小室正紀さんの「草間直方と福沢諭吉」[昔、書いた福沢194]2020/01/17 07:11

       「草間直方と福沢諭吉」<小人閑居日記 2003.11.24.>

 22日、福沢諭吉協会の土曜セミナーだが、慶應義塾大学経済学部教授(近 世経済思想史)で最近福沢研究センター所長になった小室正紀(まさみち)さ んの「草間直方と福沢諭吉」という話だった。 草間直方(伊助、宝暦3(1 753)-天保2(1831))は、福沢が生れる前に死んだ(つまり時代が違 う)大坂のビジネス・エリート、京都の商家に生まれ、鴻池に奉公し、鴻池の 三別家の一つ尼崎草間家の女婿となり同家を継いだ。 文化5(1808)大 坂今橋に両替商を開業、大名貸で取引のできた肥後、山崎、南部など諸藩の財 政整理に尽した。 その一方で、貨幣史、物価史の精密な研究『三貨図彙(さ んかずい)』『草間伊助筆記』『篭耳集』などを著した。

 なぜ「草間直方と福沢諭吉」なのか。 草間直方の活躍した19世紀初頭は 転換期、変化の時代であって、そこからの草間の時代認識と展望が、福沢の考 え方につながるのだという。 19世紀初頭が転換期というのは、幕府や藩で 財政システムが行き詰まり、地方の経済が活発に動き出す。 草間は長期的に 米価は低下せざるを得ないと見通し、米(コメ)経済の限界を見た。 それは 大名貸、大坂利貸(りたい)資本の、貸倒れ、不良債権化による危機を意味し た。 草間は米価が下落しても、金銀の融通(流通)さえ円滑にいけば、経済 は問題ないとして、貸出を生産的投資のためのものに振り向け、各藩が特産品 の殖産興業に力を向けるべきだと、考えた。

 変革期の人間が何かを主張するためには、「客観的認識」と「内面的自己確立」 (自らの確信)が必要である。 草間の場合、それは『三貨図彙』にみられる ように変っていく現実をくわしく調べることであり、懐徳堂で学んだ儒学(「折 衷学」…朱子学・古学・陽明学などの派にとらわれず、それらの諸説を取捨選 択して穏当な説をたてようとする)に立脚点を求め、道徳性が経済の信用を支 え、万物の融通(流通)が宇宙の根本に通じると、考えた。 福沢のそれは『福 翁自伝』のいう「数理学」と「独立心」。

 小室正紀さんは新発見資料、金沢市立図書館稼堂文庫蔵の草間が肥後熊本藩 大坂勘局頭尾崎氏あて私書『むだごと草』(文化8年、1811)を主な材料に、 この講演をした。

        コメ経済とゼニ経済<小人閑居日記 2003.11.25.>

 小室正紀さんの指摘した、草間直方の活躍した19世紀初頭は転換期、変化 の時代だったという話だが、司馬遼太郎さんだとこうなる。 草間直方とほぼ 同時期に、大名貸の番頭で、しかも学者だった(草間とそっくり同じ、小室さ んの話にも出た)山片蟠桃(1748-1821)について書いている文章に ある(『十六の話』)。

 「江戸体制を考える上で、はたして、この体制が建前であるコメ経済であっ たのか、それともゼニ経済だったのか、ということに迷ってしまう。」 播州赤 穂の浅野家はわずか五万石ながら、赤穂塩という商品の収入(みいり)で、江 戸初期以来、城下の各戸に上水道がひかれていた。 仙台伊達家は五十九万五 千石、家格の差がありすぎて、たとえば両藩の通婚などはとてもできない。 家 格はコメで量(はか)られ、「貴穀賎金」穀ヲ貴(たか)シトナシ、金ヲ賎シト ナスといわれ、それは幕府の一貫した農本主義を言いあらわしていた。

 しかしながら、実質的にはゼニ経済なのである。 たとえば、仙台五十九万 五千石の米は、入用分をさしひき、余った一部は江戸へ飯米(廻米)として移 出されるものの、大部分は大坂へ換金のために運ばれ、堂島相場によって相応 のゼニに化して仙台に送られた。 仙台藩ではそのゼニでもって藩財政がまか なわれる。 藩は貴であるという建前があるため、それをゼニにする機関にじ かに触れることはできない。 建前では賎しいゼニに触れる機能は、いやしい 町人、大坂の町人がやるのである、と。

