呉座勇一さんの「「鎖国」の概念 昔と今」2018/10/14 07:32

 『応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱』(中公新書)で有名になった歴史学者の 呉座勇一さん(国際日本文化研究センター助教)が、火曜日の朝日新聞に「呉 座勇一の歴史家雑記」というコラムを連載している。 9月25日は「「鎖国」 の概念 昔と今」だった。 歴史教科書は基本的に保守的で、学界で画期的な学 説が提唱されたとしても、それをすぐに取り入れることはない、という。 大 半の研究者が妥当性を認め、その説に基づく研究が次々と発表されて、初めて 採用するのだそうだ。

 呉座さんの挙げる一例は、「鎖国」の問題だ。 昨年、小中学校の新学習指導 要領から「鎖国」表記を外すという案が浮上し、結局残ることになった。 日 本史学界で江戸幕府の対外政策を「鎖国」と捉えることを批判する研究は、既 に1980年代には登場しているそうだ。 今では「四つの口(長崎・対馬・琉 球・蝦夷地)」論という「通説」を踏まえた上で「鎖国」概念を再評価する見解 すらあるという。

 呉座さんの結論は、現在の新説も「正解」とは限らず、将来否定される可能 性がある。 歴史学研究は常に更新されていくものなのだ、というものだ。

男鹿半島の「爆裂火口」と「石焼き」2018/05/27 06:51

 大龍寺から、夕景の中、男鹿半島西岸の観光道路を行くはずだったのだが、 生憎の天候で、おそらく「なまはげライン」という山側の観光道路を通ったと 思われ、男鹿温泉郷を右に見て、西岸の戸賀湾岸をぐるりと回って、GAO男鹿 水族館の高台にある「海と入り陽の宿 帝水」に到着した。 同行したJTB秋 田の若い添乗員作成の「旅のしおり」では、「海と入り湯の宿 帝水」となって いて、最初、露天風呂に「海水でも入るのか」と思った。 「湯」は「陽」の 単なる誤記だった。 高校新聞部出身の悪い癖が出て、ご本人に直接話したら、 まったく気付いていなかったので、ついでの老爺心ながら、例年は留守宅用の 「旅のしおり」も付けると、余計なことを言った。

 バスガイドさんによると、戸賀湾と、その内陸にある、二ノ目潟、一ノ目潟 (天然記念物)は、鹿児島県薩摩半島南東部にある池田湖と同じ「爆裂火口」 「マール」だという。 「爆裂火口」はexplosion crater、「火山の爆発的な噴 火によって生じた火口。山体の一部が吹飛ばされ、漏斗状の凹地ができる。マ ールも一種の爆裂火口である。」(『ブリタニカ国際大百科事典』) 「マール」 はMaar(ドイツ語)、「火山の形態の一種。爆発的噴火によって生じた円形の 小火口のうち、砕屑(さいせつ)物の堆積が少ないため山体を形成するに至ら ないもの。秋田県男鹿半島の一ノ目潟・二ノ目潟の類。」(『広辞苑』)

 なお、『広辞苑』では、「池田湖」はカルデラ湖としてあり、『大辞泉』ではカ ルデラ湖としつつも、追記に「鰻池や山川(やまがわ)湾などのマール群とと もに、「池田・山川」として活火山に指定されている」とあった。 そこで「カ ルデラ湖」だが、「カルデラcaldera(火山性の火口状凹地で直径が約2キロメ ートルより大きいもの)の全部ないし大半に水をたたえた湖。」「カルデラ床の ほとんどに湛水している場合をさし、カルデラの一部だけを占める火口原湖(榛 名湖・芦ノ湖)とは区別される。」「水深が深く、田沢湖(423m)、支笏湖(360 m)、十和田湖(327m)、池田湖(233m)、摩周湖(211m)など、第5位まで の深湖はすべてカルデラ湖である。」(『日本大百科全書』)

 「海と入り陽の宿 帝水」の夕食に、温物「秋田牛の石焼き」と、留椀「男鹿 の石焼き」が出た。 「秋田牛の石焼き」は、やや厚めの薄切り牛肉とパプリ カなど数種の野菜を、黒っぽい焼けた丸い石の上に、自分で乗せて焼くもの。  「男鹿の石焼き」は、料理する人が、直径50センチ位の桶の水の中に、魚や 野菜を入れ、その中に焼けた石を入れて、豪快に沸き立つところへ、土地の味 噌を溶き加えて供する。 どちらも焼けた石がよく割れないものだと、質問が 出た。 石は溶岩で、一回しか使わない、専門の業者が海に潜って取るという ような話だった。 「石焼き」で、『日本大百科全書』を引くと、「石を熱して 熱源とする料理法。各地に石焼きの郷土料理があるが、名称は同じでも内容は 違う。原始的な料理法で、野趣がある。」として、「秋田県男鹿半島の石焼きは、 海女がとった生きた海の小魚を器の中に泳がせておき、その中に熱い小石を数 多く加えて煮る。」とあった。 「帝水」での料理は、それを洗練しパフォーマ ンスにしたのであろう。

