「冷麦」と「合歓の花」の句会2017/07/17 06:44

 13日は『夏潮』渋谷句会、暑い日だった。 ヒカリエの前に出ると、ばか高 いビルが二つ工事中で、一つはカーテンウォールを張り始め、もう一つは巨大 なクレーンが重そうな建材を吊り上げている。 先日は古い橋脚が落下したが 幸い怪我人は出なかったとか、思わず吊り上げられた鉄材か何かを見上げて、 その行方を追ってしまう。

 兼題は「冷麦」と「合歓の花」で、私は次の七句を出した。

お使ひの小僧つるつる冷し麦

冷麦や老番頭の箸裁き

冷麦や老いた二人の昼早し

高原のホテルに着けば合歓さかり

合歓咲いてもやもやもやに包まれる

花合歓の葉と眠れよと子守唄

漆黒の闇にほのかや合歓の花

 私が選句したのは、次の七句。

冷麦を啜るに破調なかりけり       祐之

営業は上々冷麦注文す          和子

冷麦や氷ごろごろ落とし込む       裕子

井戸水で冷やす冷麦母の里        真智子

シスターの静かな会釈合歓の花      真智子

薄紅に暮れゆく空や合歓の花       真智子

合歓咲くや互ひの夢を語り合ふ      淳子

 私の結果は、<冷麦や老いた二人の昼早し>を真智子さんとさえさん、 <花合歓の葉と眠れよと子守唄>を明雀さんが採ってくれて、互選3票、 主宰選ゼロの、鳴かず飛ばず、トホホ ギスであった。

あじさい時の北鎌倉2017/06/24 07:27

 年賀状に書いた、家内が見つけて何度か行っている「北鎌倉の隠れ家のよう な料理店」へ、とうとう私も行くことになった。 北鎌倉は、紫陽花の季節で ある。 毎年この時期に、極楽寺の成就院へ小尾ゼミOB会で行っていたから、 明月院をひかえた北鎌倉駅の混雑は承知していた。 案の定、北鎌倉駅の狭い ホームをなかなか出られない内に、次の電車が到着した。 しかし、外国人も 多いかと思われる行列は、騒ぐこともなく、粛々と出口へと進んで行く。 こ れから紫陽花を見に行くのだ、という気分が、人々をゆったりさせるのだろう。  だが、駅員も少なく、その対応はけしてうまくはない。 花時の京都で、東福 寺の最寄り駅を降りたことがあったが、警備会社の人もたくさん動員して、整 理をしていた。 事故が起こったら大変だ、北鎌倉駅も少し考えたほうがいい と思った。

 家内がぜひ見るようにという北鎌倉古民家ミュージアム(旧鎌倉古陶美術館) へ行く。 明月院へ行く途中の横須賀線沿いにある。 盆栽やあじさいをテー マにした絵や陶器などの作品を並べた「あじさい展」、庭や建物の周囲で100 種以上の紫陽花を見せる「あじさいの回廊」を開催中だった。 前に家内が感 心した93歳、八塚美代子さんの精密なちりめん細工は「乞巧奠(キコウデン)」 という題が付いていた。 歳時記で見たことのある言葉だ。 『広辞苑』には 「(キッコウデンとも。女子が手芸に巧みになることを祈る祭事の意)陰暦7 月7日の夜、供え物をして牽牛・織女星をまつる行事。中国の風習が伝わって、 日本では宮中の儀式として奈良時代に始まり、後に民間でも行われた。〈季・秋〉」 とある。

 少し戻って、円覚寺門前の踏切を渡り、反対側へ出る。 門前の池をさらっ ていた。 掻い掘り(かいぼり)、換掘(かえぼり)、換乾(かえぼし)とかい うらしい。 捕った魚を坊さんは食わないのだろうな、と下種の勘繰りをした。

世界遺産富岡製糸場を見学2017/06/14 06:31

 6月5日、文化地理研究会の1964年卒業同期の会「六四の会」、学生時代の 代表加藤隆康さんの肝煎りで、世界遺産富岡製糸場を見学するバス旅行をした。  はとバスのツアーに便乗して、一般の方々とご一緒したのである。 ツアー名 は「世界遺産富岡製糸場と峠の釜めし&鉄道文化むら」。 このところ毎年、会 員ではない家内も参加させてもらっているので、後で、すっかり昔からの仲間 のような顔をして混ざっていると、笑ったことだった。

