柳家権太楼の「落語研究会」一覧2017/08/13 07:28

 ○私がブログに書き、現在も読める、主に「落語研究会」で聴いた柳家権太
楼の落語は次の通り。 智子夫人の台本のように一言一句という訳にはいかな
いけれど、この12年間の権太楼落語をどうぞ。
権太楼の「質屋庫(ぐら)」<小人閑居日記 2005.7.3.>(この6月30日は第
444回落語研究会。「落語研究会」の歴史的な日<小人閑居日記 2005.7.2.> 
「金魚の芸者」林家ぼたん(第一次落語研究会以来初の女性演者))
権太楼「笠碁」と山田洋次さんの落語本<小人閑居日記 2005.10.4.>
鯉昇の形相と、権太楼の長いマクラ<小人閑居日記 2005.12.31.>
権太楼の「芝浜」<小人閑居日記 2006.1.1.>
権太楼、夫婦ゴルフのまくらと「青菜」<小人閑居日記 2006.6.4.>
権太楼の「鰻の幇間」<小人閑居日記 2006.9.7.>
権太楼の「御慶」と出番の話<小人閑居日記 2007.1.10.>
権太楼「大工調べ」の金勘定<小人閑居日記 2007. 5.2.>
権太楼の「代書屋」<小人閑居日記 2007. 10.2.>
権太楼の「百年目」<小人閑居日記 2008. 3.6.>
権太楼の「家見舞」その前半<小人閑居日記 2008. 7.28.>
権太楼の「家見舞」その後半<小人閑居日記 2008. 7.29.>
権太楼の「粗忽の釘」<小人閑居日記 2008. 10.26.>
権太楼の「三枚起請」<小人閑居日記 2009. 4.12.>
権太楼の「化物使い」前半<小人閑居日記 2009. 10.5.>
権太楼の「化物使い」後半<小人閑居日記 2009. 10.6.>
権太楼の「言訳座頭」(長文注意)<小人閑居日記 2009. 12.29.>
権太楼「小言幸兵衛」のマクラ<小人閑居日記 2010. 3.7.>
権太楼の「小言幸兵衛」本体<小人閑居日記 2010. 3.8.>
権太楼の「唐茄子屋政談」前半<小人閑居日記 2010. 7.29.>
権太楼の「唐茄子屋政談」後半<小人閑居日記 2010. 7.30.>
権太楼の「富久」<小人閑居日記 2011. 1.4.>
権太楼の「禁酒番屋」<小人閑居日記 2011. 5.31.>
権太楼の「お神酒徳利」前半<小人閑居日記 2011. 11. 5.>
権太楼の「お神酒徳利」後半<小人閑居日記 2011. 11. 6.>
権太楼のマクラ「柳家おじさん」<小人閑居日記 2012. 6. 5.>
権太楼「不動坊火焔」の前半<小人閑居日記 2012. 6. 6.>
権太楼「不動坊火焔」の後半<小人閑居日記 2012. 6. 7.>
権太楼「うどん屋」のマクラ<小人閑居日記 2013. 2. 15.>
権太楼の「うどん屋」本篇<小人閑居日記 2013. 2. 16.>
権太楼の「蜘蛛駕籠」<小人閑居日記 2013. 9.3.>
権太楼「宗論」のマクラ<小人閑居日記 2013.12.6.>
権太楼「宗論」本篇<小人閑居日記 2013.12.7.>
権太楼「鰍沢」マクラと前半<小人閑居日記 2014.3.9.>
権太楼「鰍沢」の後半<小人閑居日記 2014.3.10.>
権太楼の「短命」<小人閑居日記 2014.6.8.>
権太楼「錦の袈裟」のマクラ<小人閑居日記 2014.11.30.>
権太楼「錦の袈裟」本篇<小人閑居日記 2014.12.1.>
権太楼の「へっつい幽霊」前半<小人閑居日記 2015.6.8.>
権太楼の「へっつい幽霊」後半<小人閑居日記 2015.6.9.>
権太楼「猫の災難」のマクラ「出囃子」<小人閑居日記 2015.10.3.>
権太楼「猫の災難」の本篇<小人閑居日記 2015.10.4.>
権太楼の「二番煎じ」前半<小人閑居日記 2016.3.9.>
権太楼の「二番煎じ」後半<小人閑居日記 2016.3.10.>
権太楼の「心眼」<小人閑居日記 2016.8.12.>
柳家権太楼の「睨み返し」前半<小人閑居日記 2017.1.5.>
柳家権太楼の「睨み返し」後半<小人閑居日記 2017.1.6.>
柳家権太楼の「死神」前半<小人閑居日記 2017.6.10.>
柳家権太楼の「死神」後半<小人閑居日記 2017.6.11.>

