荻生徂徠、その評価も二分される2024/02/22 06:57

 12日に発信した、元禄地震 房総沖巨大地震と大津波<等々力短信 第1176号 2024(令和6).2.25.>に、柳沢吉保が「異例の昇進により悪辣な策謀家とされるが、善政で領民に慕われ、綱吉の好学に添い学問・教養の面でも優れていた」と評価が二分されていることを書いたが、柳沢吉保に仕え『楽只堂年録』をまとめたという荻生徂徠もまた、その評価が二分される人物だった。 2015年のこの日記に、入船亭扇辰の「徂徠豆腐」という珍しい落語を聴いたり、磯田道史さんの『無私の日本人』(文春文庫)「中根東里(なかね とうり)」を読んで、下記を書いていた。

扇辰の「徂徠豆腐」前半<小人閑居日記 2015.3.16.>
扇辰の「徂徠豆腐」後半<小人閑居日記 2015.3.17.>
天才儒者・中根東里、知られざる大詩人<小人閑居日記 2015.7.2.>
磯田道史さんの荻生徂徠像<小人閑居日記 2015.7.3.>
天下一、名高い浪人・細井広沢のことなど<小人閑居日記 2015.7.4.>

 落語「徂徠豆腐」は、浪人して尾羽打ち枯らしていた頃の徂徠が、芝増上寺の門前の豆腐屋、上総屋七兵衛に借りていた豆腐おから代を、のちに豆腐屋が火事で焼けた折に、出世していて、店普請して返すというおめでたい噺だ。 磯田道史さんは、天才儒者で知られざる大詩人である「無私の日本人」中根東里から見た荻生徂徠を、生まれつき政才を持った政治臭のある学者で、肝心の学問のなかに、はったりがあった、という。

 私はその時、荻生徂徠について、何も知らないがとして、こんなことを書いていた。
「2014年12月『福澤手帖』第163号の「青木功一著『福澤諭吉のアジア』読書会に参加して」に、講師の平石直昭東京大学名誉教授が質疑応答の中で儒学についての質問に、こんな興味深い見解を述べられたと、こう書いた。 「勝海舟は本物の儒学者ではない、福沢は本物の洋学者。日本に近代を樹立したのは荻生徂徠で、人類史、文明史全体を括弧に入れ、人類の文化の外に出た。儒教的枠組みをとっぱらって、事物そのものを見た。陰陽五行説は、聖人が作り出したもの。蘭学(福沢のやった)も、国学も、学問の方法としては、徂徠学から出ている。最近の中国でも戦略家は『春秋左史伝』を参考にしているのではないか。福沢は『春秋左史伝』が得意で全部通読し、十一度も読み返して面白いところは暗記していたと『自伝』にある。」」

あらためて荻生徂徠を事典などで見ると、『ブリタニカ国際大百科事典』の説明が、私にもわかりやすかった。 「その学問は政治社会に対する有用性を眼目としており経世在民の儒学と概括することができる。初め伊藤仁斎に私淑するがやがて終生の対決者となる。それは徂徠の側での感情的な問題もあるが、根本的には考え方の相違による。徂徠にとって道は中国の古聖人の制作になる利用厚生の道、礼楽刑政の道であって、客観的な制度、技術つまり「物」である。それは仁斎や朱子におけるように主観的でとらえどころのないものとは異なる。道が客観的な物であるがゆえに統一的な政治社会が成立する。徂徠は朱子とともに仁斎の内面的な道徳性による社会の基礎づけを根拠のないものとして退ける。道徳的な優越者という一般的な聖人理解を排し、制作者として聖人をとらえるところにも、経世在民の学であることを目指した徂徠学の性格をみることができる。このような制度文物としての道になにゆえ従わなくてはならないかを明らかにする方法として、制度文物とおのおのの時代状況との連関を問う古文辞学が位置づけられる。そこに歴史的実証的な態度がうかがえるがその究極には聖人への帰依が控えていることを忘れてはならない。徂徠は政治社会の統一と安定を目指したが、それは大本を確固とすれば個々の事象についてはそれぞれの個別性を容認していた。したがって公的な側面に対する私的な側面、特に詩文の領域は尊重された。徂徠の学風のこの面もきわめて重要である。徂徠の学風は古文辞学の方法と相まって国学の成立に大きな影響を与えた。」

 (古文辞学(こぶんじがく)…荻生徂徠が唱えた学問。聖人の教えを理解するには古文辞(古代中国語)で読解すべきとして、朱子学や仁斎学を批判。)

江戸っ子の月見の名所「月の岬」2024/02/10 07:14

 そこで御田小学校「岬門」の「岬」の件であるが、亀塚や済海寺が面した丘の上の道は、御田小学校の入口から、この後行った旧高松宮邸前、高野山東京別院を経て、高輪台方面へと続く。 この台地の稜線は江戸時代、「月の岬」という名で、月見の名所として知られていた。 「ウィキペディア」の「月の岬」は、月の見崎ともいい、「東京都港区三田四丁目付近である台地の一角を指した地名。名称としての用法は明治中後期には廃れている。」としている。 御田小学校は、まさしく東京都港区三田四丁目にある。

