なだいなださんの福沢諭吉、門閥制度 ― 2025/03/01 07:08
なだいなだの、堀内秀さんは、敗戦後、麻布中学に復学、慶應義塾大学医学部予科に進み、精神科の医者になった。 なだいなださんの『江戸狂歌』の109頁に、福沢諭吉が出てきた。
「福沢諭吉によると、封建時代の人間は、たくさんの引き出しのあるたんすにしまいこまれ、整理されているようなものであり、いくらたんすを揺すっても、下の者が上になるというような可能性は、まずなかった。下の者はいつまでも下の者であり、上にはい上がることは、あきらめねばならなかった。」
これが、福沢のどこにあるのか。 「引き出し」や「たんす(箪笥)」という言葉からの、記憶がなかったので、まず『旧藩情』に狙いをつけて、『福沢諭吉選集』第十二巻で読んでみることにした。 明治10(1877)年5月に執筆された『旧藩情』は、旧中津藩士族の身分階級による差別の実態、それによる人情、風俗、気風、ことばづかいの相違にいたるまで、ことこまかに分析している。 そして、このような士族の上下対立の状況をそのままにしておくと、廃藩置県の新しい社会秩序に取り残されてしまうだろうから、もっと郷党の間で学問教育を盛んにし、また上下士間の通婚を盛んにして、旧藩士人の上下融和、共存共栄の道を図らなければならないと説いている。
学問教育については、明治4(1871)年末に福沢の提言で中津市学校が設立され、この頃までに「関西第一の英学校」とまで称される成功を収めていたので、華族による学校設立を説いていた。 上下士間の通婚については、「世の中の事物は悉皆先例に倣ふものなれば、有力の士は勉めて其魁(さきがけ)を為したきことなり」「旧藩社会、別に一種の好情帯を生じ、其効能は学校教育の成跡にも万々劣ることなかる可し」と、結末に書いている。
文久元(1861)年冬、禄高13石二人扶持の下士だった福沢は、禄高250石役料50石の中津藩上士江戸定府用人の土岐太郎八の二女錦(きん)と結婚した。 富田正文さんの『考証 福澤諭吉』には、「身分ちがいで、本来なら婚嫁のできない間柄であり、また若い藩士たちの間では、お錦が評判の美人であったので、嫉妬もあったであろう、なかなかやかましい物議があったという。しかし太郎八は深く諭吉の人物を信じ、ちょうどこのとき病んで危篤に陥ったが、この結婚をさせることを固く遺言して瞑目したという。」とある。 『旧藩情』の記述には、自身の結婚への自信が裏打ちされているのだろう。
ところで、『旧藩情』を読んでも、「引き出し」や「たんす」は、出てこなかった。 そこで私は、『福翁自伝』の「門閥制度は親のかたき」のところを読むことにした。 最初から、ここを読めばよかったのだ。 遠回りしてしまった。 父の百助が、この子は十か十一になったら寺へやって坊主にすると、毎度母に申していたと聞いたという箇所に、「わたしが成年ののちその父のことばを推察するに、中津は封建制度でチャント物を箱の中に詰めたように秩序が立っていて、何百年たってもちょいとも動かぬというありさま、家老の家に生れた者は家老になり、足軽の家に生れた者は足軽になり、先祖代々家老は家老、足軽は足軽、その間にはさまっているものも同様、何年たってもちょいとも変化というものがない。ソコデわたしの父の身になって考えてみれば、到底どんなことをしたって名を成すことはできない、世間をみればここに坊主というものが一つある、なんでもない魚屋のむすこが大僧正になったというような者がいくらもある話、それゆえに父がわたしを坊主にするといったのは、その意味であろうと推察したことはまちがいなかろう。」とあった。