 ○ブログにする以前のもので、朝日ネットの会員限定のフォーラム「等々力
短信・サロン」で読めるのは、次の通り。
落語家と世界一周クルーズ<小人閑居日記 2002.10.25.>
 24日は、第412回落語研究会。 「素人義太夫」柳家権太楼
こぶ平の「一文笛」など<小人閑居日記 2003.4.24.>
 23日は新年度に入った第418回落語研究会。 「お化け長屋」柳家権太楼
円生のアクセント<小人閑居日記 2003.12.20.>
 19日は、第534回東京落語会。 「試し酒」柳家権太楼
初席の落語研究会みな快調<小人閑居日記 2004.1.23.>
 22日は、今年最初の第427回落語研究会。 「ひとり酒盛」柳家権太楼
志ん太、喬太郎、菊丸<小人閑居日記 2004.6.1.>
31日は第431回落語研究会。 「大山詣り」柳家権太楼

 ○それ以前の柳家権太楼の「落語研究会」出演と、桂枝雀と一緒の回は、つ
ぎの通り。
第132回1979(昭和54)年4月26日「人形買い」(柳家さん光)、第187回 
1983(昭和58)年11月28日「芝居の喧嘩」、第245回1988(昭和63)年9
月28日「大安売り」、第251回1989(平成元)年3月30日「錦の袈裟」(桂
枝雀「愛宕山」)、第267回1990(平成2)年7月23日「船徳」(桂枝雀「舟
弁慶」)、第274回1991(平成3)年2月26日「お血脈」、第283回1991(平
成3)年11月27日「天狗裁き」(桂枝雀「住吉駕籠」)、第289回1992(平成
4)年6月29日「佐野山」(桂枝雀「寝床」)、第292回1992(平成4)年10
月27日「代書屋」、第298回1993(平成5)年4月14日「くしゃみ講釈」、
第303回1993(平成5)年9月28日「佃祭」(桂枝雀「軒づけ」)、第312回 
1994(平成6)年6月27日「化物使い」、第317回1994(平成6)年11月29
日「壺算」、第322回1995(平成7)年4月14日「火焔太鼓」、第325回1995
(平成7)年7月24日「舟徳」、第330回1995(平成7)年12月27日「芝
浜」(桂枝雀「宿替え」)、第334回1996(平成8)年4月11日「幽霊の辻」(小
佐田定雄作)、第337回1996(平成8)年7月25日「鰻の幇間」、第341回1996
(平成8)年11月14日「睨み返し」、第346回1997(平成9)年4月11日「つ
き馬」、第351回1997(平成9)年9月30日「大工調べ」、第356回1998(平
成10)年2月25日「宿屋の仇討」、第362回1998(平成10)年8月25日「疝
気の虫」、第371回1999(平成11)年5月27日「へっつい幽霊」、第376回 
1999(平成11)年10月18日「くしゃみ講釈」、第380回2000(平成12)年
3月1日「茶の湯」、第384回2000(平成12)年年6月26日「らくだ」、第
390回2000(平成12)年年12月27日「文七元結」、第395回2001(平成13)
年5月31日「子別れ(上)」、第397回2001(平成13)年7月24日「子別れ
(中)」、第398回2001(平成13)年8月29日「子別れ(下)」、第400回2001
(平成13)年10月24日「芝居の喧嘩」、第404回2002(平成14)年2月28
日「居残り佐平治」、第408回2002(平成14)年6月25日「井戸の茶碗」。

ライバルさん喬、師匠小さん、志ん朝師匠2017/08/12 07:11

 「噺家の了見」で、柳家権太楼は、柳家さん喬を生涯のライバルだという。  真打昇進直後から、30年以上も高座で戦い続けてきた。 どちらも団塊の世代 で、力量に差はないが、目指す落語の形は違う。 寄席に客が来ないのが当り 前という1980年代後半、志ん朝・談志、小三治・扇橋に続くスターが欲しい、 当時の落語協会事務局長が仕掛けたのが「さん喬権太楼二人会」だった。 二 人そろえば必ず真剣勝負になった。

