編集という方法と、日本という方法が重なっていった2024/09/09 07:03

 松岡正剛さん、2000年以降は、『日本という方法』などで本格的に日本文化論を展開した。 日本は東洋に属して、しかも海を隔てた列島だ。 四書五経も仏教も外から入ってきたもので、稲・鉄・漢字・馬も順番に立ち上がってきたのではない。 そういう国なので、編集的な多重性があるだろうと。 だから日本をよく見ることによって、世界の文明や文化が見えるだろうという関心を持った。

 しかし、そんな日本の文化や歴史にもかかわらず、マルクス主義や構造主義、存在論や現象学など西洋の学問の方法で語ろうとしてきたために、説明の付かないものが増えてしまった。 九鬼周造や鈴木大拙のように西洋的ではない「いき」や「禅」で解明しようとした試みもあったが、トータルには説明できない。 むしろ柳田国男や折口信夫が試みた民俗学的な日本を、もうちょっとやり直さないといけないなと考えた。

 「日本が大事だ」といえば、ナショナリズムと思われがちで、「松岡正剛の右傾化」と受け取られることもあった。 しかし、正剛さんが考えていたのは、日本という国そのものが「方法」であるということだ。 「日本は方法の国だ」という確信は初期からあって、だんだんそれを固めていった。 最終的には「擬(もどき)」と言った。 なぞらえる。 あやかる。 歌舞伎や江戸遊芸では「やつし」と呼ばれるものだ。 本来のものを想定はするんだけれども、そこに少し逸脱をかける。

 どうも大日本帝国主義とか神国日本というのは、その本来を巨大化しすぎてしまう。 奥には正体不明だけれども日本が実感される「何か」はあるかもしれない。 でも、それを神様とか天皇に求めるべきではない。 やつさないと、そらさないと。 そのために方法がある。 私(正剛さん)が考えてきた編集という方法と、日本という方法が重なっていったのだ。

 最後に『仮説集』を残したい、エビデンスなしで、無責任な仮説を並べたてて終わりたい(笑)。 虚実をまぜた「編集的ボルヘス」という感じのもの。 芭蕉が「実から虚に行くな、虚から実に行け」という方法に近いものだ。 リアルがあってバーチャルがあるんじゃない。 バーチャルを先に作らないとリアルなんて説明がつかないと。 これですね、最後にやりたいのは。 それでやっと「本当にあいつは変だった」といわれるんじゃないですか(笑)。

知の編集工学にかたちを求め、ネットの片隅に「編集の国」2024/09/08 07:26

 松岡正剛さんは、雑誌『遊』を出しながら、編集とは組み合わせであるという確信を強めていった。 何かと何かを組み合わせる結合術は、それ自体が世界の新たな「あらわし」と「あらわれ」になる。 科学的なものと精神的なものを一緒に扱いたいと思っていたので、『遊』は宗教性や精神性など、秘教的なイメージにも危ういほど近づいた。 科学と精神、それぞれ守っている領域を超えようとしたときに、たとえば神秘主義とかオカルティズムが読者に感じ取られ、いまでいうスピリチュアルな読者がものすごく増えたことは事実だ。 ただ、正剛さんは、科学の領域と宗教の領域を混ぜて編集がしたいわけなので、ある思想に依拠したのではなかった。

 1982年に工作舎を退社し、松岡正剛事務所を設立。 美術全集『アート・ジャパネスク』(全18巻)や、文明の歩みを壮大な年表にした『情報の歴史』を手がけながら、「編集工学」の構想を練った。 「我々は生(なま)ではない」というのが、正剛さんの考え方の基礎にある。 メガネをかける、鉛筆やパソコンを持つ、言葉や図形や数字を使う、そこには必ず技術とか工学が加わっている。 となると、編集というものも工学の何かを借りている。 あるいは、編集そのものが工学じたいを生み出している。 工学性が編集に与えた影響と、編集が工学にもたらしたものをひもづけたい。 そう思い始めて、「編集工学」に向かっていった。 96年に『知の編集工学』で体系をまとめた。

 同時にメディアへの失望も感じていた。 いちばんの理由は、ベルリンの壁の崩壊と湾岸戦争だった。 この二つをきちんと捉えきれていない日本の実状に、かなりがっかりしていた。 日本は、元は国家どころか小さい単位でたくさんのものがあったのに、それが近代化を目指して国民国家を作り、徴税と徴兵のために「国民」と「そうでないもの」を分けてしまった。 ふとメディアを見ると、テレビも新聞も雑誌も国民国家的になっている。 これでは元々あった自由度や多様性から遠いなと、ずっと思っていた。 正剛さんが超えなければいけないのは国民国家というものだった。