 「ウィキペディア」は、「月の岬」の名前の由来として、4つの説を挙げている。 (1)慶長年間、徳川家康が名付けた。(2)三田台町一丁目の高札場付近を名付けた。(3)元は伊皿子大円寺境内の名であったが、転じてそのあたりの名称とされた。(4)三田済海寺の総名(総称)であった。 (伊皿子大円寺は曹洞宗寺院、慶長8(1603)年赤坂溜池のあたりに徳川家康が開基となって創建し、寛永18(1841)年伊皿子に移転、寺号を大渕寺から大円寺に改号、島津家の江戸菩提寺などとして栄え、維新後の明治41(1908)年杉並区和泉に移転した。)

 浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」というブログの第96回に、『月の岬』というのがある。 歌川広重『名所江戸百景』第八十二景「月の岬」、広重著『絵本江戸土産十編』のうち第二編(1851(嘉永4)年頃刊、国会図書館蔵)より「同所(高輪)月の岬」の、二つの絵を見ることができる。 https://www.nippon.com/ja/guide-to-japan/gu004096/

 『名所江戸百景』第八十二景「月の岬」は、品川宿の廓の座敷から、江戸湾に浮かぶ満月を望んでいる。 「月の岬」は、江戸湾に月が浮かぶと、海岸線と高台の稜線が岬のように望める場所で、江戸っ子には月見の名所として知られていた。 正確な場所には諸説あるが、大まかには現在の港区高輪から三田にかけての台地の一角を指すようだ、とある。

 『絵本江戸土産十編』の第二編「同所(高輪)月の岬」は、品川駅の南にあった高台「八ツ山」(後に、海辺の石垣整備、目黒川洪水の復旧など土木工事のために崩したが、地名は残る)の南から、高輪、芝浦の海岸線を望んでいる。

 前者の浮世絵は、広々とした妓楼の座敷の外に、満月が高輪沖を照らし、雁が鉤の手の編隊で飛び、停泊している無数の船がシルエットで浮かぶ。 座敷の中は閑散としているが、奥には手を付けていないマグロの刺身と、扇子や手拭、煙管入れと煙草盆が見え、廊下には食器や酒器が雑然と置かれている。 左端には、障子に遊女の陰が映っていて、その着物の裾だけが見えている。

 品川宿の廓のことは、落語「品川心中」「居残り佐平次」などで、おなじみだ。 当日記でも、五街道雲助の「品川心中(通し)」上中下を2016.11.29.~12.1.で、古今亭志ん輔の「居残り佐平次」前・後半を、2013. 2. 18.~19.と、2018.7.3.~4.の二回で読んでもらえる。

 浮世写真家 喜千也さんは、品川宿の廓の大見世といえば、「土蔵相模」と呼ばれた「相模屋」であり、安政7(1860)年3月3日、「桜田門外の変」を起こした水戸浪士たちも、その3年後の文久3(1863)年12月12日には、長州藩の高杉晋作、伊藤博文(俊輔)らが、「英国公使館焼き討ち事件」の現場へと、この「土蔵相模」から出発したという、歴史を記している。

「森宗意軒の妻」、島原・天草一揆2024/02/05 06:58

 「深山隠れ」の最後に出て来る「森宗意軒の妻」だが、プログラムの田中優子さんの「新・落語掌事典(二四七)」で、知ることが出来た。

 この噺「深山隠れ」は、もともと辻噺(大道講釈)で、長編なので三回ほどに分けて演じられていたようだ、という。 たまたま、私の日記も上中下の三回に分けていた。 講釈は、史実をもとにする。

 森宗意軒というのは、島原・天草一揆で刑死した人物で、肥後のキリシタン大名の小西行長に仕えていた武将である。 島原・天草一揆で一揆側の惣奉行、目付、兵糧奉行だった。 この戦いが島原藩主松倉勝家による過酷な年貢徴収とキリスト教徒に対する拷問・処刑および、唐津藩寺沢堅高のおこなった石高偽造による重税など、常軌を逸する苛政に対する百姓一揆であったことは、一揆後に松倉勝家が斬首、寺沢堅高が自害とお家断絶の処罰を受けたことからもはっきりしている。 にもかかわらず幕府は全国の武士を集めて原城に籠城した三万七千人の庶民を殲滅した。 彼らは全てがキリシタンだったわけではない。 恨みがずっと続いたのは当然だった。 と、田中優子さんは書いている。

桂吉坊の「深山隠れ」下2024/02/04 08:02

 源吾が、被衣高足駄で、カランコロン、カランコロンと、戸を開けると。 お帰り、お帰りあそばせ。 首切ってちょうだいとばかり、二列に並んで頭を下げている。 二刀流で、山賊どもの首を一気に斬り落とす。 ゴロゴロゴロゴロゴロゴロ。