 小室正紀さんは講演のあとの質疑のなかで、19世紀初頭以来、全国の大小 260藩、各藩が行き詰まった経済をなんとかしようと苦闘した。 勘定方の 武士を中心に、藩札を出したり、物産を開発したりして、「国益」をはかった(「国 益」という言葉は、漢語ではなく、この頃できた新しい考え方だそうで、この 国は藩)。 その7~80年の試行錯誤の経験が、維新後に生きた(江戸時代と 明治の連続性)という話をした。

         山片蟠桃(ばんとう)<小人閑居日記 2003.11.26.>

 「コメと大坂」という題で、山片蟠桃について書いていたのを思い出した。  司馬遼太郎さんの『十六の話』(中央公論社)の「山片蟠桃のこと」という文章 を読んで、その清々しい生き方につよく惹かれたからだった。

    コメと大坂(等々力短信 第748号 平成8年(1996)9月5日)

 江戸中期以後、貨幣(流通)経済が盛んになると、コメを基本にして成立し ている各藩の財政は、どこも苦しくなってきた。 その対策として、外様藩は 換金性の高い商品、たとえば蝋、特殊な織物、紙、砂糖などを生産することに よって、金銀貨幣を獲得するように努めた。 その点、譜代藩はおっとりして いて、ことに中津奥平家は累代幕政に関与したから、幕府の直轄領政治が産業 に鈍感だったのに影響されてか、ほぼコメ依存のままだから、とくに苦しかっ たという。(『街道をゆく』「中津・宇佐のみち」) 

 福沢諭吉は天保5(1835)年、大坂堂島浜通りの中津藩蔵屋敷内の勤番長屋 で生まれた。 父百助(ひゃくすけ)が、回米方という蔵屋敷詰の役人だった からである。 回米方は、コメその他の藩地の物産を売りさばいて、換金する のを職務とする役人であるが、その実は、藩の物産を担保にして大坂の豪商か ら借金することや、その返済遅延の言い訳けをするのが、主な仕事だったらし い。 『福翁自伝』には、百助の人物について、普通(あたりまえ)の漢学者 で、金銭なんぞ取り扱うよりも読書一偏の学者になっていたいという考えだか ら、そんな仕事が不平で堪らなかった、と書いてある。

 藩も蔵屋敷も、お侍としての威厳は保っているものの、実権はカネを持って いる豪商が握っていた。 福沢百助の時代より少し前、豪商のひとつ升屋に、 高砂から13歳の久兵衛少年が奉公に来る。 久兵衛は、のちに『夢の代(し ろ)』を書く山片蟠桃(ばんとう・1748-1821)になる。 主の重賢は、読書好 きの蟠桃に、大坂でもっとも権威のあった学塾懐徳堂に通うことを許した。 こ の恩は蟠桃にとって終生のものとなる。 重賢が死に、主家はにわかに傾く。  蟠桃は24歳の若さで、6歳の遺子重芳を擁して、升屋の再建にのりだす。 1 1年間の苦闘の末、天明3(1783)年、伊達59万5千石の仙台藩との信頼関 係を確立する。 蟠桃は、年貢を取り立てたあとの農民の「残米」を藩が現金 で買い取る方式を提案し、その「買米」を日本最大の消費地である江戸に回し た。 江戸市民の食べる米のほとんどは、仙台米になった。 仙台藩は、その 売上げで得た現金を、両替商に貸して得た莫大な利息によって、財政の建て直し に成功する。 コメ経済に、貨幣経済を組み込んだ合理的なシステムが、いか にも蟠桃らしいという。 仙台藩は、あたかも一藩の家老のように、蟠桃を遇 した。 あくまでも主家を立てた蟠桃は、番頭だからと蟠桃と号した。(司馬遼 太郎『十六の話』)

