荻生徂徠、その評価も二分される ― 2024/02/22 06:57
扇辰の「徂徠豆腐」前半<小人閑居日記 2015.3.16.>
扇辰の「徂徠豆腐」後半<小人閑居日記 2015.3.17.>
天才儒者・中根東里、知られざる大詩人<小人閑居日記 2015.7.2.>
磯田道史さんの荻生徂徠像<小人閑居日記 2015.7.3.>
天下一、名高い浪人・細井広沢のことなど<小人閑居日記 2015.7.4.>
落語「徂徠豆腐」は、浪人して尾羽打ち枯らしていた頃の徂徠が、芝増上寺の門前の豆腐屋、上総屋七兵衛に借りていた豆腐おから代を、のちに豆腐屋が火事で焼けた折に、出世していて、店普請して返すというおめでたい噺だ。 磯田道史さんは、天才儒者で知られざる大詩人である「無私の日本人」中根東里から見た荻生徂徠を、生まれつき政才を持った政治臭のある学者で、肝心の学問のなかに、はったりがあった、という。
私はその時、荻生徂徠について、何も知らないがとして、こんなことを書いていた。
「2014年12月『福澤手帖』第163号の「青木功一著『福澤諭吉のアジア』読書会に参加して」に、講師の平石直昭東京大学名誉教授が質疑応答の中で儒学についての質問に、こんな興味深い見解を述べられたと、こう書いた。 「勝海舟は本物の儒学者ではない、福沢は本物の洋学者。日本に近代を樹立したのは荻生徂徠で、人類史、文明史全体を括弧に入れ、人類の文化の外に出た。儒教的枠組みをとっぱらって、事物そのものを見た。陰陽五行説は、聖人が作り出したもの。蘭学(福沢のやった)も、国学も、学問の方法としては、徂徠学から出ている。最近の中国でも戦略家は『春秋左史伝』を参考にしているのではないか。福沢は『春秋左史伝』が得意で全部通読し、十一度も読み返して面白いところは暗記していたと『自伝』にある。」」
あらためて荻生徂徠を事典などで見ると、『ブリタニカ国際大百科事典』の説明が、私にもわかりやすかった。 「その学問は政治社会に対する有用性を眼目としており経世在民の儒学と概括することができる。初め伊藤仁斎に私淑するがやがて終生の対決者となる。それは徂徠の側での感情的な問題もあるが、根本的には考え方の相違による。徂徠にとって道は中国の古聖人の制作になる利用厚生の道、礼楽刑政の道であって、客観的な制度、技術つまり「物」である。それは仁斎や朱子におけるように主観的でとらえどころのないものとは異なる。道が客観的な物であるがゆえに統一的な政治社会が成立する。徂徠は朱子とともに仁斎の内面的な道徳性による社会の基礎づけを根拠のないものとして退ける。道徳的な優越者という一般的な聖人理解を排し、制作者として聖人をとらえるところにも、経世在民の学であることを目指した徂徠学の性格をみることができる。このような制度文物としての道になにゆえ従わなくてはならないかを明らかにする方法として、制度文物とおのおのの時代状況との連関を問う古文辞学が位置づけられる。そこに歴史的実証的な態度がうかがえるがその究極には聖人への帰依が控えていることを忘れてはならない。徂徠は政治社会の統一と安定を目指したが、それは大本を確固とすれば個々の事象についてはそれぞれの個別性を容認していた。したがって公的な側面に対する私的な側面、特に詩文の領域は尊重された。徂徠の学風のこの面もきわめて重要である。徂徠の学風は古文辞学の方法と相まって国学の成立に大きな影響を与えた。」
(古文辞学(こぶんじがく)…荻生徂徠が唱えた学問。聖人の教えを理解するには古文辞(古代中国語)で読解すべきとして、朱子学や仁斎学を批判。)
元禄地震 房総沖巨大地震と大津波<等々力短信 第1176号 2024(令和6).2.25.>2/12発信 ― 2024/02/12 07:10
能登半島地震が発生する前日発行の大冊、古山(こやま)豊編著『元禄地震 房総沖巨大地震と大津波』を、『雷鼓』を出しておられた岩本紀子さんから頂いた。 古山豊さんは、千葉県大網白里市在住の県立御宿高校や東金高校校長を務められた方で、40年以上前の昭和56(1981)年に勤務先に近い茂原市鷲巣の鷲山寺(しゅうさんじ)で「元禄津波供養塔」に出合って以来、元禄地震の研究を続けてきた。
赤穂浪士の吉良邸討入の翌年、元禄16(1703)年12月31日に発生した元禄地震は、江戸初期から今日までの約400年間で、房総半島に最大の被害(死者6千人超、90%以上が津波による溺死)をもたらした。 にもかかわらず、この地震に関する新史料の発掘は少なく、霧に閉ざされた地震の一つとして研究する学者も限られていたという。 古山さんは、地の利があり、地域の「市町村史」に精通、県内各地の沿岸沿いを徹底的に調査し、新史料を多数発掘(石碑、古文書等100点以上)、私家本3冊にまとめ、東京大学地震研究所等にも送付した。 『理科年表』は大正14(1925)年初版以来、簡略だったこの地震の記載が、令和3年版では「元禄の関東地震」相模・武蔵・上総・安房で震度大、特に小田原城下は全滅、全体で死者約1万、潰家2万2千等と詳しくなった。