 富岡製糸場は、明治5(1872)年10月政府の殖産興業政策の先駆けとして 操業を開始、明治26(1893)年に三井家へ払下げられ三井富岡製糸所、明治 35(1902)年原富太郎(三渓)の原合名会社に譲渡され原富岡製糸所を経て、 昭和13(1938)年からは片倉製糸紡績、片倉工業が昭和62(1987)年まで、 115年間にわたって操業していた。 操業停止後も、片倉工業はほとんど旧状 を変えることなく多額の費用をかけて保存管理し、平成17(2005)年9月す べての建造物を富岡市に寄贈した。 寄贈当時の片倉工業社長の岩本謙三さん は、実は大学の同期だった。 私は柔道部だった友達の友達だったことで知り 合い、彼に「等々力短信」を読んでもらっていた。 その岩本謙三さんは、長 い闘病の後、昨年8月17日に亡くなった。 19日朝日新聞朝刊の死亡記事に 「同社が所有・管理していた富岡製糸場を、群馬県富岡市に05年に寄贈した 当時の社長。14年の世界遺産登録につながった。」とあった。 短い訃報なの に、こう書かれていたのが嬉しかった。

 今回は、解説員によるガイドツアーで見学した。 音声ガイド機のイヤホー ンに、解説員の声が入ってくる。 まずアーチのキーストーンに「明治五年」 とある国宝「東置繭(おきまゆ)所」、乾燥させた繭の貯蔵所。 木で骨組みを 造り、柱の間に煉瓦を積み上げて壁を造る「木骨煉瓦造」、材木は妙義山から、 煉瓦は瓦職人が甘楽町福島の窯で製造したという。 煉瓦は、表面が長短互い 違いになるフランス積。 この建物の1階では、後で繭から糸を巻き出す(機 械化以前の)座繰りの実演を見た。

 解説で初めて知ったのは、世界遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」に荒船風 穴(下仁田町)のあること。 日本最大級の蚕種(さんしゅ・蚕の卵)の貯蔵 施設である。 俳句の季題「蚕(かひこ・かいこ)」に、「春蚕(はるご)」とい う傍題がある。 『ホトトギス新歳時記』の「蚕」には、「蚕といえば「春蚕(は るご)」をいうので、夏、秋の蚕はとくに「夏蚕(なつご)」「秋蚕(あきご)」 と呼ぶ。四月中旬に蚕卵紙から孵化し、盛んに桑の葉を食べて六センチくらい の蒼白い虫に成長する。養蚕のことを俳句では「蚕飼(こがひ)」という。(傍 題に)蚕飼ふ。種紙。掃立(はきたて)。飼屋。蚕棚(こだな)。蚕室(こしつ)。 捨蚕(すてご)。蚕時(かひこどき)。」とある。 荒船風穴の蚕種(さんしゅ・ 蚕の卵)の貯蔵施設で温度管理をし、種紙の出荷時期を調節しての養蚕が、富 岡製糸場の東置繭所と西置繭所の繭倉庫2棟合わせて5000石、年間280日の 操業でも万全な収繭量と、計画的な大量生産につながったのであろう。

「雨蛙」と「石榴の花」の句会2017/06/12 07:06

 6月8日は、『夏潮』渋谷句会。 このところ入門の吟行句会であるタイドプ ール句会から、兼題の渋谷句会にも参加する方がいて、男女ほぼ半々、女性が 圧倒的に多い夏潮会にあって、異色の句会となりつつあるのは、心強く嬉しい ことである。 兼題は「雨蛙」と「石榴(ざくろ)の花」、私はつぎの七句を出 した。

雨蛙跳んでペタリと手の甲に

庭へ放つ鮒釣で得し雨蛙

雨蛙けふは三軒先で啼き

雨蛙啼けばにはかにかき曇り

お茶淹れる役たりし頃花石榴

帝釈天井戸端に散る花石榴

人住まぬ平屋の庭に花石榴

 私が選句したのは、つぎの七句。

一雨の来さうな風や枝蛙     なな

濡縁にいつしかをりぬ雨蛙    盛夫

青蛙気付けばここにまたここに  明雀

雨蛙かしこまりたる姿して    盛夫

干し物に残る湿り気花石榴    さえ

曇天に朱のてらてらと花ざくろ  さえ

ささくれし格子の棧や花石榴   さえ

 私の結果は、<雨蛙跳んでペタリと手の甲に>を英主宰、<庭へ放つ鮒釣で 得し雨蛙>と<雨蛙啼けばにはかにかき曇り>を耕一さん、<お茶淹れる役た りし頃花石榴>を英主宰と正紀さん、<帝釈天井戸端に散る花石榴>をななさ んが、採ってくれて、主宰選2句、互選4票、計6票とまずまずだった。

