ れは昭和33年。 昭和28年の句にあった名寄岩は、子供の頃に見ていたけれ ど、まだ大関だったのだろうか。 昭和22年6月に一場所、最初の五大関の 時期があったそうで、前田山、佐賀ノ花、東富士、名寄岩、汐ノ海。 そう報 告したら、先輩が名寄岩とは懐かしい、立浪部屋で、関脇に落ちて上がれなか った、とおっしゃった。 そうか立浪部屋、祖母が双葉山以来の贔屓で、当時、 私も照国より羽黒山の方が(その後の安念山も)好きだった。

季題研究「夏場所」を報告2012/05/15 03:49

 「夏場所」と「鉄線花」の句会で、「夏場所」の季題研究の担当だった。 だ いぶ前から気にして、あれこれ読んだり、6日から始まった「夏場所」の中継を 見たりしていた。 以下を冒頭に据えて、発表をした。

 五月場所。 五月に東京両国の国技館で十五日間行われる大相撲本場所。 神 社仏塔の営繕の資金を募る勧進相撲の名残。 天明年間からは毎年江戸両国回 向院で行われ、明治から戦前までの国技館も回向院境内に設けられていた。 昔、 大相撲は一月と五月の二回行われ、晴天十日間の興業であった。 昭和三十二 年から正式には「五月場所」と呼ぶことになった。 翌三十三年からは、七月 に「七月場所」が名古屋で開催され、年六場所となった(一月、五月、九月… 東京、三月…大阪、十一月…福岡)。

 「夏場所」とは別に「相撲」「角力」という季題がある。 この「相撲」「角 力」は、秋の季題である。 傍題に「宮相撲」「辻相撲」「草相撲」「秋場所」「九 月場所」「江戸相撲」「上方相撲」「相撲場(ば)」「土俵」「横綱」「大関」「相撲 取」「関取」。 古く陰暦七月に宮中で相撲節会(すまいのせちえ)が行われ、 叡覧があったため秋の季語となった。 また、農耕儀礼では七夕に神前で相撲 をとって豊凶を占った。 室町時代に職業相撲が発達、興行化された。

 〔相撲誕生の一つの説〕『日本書紀』に垂仁(すいにん)天皇七年七月七日に 呼びにやった出雲の勇士、野見宿禰が、當麻蹶速(たいまのけはや)と相撲を とって蹶速の腰を踏み折って勝ち、朝廷に仕えたとある。 そして、皇后の葬 儀の時、殉死にかえて埴輪の制を案出し、土師臣(はじのおみ)の姓(かばね) を与えられ、子孫の土師連(むらじ)は皇室の葬式・陵墓・土器製作などを担 当したという。 〔もう一つの説〕は、国譲りの神話で出雲の大国主命の次男、 建御名方富命(たてみなかたとみのみこと)が、国譲りを要求する高天原の使 者、武甕槌命(たけみかずちのみこと)と戦った勝負を起源だとする。 破れ た建御名方富命は信濃の諏訪の地に退いて服従を誓い、諏訪大社の上社本宮の 祭神、そして諏訪氏の祖となったという話は、一昨年、御柱祭で聞いてきた。

 なお「夏潮」ホームページの「汐まねき」5月10日には、主宰撮影の報告者 の写真がある。

「夏場所」と「鉄線花」の句会2012/05/14 02:40

 雷が鳴って、雨と突風注意という10日、「夏潮」渋谷句会だった。 ちょっ と東横のれん街に寄ったら、夕方なのに心なしか空いていたのは、ヒカリエが 出来たからだろう。 兼題は「夏場所」と「鉄線花」で、私はつぎの七句を出 した。

川風に裾ひるがへし五月場所

夏場所や鬢付けの香の殊の外

大川の風を袂に五月場所

夏場所や桟敷につきてまづビール

空豆を食めばたちまち土俵入

鉄線の花を潜りて刀自を訪ふ

鉄線花きりり紫つんとして

 結果は、〈川風に裾ひるがへし五月場所〉を英主宰・さえさん、〈夏場所や鬢 付けの香の殊の外〉を英主宰・ひろしさん・梓渕さん・幸雄さん、〈大川の風を 袂に五月場所〉を英主宰、〈鉄線の花を潜りて刀自を訪ふ〉を英主宰・ななさん・ 梓渕さんが採ってくれた。 主宰選4句、互選6票、計10票だった。 思わ ず、一喜してしまう。