なだいなださんの「引き出し」や「たんす」の出典は、「チャント物を箱の中に詰めたよう」だったのだろうと、私は推察したのだった。
出版が商売として成り立つようになる江戸時代 ― 2025/03/02 07:48
2月28日の「教養とは何か、本居宣長と上田秋成」は、『江戸狂歌』の第五章「教養とは何かを考えさせられる」に依った。 狂歌の笑いは、作者の教養と読者の教養が木霊(こだま)しあって生まれるので、ある時代の狂歌を読むと、その時代に住んでいた人たちの教養の水準を知ることができるというのだ。
四方赤良(よものあきら・蜀山人(しょくさんじん))の作に、こういう歌がある。 鶉(うずら)を一羽とり二羽とりして焼き鳥にして食べているうちに、深草の里には鶉が一羽もいなくなってしまったよ、というのだ。
ひとつとりふたつとりては焼いて食ふ 鶉なくなる深草の里
これは、藤原俊成の、次の歌のパロディーである。
夕されば野辺の秋風身にしみて うずらなくなり深草の里
狂歌のパロディーが成り立つためには、元の歌が当時、広く世間に知られていなければならない。 このような仕掛けで笑った人間が、町人に多かったとなれば、それは町人層の教養の水準を示しているわけである。 かなり高い水準といってよかろう。
では、どうして、そうなったのか。 日本の印刷術は一方ではキリシタンたちが持ち来たしたものである。 他方秀吉の朝鮮侵略時にも朝鮮からもち帰られた、朝鮮の活字印刷術の影響で、印刷術は徳川の初期に大いに発達した。 まず最初に経典の類が出版され、次が、公式の儒学の教科書で、そのあとで文学の本が出る。 当時の大衆は、あらそって古典的な文学作品を買い求めた。 古典が大量に出版され、出版が商売として成り立つと、資本が出版業に集まるようになる。 それに連れて、小説本なども出版されるようになった。 本居宣長の『古事記伝』が成功したのも、そのような背景があったからだ。 こうして、いわゆる作家が職業として成り立つ時代が、到来したのである。 平賀源内たちの現れたのは、ちょうどそのころだった。
この印刷術の話で、蔦屋重三郎の『吉原細見』などの、細かい木版摺りの技術には驚くばかりであるが、私は江戸時代の出版物が木版印刷だったことを、ほとんど意識していなかった。 福沢諭吉の『学問のすゝめ』にも、初めのうち、木版印刷のものがあったのを聞いたことがあった。 (つづく)
福沢の出版事業の自営、「福沢屋諭吉」 ― 2025/03/03 07:06
富田正文先生の『考証 福澤諭吉』上「出版事業の自営」に、慶応2(1866)年『西洋事情』初編に関して、当時の出版の慣行の説明があった。 「著者が原稿を書き上げると、書物問屋(今日の出版業者)がこれを引き受けて、そのアトは版下書き(原稿を版木に掛けるための清書)、版木彫り、版摺り、製本という順序であるが、それらは一切書物問屋が取りしきって、著者は僅かに版下の校正にタッチするだけで、値段のつけかたも売り捌きも一切関係せず、ただ書物問屋のいうがままに「当合(あてがい)扶持」の金を受け取るというのが、長い間の習慣であった。」
『考証 福澤諭吉』に、福沢が『西洋事情』外編3000部の収支計算をしているのがある。 (支出)版木草稿代金1000両、3000部製本料750両(1部に付1歩)、計1750両。 (収入)3000部代金2250両(1部に付 価1歩)、書林に渡し 二割引450両、計1800両。 つまり3000部売って50両の利益があり、それ以上売れた分については、その版元の収入になるという計算である。
