小室正紀さんの「草間直方と福沢諭吉」[昔、書いた福沢194]2020/01/17 07:11

       「草間直方と福沢諭吉」<小人閑居日記 2003.11.24.>

 22日、福沢諭吉協会の土曜セミナーだが、慶應義塾大学経済学部教授(近 世経済思想史)で最近福沢研究センター所長になった小室正紀(まさみち)さ んの「草間直方と福沢諭吉」という話だった。 草間直方(伊助、宝暦3(1 753)-天保2(1831))は、福沢が生れる前に死んだ(つまり時代が違 う)大坂のビジネス・エリート、京都の商家に生まれ、鴻池に奉公し、鴻池の 三別家の一つ尼崎草間家の女婿となり同家を継いだ。 文化5(1808)大 坂今橋に両替商を開業、大名貸で取引のできた肥後、山崎、南部など諸藩の財 政整理に尽した。 その一方で、貨幣史、物価史の精密な研究『三貨図彙(さ んかずい)』『草間伊助筆記』『篭耳集』などを著した。

 なぜ「草間直方と福沢諭吉」なのか。 草間直方の活躍した19世紀初頭は 転換期、変化の時代であって、そこからの草間の時代認識と展望が、福沢の考 え方につながるのだという。 19世紀初頭が転換期というのは、幕府や藩で 財政システムが行き詰まり、地方の経済が活発に動き出す。 草間は長期的に 米価は低下せざるを得ないと見通し、米(コメ)経済の限界を見た。 それは 大名貸、大坂利貸(りたい)資本の、貸倒れ、不良債権化による危機を意味し た。 草間は米価が下落しても、金銀の融通(流通)さえ円滑にいけば、経済 は問題ないとして、貸出を生産的投資のためのものに振り向け、各藩が特産品 の殖産興業に力を向けるべきだと、考えた。

 変革期の人間が何かを主張するためには、「客観的認識」と「内面的自己確立」 (自らの確信)が必要である。 草間の場合、それは『三貨図彙』にみられる ように変っていく現実をくわしく調べることであり、懐徳堂で学んだ儒学(「折 衷学」…朱子学・古学・陽明学などの派にとらわれず、それらの諸説を取捨選 択して穏当な説をたてようとする)に立脚点を求め、道徳性が経済の信用を支 え、万物の融通(流通)が宇宙の根本に通じると、考えた。 福沢のそれは『福 翁自伝』のいう「数理学」と「独立心」。

 小室正紀さんは新発見資料、金沢市立図書館稼堂文庫蔵の草間が肥後熊本藩 大坂勘局頭尾崎氏あて私書『むだごと草』(文化8年、1811)を主な材料に、 この講演をした。

        コメ経済とゼニ経済<小人閑居日記 2003.11.25.>

 小室正紀さんの指摘した、草間直方の活躍した19世紀初頭は転換期、変化 の時代だったという話だが、司馬遼太郎さんだとこうなる。 草間直方とほぼ 同時期に、大名貸の番頭で、しかも学者だった(草間とそっくり同じ、小室さ んの話にも出た)山片蟠桃(1748-1821)について書いている文章に ある(『十六の話』)。

 「江戸体制を考える上で、はたして、この体制が建前であるコメ経済であっ たのか、それともゼニ経済だったのか、ということに迷ってしまう。」 播州赤 穂の浅野家はわずか五万石ながら、赤穂塩という商品の収入(みいり)で、江 戸初期以来、城下の各戸に上水道がひかれていた。 仙台伊達家は五十九万五 千石、家格の差がありすぎて、たとえば両藩の通婚などはとてもできない。 家 格はコメで量(はか)られ、「貴穀賎金」穀ヲ貴(たか)シトナシ、金ヲ賎シト ナスといわれ、それは幕府の一貫した農本主義を言いあらわしていた。

