「群星訃2023」「惜別」の加藤秀俊さん2024/01/08 07:15

 訃報も見逃していたので、確かなことは言えないが、加藤秀俊さんの追悼記事や評伝が朝日新聞に出ないのを残念に思っていた。 それが12月27日になって朝刊文化面の「群星訃2023」という追悼をまとめた記事で、ようやく取り上げられたのを読んだ(藤生京子記者)。 見出しは「「大衆」を見つめて 社会をあぶり出す」「アカデミズムのよろい脱いで」。 加藤秀俊さんのほか、米文学・比較文学者の亀井俊介さん(8月18日死去・91歳)と、私はお名前を知らなかった社会学者の立岩真也さん(7月31日死去・62歳)。

 「社会学者の加藤秀俊(9月20日死去・93歳)が大学のゼミで流行歌の分析を始めた戦後まもない頃、大衆文化研究は「まとも」とはみられていなかったという。それが1954年に留学した米国は一転、自由闊達な議論であふれていた。迷わず進路を決めた。

帰国後の57年、「中間文化論」を発表し、高級文化と大衆文化のあいだの新しい動きをとらえて注目された。メディア、人間関係、教育に未来学まで関心は幅広かったが、80歳を過ぎて恩師D・リースマンの「孤独な群衆」を改訳するなど大衆文化論はライフワークだったのだろう。それだけに、手厳しくもあった。「社会は誰が動かせるわけでもないよ」と、諦念めいた発言が耳に残っている。」

亀井俊介さんの鶴見俊輔さんとの共著『アメリカ』(文藝春秋・1980年)は、書棚のどこかにあるはずだ。 「亀井俊介も大衆文化研究への接近は米国体験だ。ホイットマンを研究した59年の留学の10年後。ベトナム反戦や公民権運動を機にした「文化革命」に刺激を受けた。/73年に再び渡米、各地を旅しながらサーカス、西部劇、ターザンなどの資料を集め、調べた成果が「サーカスが来た! アメリカ大衆文化覚書」である。アカデミズムのよろいを脱いだ自由な筆致は、エッセーとしても高く評価された。」

6日に、ここまで書いたら、朝日新聞夕刊「惜別」に「名文家で知られた社会学者 加藤秀俊さん」「妻へのみやげは『ラブレター』」が出た。(桜井泉記者) 「まがうことなき知の巨人」、「無境界主義の教養人」。近しかった人たちは、そんな言葉で見送った。戦後日本の大衆社会を分析し、メディア研究者としても活躍。教養書では芸能や人生論を平易な文章で論じ、テレビや講演で好評を博した。」

ボーーッとしている時、アイデアを思いつく?2023/12/30 07:03

 いつだったか、「チコちゃんに叱られる!」で、「ボーーッとしている時、アイデアを思いつくのは、なぜか?」というのをやっていた。 机に座って、アイデアをひねり出そうなどと踏ん張っている時には出てこないで、外を歩いている時などに、ふとアイデアが浮かんで来るというのである。 当方、もっぱら「ボーーッとしている時」が多いので、これは有難いと思った。

 「デフォルトモード・ネットワーク」というのがあるそうだ。 例えば、車でエンジンはかかっているが、走っていない状態。 記憶の整理は、脳の前頭前野という場所で行っている。 記憶の保管場所は大脳皮質にあり、そこから前頭前野に記憶を取り出すことになる。 緑の中にいたり、手足を使ったりしている(デフォルトモード)と、勝手に記憶を取り出すので、あらゆる記憶が結びつく(ネットワーク)のだという。 それが机上では、平凡なアイデアしか生まれない。

 前頭前野は、ワーキングメモリー、反応抑制、行動の切り替え、プランニング、推論などの認知・実行機能を担っている。 老化に伴って最も早く機能低下が起きる部位の一つでもあるという。