福沢諭吉は、こんな扱いに黙っているような人間ではなかった。 数寄屋町(現在の日動画廊付近)の紙問屋鹿(加)島屋から土佐半紙を千両の即金で買いつけて、芝新銭座の慶應義塾の土蔵に積み込み、次に書林(書物問屋)から版摺り職人を貸してもらい、何十人も集めて仕事をさせ、その職人から業界の内部事情を聞き出し、版木師や製本仕立師も次々と引き抜いて、最終的には全工程を福沢の直轄下に組み込むことに成功する。 その一方で既得権益を侵害された書林から苦情を言う者も出てきたので、『西洋事情』初編の版元だった芝神明前の書林、尚古堂岡田屋嘉七を証人として、明治2(1869)年書林の問屋仲間に加入した。 そのときの屋号が、「福沢屋諭吉」である。 (つづく)
木版から活版印刷へ、福沢の著書と、近代印刷の父・本木昌造 ― 2025/03/04 07:06
木版印刷が、活版印刷になった時期は、いつ頃だったのか、気になった。 『福澤諭吉事典』のIII「著作」に「著作単行書一覧」があり、「印刷技法」と「形態」の欄がある。
万延庚申(万延元(1860)年)の『華英通語』から始まり、『西洋事情』初編(慶応2(1866)年)、『西洋事情』外編『雷銃操法』『西洋旅案内』『条約十一国記』『西洋衣食住』(慶応3(1867)年)、『兵士懐中便覧』『訓蒙窮理図解』(慶応4(1868)年)、『掌中万国一覧』『英国議事院談』『清英交際始末』『洋兵明鑑』『頭書大全世界国尽』(明治2(1869)年)、『啓蒙手習の文』(明治4(1871)年)まで、全てが木版印刷(和装・半紙本が多く、一部大本、中本、小本)である。
『学問のすゝめ』(二編登場以降「初編」と呼称)は、中津市学校に学ぶ青年に向けて明治4(1871)年12月に活版印刷(洋装・四六判)で刊行され、好評を博したが、その活版印刷は紙型による鉛版印刷が未発達で大量印刷に不向きであったため、5(1872)年6月に木版印刷(和装・小本)に改められている。 『学問ノスヽメ』初編として、明治6(1873)年4月木版(和装・中本)で刊行、二編が同年11月木版(同形態)で官許出版、三編が同年12月木版(同)で官許出版されている。 そして四編と五編が、明治7(1874)年1月に活版(和装・中本)で刊行された。 だが、六編は同年2月に、七編は3月に、活版と木版の両方(和装・中本)で刊行されている。 同年4月の八編と、5月の九編は、活版のみで、6月の十編は木版のみ、7月の十一編は活版のみ。 12月の十二編と十三編から、明治8(1875)年3月の十四編、明治9(1876)年7月の十五編、8月の十六編までは、木版のみ。 11月の十七編は、活版のみで刊行された。 明治13(1880)年7月、『学問のすゝめ』として一編から十七編まで一冊にまとめられ、活版(洋装・四六判)で出版された。
日本の活版印刷の歴史を、日本印刷産業連合会の「日本における近代印刷は本木昌造で始まった」というホームページで見てみた。 安政3(1856)年、オランダから船で持ち込まれた印刷機と活字で長崎奉行所は活字判摺立所を開設、オランダ通詞の本木昌造は取扱掛に任命され、実際に、和蘭書や蘭和辞典の印刷に取り組んでいた。
安政4(1857)年、オランダに造船を依頼した咸臨丸に乗ってやってきた活版印刷技師が、寄港地長崎・出島に印刷所を設置、持って来た印刷用資機材で蘭書を何冊か印刷した。 本木昌造が感銘し、オランダ貿易商人から印刷用資機材を買い、研究に没頭、片仮名邦文の鉛活字をつくることに成功、自分で書いた本(蘭和辞典)を印刷した。
本木昌造は、明治に入って早々の明治2(1869)年、活版伝習所を開設した。
活版印刷の歴史に、福沢と縁の深い「咸臨丸」が登場したのが、興味深かった。
春風亭喜(七が三つ)いちの「井戸替え」 ― 2025/03/05 07:08