 しかしながら、実質的にはゼニ経済なのである。 たとえば、仙台五十九万 五千石の米は、入用分をさしひき、余った一部は江戸へ飯米(廻米)として移 出されるものの、大部分は大坂へ換金のために運ばれ、堂島相場によって相応 のゼニに化して仙台に送られた。 仙台藩ではそのゼニでもって藩財政がまか なわれる。 藩は貴であるという建前があるため、それをゼニにする機関にじ かに触れることはできない。 建前では賎しいゼニに触れる機能は、いやしい 町人、大坂の町人がやるのである、と。

 小室正紀さんは講演のあとの質疑のなかで、19世紀初頭以来、全国の大小 260藩、各藩が行き詰まった経済をなんとかしようと苦闘した。 勘定方の 武士を中心に、藩札を出したり、物産を開発したりして、「国益」をはかった(「国 益」という言葉は、漢語ではなく、この頃できた新しい考え方だそうで、この 国は藩)。 その7~80年の試行錯誤の経験が、維新後に生きた(江戸時代と 明治の連続性)という話をした。

         山片蟠桃(ばんとう)<小人閑居日記 2003.11.26.>

 「コメと大坂」という題で、山片蟠桃について書いていたのを思い出した。  司馬遼太郎さんの『十六の話』(中央公論社)の「山片蟠桃のこと」という文章 を読んで、その清々しい生き方につよく惹かれたからだった。

    コメと大坂(等々力短信 第748号 平成8年(1996)9月5日)

 江戸中期以後、貨幣(流通)経済が盛んになると、コメを基本にして成立し ている各藩の財政は、どこも苦しくなってきた。 その対策として、外様藩は 換金性の高い商品、たとえば蝋、特殊な織物、紙、砂糖などを生産することに よって、金銀貨幣を獲得するように努めた。 その点、譜代藩はおっとりして いて、ことに中津奥平家は累代幕政に関与したから、幕府の直轄領政治が産業 に鈍感だったのに影響されてか、ほぼコメ依存のままだから、とくに苦しかっ たという。(『街道をゆく』「中津・宇佐のみち」) 

 福沢諭吉は天保5(1835)年、大坂堂島浜通りの中津藩蔵屋敷内の勤番長屋 で生まれた。 父百助(ひゃくすけ)が、回米方という蔵屋敷詰の役人だった からである。 回米方は、コメその他の藩地の物産を売りさばいて、換金する のを職務とする役人であるが、その実は、藩の物産を担保にして大坂の豪商か ら借金することや、その返済遅延の言い訳けをするのが、主な仕事だったらし い。 『福翁自伝』には、百助の人物について、普通(あたりまえ)の漢学者 で、金銭なんぞ取り扱うよりも読書一偏の学者になっていたいという考えだか ら、そんな仕事が不平で堪らなかった、と書いてある。

 藩も蔵屋敷も、お侍としての威厳は保っているものの、実権はカネを持って いる豪商が握っていた。 福沢百助の時代より少し前、豪商のひとつ升屋に、 高砂から13歳の久兵衛少年が奉公に来る。 久兵衛は、のちに『夢の代(し ろ)』を書く山片蟠桃(ばんとう・1748-1821)になる。 主の重賢は、読書好 きの蟠桃に、大坂でもっとも権威のあった学塾懐徳堂に通うことを許した。 こ の恩は蟠桃にとって終生のものとなる。 重賢が死に、主家はにわかに傾く。  蟠桃は24歳の若さで、6歳の遺子重芳を擁して、升屋の再建にのりだす。 1 1年間の苦闘の末、天明3(1783)年、伊達59万5千石の仙台藩との信頼関 係を確立する。 蟠桃は、年貢を取り立てたあとの農民の「残米」を藩が現金 で買い取る方式を提案し、その「買米」を日本最大の消費地である江戸に回し た。 江戸市民の食べる米のほとんどは、仙台米になった。 仙台藩は、その 売上げで得た現金を、両替商に貸して得た莫大な利息によって、財政の建て直し に成功する。 コメ経済に、貨幣経済を組み込んだ合理的なシステムが、いか にも蟠桃らしいという。 仙台藩は、あたかも一藩の家老のように、蟠桃を遇 した。 あくまでも主家を立てた蟠桃は、番頭だからと蟠桃と号した。(司馬遼 太郎『十六の話』)