福沢研究集中月間[昔、書いた福沢190]2020/01/13 06:59

        福沢研究集中月間<小人閑居日記 2003.10.17.>

 10月は、1日に日記に書いた9月27日の福沢諭吉協会の橋本五郎さんの 土曜セミナーに始まって「福沢研究集中月間」の趣がある。

 4日、11日、25日、11月1日の各土曜日は、『福沢諭吉書簡集』全9巻 完結記念の慶應義塾福沢研究センター主催の講演会と座談会が、三田キャンパ ス内の演説館で開かれている(各14時から)。 すでに終わった4日は坂野(ば んの)潤治さんの「『官民調和』と『保革伯仲』-福沢諭吉の二大政党論をめぐ って-」、11日は金原左門さんの「『近代』づくりを地域の水脈に求めて-い くつかの福沢書簡を手がかりに-」、まだこれからの25日は佐藤能丸さんの 「海から陸への飛躍-岩崎・大隈・福沢-」、11月1日は金文京さん、中野目 徹さん、比屋根照夫さんの座談会「『福沢諭吉書簡集』の完結を記念して」。 こ のシリーズは慶應義塾主催なので無料だし、三田の演説館で開かれているので、 テーマに興味のある方、三田の構内や演説館を見たり入ったことのない方は、 ぜひ参加されるとよい。 これまでの2回、かなりの空席があった。 私は全 部出るつもりでいる。

 きのう16日と23日の木曜日の夜は、福沢諭吉協会の読書会「福沢書簡を 読む-「原点」を探る」が、神保町の岩波セミナールームで開かれている。 講 師は書簡集の編集委員を務めた飯田泰三さんと松崎欣一さん、書簡集第1巻の 安政4年から明治9年まで、福沢数え24歳から43歳までの青壮年期の手紙 から、福沢の原点を探っている。

 26日(日)から28日(火)は、福沢諭吉協会の福沢史蹟見学旅行で、長 崎と佐賀へ行く予定になっていて、楽しみにしている。 (実は、この10月24日に兄晋一が急逝したため、この旅行には参加できなか った。)

          二大政党制?<小人閑居日記 2003.10.18.>

 4日、腕を組んで演説している像を描いたとされる福沢が見下ろす三田の演 説館で聴いた坂野(ばんの)潤治さんの「『官民調和』と『保革伯仲』(187 9~1898)-福沢諭吉の二大政党論をめぐって-」。

 1879(明治12)年は、福沢の『民情一新』や『国会論』が出た。 『民 情一新』当時、西南戦争が平定され、自由民権の運動が勢いを得ようとしてい る時期だった。 急激苛烈な政治的変革を好まないで福沢は、英国流の二大政 党制によって、適当な時期に平穏な政権交代の行われることを勧説した。

 1898(明治31)年6月は、板垣退助の自由党と大隈重信の進歩党が大 同団結して憲政党が生まれた。 坂野潤治さんは、ここで生まれた「官民調和 体制」は、その後ずっと続いて、戦後も「55年体制」として続き、10年前 まではこの体制だったという。 今は、壊れそうで、壊れない状態だという。

 坂野さんは、二大政党制への失望を語った。

 1)現在の政治状況に関連させて、小選挙区制やマニフェストなどによって 制度的・人為的に二大政党制をつくろうとしても駄目、形ばかりの二大政党制 の議論にけりをつけ、福沢流の二大政党制論から足を洗う時かもしれないとい う。

 2)急進派(左派)なき保守・中道対立は面白いか?

 3)今度の選挙に勝つと、小泉政権は挙国一致の体制となる可能性があり、 読売新聞社説が書いたように、小泉挙国一致内閣はあと3年は続くのではない か?

        地方から近代化を推進する<小人閑居日記 2003.10.19.>

 三田の演説館での『福沢諭吉書簡集』完結記念講演会、11日は金原左門さ んの「『近代』づくりを地域の水脈に求めて-いくつかの福沢書簡を手がかりに -」だった。 金原さんは中央大学教授で、大正の民衆史がご専門の由。 「『近 代』づくり」というのは、“nation building”をイメージしていて、国の基礎 づくりに関心を持つ。 福沢の方法は、大久保、大隈とは明確に異なる。 地域 における民衆の「シビック・カルチャー」をどう創り出すか。 公的な面と、 私的な面の両方で、広くは学校教育を通じて、狭い範囲としては経済の分野な どで…。 福沢書簡の中から、福沢のそうした地域へのこだわりの水脈を読み 取ることが出来た、という。

 1)福沢の原体験のかけがえのない重み。 幕末の門閥制度を批判した福沢 だったが、中津の「福沢をめぐる人脈」が福沢を蘭学修業へ押し出し、以後、 旧中津藩の事業に助力や助言をし、特に中津市学校の設立にかかわった。