2月28日は、第681回の落語研究会。 パソコンで、七が三つの、喜が出ない。 紫の羽織、濃茶の着物。 士農工商の世、士のトップ、殿様は跡取りを残すことが大事だったので、お妾さんを何人も許される。 駕籠に乗った殿様が、きれいな女の子を見つけて、「あの娘がいい」というと、家来は「ハハァー」と、歌舞伎町のスカウトマンのように動き回って、苦労する。
「そこの男」と、井戸端に、フンドシ一つでいるのに、声を掛ける。 「何です、おじさん」、何をしているかって、豆腐屋の倅がいたずら者で、釣瓶の縄を落とした。 今月の月番なので、取ろうとしている。 だけど、井戸の中はツルツル滑る。 豆腐屋の倅は、長屋の厠の金隠しの上に、ブリの頭を載せておいた。 厠に入った糊屋の婆さん、おきんさんが、それを見て驚いて、ひっくり返って、肥溜にドボン。 上がってきた婆さん、お久し振りと声をかけ、あら見てたのネーと。
お前は、話が長いな。 何の用です、お武家様が…。 家守(やもり)はどこだ? 昨日は長屋の壁を這っていたけれど。 家守は、家主、大家のことだ。 バテレンの言葉で? お武家様は、バテレンですか。 大家なら、角の荒物屋で。 物を安く売るように言って下さい。 大家に、何か粗相があったら、そのお腰のもので、天誅を!
井戸の所で釣瓶の縄を取ろうとしている男に聞いたが、その方が家守であるか。 豆腐屋の倅がいたずら者で、べらべら、べらべら……。 糊屋の婆さん、おきんさんの一件は、承知しておる。 当家の殿様が最前、そこを駕籠でご通行になって、十七、八の見目好き娘をご覧になった。 お鶴でございますか。 三年前に親父を亡くして、母の面倒を見ておりますが、何か、粗相がございましたか…、馬鹿な娘でして、ほんの十二で。 それがしは、丸之内の赤井御門守の家臣で、赤熊団十郎と申す。 感心な娘、利発で、今年十八になります。 最前、十二と申したではないか。 殿様のお目にとまって、屋敷にご奉公となれば、支度金も希望通り、殿様のお手がついてお世継ぎでも産むことになれば、大変な出世をすることになる、話をしてくれぬか。
お鶴のおっ母さん、こっちに入りな。 兄が一人、博打ばかりしているヤクザな倅がいる。 私は歯が悪いので、お鶴が食べるものを細かく刻んでくれる。 お鶴を、お屋敷にご奉公につかわせられないか。 有難いことで。 三年前に死んだ父親の俗名治平、戒名覚久安妙居士も、熊本の清正公様の御蔭と喜んでおりましょう。 喜んで承知いたします。 兄にも、承知してもらわねばならない。 話を、お前からしてくれ。 八公を、呼んで来な。 急げ! 井戸の直しに、今月の月番なので、行っている。
大事な話がある。 さっきの、バテレンのお武家様で。 兄というのは、そちか。 ご縁があって、お鶴がお屋敷にご奉公に上がることになる。 これから長い話になる、発端というお噺で……。
ご存知「八五郎出世」「妾馬(めかうま)」の発端である。 余りやらないので、落語研究会でも、聴いたことがなかった。 なぜ「八五郎出世」を「妾馬」というのか。 だいたい八五郎が殿様にご馳走になって「珍歌があるか」などと言われ、「殿公!」などと呼びかけるところで終わるけれど、前段に「井戸替え」があるように、後段があるのだった。 宇井無愁『笑辞典 落語の根多』(角川文庫・昭和51年)によると、こういう噺だ。 士分に取り立てられた八五郎が、乗りつけぬ馬に乗って城下を行くと、馬がバカにして勝手に走り出す。 八五郎蒼くなって鞍にしがみついていたら、通りがかりの家中の者が「八五郎殿、いずれへ参られる」「どこへ行くか、馬にお聞きくだされ」。
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