 そういうなかで、知の編集工学にかたちを求めたい。 そう考えて、インターネットの片隅に「編集の国」を作るという発想に至った。 編集だけが進んだ国に旅をして、また戻っていく。 プリントメディアだけではなく、生きた状態で立ち寄れるところを作ろうと。

 それが後に、編集の方法を学ぶ「イシス編集学校」と、正剛さんが本を一冊ずつ取り上げて自在に書き継ぐ「千夜千冊」につながった。

出版社「工作舎」、雑誌『遊』、杉浦康平さんと造本2024/09/07 07:00

 松岡正剛さん、父親の残した借金をなんとか返し終わって、自分なりに何かを始めなければという時期だった。 次は雑誌だな、と思っていたら、稲垣足穂の本を作った仮面社が雑誌を作らないかと言ってきた。 でも、うまくいかず、いったん断った。 誰も見たことのないメディアにするつもりで、再生して止めて、また再生する、早送りや巻き戻しができる、そういうビデオ的な雑誌が作りたかった。 1971年、元上司に100万円を借金して出版社「工作舎」を作り、雑誌『遊』を創刊した。 「遊」は、遊牧民(ノマド)からきていて、じっとして動く、動いてじっとする、読む人が遊牧的になるメディアを試したかった。 学問も自由にしたい。 国語、算数、理科、社会じゃなくて、それらをまたぐ対角線を発見したいと思っていた。 そのためには、メタフォリカル(隠喩的)な連想や見立てがもっと入っていい。 言語的で、かつ映像的な見立てが利くメディアを模索したかった。 後にこの方法を「編集工学」と呼ぶのだが、編集的な見立ての可能性をふんだんに増やそうと思った。

 前に言った航空会社と化粧品会社は両方とも「お出かけ」でしょうみたいな見立てが入ると、まったくちがうものが連動する。 たとえば「神道」の特集に「化学」をぶつけるとか、見立てが利くか利かないか、ギリギリのところへ言葉を持っていく。

 ただし、これをビジュアルデザインでやれるのは世の中に一人しかいないと思った。 それでグラフィックデザイナーの杉浦康平さんにお伺いを立てに行った。

 杉浦康平さんは、東京芸大の建築科の出身なのに、グラフィックデザインに比べて「建築は線が甘い」と、驚くべき発想をする。 それと、広告ではなく、編集されたものをデザインすることに特化したいという思いを持っておられた。 正剛さんは、編集を生涯の仕事にしようと覚悟を決めていたので、作業と表現を厳しくやる人に学びたいと思った。 自分で『遊』創刊号のダミーを作って、「これをむちゃくちゃにしていただきたい」と頼みに行った。

 杉浦さんは目が悪くて、「近乱鈍視だ」と言っていた。 お月様が九つに見えるらしく、そういう「知覚の月」をどうやったら表せるのかを考えていた。 デザインをお願いしたというよりも、考え方や後の「編集工学」の基礎を教わった。

 杉浦さんの言うとおりにしようと思っていた20代後半と30代だった。 稲垣足穂『宇宙論入門』、「夕方に行ったらカフェが閉っていたけれども、月が昇ったら扉が開いて、そこに『宇宙論入門』があった、みたいな本にしたい」と言ったら、「ふうん、じゃあ穴をあけよう」と。 「そんなこと製本屋がやりますか」 「やらない。だから松岡君、見本持って工場を探してきてよ」と。 それからが大変だった。 稲垣足穂『人間人形時代』も、真ん中に穴があいている。 『全宇宙誌』は漆黒で、工作舎時代の造本はいまも語りつがれる。 正剛さんは、もうこれをやらないかぎりだめだと思っていた、編集力には「形」がいるのだ、と。

中退、借金返済に広告取り、『ハイスクール・ライフ』編集、稲垣足穂2024/09/06 07:07

 松岡正剛さん、1963年に早稲田大学文学部に入学、新聞会に入るが、学生運動真っただ中、全学連の時代で、「早稲田大学新聞」はその拠点の一つだった。 だが、正剛さんは革命的マルクス主義一辺倒にはならず、途中から相対性理論とか量子力学とかに惹かれて、不確定・不確実なものを相手にすることに夢中になっていく。 マルクス主義や社会主義や共産主義では、正剛さんの世界観を変えるに至らなかった。

 1967年3月、父が膵臓がんで亡くなり、借金を残した。 その返済で母に頼まれ、大学を中退して、銀座の広告代理店「PR通信社」に入り、広告取りに集中した。 たとえば、全日空とマックスファクターとか関係ない2社を選んで、「お出かけの日」のコピーをつけ、見開きの広告にしようと考える。 面白がられて、どんどん取れた。 いまだに正剛さんの「編集」には、「離ればなれを出会わせたい」という気持がある、という。