 修業時代、権太楼は師匠小さんに面と向かって噺を教わった記憶がないとい う。 1982年に真打になった後、おそるおそる「あのォ、『子別れ』を教えて ほしいんですけど」と話しかけると、「そうか。紀伊国屋(寄席)でやるから来 いや」。 舞台袖で師匠の噺をじっと聞く。 終演後、すし屋で酒を飲みながら ―。 それが小さんの稽古、杯を重ね、芸論が始まると、もう止まらない。 小 さんは落語のことを話すのが大好きで、「俺はこういう了見でやる。誰それはこ んな形だ」。 「了見」「自然体」という言葉をよく使った。 「狸の噺をする ときは、狸の了見になれ」、そんなことをいわれても、狸に知り合いはいないし …。 「それらしく演じろ」ということなのだろう。

 師匠とそんなふうに話ができるようになっても、「やっていいですか」と言い 出せないネタがひとつ残っていた。 小さん十八番の「笠碁」、お弔いの時、心 の中で「『笠碁』をやらせてね」とお願いした。

 私は、2005年9月29日の第447回「落語研究会」で、権太楼の「笠碁」を 聴き、こう書いていた。 「「がくゆう」とよく麻雀をやったという話から入る。  「学友」でなくて「楽友」、楽屋の友、徹マンになっても「大丈夫、大丈夫、あ したは池袋だけだから…」という友だという。/権太楼は、ここ数年、進境著 しく、いつも楽しい高座が期待できる。 「笠碁」も、いる人が強すぎて碁会 所には行けない「ヘボ」と「ザル」、子どもの頃からの友達ふたりの意地の張り 合いを、可笑しく聴くことができた。」

 古今亭志ん朝師匠が亡くなって16年、一流料亭を思わせる矢来町のお宅で、 権太楼はよく師匠と夜通し飲んで語ったことが忘れられないという。 志ん朝 師匠がトリをとる、いつも満員御礼の寄席の一門が並んだ番組に、権太楼とい う異分子を入れてくれた。 「金明竹」「代書屋」など、古今亭にない爆笑落語 をぶつけた。 「火焔太鼓」や「三枚起請」など古今亭のお家芸の一つ「疝気 の虫」を、他の噺家さんに教わったんだが、志ん朝師匠の許可を取らないとで きないので、頼むと「あれはオヤジの十八番。俺にもできないんだぞ」、一年か けてやりますというと、「どんな虫になるのかな。必ず聞かせろよ」。 だが、 志ん朝師匠は一年たたずに亡くなってしまった。 翌年11月、鈴本演芸場の 権太楼独演会で「疝気の虫」を出した。 小さな体を思い切り横に曲げ「助け てください!」と叫ぶヘンテコな虫。 どうです師匠、と問いかけながら演じ ているという。

 連載の終わりに柳家権太楼は言う、「盟友 さん喬さんや、桃月庵白酒、春風 亭一之輔さんら人気者を向こうに回して一歩も引かない古希の権ちゃん。そん な「噺家の了見」を見に、寄席へ足を運んでくださいな。」

権太楼流「爆笑落語」の原動力2017/08/11 06:26

 私が50年近く通っている老舗のホール落語、国立小劇場のTBS「落語研究 会」の出番を待ちながら、「柳家権太楼落語って何?」と権太楼が考え込んでい たら、白井良寛(よしもと)プロデューサーが声をかけた。 「権太楼、いい か、この人を見ておけよ」 高座に上がっていたのは桂枝雀師匠、上方落語の 実力者、突拍子もないギャグと派手なアクションで、観客の度肝を抜いていた。  この噺のツボはここだ、と思う場面で、自分の数倍、数十倍の笑いをとってい る。 「これだ、俺が目指す爆笑落語だ!」 この権太楼の驚きと感動を、白 井プロデューサーはお見通しで、気がつけば、枝雀師匠の出る会には、必ず権 太楼も呼ばれていたという。