 主宰の選評。 季題「夏場所」は、からっとして、明るい、軽い、少し浮つ いた気分、色気がある、はねても明るい時間帯。 〈川風に裾ひるがへし五月 場所〉…洋装ではなく、力士の浴衣、序の口、序二段あたりの力士か。 〈夏 場所や鬢付けの香の殊の外〉…下五「殊の外」の、軽い置きようは虚子流の文 末表現。技が冴えて来た。夏場所に鬢付けの香りが強いかどうかはともかくも、 気分としては、そうである。 〈大川の風を袂に五月場所〉…堂々たるリズム、 ゆったりとしている、こせこせしていない。 〈鉄線の花を潜りて刀自を訪ふ〉 …「潜りて」で鉄線の花になっている、クレマチスのアーチではない。

 「堂々たるリズム」と、過褒の言葉を頂戴した句、あとで“浪花節”だ、と 気が付いた。 「利根の川風、袂に入れて…」

 私が選句したのは、つぎの七句だった。

夏場所のはねて明るき橋わたる     英

大川の風清々し五月場所        梓渕

砂被りに粋な単(ひとえ)や五月場所  なな

幼な顔の力士電車に五月場所      さえ

手打蕎麦売切御免鉄線花        和子

窓辺からピアノソナタや鉄線花     淳子

垣根越し平らに咲ける鉄線花      淳子

小満んの「奈良名所」2012/05/03 02:32

 この噺、もともとは上方落語「伊勢参宮神乃賑」、通称「東の旅」の冒頭部分 らしい。 小満んは「旅のお噂です」と入って、春の旅が一番いい、日が永く なり、のどかだ、明るい若葉の山を「山笑ふ」という、〈山一つ笑いはじめの川 の音〉。 三人旅は一人乞食といい、二人でしゃべっていると、一人除け者にな る。 ちょうもく(丁目?=偶数)の方がいい。 江戸っ子は意気地がない、 箱根の山を見て、帰ってきちゃった。 反り返って来たので、と、だらしがな い。

 江戸っ子の二人連れ、京大坂を見物して、奈良大和まで足を伸ばした。 玉 造に桝屋、鶴屋の二軒茶屋、笠を買うなら深江、の深江を通り、馬が嫌がるほ ど険しい暗(くらがり)峠へ。 〈菊の香にくらがり登る節句かな〉と芭蕉が 詠んだ。 〈菊の香やならには古き仏達〉重陽の節句に奈良を出て、大坂で病 んで、辞世の句〈旅に病んで夢は枯野をかけ廻る〉を詠んで亡くなるひと月前 の句だ。

 尼ケ辻、二つに分かれる追分、右 大和郡山、左 南都奈良。 前に一行、松 笠の行列だ、○にア、阿波の百人講、太太(だいだい)講だろう。 菜の花に、 蓮華が咲いている。 〈連山に帯を結びし春霞〉 足が重そうだな。 昼飯が 軽かったから。 ときにラハがヤマキタ (北山(きたやま)=空腹)だ。 ラハ は、引っくり返して腹、ビクは首、チクは口だ。 メは? メは駄目だ。 ハ は? 二文字でなきゃあ駄目だ。 じゃあ、ミミは? モモ、チチ、ホホは?

 奈良の宿屋町だ。 うるさい客引きに、定宿がある、と断る。 二度と同じ 器では、飯を食わせねえ定宿だ。 失礼をば致しました。 定宿はどちらで?  インバイヤ…、インバンヤ・シュウエモンだ。 手前どもがインバンヤで。