 2)「書簡」からみた福沢の地域へのこだわり。 「近代化」への教育条件を 探り、洋学校の設立を奨め、教師の斡旋・派遣をして、英語のできる「人物の 養育」に努めた。 産業経済の「近代化」に関心を持ち、商品流通のための市 場拡張を指南し、「生産力」増強のテコ入れとして、道路や鉄道など交通手段改 良のアイディアを出した。 地方政治に公論を生かすことを目指して、「民権の 保全」(民産の富殖、安寧の保護、民智の開闡(かいせん=ひろめること))を はかるため、代議制への道を説いた。

 3)地域の近代を担う日本型「ミッズルカラッス」に目をつけた福沢。 「智 識」を身につけた生活者で、かつ「近代化」の推進者層として、伝統思想(土 着思想)に立つ豪農商層に目をつけた。 旧士族の開明派リーダーへの育成を 考え、「西欧近代」型タイプの創出(洋学教師と実業人)をはかった。

 結論。 「民」の底力と「官」の支えによる後発型日本の近代へのハンドル さばき。 県・郡の政治・行政における「民」と「官」の気脈を通じての構図 づくり。 福沢は、この営為によって「独立自尊」の道を地で示した。

         箱根福住旅館と福沢<小人閑居日記 2003.10.20.>

 金原左門さんは『神奈川県史』のための「万翠楼福住」家の調査で、福沢に 出会ったという。 福住正兄(まさえ、九蔵)という人物がいた。 『福沢諭 吉書簡集』第一巻の【ひと】16などによれば、福住正兄は相模国大住郡片岡 村(現平塚市)の代々の名主で精農であった大沢市左衛門家の五男として文政 7(1824)年に生れた。 幼名、政吉。 二宮尊徳のもとで五年間学び、 『二宮翁夜話』をまとめるなど、明治期の報徳運動の推進者の一人となった。

 嘉永3(1850)年、箱根湯本の「万翠楼福住」家の養子に入って九蔵を 襲名し、報徳思想の「分度」(生活を倹約し)「推譲」(余ったものを拠出して、 社会へ還元、拡大再生産で貧困から脱出)の法により破綻に瀕した家業を再興、 翌年27歳で湯本村名主となった。 明治3年9月、発疹チフスでかろうじて 命を取り留めた福沢が、病後静養のため熱海、湯本、塔之沢などで湯治した際、 福住正兄(明治4年長子に家督を譲り「九蔵」を襲名させ、自らは正兄を名乗 る)と出会ったらしく、以後たびたび湯本福住、塔之沢福住に出かけている。

 明治6年塔之沢福住に滞在中、福沢は『足柄新聞』に箱根湯本から塔之沢ま での新道開鑿の提言を寄稿した。 その頃、東海道の本街道に沿っていたのは 湯本宿で、塔之沢は脇道へそれていたのでロクな道路もなく、早川に架けた仮 橋は大雨出水のたびに流されて、まことに交通不便だった。 福沢はみずから 資金を投じ、志を同じくする者が醵金に応じて新道を造り、永久的な橋を架け ることを呼びかけた。 この新道は福住らの尽力で14年11月に完成した。

 金原左門さんは、きのう書いた講演の柱2)3)の一例として、福住正兄の ケースを挙げ、ずっとかかわりを持ち続けた足柄県での実験には、福沢の一貫 性があらわれていると述べたのだった。

橋本五郎さん「ジャーナリストとして福沢から学ぶもの」[昔、書いた福沢189]2020/01/12 08:26

     橋本五郎さんの福沢入門<小人閑居日記 2003.10.1.>

 9月27日、福沢諭吉協会の土曜セミナーがあった。 講師は読売新聞編集 委員の橋本五郎さん、演題は「ジャーナリストにとっての福沢諭吉」だった。  橋本五郎さんが昭和41(1966)年慶應の法学部に入学した時、自分は東 大なのに小泉信三さんを通じての福沢ファンだった10歳年上の兄さん(役人) が、『福沢諭吉全集』全21巻を買えと、安月給のなかから5万円余をくれたと いう。 どこで買うかわからず、塾監局(慶應の本部事務局)に行ったら、土 橋俊一さんが手配してくれた。 重い本だというのが第一印象で、提げて帰っ てくる時、4巻ずつ友達に持ってもらった。

 学生時代は軽い文庫本や『福沢諭吉選集』で、『福翁自伝』『学問のすゝめ』 『文明論之概略』を読んだ程度だったが、『福沢諭吉選集』第四巻の丸山真男さ んの解題(1952年7月)に衝撃を受けた。 それは手品のような解説で、 橋本五郎さんは丸山さんから福沢に入ったという。