 枝雀師匠の得意ネタ「代書」に、権太楼の大好きな場面があった。 代書屋 が履歴書を書くのに、「生年月日を言ってください」というと、主人公が「せい ねんがっぴ!」と思い切り叫ぶ。 権太楼が東京で教わったネタには、そのく だりがなかった。 「師匠の「せいねんがっぴ!」、使ってもいいですか?」と ずうずうしく聞くと、枝雀師匠はあっさり許してくれた。 それから二十数年 たった今も、権太楼は「せいねんがっぴ!」と叫び続けている。

 私は権太楼の「代書屋」を2007年9月27日の第471回「落語研究会」で聴 いて、権太楼の「代書屋」<小人閑居日記 2007. 10.2.>に書いていたが、「せ いねんがっぴ!」は書き洩らしていた。

http://kbaba.asablo.jp/blog/2007/10/02/

 松竹新喜劇の藤原寛美さんが、師匠の小さんと仲良しで、東京公演の合間に よく鈴本演芸場に来てくれていた。 その日はトリが小さんで、若手真打の権 太楼も番組後半に入れてもらっていた。 終演後、寛美さんと小さんが銀座で 飲んだら、寛美さんが寄席の番組表を広げて、「この子ですよ、この子はいいで す。伸びますよ」と言ったそうだ。 「この子」は、権太楼。 小さんは満面 の笑みで、「オメエのこと褒めてたぞ。礼に行ってこい」。 そんなこと言われ たって、何の面識もない、小さんが連れてってくれるわけじゃなし。 だが、 本当に嬉しかった。 寛美さんが認めてくれたのは、大きな自信になった。

 白井プロデューサーのひと声、枝雀師匠の爆笑ギャグ、そして寛美さんの「こ の子ですよ」の三つが、権太楼流落語の原動力となった。

真打昇進と「噺家人生計画」の挫折2017/08/10 07:07

新人落語コンクールの後、師匠小さんの推薦でNHKテレビの新番組「お達 者くらぶ」の出演が決まった。 講談師の神田山陽先生とコンビで「当世あま から問答」、落語と同じご隠居とそこへ遊びに来る若い衆、ニュースがわからな いと専門家の先生に教えを請う。 宇野千代さん、楠本憲吉さん、倉嶋厚さん、 どういうわけかかわいがってくれて目白台のお宅まで飲みに伺っていたのが、 ドイツ文学者で横綱審議会委員長だった生粋の江戸っ子、高橋義孝先生。 「お 達者くらぶ」は、相方が神田山陽先生から「男はつらいよ」の「とらや」のお ばちゃん、女優の三崎千恵子さんに代って8年続き、数百人の先生が寄ってた かって、何も知らない若手噺家に世の中の森羅万象をたたき込んでくれた。 そ れがどれだけ身についたかは……、いつか高座でね。

カミサン、智子夫人の内助の功の台本ができると、歩きながらブツブツとし ゃべる。 家を出て公園を突っ切り、どこまでも歩く。 次は噺の分析。 ど こがポイントか、無駄はないか。 稽古百遍。 登場人物が演者の下を離れて 自在に動き出したら、噺に肉付けをする。 目の位置、仕草、声の張り方。 家 から一番近い池袋演芸場、改装前は夜席のみの興行、開場前に支配人に鍵を開 けてもらい、照明も冷房もつけず、ステテコ姿で無人の客席に向かって、稽古 した。 噺家を長くやってりゃ、しくじることも、客に蹴られる(ウケない) こともある。 そんな時、心の支えになるのは「俺はあんなに稽古してるんだ」 という事実だけなんだ。 高座に完璧なんてないことを、権太楼は稽古から学 んだ。

1980(昭和55)年春、小朝さんが先輩を36人抜いて、真打に昇進した。 そ れを追い、2年後の1982(昭和55)年秋、18人抜きで念願の真打に昇進、三 代目柳家権太楼を襲名し、全力疾走で50日間の披露興行をこなした。 35歳 だったから、ひそかに「噺家人生長期計画」を立てた。 10年単位で、まず「権 太楼落語」を作る。 「反対俥」で満足せず、「芝浜」「文七元結」「らくだ」な どの大ネタに挑戦する。 次の45歳からの10年で、「権太楼は面白いぞ」と 世間に知ってもらう。 55歳からの10年は、完成品に仕上げる時期。 65歳 からの最終チェックが済めば、70歳以降は「権太楼落語」から入る「年金」で 悠々自適。