 落語を聴いていて、実はメモを取っている。 A4を三度折った小さな紙に、鉛筆で。 先日は、隣に座った女性が気付いて、驚かれた。 全部を書くわけにいかないので、ポイントになる言葉やセリフを、点メモにする。 都々逸など、続けて三つとか、面白いのをやられると、ワーキングメモリーが限られているので、最初の一つは書けても、次のは忘れることがある。 出だしの文句だけでも、書いておけば、後で調べられるのだが…。 限られているというワーキングメモリーが、老化でさらに小さくなっているかもしれないと思う、今日この頃である。

 たまたま、櫻井芳雄さんの『まちがえる脳』(岩波新書)という毎日出版文化賞受賞の本の広告を見たら、「人はまちがえる。それは脳がいいかげんなせい。しかし、だからこそ新たなアイデアを創造し、高次機能を実現し、損傷から回復する。脳の実態と特性を、最新の研究成果をふまえて解説。俗説も正面から撃破。心とは何か、AIとは本質的に異なる真の姿に迫る。」とあった。

 「ボーーッとしている」のは、幼時の昭和20年5月24日未明の空襲で助かった時以来のことだから、80年になる。 せいぜい「ボーーッとして」、面白いアイデアを少しでも思いつければと思っている。

「英学者としての小幡篤次郎」、societyの訳語2023/12/20 07:09

 そこでまず、「小幡篤次郎の再発見」の5回目、池田幸弘さんの「英学者としての小幡篤次郎」である。 『小幡篤次郎著作集』第三巻所収の『英氏経済論』(英氏はフランシス・ウェーランド。私は2020年12月2日の福澤先生ウェーランド経済書講述記念講演会で、当時経済学部長だった池田幸弘さんの「福澤諭吉と経済という言説:新旧両理念のはざまで」を聴いていた)で、小幡の訳業の特質を考える。 巻の一から巻の三までは、明治4年刊行開始で、文体は漢字カタカナまじり文。 三の途中までは、やや特殊な振り仮名が頻出する。 巻の四から巻の六までは、明治6年8月刊行開始で、振り仮名は激減。 巻の七から巻の九までは、明治10年10月刊行開始で、振り仮名は激減。

 頻出するやや特殊な振り仮名というのは、「財本」に(モトデ)、「勤労」に(ホネオリ)といったもの。 小幡自身が本書の凡例で、振り仮名は初学者の「記憶」を助けるためのもので、訓ではなく音で読み下すよう述べている。 訓の振り仮名、例えば(ホネオリ)は意味を伝えるもので、読み下す時は音で「キンロウ」と読めという、諸文献でいわれている二重表記に近いともいえる。

 早川勇氏は『ウェブスター辞書と明治の知識人』(春風社・2007年)で、英和対訳袖珍辞書、英和字彙、西周の三者を比較した結果、それぞれの段階に大きな断絶があることを明らかにした。 例えば、actを、袖珍は仕業、働ラキ→字彙は所業(シワザ)、行為(オコナヒ)→西周は行為とし、行為が定着していく。 小幡のスタイルは英和字彙に近いが、現在時点から評価すると、勝利したのは、漢字のみで振り仮名のない西のスタイルである。

 経済関連用語の小幡訳「」を、現代の訳語[]と比較する。 individual「一人」・[個人] society「一国」・[社会] science「学」・[科学] capital「財本」(もとで)・[資本] wages「工銀」(てまだい)・[賃金] company「社中」・[会社]

 福沢にも『英氏経済論』の抄訳があり、societyを「一国」と訳しており、当時「一国」と訳すのは一般的だったのか、という話があった。 私は、福沢が初めsocietyを「人間交際(じんかんこうさい)」と訳していたと聞いていたので、「一国」との時期の関係を質問させてもらった。 西澤直子さんから、後年の女性論の頃にも「人間交際」も使っていたというコメントがあり、平石直昭さんからは「覚書」で「社会」を使っていることを教えていただいた。 帰宅して、「覚書」を探したら、明治10年の西南戦争を書いた直前に、それらしいのがあった。 「人間社会、最上の有様は知る可(べか)らず。唯、今の社会の有様の宜(よろ)しからざるを、論ずべきのみ。 Positive knowledge of the best form of society is impossible. We know only what it ought not to be.」