北里柴三郎とノーベル賞[昔、書いた福沢192]2020/01/15 07:05

       北里柴三郎とノーベル賞<小人閑居日記 2003.12.1.>

 北里柴三郎について、一つ書くのを忘れていたことがある。 ノーベル賞の 問題だ。 図書館で見つけた最近の北里柴三郎伝、砂川幸雄著『北里柴三郎の 生涯』(NTT出版)などは、副題が「第1回ノーベル賞候補」となっているほ どだ。 ノーベル賞は福沢の死んだ1901(明治34)年にスタートしたの に、日本人がこれを初めて手にしたのは、48年後、私もその騒ぎを記憶して いる1949(昭和24)年の湯川秀樹さんの物理学賞だった。 その間の日 本人の学問水準は、低かったのだろうか。

 実は、1901年の第1回ノーベル・生理学医学賞から、日本人北里柴三郎 に与えられるべきものであったというのだ。 その第1回の生理学医学賞は、 ドイツの細菌学者エミール・ベーリングに授与された。 受賞理由は「血清療 法、特にジフテリアに対する血清治療の研究」における業績だった。 しかし、 ベーリングのこの業績は、彼と同じロベルト・コッホの弟子で、先輩に当る北 里柴三郎との共同研究によるものだった。 しかも、北里は、それ以前に、こ の研究の前提となる「破傷風の免疫血清療法」という革命的な研究を成し遂げ ていたのである。

 砂川幸雄さんによると、北里とベーリングが二人の共同研究「ジフテリアと 破傷風の動物実験による免疫性の成立」を『ドイツ医事週報』に発表したのは 1890(明治23)年12月4日号・11日号で、それは医学の世界に革命 的な気運を巻き起こすことになる。 そのわずか一週間後、ベーリングはなぜ か単独で「ジフテリアの血清療法」を発表している。 そして1892(明治 25)年にはジフテリア坑毒素を市販し、コッホとの間に「感情のもつれが生 じたらしく」(科学朝日編『ノーベル賞の光と陰』)、1894年にはハレ大学の 助教授に転じ、ついで1894年マールブルク大学教授になっている。 そし て1901年の第1回ノーベル・生理学医学賞の5年ぐらい前には、ベーリン グによる「血清療法の単独発見工作」が、たぶん完了していた(113頁)、と 砂川さんは推測している。

        北里柴三郎とベーリング<小人閑居日記 2003.12.2.>

 ちょっと昨日の補足。 ノーベル賞の選考過程は50年間は公開されないこ とになっているそうだが、すでに第1回の生理学医学賞の選考過程は明らかに なっている。 最初46人の候補者がおり、コッホやベーリングと共に北里も 入っていた。 選考委員会がさらに15人に絞った時も、北里は残っていた。  一方、ベーリングの名前は、この段階で落ちていた。 それが最終選考で、な ぜかベーリングが復活したという。

 昨日みたようにベーリングは「ジフテリアの血清療法」の論文を単独で発表 していた。 ジフテリアが、当時のヨーロッパで大流行していた深刻な小児病 で、ベーリングは世間から救世主のように見られたために、彼がだれよりも早 くノーベル賞を受賞したのではないかと、砂川幸雄さんは推測している。

 明治28(1895)年、東京でコレラが流行した。 5万5千人がかかり、 うち4万人が死亡している。 北里は府立広尾病院の嘱託になり、コレラの免 疫血清をはじめて試用した。 血清療法を施した193人のコレラ患者中、死 亡者は64人にとどめる、画期的成果をあげた。 この血清は北里の伝染病研 究所で製造されたものだったが、血清製造を官業にしたいという政府の要請を、 北里はこころよく承諾した。 明治29年、国立の「血清薬院」が芝公園でそ の事業を開始し、北里研究所はただちに血清製造を中止し、免疫動物や諸設備 一切を「血清薬院」に献納した。