元禄地震は、真冬の真夜中に発生、津波は3度襲来、九十九里浜南部5~6mの津波、鰯の豊漁期で沿岸滞在者多数が溺死、地曳網の被害甚大、沿岸の村々は約2/3が浸水、田畑の塩土を除くのに3~5年、それでも元に戻らず生活困窮、安房では山崩れ被害。
この地震の第一級史料は、柳沢吉保の公用日記『楽只堂(らくしどう)年録』で、房総の被害が13頁にわたって、この本に紹介されている。 吉保の父、安忠は三代将軍家光に上総国市袋(いちのふくろ)に知行地を賜り、三歳の綱吉の守役となった。 吉保の母は、その市袋の名主の娘きの、行儀見習いで柳沢家に上がっていて安忠の手がついたという。 吉保を生むと、すぐ実家に戻り、佐瀬家に嫁ぎ、男児をもうける。 夫に先立たれ、さらに儒者の大沼林斎に再嫁して男児を生む。 林斎は、荻生徂徠の父方庵の弟子で、徂徠と机を並べて学んでいた。 吉保は、18歳から綱吉に近侍し、23歳で綱吉が五代将軍になると小納戸役となる。 母きの女を引き取り、異父弟二人は吉保に仕え、柳沢姓を許され、重臣となる。 元禄元年31歳で側用人、1万2千石余の大名となる。 元禄7年、7万2千石余の川越城主、元禄9年、荻生徂徠を召し抱える。 吉保は、異例の昇進により悪辣な策謀家とされるが、善政で領民に慕われ、綱吉の好学に添い学問・教養の面でも優れていた。 元禄地震の翌年、甲州15万石に封じられる。
能登半島地震に際し、「温故知新」元禄地震は多くの教訓を残している。
無性に知りたい芋づる式<等々力短信 第1175号 2024(令和6).1.25.>1/19発信 ― 2024/01/19 07:04
無性に知りたい芋づる式<等々力短信 第1175号 2024(令和6).1.25.>
「羽林家(うりんけ)」という言葉を知らなかった。 今村翔吾さんが朝日新聞に連載している『人よ、花よ、』に出てきた。 楠木正成の子、多聞丸正行(たもんまるまさつら)を描いた小説なのだが、高師直(こうのもろなお)が好色な男だったことが、時々、舞台回しとしての女を登場させる。 このたびは、相貌、躰付き、声色、全てが師直好みの、羽林家のとある公家の娘、齢二十七、その手を掴んで引き寄せようとした。 そこへ、「兄上!」と師泰が、楠木正行の楠木党が決起したと知らせてきたのだ。
「羽林家」を『広辞苑』で引く。 「中世以降、公卿(くぎょう)の家格の一つ。大臣家に次ぐ。大納言、中納言、参議にまで昇進でき、近衛中・少将を兼ねた家柄。四辻・中山・飛鳥井(あすかい)・冷泉・六条・四条・山科などの諸家があった。」
「公家(くげ)」を引くと、その(3)「公卿(くぎょう)(1)に同じ」とあり、そこには「公(太政大臣および左・右大臣)と卿(大・中納言、参議および三位以上の朝官)との併称。上達部(かんだちべ・かんだちめ)。月卿。卿相。月客。俗に「くげ」とも。」
「羽林家」が「大臣家に次ぐ」というので、「大臣家」を見る。 「摂家・清華(せいが)に次ぐ家柄。内大臣から太政大臣まで昇ることができるが、近衛大将を兼ねることはできない。藤原氏の正親町(おおぎまち)三条、三条西、および源氏の中院(なかのいん)の三家をいう。三大臣家。」
「摂家」は、「摂関家」に同じ。 「摂関に任じられる家柄。古代・中世を通じて、藤原一族中の北家、特に初代摂政の良房の子孫に限られ、鎌倉初期には近衛・九条・二条・一条・鷹司の五摂家に分かれた。一家(いちのいえ)。執柄家。」
「清華(せいが)家」は、「公卿の家格の一つ。摂関家に次いで、大臣家の上に位し、大臣・大将を兼ねて太政大臣になることができる。主に七家(転法輪三条・西園寺・徳大寺・久我・花山院・大炊御門(おおいみかど)・今出川(菊亭))を指す。室町時代には10家あった。江戸期には広幡・醍醐の両家を加えて9家。英雄。英雄家。華族。」
芋づる式に、公家の家格は、「摂関家」「清華家」「大臣家」「羽林家」の順になる。 では、百姓で関白になった秀吉は、どういう手を使ったのか、新たな疑問が湧く。
加藤秀俊さんの『隠居学』(講談社)に、こうあった。 おや、なんだろう、なぜこうなっているのだろう、という疑問をもつと無性に知りたくなるものなのだ。 それは野次馬根性、あるいは好奇心というやつで、「知りたい」という欲求、およそ知的探究という行為に「目的」なんぞありはしない。 学問というものは、おおむねゆきあたりばったりの、偶然の知的発見の連鎖以外のなにものでもない、と。