 奥へ進むと、屋敷の扉。 頼もう! どーれ! 一夜の宿を乞う。 これはこれは、お侍さん、なぜこちらへ? 武者修行じゃ。 西の道で、若い女と会いませんでしたか? 狐狸妖怪、怪しい奴と、ぶち斬った。 若い男が二十人ばかり、おりませんでしたか? みな、ぶち斬った。

 どうぞ、こちらへ、ごゆるりとお休み下さい。 粗酒など一献。 禁酒中だ。 粗飯なりとも。 禁飯(めし)中だ。 粗茶を。 禁茶中だ。 ごゆるりと、お休みを。 お気の毒に。 ゴーーン。

 いい女だった。 ちょっと、話に行こう。 開かないぞ。 鳥の声が聞こえる。 襖は、一枚板だ、これが噂の釣り天井か。 ドン、ペシャとなる、えらいことになった。 床の間に掛軸がある、八幡大菩薩に一心不乱に願うと、掛軸が動いて、小さな穴が開いている。 顔を出すと、幾何十丈という崖だ。

 おーい、がんぐり、静かにせえ。 いつものカモを、部屋に入れた。 首を取ったら、五両の褒美をもらえる。 何人もが縄梯子で登ってくる。 五両は、わしのものだと、ヒョイと覗いたのを、エイッと斬る。 落ちてしもうた。 五両は、わしのものだ。 ヒョイと覗いたのを、エイッと斬る。 また、落ちてしもうた。 ヒョイ、エイッ! ヒョイ、エイッ! ヒョイ、エイッ! 首が、ゴロゴロゴロゴロゴロゴロ。

 女が、扉を開けたら、源吾がいた。 おのれ、妹、手下の仇と、大薙刀で斬りかかってくる。 源吾は難なく身をかわし、立ち回りとなる。 足を払うと、女は石灯籠の上にひらりと飛び乗った。 降りて参れ、裾が乱れて、しゃがんでも、見える、見えるぞ。 女が恥じらい、スキが出来たところを、斬る。

 宝蔵、宝の蔵へ、朱塗りの階を登る、宝がここにある。 侍、待ったーーッ! 御簾の陰から、白髪の垂れた、百歳近い老婆が、薙刀を手に現れた。 「わらわこそは、千年天草に棲む森宗意軒が妻、この曲輪に籠もり、千人の血を、大日如来に捧げんと、しておりしが…。 汝に見破られたのは残念無念。」 歌舞伎ならこうなる(と、歌舞伎のセリフ回しで)。 落語は、リアルで。 「アワアワ、ヤヤイチャムライ、アワアワ」、歯がないから、何を言っているのか、よくわからない。

 源吾は、森宗意軒の妻の薙刀を受け止めた。 敵わないとみた婆さん、一生懸命逃げ出した。 待てーーッ! 待てーーッ、待たんかい! 目の前に川、婆さんは、足がもつれて、転ぶ。 宝の在り処を言え! ザブザブ、ザブザブ! 婆は、川で洗濯じゃけん!

桂吉坊の「深山隠れ」中2024/02/03 07:10

 噺家山御霊ヶ嶽を越えて、町へ買い出しに行った一座4、5人が、二十日経っても、帰って来ないので、もう4、5人が迎えに行く。 しかし、七日、十日経っても、帰って来ない。 また、4、5人が迎えに行く。 だが、七日、十日経っても、帰って来ない。 年嵩の男まで送り出すと、村に男手がなくなった。 女、子供だけになり、庄屋の梶田源左衛門と、息子の新吾、源吾兄弟が残った。 兄の新吾が迎えに行くことになる。 兄さん、気を付けて、と送り出したが、その新吾も帰って来ない。 それで弟の源吾が行くことになった。

 山には、女盗賊がいると聞いていた。 カルサン袴の源吾は、ええ男、色男、剣術もできる。 日が暮れて、提灯を手に、山道をとぼとぼと。(太鼓、三味線の鳴り物が入る) 嫌だが、行かなければしょうがない、下腹に力を入れて進む。 何か、いる、ガサガサ音がする。 マムシか? 竹の葉が、鳴っているだけだった。 人間が通った跡がある。 白いものが、ぼんやりと見え、娘が倒れていた。 いかがいたした? これはこれは、お侍様、持病の癪(しゃく)が出ましたが、治まったところで。 お侍様は、なぜこちらへ? 武者修行じゃ。 チャンチャンチャン、被衣(カツギ)高足駄の娘に、付いて行く。 カランコロン、カランコロン、山をぐるりと回り、崖の深い谷にかかる丸木の一本橋も、先にすいすい渡って行く。 狐狸妖怪か。 刀で、エイッ! 正体現せ、尻尾を出せ! 尻尾がない、人間であったか。

 源吾は女をそのままにして進むと、屋敷があり、城のような塀に囲まれている。 中に、ガラの悪い山賊連中が二十人ばかり。 お頭の願いは、千人目の男の生き血を飲めば、叶う。 妹御前(いもうとごぜ)が、首を取りに行った、と前祝いの酒を酌み交わして騒いでいる。