 ところで、免疫血清療法の共同研究者で、この研究でノーベル賞を受けたベ ーリングは、製薬会社から権利料を受け取っていた、という。

北里柴三郎と福沢諭吉[昔、書いた福沢191]2020/01/14 07:14

        北里柴三郎の三恩人<小人閑居日記 2003.11.18.>

 16日の日曜日、上野の国立科学博物館へ、前日から始まった「北里柴三郎 生誕150年記念展~感染症制圧への挑戦~」(12月14日まで)の、講演会 を聴きに行った。 北里一郎明治製菓会長の「祖父 北里柴三郎」と、大村智 北里研究所所長の「北里柴三郎の求めたもの」という話だ。

 北里柴三郎は嘉永5年12月20日(1853年1月29日)肥後国阿蘇郡 小国郷北里村に生まれた。 幼少より厳しい躾を受けて育ち、儒学を学び、世 のため人のために何かを実現したいという志を持つに至る。 明治4年(18 歳)熊本医学校に入り、オランダ軍医マンスフェルト(第一の恩人)に巡り合 い、その資質を認められて、医学の分野に突き進む。 苦学して明治16(1 883)年東京大学医学部を卒業(30歳)、ドイツ留学を命ぜられ(32歳)、 ベルリン大学ローベルト・コッホ(第二の恩人)研究室に入り、細菌学の研究 を開始する。 明治22(1889)年(36歳)破傷風菌の純粋培養に成功、 翌年には破傷風菌抗毒素(免疫体)を発見し血清療法を確立する。

 すぐれた学勲を打ちたてて、明治25(1892)年5月(39歳)帰国し たが、北里を迎えた日本の学界と帝国大学は冷淡で、北里が伝染病(今は感染 症という)が国内に侵入しても、いかに被害を最小限に食い止めるかが、国益 と国民の福祉にとって重要と考えて、訴えた一日も早い伝染病研究所の設立の 意見に耳をかすものはなかった。 適塾の同窓で親友の長与專斎からこの話を 聞いた福沢諭吉(第三の恩人)は、北里が研究室さえもてないのを日本の恥だ といい、芝公園内の自分の借地に私財を投じて伝染病研究所を建て、親友の実 業家森村市左衛門その他に資金援助を働きかけて、明治25年10月私立伝染 病研究所が設立された。 翌年には、福沢が白金三光町の地所を提供、森村と 建設費を半分ずつ出し合って、日本最初の結核サナトリウム「土筆ケ岡養生園」 が開設された。 北里は、医学を現実的に人々のために役立てるという実学の 立場から、予防医学を終生の指針とした。

         報恩の人、北里柴三郎<小人閑居日記 2003.11.19.>

 孫の北里一郎明治製菓会長だが、先日出た生誕150年の記念切手の北里柴 三郎にそっくりの方だった。 祖父柴三郎が、昨日書いた三大恩人に強い報恩 の気持を持っていたことを話した。 福沢については、その実学の精神に影響 を受け、コッホからも、実際に応用して、役に立たなければだめだという、こ れも実学の精神を教えられた。 明治33(1910)年にコッホが死ぬが、 翌年北里はコッホを祭った神社を建て、自分が死ぬまでの20年間、その命日 に祭事を続けた。 北里の死後は、その弟子たちが、北里の命日に祭事を続け ている(「北里・コッホ神社」というらしい)。

 明治25(1892)年10月に福沢の援助で設立された私立伝染病研究所 だが、明治32(1899)になって国立(内務省)に移管される話が出た。  北里が福沢に相談すると、「君の主義を立て、君の命令通りにするというなら、 官立にしてもいいけれど、政府の事だから何時どうなるかわからないから、足 もとの明るいうちに用意しておけ、即ち金を貯めなさい」と言われた。