第189回福澤先生誕生記念会、伊藤公平塾長年頭挨拶 ― 2024/01/13 07:11
10日は第189回福澤先生誕生記念会だった。 2021年から3年間はオンライン開催だったので、久しぶりに三田の西館ホールへ行った。 例によって、「福澤諭吉ここに在り」と「日本の誇」の合唱で始まる。 一曲目、六番までの歌詞を暗記して歌う、幼稚舎生に、横浜初等部生も半分加わったのは、初めてだったと思う。 二曲目のワグネル・ソサィエティー男性合唱団、いつも思うのだが、二番しかない歌詞を見て歌うのは何とかならないか、大学生になると記憶力が減退するのか、後の塾歌斉唱でも見ていたのは、何をか言わんやだ。
伊藤公平塾長の年頭挨拶。 年次報告的なものは、いずれ『三田評論』で読んでいただくとして、私が聴いた大まかなところを…。 福沢が一番大事にしていたのが、独立。 命がけで国の独立を守る。 個人の独立を、国の独立につなげるシステムの構築。 権力の偏重を、ミドルクラスの奮起、資力を有する人々が協力して、乗り越える。 人間交際、建設的チームワークが、慶應義塾に求められている。
世界のオピニオンリーダーが、昨年相次いで慶應義塾を訪れたのは、専門の学者がいるからで、気候変動、SDGs、AIについて多事争論の場と成り得る。 世界の大学長会議で、東京声明を発することができた。
研究プロジェクト、協調する体制で、特色ある研究大学として力を発揮できた。 医学、理工系だけでなく、人文科学分野でも。 「修身要領」21条の伝統を大切にしたい。 そこには、「文芸は社会の平和を助け人生の幸福を増す」とある。 福沢の経済的独立は、実業家の養成を目指した。 スタートアップ企業を、実業として昇華させ、ベンチャーキャピタル、ファンドで資金調達を達成する。 慶應義塾は、根拠にもとづく楽観主義で進む。
荒俣宏さんの記念講演は、明日から書きます。
「群星訃2023」「惜別」の加藤秀俊さん ― 2024/01/08 07:15
訃報も見逃していたので、確かなことは言えないが、加藤秀俊さんの追悼記事や評伝が朝日新聞に出ないのを残念に思っていた。 それが12月27日になって朝刊文化面の「群星訃2023」という追悼をまとめた記事で、ようやく取り上げられたのを読んだ(藤生京子記者)。 見出しは「「大衆」を見つめて 社会をあぶり出す」「アカデミズムのよろい脱いで」。 加藤秀俊さんのほか、米文学・比較文学者の亀井俊介さん(8月18日死去・91歳)と、私はお名前を知らなかった社会学者の立岩真也さん(7月31日死去・62歳)。
「社会学者の加藤秀俊(9月20日死去・93歳)が大学のゼミで流行歌の分析を始めた戦後まもない頃、大衆文化研究は「まとも」とはみられていなかったという。それが1954年に留学した米国は一転、自由闊達な議論であふれていた。迷わず進路を決めた。
帰国後の57年、「中間文化論」を発表し、高級文化と大衆文化のあいだの新しい動きをとらえて注目された。メディア、人間関係、教育に未来学まで関心は幅広かったが、80歳を過ぎて恩師D・リースマンの「孤独な群衆」を改訳するなど大衆文化論はライフワークだったのだろう。それだけに、手厳しくもあった。「社会は誰が動かせるわけでもないよ」と、諦念めいた発言が耳に残っている。」
亀井俊介さんの鶴見俊輔さんとの共著『アメリカ』(文藝春秋・1980年)は、書棚のどこかにあるはずだ。 「亀井俊介も大衆文化研究への接近は米国体験だ。ホイットマンを研究した59年の留学の10年後。ベトナム反戦や公民権運動を機にした「文化革命」に刺激を受けた。/73年に再び渡米、各地を旅しながらサーカス、西部劇、ターザンなどの資料を集め、調べた成果が「サーカスが来た! アメリカ大衆文化覚書」である。アカデミズムのよろいを脱いだ自由な筆致は、エッセーとしても高く評価された。」
6日に、ここまで書いたら、朝日新聞夕刊「惜別」に「名文家で知られた社会学者 加藤秀俊さん」「妻へのみやげは『ラブレター』」が出た。(桜井泉記者) 「まがうことなき知の巨人」、「無境界主義の教養人」。近しかった人たちは、そんな言葉で見送った。戦後日本の大衆社会を分析し、メディア研究者としても活躍。教養書では芸能や人生論を平易な文章で論じ、テレビや講演で好評を博した。」
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