 駆け出しの新聞記者だった昭和48(1973)年、福沢諭吉協会が発足し たので入会した。 その申し込みのハガキに「田中王堂『福沢諭吉』の復刊と、 丸山真男の福沢論をまとめて一冊にできないか」と書いたら、富田正文さんか らハガキが来た。 橋本さんが当日、会場に持参していたその宝物のハガキに は、「丸山真男の本は検討されているようだが、王堂本の再版は慎重を要する」 とあったそうだ。 橋本さんが衝撃を受けた『選集』第四巻解題を含む丸山真 男さんの福沢論が、岩波文庫『福沢諭吉の哲学』となって広く読まれるように なったのは、2年前の2001年6月のことだった。 この700円の文庫本 が、橋本さんには1万円位に価すると語った。

    「ジャーナリストとして福沢から学ぶもの」<小人閑居日記 2003.10.2.>

 橋本五郎さんは「ジャーナリストとして福沢から学ぶもの」として、つぎの 6項目を挙げた。

  (1)「議論の本位」を定めることの重要さ。

  (2)無原則な機会主義とは全く違う「状況的思考」。

  (3)責任ある言論。     (4)開かれた女性論、家庭論。

  (5)肉親・子女への愛情。

  (6)幻想を抱かず、惑溺に陥らず。

 (1)「議論の本位を定める事」というのは、福沢が『文明論之概略』の最初 にその大切さを説いたもので、それを定めなければ、物事の利害得失を論じら れないとした。 丸山真男さんは「何を何より先に解決しなければならないか、 何が現在の切迫したイッシュであるか、をまず明らかにする」(『「文明論之概略」 を読む』)ことだと説明した。

 (2)今、起きていることを理解するには、できるだけ多面的に見る。 個 人的自由と国民的独立、国民的独立と国際的平等は全く同じ原理で貫かれ、見 事なバランスを保っている。

 (3)「外交を論ずるに当りては外務大臣の心得を以て」(明治30(189 7)年8月の時事新報社説「新聞紙の外交論」) 「責任ある報道」をしようと すれば、自分がその立場にあったらどうするか、何が国益、全体の利益にかな うのかを絶えず自問し、答えられるようにしなければ、無責任のそしりを免れ ない。

       福沢の女性論と家族への愛<小人閑居日記 2003.10.3.>

 昨日の続き。  (4)開かれた女性論、家庭論。 政治記者の橋本さんは、夜討のハイヤー で帰宅すると、午前2時か3時、へたをすると朝駆けの迎えの車がもう来てい るという状態だった。 帰宅した時、和服の夫人が三ツ指ついて、おかえりな さいませというのが理想ではあった。 橋本夫人は総理府勤めで、結婚した時 も、子供が出来た時も、辞めたらどうかといったが、秋田でひとり暮ししてい る橋本さんのお母さんと、電話で話がついていた。 お母さんは「絶対、辞め るな」と言ったという。 ことほど左様に、今日の聴衆もそうだろうが、日本 の男は男女平等ということが理屈でわかっていながら、男女の役割分担といっ た固定観念にとらわれている。 あの時代の福沢の女性論、家庭論が、あれほ どまでに進歩的で、いささかの偏見もないのは、何ゆえか、橋本五郎さんは、 ずっと疑問に思っているという。 

 (5)肉親・子女への愛情。 岡義武さんは日本学士院百年記念講演「福沢 諭吉-その人間的一側面について」で、福沢は「愛情に全く惑溺した一人の父 親以外の何物でもない」とし、「人生をいかに理解すべきか、又ひとはいかに 世に処すべきか、これらの問題について孤絶、寂寥の境地にその身を置くこと をたじろがず、そのことをつねに堅く覚悟していた福沢は、そのような心境に 対する慰めを肉親、子女へのこの上なくふかいその愛に求めていたのではない であろうか」「その情愛は、寂寥、孤独、孤高を恐れず辞しなかった強く逞し い彼の性格の実は他の半面、しかも、不可分の半面であったように私には思わ れるのである」と語っている。