 男鹿半島の「爆裂火口」「マール」と「石焼き」、NHK「ブラタモリ」の恰好 のネタなので、企画したら面白いと思った。  (写真は、「海と入り陽の宿 帝水」から見た戸賀湾)

『社会学』の落語、落語は「社会学」2018/04/29 06:29

 加藤秀俊さんの『社会学』には、随所に落語の話が出て来る。 嬉しいこと である。 初めにふれた、落語でいえば横町の隠居のようなひとである「世間 師」、市井の「社会学者」の、現代におどろくべき一例として、小沢昭一が採集 した落語家二代目桂枝太郎の生涯が紹介されている。

 「明治28(1895)年生まれの枝太郎は、青山学院から明治薬専(現在の明 治薬科大学)にはいり、工業薬品の会社を経営しようとするが、横浜のインド 人の店ではたらき、人妻と駆け落ちしようとしたら電車のなかで知り合いの落 語家に会って弟子入りしたものの、満足がゆかず、薬科学校の学歴を活用して、 無資格で町医者の代診。そのあとこんどは東芝に経理見習いで入社。関東大震 災のとき、焼け跡の会社の金庫のうえで弁当を食べていたら、その姿が社長の 目にとまり、その忠誠心をみとめられて、すぐに四日市の工場長。やがて本社 の経理部長にまで出世するが、また落語家に戻って浅草演芸ホールを設立した。 そのかたわら航空学校の一期生として操縦を学んで航空評論をしたり、あるい は川柳協会の理事をつとめたり、人生まことにめまぐるしく、その物語を読ん でいるだけで目がまわる。」

 第四章「組織――顔のない顔」。 中根千枝さんの『タテ社会の人間関係』 (1967年)以来、「タテ社会」ということばが一人歩きして、日本文化は「タ テ」関係だらけと理解するひとがおおいけれど、ただしくない。 歴史的にみ て、東日本では「タテ型」が支配的だったが、西日本では「ヨコ型」が優勢だ。 その一例として、こうある。 「江戸落語では「大家といえば親も同然、店子 といえば子も同然」というが、それをきいた京都の友人たちは声をそろえて、 そんなことはあらへん、家の貸借は「契約」やないか、といって笑った。江戸 の「タテ」哲学と西日本の「ヨコ」哲学がそこにみごとに対比されているよう にわたしはおもえた。」

 「講」というのも日本の「ヨコ」型結合の典型だったというところには、落 語の「大山詣り」が出て来る。 「江戸の庶民のあいだでは、とにかく大山詣 りをしなければ一人前の男ではない、という成人儀礼のような意味もあって、 年間、百万人にちかい参詣客が「講」をつくり「大山街道」をあるいた。」

 第五章「行動――ひとの居場所」。 江戸落語でおなじみの八、熊の住む裏長 屋、九尺二間の広さが出て来る。 「メートル法でいうと二・七メートル×三・ 六メートル。」面積は「十平米」。 『方丈記』鴨長明の住まい、一辺が一丈(三 メートルほど)の正方形、面積「十平米」と同じだ。

 第六章「自我――人生劇場」。 日本の伝統芸術は「義理・人情」抜きには語 ることはできない。 落語では、『品川心中』。 「変装文化」とでもいうべき ものが大衆文化の伝統だった。 江戸中期から、たとえば花見の趣向などの需 要にこたえて変装用の貸衣装屋があった。 そのありさまは落語の「花見の仇 討ち」などでおなじみ。

 第七章「方法――地べたの学問」。 「第二のふるさと」でみごとな発見をの こしたフィールド・ワーカーがいる、そのひとり。 イギリスの社会学者ロナ ルド・ドーア(Ronald Dore)は東京の下町に暮らし、落語家に弟子入りして 芸名までもらった。

加藤秀俊さんの『社会学』、現代の世間話2018/04/27 05:15

 加藤秀俊さんの『整理学』(中公新書・1963(昭和38)年)のことを書いた ら、新聞の広告で同じ中公新書から新刊『社会学』が出版されたのを知った。  第一章は「「社会学」――現代の世間話」。 英語のsocietyを社会と翻訳した初 めは、明治8(1875)年1月14日の東京日日新聞の福地源一郎で、「知識階級」 「上流階級」を意味する文脈で使われているという。 福沢諭吉には、その翌 年に創刊した『家庭叢談』という雑誌で、「一国一社会ノ文明ノ進歩ハ」うんぬ んという用例もあると続く。 私としては、福沢が慶応4(1868)年の『西洋 事情 外編』でsocietyを「人間交際(じんかんこうさい)」と訳したことを、 ここで書いて欲しかったと思う。 それは、後段の議論で、章の題名にもある ように、「社会学」は現代の世間話であるという話になるからであった。

 加藤さんはいう。 日本に「社会」がなかったわけではない。 こんな訳語 がなくても、そのことばによって意味されるものはずっとむかしからあった。  日本語ではそれを「世間」といっていた。