 (これは一郎さんの話にはなかったが、福沢が北里に勧めて結核サナトリウ ム「土筆ケ岡養生園」を開設させたとき、学者は銭勘定に疎いものだから、経 営いっさいは自分の推薦する人物に一任するようにといって、その時北海道炭 砿鉄道会社いた田端重晟(しげあき)を事務長に据えてくれたので、養生園は 多額の積立金を保有することとなった。)

 福沢は明治34(1901)年に亡くなったが、その遺訓通りに、大正3(1 914)年政府は突如伝染病研究所を内務省から文部省に移管することを発表、 寝耳に水の北里は辞職、用意しておいた資金で即日、私立北里研究所を設立し たのだった。 北里は、福沢死後15年を経た大正6(1917)年慶應に医 学科(のちの医学部)設立の話が出ると、福沢の高恩にむくいるのは正にこの 時と、みずからの医科大学設立の構想をおいて、科長を引き受け、北島多一以 下門下の精鋭を率いて駆せ参じた。 北里柴三郎は、感染症の予防と治療を、 まことに丁寧に実践した。 「独立不羈」という言葉を好み、自分で考え、自 分で行動し、その行動に責任を持った。 「師のあとを追わず、師の求むる道 を歩むべし」と、言っていたという。

         田端重晟(しげあき)日記<小人閑居日記 2003.11.21.>

 北里柴三郎を雑務から解放し研究と医療に専念させるため、福沢の推薦で「土 筆ケ岡養生園」の事務長になり、養生園と北里研究所の経営基盤を確立するた めに生涯をささげた田端重晟(しげあき 1864.4.12-1945.2.12)は、日常生活 から仕事のことまで、一日も欠かさずに、毛筆で克明な日記を書いていた。

 北里研究所に保管されている(散逸した部分も多いというが)その日記を研 究して、正田庄次郎北里大学教授が「田端重晟日記からみた福沢と北里」(『福 沢諭吉年鑑8』1981)、「田端重晟日記にみる北里先生と養生園」(『福沢諭 吉年鑑10』1983)という貴重な論文を書いている。 「田端重晟日記」 は、その克明な記録としての価値から、『慶應義塾百年史』、『福澤諭吉全集』編 纂の際、慶應義塾に貸し出され、とくに『福澤諭吉全集』21巻の福沢の年譜 の作成に活用され、それを充実したものにするのに役立ったという。 そこに 記録されている、福沢と北里、福沢と養生園の詳細な関係は、福沢や北里とい う人物の肉声や行動、思想を伝えていて、まことに興味深い。

           牛乳瓶事件<小人閑居日記 2003.11.22.>

 正田庄次郎さんの論文「田端重晟日記からみた福沢と北里」に、「福沢と北里」 とでは、その思想、たとえば女性論(観)の面で、かなり隔たりのあったとい うことが述べられている。

 明治29年10月15日、福沢は田端に手紙を書いて、その朝、養生園から 福沢の家に配達された牛乳瓶に何か毛のような汚物が付いていたことを報せ、 その不潔な悪品一瓶を返却し「養生園之事業腐敗」記念として保存するように 指示し、養生園の不注意を厳しく叱った。 「細菌学の叢淵、消毒云々とて、 其注意の周密なるは、自家も信じ又世間も信ぜしめたる養生園のミルクにして、 斯の如しとは、何等之怪事ぞや。 畢竟病院事業之盛なるに慣れて、百事を等 閑に附し去る其結果之偶然に現れたるものと云ふの外なし」と、いかにも福沢 の手紙らしい文章である。

 その日夕刻、田端は三田へ行って福沢に謝罪、翌日報告を受けた北里も直ち に詫びに赴いたが、およそ3時間にわたって叱責されたという。 正田さんに よると、この年の2月の朝日新聞に北里が新橋の芸妓トンコを身請けしたとい う記事が出た、そのことが福沢の北里批判の背景にあったのではないか、とい う。 福沢死後まもなく、明治34年2月14日の田端重晟日記に、北里博士 がしきりに福沢の話をして、その遺著を求めたので、福沢が倒れる前に男子も この本を読むべしと書いた『女大学評論、新女大学』を贈ったとあり、「蓋シ、 此書ヲ再読シテ、博士ニ反省セシムルハ、福沢先生ノ本意ニテ、草葉ノ陰ニテ 喜バルルナラント思エバナリ」とある。