     「とらわれる」こと、そして小泉首相<小人閑居日記 2003.10.4.>

 (6)幻想を抱かず、惑溺に陥らず。 福沢が最も戒めたのは「惑溺(わく でき)」である。 『文明論之概略』の随所に出てくる。 丸山真男さんは「政 治とか学問とか、教育であれ、商売であれ、なんでもかんでも、それ自身が自 己目的化する。そこに全部の精神が凝集して、ほかが見えなくなってしまうと いうこと、それが惑溺です」(『福沢諭吉の哲学』)と説明した。 橋本さんは新 聞記者として、あるがままに見ることを心掛け、とらわれていることはないの か、たえず畏れをいだきながら、やらなければならないと、思っているという。  いつも(81歳で亡くなった)おふくろに分かるように、中学生に分かるよう にと、記事を書いてきた。

 講演は、しばしば小泉首相の話に脱線した。 曰く、自己中心、他人のこと は考えない、ただ一筋に行く、脇は見ない、自分は正しいと思っている、した がって確信に満ちているように見える。 三世で、地元の選挙活動もしていな いから、ひとの痛みがわかっていない。 他人から言われたことは、やりたく ない、しばしば反対のことをやる。 竹中、川口両大臣の留任はそのよい例で、 川口さんは外務省で退任の挨拶もしていた、その証拠にあの日、赤の勝負服で なく、黒と白の葬式用みたいな服を着ていた。 勉強はしない、あまり本を読 まない(『同期の桜』ぐらい)、ものを知らないだけ強い、わかっていることし か言わない。 「構造改革なくして成長なし」というが、構造改革がどう成長 に結びつくのか説明しない、何もわからない。 得意の郵政と道路公団の民営 化の話だけ、ガーッとやる。

 そういった話を聴いて、みんなアハハと笑い、私ももちろん笑ったのだが、 笑いながら、笑っていられる場合じゃないとも思ったのだった。 だから、敢 えて書くことにした。

横浜山手散歩、居留地・外人墓地[昔、書いた福沢188]2020/01/11 06:54

       トワンテ山とフランス山<小人閑居日記 2003.9.14.>

 13日は「新・横濱歴史散歩」の最終回で、横浜山手を散歩してきた。 私 は1992年(平成4年)4月26日、福沢諭吉協会の一日史蹟見学会で横浜 に行き、横浜開港資料館で開催中だった特別展「トワンテ山とフランス山~幕 末の横浜山手~英仏駐屯軍の四千二百日」を見て、初めて幕末にイギリスとフ ランスが横浜に軍隊を駐屯させていた事実を知った。

 イギリスとフランスは、1862(文久2)年に起きた生麦事件の翌年から 1875(明治8)年までの12年間、居留民保護・居留地防衛のため、横浜 山手に軍隊を駐屯させた。 外国軍隊の駐屯という事態に対し、幕府と明治政 府は粘り強い外交交渉を続け、ようやく明治も8年に至って主権を回復するこ とができたという。 現在の「港の見える丘公園」一帯は英第20連隊の陣地 があったことからトワンテ(トゥウェンティ)山と呼ばれ、現在のフランス山 にはフランス軍が駐留していた。 幕府の横浜居留地囲い込みの意図も、圧倒 的な軍事力の前には、簡単に破られてしまったことになる。 横浜居留民の数 をはるかに上回る英仏軍隊の駐屯は、生麦事件と同じ年に洋式軍制の導入を決 めた幕府にとって、恰好の教師になったのを始め、日本人社会にさまざまな影 響をもたらした。

       山手居留地の開発と発展<小人閑居日記 2003.9.15.>

 横浜の「山手(やまて)」というのは、居留地のある「海手(うみて)」に対 しての「山手」なのだという。 外国人はBLUFF(切り立った崖)と呼ん だ。 山手外国人墓地は1854年3月6日、ペリー艦隊のウィリアムズ二等 水兵が甲板に落ちて死亡したのを、元村の寺、増徳院裏山に埋葬したのが始ま りで、1864年(元治元年)幕府とアメリカ、イギリス、フランス、オラン ダの各国公使の間で締結された横浜居留地覚書によって、墓域の拡張が認めら れ、増徳院の上の高台に一区域が設けられた。