披露興行では「くしゃみ講釈」「大工調べ」など爆笑ネタでウケていたが、す ぐ鈴本から裏が返った(次の依頼)ので、上方の人情噺「たちきり」で勝負し た。 学生時代、桂小文枝(後の五代目文枝)師匠の「たちきり」で号泣した のが忘れられなかったからだ。 終演後、寄席の階段を降りて行くと、若いカ ップルの男の子が謝っている、「権太楼は本当は面白いヤツなんだよ。こんな泣 かせる噺で。ゴメンゴメン」 面白落語で売ってる俺が、客のことも考えず、 人情噺で悦に入ってた。 そんなのプロじゃないよな。 自信満々でこしらえ た「長期計画」は、第一歩でずっこけた。 「たちきり」は封印、これから10 年かけて人情噺もできる「体」を作っていく。 それが「第1期10年計画」 なのだから。 爆笑落語の原点に戻った柳家権太楼は、上方落語の大物に注目 することになる。 それは、また明日。

順風満帆ではなかった噺家人生2017/08/09 07:06

 柳家権太楼の噺家人生は、けして順風満帆というものではなかった。 落語 界は60年代から入門者が急増、楽屋には前座があふれ、新規の弟子は楽屋に 入れてもらえず、「前座見習い」として前座枠が空くのを待つ、順番待ちが3 年といわれた。 毎朝、師匠宅へ行って掃除や雑用をし、ご飯をいただくと、 もうやることがない。 昼はデパート屋上の歌謡ショーや結婚式の司会、スー パーで主婦を相手にラジオの生放送、夜はキャバレーの余興。 そしてイベン トの司会、ラジオやテレビのリポーター。 営業は全力でやったから、とぎれ ることなく仕事が来る。 アルバイトのお陰で小遣いには困らないけれど、前 座になってから、落語協会の理事会で「ワースト前座」の三人に入った。 理 由は「寄席に来ないから」。 あと二人は、春風亭小朝さんと、三遊亭楽太郎(現 円楽)さん。

 師匠柳家つばめが亡くなって、素直に小さん門下に入る気にはなれなかった。  喪失感が重く大きくのしかかってきて、自由勝手な噺家生活を満喫してきてい たから、初めて壁にぶち当たった。 小さんは優しかった、何か仕事があると、 他の直弟子を差し置いても「一緒に来い」と声をかけてくれた。 1975(昭和 50)年秋、二ツ目に昇進、柳家さん光になったけれど、「あいつはタレント、 落語なんてできないよ」とレッテルを貼られて、老舗のホール落語会や地方の 有力落語会、全国を巡回する学校公演など「落語だけの仕事」には使ってもら えない。 二ツ目の2年目、3年目も悪循環が続く。

 気がついたら、タレント業でも落語でも、仕事がなくなっていた。 3歳に なる娘と散歩に出たら、神社の前で熱心に拝んでいる。 「あの子は信心深い ね」と、カミサンに話したら、「違うのよ。あたしが毎日、あの子を連れて「パ パに仕事が来ますように」ってお参りしていたの」 ショックを受けて、その 足で新宿末広亭の「深夜寄席」へ行き、「落語をやらせてくれ」と二ツ目仲間に 頭を下げた。 そして黙々と高座に上がり続けることになる。 1978(昭和53) 年6月、噺家さん光の、第二のデビューだった。

 当時の得意ネタは「反対俥(ぐるま)」。 力を試す機会は、意外に早くやっ て来た。 その年の9月、NHK新人落語コンクールに出場が決まり、決勝の6 人に残った。 「敵」は同期の二ツ目、本命の春風亭小朝さん、渾身の「反対 俥」に客席は沸きに沸いたが、結果は小朝さんが下馬評通りの最優秀賞、さん 光は次の優秀賞、不満だった。 1か月後の放送で、初めて小朝さんの「稽古 屋」を見た。 自分が審査員でも、この人に入れる。 華がある、色気がある、 口調もいい。 完敗を認めたら、不思議とさわやかな気分だった。

 放送後まもなく、浅草演芸ホールが番組後半の重要な出番に起用してくれ、 上野鈴本演芸場からも声がかかる。 「お前の落語、面白いよ」やっと、皆が 気づいてくれた。 それまで年間60席だった寄席の出番が、月間60席に急増。  一時なくなっていたタレント仕事も、落語で認められたら戻ってきた。 この 年、柳家さん光、のちの柳家権太楼は「大化け」した。