 「社会学」Sociologyという用語のはじまりは1876年、イギリスのハーバー ト・スペンサーの『社会学原理』三巻本だった。 大学でさいしょに正規の学 科目となったのは、アメリカのシカゴ大学で1892年、ヨーロッパではフラン スのボルドー大学が1895年だった。 実は日本が早かった。 外山正一(と やままさかず)は、幕臣としてイギリスに留学し、明治4(1871)年から5年 間アメリカに渡ってミシガン大学で哲学と科学を学び、帰国後は明治10(1877) 年に東京大学が設置されると日本人としてさいしょの教授となった。 担当し た「史学」のなかで、ハーバート・スペンサーの『社会学原理』を講読する「社 会学ノ原理」という講義をおこなった。 外山はアメリカから、エドワード・ モースという動物学者を生物学担当のお雇い教授としてつれてきたが、その友 人のアーネスト・フェノロサもおなじく東京大学にむかえられることになった。  フェノロサは岡倉天心を育て、日本の文化芸術にかかわった人物としても有名 だが、もともとはハーバード大学で政治経済を学び、東京大学で政治学、理財 学(経済学)などを教えた。 フェノロサは同時に「ソシオロジー」も担当し たが、この講義は日本語では「世態学」と訳されていた。 外山正一とフェノ ロサの二者併存の開講からの状況は、明治19(1886)年の「帝国大学令」の 発効までつづき、このとき「社会学」は晴れて独立の学科になった。 おどろ くべきことに、シカゴ大学やボルドー大学に先立つことほぼ十年、これについ ては世界でもっとも先端的な国だった、と加藤さんは指摘している。

 それはさておき、加藤さんは、「社会」というのは、「世間」のことだ、と理 解すれば、べつだん「社会学」などと名づけなくても、われわれはずいぶん以 前から世間を学ぶことを知り、それを日常経験としてきた、という。 「世間 話」こそ、「社会学」の萌芽なのだ。 その世間話のあれこれに興味をもち、そ れをこまやかに記録する伝統にかけては日本は世界で突出していた。 一般に 「江戸随筆」とよばれている厖大な量の雑記録がそれである。 『浮世のあり さま』、松浦静山『甲子(かっし)夜話』、大田南畝『一話一言』、喜多村信節(の ぶよ)『嬉遊笑覧』などなど。 世間話の運搬者、「遊行女婦(ゆうこうじょふ)」 や宗教的布教者たち、行商人などが、たくさんいた。 さらに、ほうぼうを遍 歴し、職業を転々として、数奇な人生をおくった「世間師」がいた。 いまで も現代版「世間師」なのかもしれない「話題の豊富なひと」がいる、落語の横 町の隠居のようなひと、それが市井の「社会学者」なのだ、と加藤さんはいう。

 加藤秀俊さんは、ことし88歳、米寿だそうだが、学問と年齢は関係ないと、 あとがきにある。 私は本日、77歳になった。 まさに隠居だけれど、当<小 人閑居日記>や<等々力短信>も、「江戸随筆」の流れをくむ、昭和平成の「世 間話」の末端をうろついているとすれば、「社会学」なのかもしれないと思って、 ニヤリとした。

九州のカルデラと大噴火2018/04/21 07:05

 『新しい高校地学の教科書』の「姶良(あいら)カルデラ」について記して いるコラム「灰に埋もれた日本列島」には、その前段がある。

 「カルデラの大きさは一度の噴火で放出した物質の量を表している。日本に は世界有数の大きさを持つカルデラがいくつもあり、その大きさから過去に極 端な規模の噴火を何度もしていたことがうかがえる。」

「直径が20kmにもおよぶ九州の阿蘇カルデラは、特に巨大な噴火を5回起 こしていることが、噴出物の調査からわかっている。約9万年前に起きた4回 目の噴火(Aso-IV)では、100立方km以上という途方もない量の物質が噴出 し、おびただしい量の火砕流が九州北部一円を覆った(一部は海を越えて天草 諸島や本州にも達した)。さらに火山灰は北海道の北端から小笠原諸島にまで堆 積した。日本列島全域が阿蘇山の灰に埋まったことになる。」

「(姶良カルデラの)他にも南九州には大きなカルデラを形成するような火山 活動がくり返された。縄文文化が西日本であまり発達しなかったのは、このよ うな激しい噴火の影響も大きかったに違いない。」

『ブラタモリ』「#99鹿児島の奇跡」で、「シラス」と「溶結凝灰岩」(「たん たど石」)は「姶良カルデラ」、「小野石」は「加久藤(かくとう)カルデラ」と いう説明の時に出た地図が、非常にわかりやすかったので、「九州のカルデラ」 で検索をしてみた。 「霧島は竜馬を変えた! 日本を変えた! ~霧島火山編 ~」というホームページにとてもいい地図と、大噴火の年代があったので、ご 紹介しておく。

http://www.miyazaki-catv.ne.jp/~n-satoh/kirishima/kazan3.html