 「海手」の居留地は埋め立てなので、湿地で、水も悪かった。 商売は居留 地でしても、住居、学校、病院等は、よい土地にという希望から、1866年 12月(慶応2年11月)に幕府と外国側とで結ばれた「横浜居留地改造及競 馬場墓地等約書」により、山手の開発が進んだ。 住み始めたところから地番 がつき、その番号が現在に及んでいる。 これより先、1865年10月(慶 応元年9月)には、散歩の習慣のある外国人のための遊歩道がつくられた。 幅 3間(5.4メートル)全長2里12町(9.1キロ)、現在の山手本通りがそ れに重なるという。 1870年6月(明治3年5月)には、幕府時代から求 められていながら財政的に応じられなかった外国人用公園、山手公園がわが国 最初の西洋式公園としてオープンした。

 昨日書いた英仏両国守備兵だが、最初はイギリスが1,000名、フランス が250名という大規模なものだった。 若い兵隊の駐留だから、第二次大戦 後にあったと同じ混血児問題が発生したという話は、今回初めて聞いた。 そ うした混血児の教育の為に1871年にアメリカミッションホームという施設 が作られ、それはのちに横浜共立学園に発展したのだそうだ。

         山手西洋館めぐり<小人閑居日記 2003.9.16.>

 平成になってから、山手ではかつて外国人遊歩道だった山手本通り沿いに、 横浜市が整備したり移築復元したりして、7館の西洋館を公開している。 横 浜山手を訪ねても、海の見える丘公園と外人墓地を覗いただけで帰ってしまう と、見逃してしまう。 今回ゆっくり散歩したことで、よく整備されたいい建 物や庭園が、ゆったりと見られ、そこからの眺望もすばらしいことを知った。

 JR石川町駅の元町口(大船より)を出、元町に行く中村川沿いの一本裏の 道から、大丸谷坂(おおまるたにざか)にかかる。 左手にフェリス女学院の 高校・中学を望みながら登ると、一時イタリア領事館があったことからイタリ ア山庭園と呼ばれる庭園があって、(6)ブラフ18番館と(7)外交官の家の 2館がある。 ずっとカトリック山手教会の司祭館だったというブラフ18番 館を見学した。 この庭園の眺望はおすすめ。

 両側が落ち込んでいるので尾根道だということがわかる山手本通りを、カト リック山手教会まで行き、右折して山手公園へ。 日本で最初のローンテニス が1876(明治9)年に行われたというので建てられた、テニス発祥記念館 を見る。 英国人ブルックが1879(明治12)年にこの一帯に植えたこと から全国に広まったというヒマラヤ杉の巨木が見事だ。

 山手本通りに戻り、代官坂上へ、昭和5年に貿易商ベリック氏の邸宅として 建てられた(5)ベーリック・ホールを見学(一見の価値あり)。 ここ元町公 園地域には(3)山手234番館(4)エリスマン邸もある。 山手外国人墓 地入口前を右折、港の見える丘公園へ。 ここには(1)横浜市イギリス館(2) 山手111番館がある。 昭和12(1937)に英国総領事公邸として建築 されたという横浜市イギリス館は、昨年から一般見学もできるようになったの だという。 山手西洋館めぐりは約3時間、今は昔、デートコースとして最高 と思われた。

      外国人墓地とリチャードソンの墓<小人閑居日記 2003.9.17.>

 横浜山手散歩の最後に、外国人墓地に入った。 土曜日は維持費のための募 金をしながら、一部順路を公開しているのだ。 前に福沢諭吉協会の見学会で も入って、かなり丁寧に見て回ったことがあった。 ただ入口に墓地資料館と いうのが出来ていて、外国人墓地の概要がパネルで展示されている。 これを 先に見ておくと、墓の形やマークなどのことがよくわかる。

 前にも見た、青い目の噺家快楽亭ブラックの墓に頭を下げてきた。 生麦事 件のリチャードソンの墓は、一番下の順路外にある。 帰りに墓地に沿った坂 を元町へ下りた所を左にちょっと曲がって(元町から行くならウチキパン屋の 奥)、金網の塀から覗くと、見ることができる。 例の生麦事件参考館の浅海武 夫さんが、リチャードソンの墓のまわりに囲いを作ったりして整備し、覗く塀 にも看板を出したりしたのだという。 リチャードソンの墓に接した大きな桜 の樹はそのままだったが、前に墓の周りにあった十字の花を咲かせるドクダミ はなかった。 リチャードソンの墓の後ろに大きな四角錐の墓が見える。 ペ リー艦隊のウィリアムズの墓は三か月後に下田へ移葬されたので、この墓地で 一番古い墓だという。 1859年8月25日、横浜町で斬殺されたロシア海 軍の見習士官ローマンと水兵ソコロフの墓だそうだ。