(参照 : 北里柴三郎と福沢諭吉の遭遇〔昔、書いた福沢30〕<小人閑居日記  2019.3.10.>)

清家篤さんの「生涯現役社会をめざして」その2[昔、書いた福沢184]2019/12/28 07:05

       2014年、四人に一人が高齢者<小人閑居日記 2003.7.10.>

 1973(昭和48)年当時のことを考えると、そうした「年金を2倍に」 という政策転換には、それなりの根拠があった。 公的年金の財政方式として 『積立方式』をとるか、『賦課方式』をとるか、経済学的には、簡便な公式があ る。

賃金上昇率+人口増加率>資金の運用利回り なら 『賦課方式』が望ましい

賃金上昇率+人口増加率<資金の運用利回り なら 『積立方式』が望ましい

 73年当時、人口は順調に増加していたし、賃金上昇率は二桁だった。 資 金の運用利回りも、現在にくらべれば相当高かったが、賃金上昇率と人口増加 率の和は優に資金の運用利回りを上回っていた。 清家さんは、戦後の復興期 を苦労して生き抜き、日本を高度成長期に導いた世代に対して、たとえ積立は 不十分でも、しっかりとした年金を給付しようという政治的、社会的合意形成 がなされたのは理解できる、という。

 国連の定義で「高齢(65歳以上)人口比率」が7%を超えると「高齢化社 会(Ageing Society)」、14%を超えると「高齢社会(Aged Society)」という。  日本は大阪万博の1970年に「高齢化社会」になり、ほぼ四半世紀という世 界に類を見ないスピードで、1994年には「高齢社会」になった。 11年 後の2014年には、高齢人口比率が25%を超えると推計されている。 四 人に一人が65歳以上の高齢者になるわけだ。

 本格的高齢社会では、年金制度は『積立方式』が望ましいことが明らかだが、 いったん『賦課方式』にしてしまったものを『積立方式』に戻すことは、きわ めて困難だ。 現役世代に、自分たちの将来のための『積立』保険料と、高齢 世代に約束した分も含めた『賦課方式』の保険料の、二重の負担を強いること になるからだ。 清家篤さんの結論は、「基本的には『賦課方式』を前提に、公 的年金制度を高齢者の多い人口構造のもとで、うまく機能するように変革すれ ばよい」というものだ。

      少子化に関するベッカーの理論<小人閑居日記 2003.7.11.>

 清家篤さんの「生涯現役社会をめざして」で、興味をひかれたところを、も う一つ紹介する。 人口の高齢化をもたらすものに、長寿化と少子化の二つの 要因があるが、どちらも経済発展、経済成長の結果である。 そのうち少子化 を経済学的に説明したのが、労働や家族の経済学でノーベル賞をとったアメリ カの経済学者ゲーリー・ベッカーだ。 豊かな社会では親にとっての子供が「消 費財」になる(貧しい伝統社会では子供は親の仕事を手伝い、老後の面倒を見 てくれる「投資財」だった)ということ、そして所得の上昇とともに親は子供 の量(数)よりも質を重視するようになる、というのである。 ここで「消費 財」というのは、子育てが楽しいことだから、子供をつくるということだ。 「質」 というのは、親の所得が増えると、子供の数を増やすのでなく、子供一人当た りにより多くの教育費など子供の幸福度を高めるような支出を増やして満足感 を高めようとする。 女性が出産と育児を担うことによって失われる賃金所得 (経済発展でそれは増大する)が、子供の数を減らす効果を持つ。 経済発展 とそれにともなう所得増加は、この両面から子供の数を減らす方向に作用する というのがベッカーの理論で、他の先進国と同様、戦後の日本も、ベッカーの理論通りの筋道をたどって、少子化が進行した。