 『福澤諭吉事典』のVことば・3社会の「人間交際」によると、「人間交際」の初出は、『西洋事情』外編(慶応4年)で、「人間交際の大本」は「自由不羈(ふき)の人民相集(あつまり)て、力を労し、各々その功に従(したがい)てその報を得、世間一般の為めに設けし制度を守ることなり」とある。 さらに、当時の日本には「社会」に当たる概念がなかったことから、『西洋事情』では文脈に合わせて、「交際」「交(まじわり)」「世人」といった語も用いられている。 その後、福地源一郎によって「社会」という訳語が生まれ、福沢はしばらく「社会」と「人間交際」を併用したが、「人間交際」は次第に用いられなくなった、とあった。

ヘンリー・キッシンジャーさんと加藤秀俊さん2023/12/05 07:05

 ヘンリー・キッシンジャー元米国務長官が11月29日、コネティカット州の自宅で死去した。 100歳だった。 1970年代に歴史的な米中接近やベトナム和平を推進した人だ。 それで、思い出したことがある。 加藤秀俊さんが『九十歳のラブレター』に書いていたことだ。

 加藤秀俊さんは一橋大学を卒業してまもなく、大学の掲示板で京都大学人文科学研究所の「助手採用公募」の広告を見て、応募する。 あれこれアルバイトをしていたなかで、もっとも知的でたのしかったのが、「思想の科学研究会」という団体の機関誌「思想の科学」編集のお手伝いだった。 その雑誌の実質的編集長は鶴見俊輔さん、加藤さんより5年ほど年長の多田道太郎さんが副編集長格で活躍していた。 鶴見さんは京大人文研の助教授、多田さんは助手、京都在住だから、毎週のように京都と東京を往復していた。 そのたびに加藤さんは、いろいろと教えられ、このおふたりに共通していたのは東京のアカデミズムからはまったくかけ離れた自由な発想で、そのことにいつも敬服していたから、「人文科学研究所」という名前にはしたしみとあこがれをもっていた。 加藤さんは、この助手公募試験に合格し、京都大学人文科学研究所に就職した。

 それからそこに一年もいたかいないかで、昭和29(1954)年、ハーバード大学の「国際夏期セミナー」に応募して、合格、渡米する。 セミナーの期間は8週間だったが、参加したら、加藤さんはアメリカという国にすっかり魅了されてしまった。 大学での知的刺激もさることながら、この国と文化がおもしろくてたまらなくなった。 すると、「よかったらあと一年ほどアメリカで研究したらどうかね」と声をかけてくれたハーバードの助教授がいた。 このセミナーを企画した人物で、その名をヘンリー・キッシンジャーといった。 加藤さんが即座に「イエス」と答えた。 やがてキッシンジャー助教授は「話はきまった、明日でもニューヨークにいってきなさい」といって、鉄道のキップとマンハッタンにある訪問先の地図と電話番号のメモを手渡してくれた。 ニューヨークの訪問先はロックフェラー財団、担当の女性はたいへん知的で愛想のいい人で、「よかったわね、さあ、これが今月分、来月からは郵送するわ」と、ほほえみながら300ドルの小切手を手渡してくれた。

 となると問題は、結婚目前になっていた彼女のことだった。 2か月ほどと渡米したのに、いきなり滞在を大幅に延期してしまったのだ。 思い切って彼女をアメリカによび、ここで結婚しよう、と無謀なことをかんがえ、そのことをキッシンジャー先生に相談すると、「それじゃ、どうにかかんがえよう」と、彼女をボストンまで呼び寄せる手段や手続きをととのえてくれた。 加藤さんも若かったが、のちアメリカ合衆国国務長官という要職についたキッシンジャー先生も若かった。 親身になってふたりのことを気づかってくれたのである、と加藤さんは書いている。