清家篤さんの「生涯現役社会をめざして」その2[昔、書いた福沢184]2019/12/28 07:05

       2014年、四人に一人が高齢者<小人閑居日記 2003.7.10.>

 1973(昭和48)年当時のことを考えると、そうした「年金を2倍に」 という政策転換には、それなりの根拠があった。 公的年金の財政方式として 『積立方式』をとるか、『賦課方式』をとるか、経済学的には、簡便な公式があ る。

賃金上昇率+人口増加率>資金の運用利回り なら 『賦課方式』が望ましい

賃金上昇率+人口増加率<資金の運用利回り なら 『積立方式』が望ましい

 73年当時、人口は順調に増加していたし、賃金上昇率は二桁だった。 資 金の運用利回りも、現在にくらべれば相当高かったが、賃金上昇率と人口増加 率の和は優に資金の運用利回りを上回っていた。 清家さんは、戦後の復興期 を苦労して生き抜き、日本を高度成長期に導いた世代に対して、たとえ積立は 不十分でも、しっかりとした年金を給付しようという政治的、社会的合意形成 がなされたのは理解できる、という。

 国連の定義で「高齢(65歳以上)人口比率」が7%を超えると「高齢化社 会(Ageing Society)」、14%を超えると「高齢社会(Aged Society)」という。  日本は大阪万博の1970年に「高齢化社会」になり、ほぼ四半世紀という世 界に類を見ないスピードで、1994年には「高齢社会」になった。 11年 後の2014年には、高齢人口比率が25%を超えると推計されている。 四 人に一人が65歳以上の高齢者になるわけだ。

 本格的高齢社会では、年金制度は『積立方式』が望ましいことが明らかだが、 いったん『賦課方式』にしてしまったものを『積立方式』に戻すことは、きわ めて困難だ。 現役世代に、自分たちの将来のための『積立』保険料と、高齢 世代に約束した分も含めた『賦課方式』の保険料の、二重の負担を強いること になるからだ。 清家篤さんの結論は、「基本的には『賦課方式』を前提に、公 的年金制度を高齢者の多い人口構造のもとで、うまく機能するように変革すれ ばよい」というものだ。

      少子化に関するベッカーの理論<小人閑居日記 2003.7.11.>

 清家篤さんの「生涯現役社会をめざして」で、興味をひかれたところを、も う一つ紹介する。 人口の高齢化をもたらすものに、長寿化と少子化の二つの 要因があるが、どちらも経済発展、経済成長の結果である。 そのうち少子化 を経済学的に説明したのが、労働や家族の経済学でノーベル賞をとったアメリ カの経済学者ゲーリー・ベッカーだ。 豊かな社会では親にとっての子供が「消 費財」になる(貧しい伝統社会では子供は親の仕事を手伝い、老後の面倒を見 てくれる「投資財」だった)ということ、そして所得の上昇とともに親は子供 の量(数)よりも質を重視するようになる、というのである。 ここで「消費 財」というのは、子育てが楽しいことだから、子供をつくるということだ。 「質」 というのは、親の所得が増えると、子供の数を増やすのでなく、子供一人当た りにより多くの教育費など子供の幸福度を高めるような支出を増やして満足感 を高めようとする。 女性が出産と育児を担うことによって失われる賃金所得 (経済発展でそれは増大する)が、子供の数を減らす効果を持つ。 経済発展 とそれにともなう所得増加は、この両面から子供の数を減らす方向に作用する というのがベッカーの理論で、他の先進国と同様、戦後の日本も、ベッカーの理論通りの筋道をたどって、少子化が進行した。

 ちょうど親の世代の人口を置き換えるのに必要な出生率は、2.08程度と 推計されている。 先進各国の出生率に二極分化がみられる。 アメリカやイ ギリス、フランス、北欧諸国などの出生率は比較的高く(2に近い)、逆に、日 本、ドイツ、イタリア、スペインなどは低く、出生率が1に近い水準になって しまっている。 なぜか第二次世界大戦に負けた側で出生率の低下が著しい。  これは出生率の低い国々では、正式の婚姻重視といった伝統的な家族観、仕事 と家庭にかんする男女の役割分業といった伝統的性別役割観が、まだ根強く残 っているためと考えられているという。 一方、出生率の高い国々では、正式 の婚姻関係によらない出生が無視できない高い比率で存在し、また男性が家事 育児をよく分担するという。