 ちょうど親の世代の人口を置き換えるのに必要な出生率は、2.08程度と 推計されている。 先進各国の出生率に二極分化がみられる。 アメリカやイ ギリス、フランス、北欧諸国などの出生率は比較的高く(2に近い)、逆に、日 本、ドイツ、イタリア、スペインなどは低く、出生率が1に近い水準になって しまっている。 なぜか第二次世界大戦に負けた側で出生率の低下が著しい。  これは出生率の低い国々では、正式の婚姻重視といった伝統的な家族観、仕事 と家庭にかんする男女の役割分業といった伝統的性別役割観が、まだ根強く残 っているためと考えられているという。 一方、出生率の高い国々では、正式 の婚姻関係によらない出生が無視できない高い比率で存在し、また男性が家事 育児をよく分担するという。

清家篤さんの「生涯現役社会をめざして」その1[昔、書いた福沢183]2019/12/27 06:57

   清家篤さんの「生涯現役社会をめざして」<小人閑居日記 2003.7.8.>

 NHK人間講座、清家篤さんの「生涯現役社会をめざして」を視聴している。  発端は、先月15日、極楽寺成就院の「紫陽花ゼミ」で、小尾先生の奥様が聴 かせてくれたカセットテープだった。 清家篤さんは、建築家清家清さんの息 子で、労働経済学専攻の慶應義塾大学教授。 テープは、その清家篤さんがラ ジオで、小尾先生について話しているものだった。 小尾先生に、学問という のは、具体的に喜ばれるような研究でなく、誰も喜ばないようなことを研究を するもので(ゼミ門下一同、アハハと笑った)、大局的な見方や基礎的な研究こ そ大切だと、言われたというのだった。 『文明論之概略』のいう「遠い原因」、 風よりも、その奥にある気圧を、問題にするというように…。

 最初のうちの経済学は、野球の素振りのようなもので、面白くなかったが、 その後、実際的なことをやるようになって、面白くなってきたという話もして いた。

 というわけで、人間講座を、その直後17日の3回目から見始めた。 する と、三田のキャンパスの、見覚えのある大木の下に机を置いて、講義していた りして、どこか懐かしい。 内容も、身につまされるというか、ちょうど年代 の合うテーマで、なかなか面白い、日本の最重要課題でもある。 テキストを 買って来た。

       年金制度は『賦課方式』<小人閑居日記 2003.7.9.>

 七夕に願い事を一つだけといわれて、何を書くか。 「年金が破綻しません ように」とでも書くか。 「独立自尊」の先生にはちょいと顔向けできないけ れど、年金は小人閑居の大きなよりどころである。

 その年金について、清家篤さんの「生涯現役社会をめざして」で、恥ずかし ながら初めて知ったことがある。 「現在の日本の年金制度は、そのときどき の若年現役世代の保険料で、高齢引退世代の年金給付を賄う、『賦課方式』と呼 ばれる財政方式をとっている。」 『賦課方式』に対するのが、『積立方式』で、 ずっと厚生年金保険料を会社と折半で負担してきた私は、その『積立』と元利 運用益から、てっきり年金が支払われているものだと思っていたのである。 な らば、気が楽なのに、若年現役世代の保険料に頼っているのだと知れば、安閑 としてはいられないではないか(と、恰好をつけたくなる)。 『賦課方式』で は、少子高齢化によって、年金制度の破綻は避けられないことになるではない か。

 清家篤さんによれば、日本の公的年金制度は、もともと『積立方式』を原則 として発足した。 サラリーマンを対象とする厚生年金は、1954年の改定 でその財政方式を『賦課方式』へと転換した(一部、積立を残したから「修正 積立方式」と呼んだ)。 その後、「年金を2倍に」という田中角栄内閣の19 73(昭和48)年の改定で、物価スライド制が導入されるなどした結果、給 付水準は大幅に上昇し、厚生年金制度は『賦課方式』の性格を決定的に強めた のだった。