 主宰の選評。 <雨蛙跳んでペタリと手の甲に>…こんなこともあるんです ね。雨蛙を手にした感触、誰もが一度は経験したことがあるのではないか。リ ズムよく出来ている。 <お茶淹れる役たりし頃花石榴>…NHK朝の連続ド ラマか何かにありそう。小さな作業所に就職して、社会生活が始まった。町工 場のような所に、年端の行かない娘さんが勤めて、初々しい経験をする。そん な、けっこう饒舌な句であったか。

 実は、作者の私は「石榴の花」を「紅一点」、万緑叢中紅一点を念頭に、いさ さか理屈に流れるかもしれないとは思いながら詠んだのだった。 本井英主宰 の思いがけない読みのお蔭で、俄然素敵な句にして頂いた。 この句会には、 主宰選になった<工場の中庭に咲く花石榴>という明雀さんの句もあった。  実は私、十数年前までガラス食器を製造する零細町工場をやっていて、中庭に は父の植えた石榴が毎年咲き、大きな実をつけていた。 田舎から集団就職で 来た中卒がベテランの職人に育ち、伝手を頼って高卒の事務員も受け入れたことがあった。 主宰の読みがピタリとはまるような娘さんもいたのである。

『ソール・ライター展』、俳句との近さ2017/05/29 07:04

 東急の株主なのらしい友人から招待券を頂いたので、Bunkamuraザ・ミュ ージアムで『ソール・ライター展』を、ドゥ マゴ パリでのランチがてら、見 て来た。 ドゥ マゴ パリは、ちゃんとした料理を出して、安いのがいい。 展 覧会の名を全部書くと『ニューヨークが生んだ伝説 写真家 ソール・ライター 展』(6月25日まで)である。 それで写真家とわかるソール・ライターを、 まったく知らなかった。 土曜日ではあったが、どうせ空いているんだろうと 入った会場で、びっくり、大勢の人が見ていた。

ソール・ライター(1923-2013)は、1950年代からニューヨークで第一線 のファッション・カメラマンとして活躍しながら、1980年代に世間から姿を消 した。 83歳の2006年にドイツで出版された作品集が、センセーションを巻 き起こし、展覧会開催や出版が相次ぎ、2012年にはドキュメンタリー映画『写 真家ソール・ライター 急がない人生で見つけた13のこと』(日本公開は2015 年)にまでなったのだという。

モノクロ写真に始まり、1950年頃からカラーになる(このあたりは、数年遅 れで私も体験している)。 もともとは画家志望だったが、売れなくて写真の 道に入ったのだそうで、カラー写真に通じるスケッチや絵も展示されている。 

ニューヨークの自分の住む地域で撮ったスナップが中心なのだが、私は「俳 句」と近いものを、そこに感じた。 それはソール・ライター自身の言葉に表 れている。 「美」を「詩」にすれば、俳句ではないか。 「写真家からの贈 り物は、日常で見逃されている美を、時折提示することだ。」 「雨粒に包ま れた窓の方が、私にとっては有名人の写真より面白い。」 「見るものすべて が写真になる。」 「私が写真を撮るのは自宅の周囲だ。神秘的なことは馴染 み深い場所で起きると思っている。なにも、世界の裏側まで行く必要はないん だ。」 「重要なのは、どこである、何である、ではなく、どのようにそれを 見るかということだ。」

時代が変わり、写真家の自由な創造性が束縛されるようになり、仕事も減少 してスタジオを閉じ、自分のためだけに作品を創造する「隠遁生活」へ入った。 「取るに足りない存在でいることは、はかりしれない利点がある。」 「私 は注目を浴びることに慣れていない。私が慣れているのは、放っておかれるこ とだ。」

女性の名前が題名になっている、日常生活の中で、身近な女性らしい人を撮 ったヌードや絵がある。 それが、何人もなのだ。 見逃したのか、説明がな かったようで、謎である。