内藤湖南は今、何を語りかけるのか2023/11/28 07:02

 「大体人類が作り出した仕事の中で政治軍事などは最も低級なものであるが、日本がいま政治軍事において全盛を極めているのは国民の年齢としてなお幼稚な時代にあるからである。中国のように長い文化を持った国は、政治に興味を失って芸術に傾くのが当然のことである。今や東洋の中心となった日本が中国に代わってその政治や軍事を行ってもなんら不思議ではない。」(「新支那論」)

 高橋源一郎さん…これは困ったもの、侵略を正当化しているように読めて「つまずきの石」になる。中国は古い大国で、蘇らせるためには他者の刺激が要る、かつては匈奴や元、今回刺激を与えるのは日本という立場。

 岡本隆司教授…中国文化、東洋文化にたいへんなリスペクトを持つ。中国が先進国で、宋代に近代を実現している。得意な若い奴(日米)に政治軍事を任せて、落ち着いた人(中国)は芸術に打ち込む。今日的常識から言えば侵略だが、協力し合っていくべき日中の関係が悪くなっていく。中国にも、日本にも絶望している。

 高橋源一郎さん…切羽詰まっている。大正から昭和にかけて、アメリカと戦争するのかという機運が、知識人に生れた。やむにやまれずに、敢て書いた。

 湖南は大学を退職して、京都 瓶原(みかのはら)、木津川市、奈良との県境に、終の棲家「恭仁(くに)山荘」を建てる。 蔵書を大切にして、コンクリートの書庫に5万冊を収めて、学問をする者は、ここに来いと。

 昭和6(1931)年、満州事変。 満州国建国、溥儀皇帝。 湖南は日満文化協会の設立に貢献した。 湖南は癌に蝕まれていたが、満州国国務総理鄭孝胥(ていこうしょ)が山荘を表敬訪問したのと会談、2か月後に亡くなった。

 湖南は知人に「日本人の力と熱をもってすれば、必ず一度は中国大陸を支配するでしょう。しかし底知れぬ潜勢力を持っている中国の土地と人民を到底長く治めきれるものではありません。中国を支配したために日本は必ず滅びます」と、語っていた。 京都大学に近い法然院に葬られた。 辞世の句「わがからをたからとおしむひとはあれど我がたましひをいかにせんとか(どうすればいいのか)」 日中戦争勃発は、3年後のことだった。

安田峰俊さん…中国共産党は皇帝独裁体制をある程度改善した。今、ITで個々の国民を把握できる。「皇帝独裁2.0」が、今の中国。

 高橋源一郎さん…日清戦争が日本最初の自己認識だった。外に鏡がないと人間成長しない。中国は日本人の鏡。1945年までそれで来て、戦後薄くなって、今また妙な濃さで迫って来た。それをどう考えるか。真剣に考えて、湖南の考え方を一度通過して見ることが必要だと思う。パールバックの『大地』が出て、日本には中国の民衆を描いた小説が皆無に等しかったことに気づいた。圧倒的多数である農民を詳しく書いた人がいたか。つまり、一般民衆のことは無視だった。中国を本当に知っているのか。何かを知るのは、本当に大変。

 岡本隆司教授…今こそ中国を知るべき時。湖南が重視したのは、歴史の原理を知ること、昔からどう変わっているのか。

 磯田道史さん…明治大正の日本を指して、ようやく我々は宋代にやって来たと、湖南は書いた。ドキッとした。宋代はエリートを試験で選ぶ。内容は四書五経と詩、あんまり生産につながらない。金持が子供に実の役に立たないものを教えて、科挙を通らせようとする。それを反復していって明清の時代にまずいことになった。日本もひょっとして、宋代から、平成令和と、明清の時代に入っているんじゃないか。