 私が名所めぐりの案内人です。 ここが興福寺。 南円堂、西国三十三所九 番目の札所、三作の塚、三作という小僧が習字の半紙を食べた鹿を追い払おう と文鎮を投げたら死んでしまい、石子詰の刑に処せられたという。 八重桜は 奈良にしかなかったと申します。 〈いにしへの奈良の都の八重桜今日九重に 匂ひぬるかな〉 ここが東大寺。 南大門、両側の阿吽の仁王様、運慶、快慶、 湛慶がつくった金剛力士立像をご覧下さい、ここが大仏殿、大仏様、金銅盧舎 那仏座像、大きいでしょう、笠を被った人が鼻の穴に入ろうとして、笠が鼻に かかって落ちたという。 ここが鐘楼、梵鐘は大仏開眼と同じ天平勝宝四年の 作、いっぺん撞いて二十四文、一両ですって、大きな、つりがねえ。 こちら が二月堂で、二月にお水取りが行われる。 芭蕉の句に〈水とりや氷(こもり?) の僧の沓(くつ)の音〉 ここが東大寺の鎮守、手向山八幡宮、菅原道真が〈こ のたびは幣もとりあへず手向山紅葉の錦神のまにまに〉と詠んだところ。 若 草山、三笠山です。 遣唐使・阿倍仲麻呂の望郷の歌〈天の原ふりさけみれば 春日なる三笠山に出でし月かも〉で名高い。 春日さん、春日神社、その灯籠 の数と、鹿の数をよんだら長者になると言われている。 灯籠と鹿と、同じ数 だというが、しかとわからぬ。 奈良では放してある鹿を可愛がっている。 放 してある鹿、はなしか、噺家を可愛がっている。 ここが猿沢の池、ずいぶん 回って、皆さんもくたびれたろうが、案内人の私もくたびれた、はい、さよう なら。

 それをくどくどと書いた私も、くたびれた。

「横浜と水」の物語2012/04/25 02:46

 「小さな旅」横浜散策の余談だが、元町公園へは2007年 5月に「枇杷の会」 の吟行で来たことがあった。 元町プールや弓道場や記念碑を見て、〈元町に女 生徒の声薄暑かな〉〈緑陰に剽と射た矢の走りをり〉〈ペンキ屋の発祥の地に椎 咲く香〉なんて句を作っていた。

 その時、公園の下の方にある「ジェラールの水屋敷」も見た。 明治の初め に、フランス人の実業家アルフレッド・ジェラールが船舶給水業を営んだ場所 である。 豊富な湧水を簡易水道で中村川まで引き、ハシケで外国船に飲料水 として売ったのだそうだ。 ジェラールの水は、明治期の船乗りたちに「イン ド洋に行っても腐らない」と評判だったという。 海岸通り(バンドbund) の一本裏の道を、水町通り(water street)というのは、船舶給水の店があっ たからだろう。 ジェラールはこの地で、西洋瓦とレンガの製造も手がけ、現 在のプール管理棟の屋根の一部に、その瓦が使われているそうだ。 ジェラー ルが使用した貯水槽は、関東大震災で埋もれていたのが、1988(昭和63)年 に元町公園を整備した時に発見されて、プール管理棟の前に現存し、『ブラタモ リ』の「横浜・港湾編」ではレンガをアーチ状に積んだ広大な貯水槽の内部を 撮影していた。

 居留地の外国人や駐屯軍兵士には、ビールを愛好する者が多く、本国から輸 入していたが、つねに不足していた。 1869(明治2)年、ローゼンフェルト が山手にジャパン・ヨコハマ・ブルワリーを開設したが、長続きしなかった。  現在の北方小学校付近は当時天沼と呼ばれていて、ここの湧水の質はビール造 りに適していた。 これに目をつけたアメリカ人ウィリアム・コープランドは 1870(明治3)年、ここにスプリング・ヴァレー・ブルワリーという醸造所を 作った。 その製品は「ビアザケ」と呼ばれて親しまれたという。 『ブラタ モリ』「横浜」は確か、その跡を求めて、北方小学校まで行っていた。 

 横浜の山手ではない海手、低地と埋立地の方は、元来海だった土地が多く、 どこを掘っても塩分を含んだ飲めない水しか出なかった。 関内の二か所、町 会所裏(開港記念会館付近)と三井組(本町4丁目付近)に飲める水を汲める 井戸があり、一日中この井戸に水を汲みに来る人が絶えなかったという。 こ のため野毛や太田付近の農家の中には、湧水を汲んで「水売り」として商売を 始める者もいた。

 1873(明治6)年、高島嘉右衛門、添田知通ら横浜の有力者を中心とした上 水道会社が工事を完了、多摩川の水を用水路や木の樋で引いて配水したが、水 もれが各所で起こり、経営は困難を極めた。 県が1883(明治16)年イギリ ス人パーマーに設計を依頼し、相模川から鉄管で水を引く新式水道が完成した のは、1887(明治20)年9月のことだった。