 しばらくしたら、PR専門の「マーケティング・アド・センター」(MAC)という子会社を作ることになり、そこに移る。 東販(現トーハン)から高校生向けの読書新聞を作る依頼が来て、『ハイスクール・ライフ』という名前を付け、編集しまくった。 タブロイド判、表紙の絵は宇野亞喜良さん、唐十郎、倉橋由美子、野坂昭如、土方巽らの〝前衛〟に次々と登場してもらった。 全国の書店に無料で置き、当時のとんがった高校生はみんな読んでいたと思う。

 その頃、出会った作家の一人が、稲垣足穂さんだった。 京都の桃山にお住まいで、ふんどし姿で応じられるのだが、初対面で「あんた、サムライみたいやなあ」、「『許さんぞ』という顔をしている」と言われた。 いつも酔ったような感じで、翻弄された。 「ホックと留め金、これが世界やで」とか、片言隻語でパーッと先に進む。 わかるようなわからないようなことを、おシャレな口調で言う。 前代未聞だった。 1969年にパステル画家と結婚、『ハイスクール・ライフ』の対談の収録と一緒に、新婚旅行先に稲垣足穂邸を選んだ。 妻も足穂にぞっこんで、後に挿絵を描くようになる。

 稲垣足穂のセンスは、宇宙論と存在学、とくに物理学が好きで、それらが混じった独特の人体哲学を持っていた。 そこに独特のダンディズムが加わっていた。 わからなさこそが多重な意味を発するんだという思想だ。 足穂さんの言葉でいえば、何十層にもなっている雲母を傾けていくと、ある角度だけ隙間から向うが見える。 その瞬間を「薄板界」と呼んで、「それをわしは見たいんや」と言われていた。 「僅かなもの」「はかなさ」を重視しているのだ。

高校新聞で印刷所の現場、「編集のめざめ」2024/09/05 06:57

 松岡正剛さん、科学への目覚めは小中学生のときからで、虫と鉱物と電気、この三つからほぼ同じだけ刺激を受けた。 虫は昆虫採集、鉱物は化石採集。 電気は、友達と結成した「電気倶楽部」で、乾電池をつなげた回路を作って模型の家を動かしたりした。 後々の寺田寅彦にぞっこんになることとつながる。 一方、思春期に自己をめぐる葛藤はなく、それより昆虫のデザインなど、自分を取り巻く世界の方が、圧倒的に面白すぎた。 同時に、教科書や先生の語り方が方法的に自由じゃないと感じるようにもなった。 生物や地学、物理や化学といった枠組みで捉えるのではなくて、あれも面白い、これも面白いと、世界を面白い状態のまま生き生きと見せることに関心を持つようになる。

 高校入学の直前に、父が横浜・元町に呉服の店を出すことになり、横浜に越して、東京の九段高校に入った。 中学卒業のとき、ガリ版印刷で卒業文集のような冊子を作った。 そのとき京都の「アメリカ文化センター」で見たニューヨーク・タイムズやワシントン・ポストが、ものすごくかっこよく見えて、新聞や雑誌というメディアに関心を持ち、新聞記者にあこがれた。 高校では出版委員会(新聞部)に入った。 『九段新聞』は日刊工業新聞社の印刷所で組み版や校正をしていたので、すぐ横では大人たちが赤鉛筆でゲラ(校正用の試し刷り)に書きこんでいたり、将棋を指しながらたばこを吸っていた。 そういう印刷の現場がかっこよく、活版印刷、段組み、見出し、「囲み」など、初めて出会う文化の技術だったので、ひとつ一つを知るたびに、ものすごく面白く、わくわくして夢中になった。 こんなに人を興奮させるものはないと思った。 活版職人というものに初めて出会ったのも大きかった。

 それは世界を知る喜びや面白さとはまたちがって、メディアやジャーナリズムが持つ面白さだ。 知識や情報は、何かを媒介にして変じていくんだという驚きだ。 では、何が素材になって、誰がどのようにその「変化」を紡ぎ出しているのか。 松岡正剛さんの「編集のめざめ」がここから始まる。

(私もまったく同じ体験をした。「ルーツは高校新聞<小人閑居日記 2005.5.19.>」「「ゲラ刷り」を校正する仕事<小人閑居日記 2023.6.4.>」「高校時代「ゲラ」校正の思い出<小人閑居日記 2023.6.5.>」を書いていた。)