銀行「カードローン」急増の裏に2017/06/20 07:07

 昨日のリスト中の、「拝啓 渋沢栄一様」<小人閑居日記 2007. 3.4.>と世 のため、人のために働く喜び<小人閑居日記 2007. 3.5.>は、十年前の2007 (平成19)年2月15日から3月2日まで朝日新聞夕刊連載の“ニッポン人脈 記”「拝啓 渋沢栄一様」(中島隆記者)を取り上げていた。 その第2回で、 もう二十年前になる1997(平成9)年、第一勧銀の総会屋事件の時、広報部次 長だったという作家江上剛さんが、渋沢栄一が唱えた「人々のために」という 銀行の初心が薄れてきてしまったと、春から銀行員になる若者に言いたい「銀 行は金もうけの事業ではなく、社会のインフラ。世のため、人のために働く喜 びを知ってください」と語っていた。

 最近の銀行は、「今日借りられる」、「口座がなくても」、「テレビ窓口で審査、 カード発行」、「勤務先に電話しない、自宅に郵送なし、WEB完結」などの宣 伝文句で、盛んに「カードローン」を宣伝している。 銀行が無担保で金を貸 す「カードローン」が急増しており、この4年で2兆円増の5兆4千億円にま で増え、消費者金融を上回ったという。 かつて個人向けの無担保ローンでは、 消費者金融による多重債務が社会問題になった。 利息の高いお金を借り、そ れを返すためにまた借金を重ねて、生活が行き詰まる人が続出した。 対策と して2006(平成18)年に消費者金融などに適用される貸金業法が改正され、 年20%超の「グレーゾーン」金利が撤廃され、合計で年収の3分の1を超える 貸し出しを原則禁止する「総量規制」も導入された。 その後、消費者金融の 残高は急減していた。

 銀行の「カードローン」は、なぜ簡単にお金を貸してくれるのか。 私はま ったく知らなかったのだが、消費者金融会社などの貸金業者の保証がついてい るのだそうだ。 多くの銀行の「カードローン」は、「保証人は不要」としつつ も、「保証会社の保証を受けること」を利用条件としている。 メガバンクの「カ ードローン」では、三菱東京UFJ銀行がアコム、三井住友銀行がSMBCコン シューマーファイナンス(プロミス)、みずほ銀行がオリエントコーポレーショ ンと、グループ内に保証会社を抱える。 地方銀行も多くは消費者金融などの 保証がつく。

 銀行は保証料を消費者金融に払い、お金を借りた人が返済に行き詰まると、 消費者金融が返済を肩代わりして、ノウハウを生かして取り立てをすることに なる。 貸金業法の「総量規制」で貸し出しが激減していた消費者金融は、貸 金業法でなく銀行法が適用され「総量規制」の対象外なので、年収の3分の1 を超える貸し出しを禁止する規制がない銀行の「カードローン」の「保証人」 となり、実質的に貸し出しを増やす形になっている。

銀行は、日銀の低金利政策により、従来の貸し出しや運用では、利ざやをと りにくくなっている。 住宅ローンや企業向けの融資は金利引き下げ競争が続 く。 その中で高金利の「カードローン」は、貴重な収益源になっているのだ。

 常時流れているテレビ・コマーシャルの甘い誘惑に乗って、安易に「カード ローン」を借りて、後戻りできなくなる人は多いのではないか。 返済不能に なれば、銀行は消費者金融などの保証会社に肩代わりさせればいい。 焦げ付 きはないのだ。 銀行「カードローン」の急増が、再び多重債務問題を起こすの は目に見えている。

 銀行は本来、なりふり構わず儲ければいいという存在ではないだろう。 銀 行は「カードローン」で、明らかに「人々のために」ならないことをしている のだ。 銀行の初心は「人々のために」あると唱えた渋沢栄一は泣いているに 違いない。

渋沢栄一について書いたこと一覧2017/06/19 07:12

 そのほかにも「小人閑居日記」には、渋沢栄一について、いろいろ書いてい
る。 興味のある方には読んでいただきたいので、関連のものも含めて、ちょ
っと、まとめておく。 「渋沢栄一と福沢諭吉」は、同じ題で三回も書いてい
た。
渋沢栄一と福沢諭吉〔昔、書いた福沢14〕<小人閑居日記 2013.11.29.>
(「時代を動かした四つの瞳」等々力短信 第294号 1983(昭和58)年8月5日)
http://kbaba.asablo.jp/blog/2013/11/29/
福沢諭吉の「西航手帳」〔昔、書いた福沢15〕<小人閑居日記 2013.11.30.>
(等々力短信 第295号 1983(昭和58)年8月15日)
渋沢栄一が欧州で驚いた三つ〔昔、書いた福沢16〕<小人閑居日記 2013.12.1.
>(「『新日本事情』のすゝめ」等々力短信 第296号 1983(昭和58)年8月25日)
王子飛鳥山公園の渋沢史料館<小人閑居日記 2002.5.6.>
「渋沢栄一と福沢諭吉」<小人閑居日記 2002.5.7.>(西川俊作先生講演)
日本史における「会社」<小人閑居日記 2006.12.18.>
「会社」という言葉<小人閑居日記 2006.12.19.>
渋沢栄一と「会社」の普及<小人閑居日記 2006.12.20.>
「拝啓 渋沢栄一様」<小人閑居日記 2007. 3.4.>
世のため、人のために働く喜び<小人閑居日記 2007. 3.5.>
「拝啓 福沢諭吉様」ならば<小人閑居日記 2007. 3.6.>
「商」「町人」諭吉<小人閑居日記 2007. 3.7.>
「壬申 三十七歳ト十一ヶ月」<小人閑居日記 2007. 3.8.>
渋沢栄一と福沢諭吉<小人閑居日記 2012. 6. 14.>(二人の関わりを訊かれて)
福沢諭吉の渋沢栄一宛書簡<小人閑居日記 2012. 6. 16.>
福沢書簡に登場する渋沢栄一<小人閑居日記 2012. 6. 17.>

森まゆみ著『彰義隊遺聞』の渋沢栄一2017/06/18 07:46

昨日、森まゆみさんが、彰義隊のことを調べたことがあると書いた。 そし て書いた本が『彰義隊遺聞』(新潮社)で、すっかり忘れていたが、私はそれを 読んで、なんと「小人閑居日記」にも書いていたのである。 それを再録する。

   森まゆみさんの『彰義隊遺聞』<小人閑居日記 2005.7.27.>

 吉村昭さんの『彰義隊』に影響されて、いま森まゆみさんの『彰義隊遺聞』(新 潮社)を読んでいる。 とてもよい本で「彰義隊」の全体像が見えてくる。 知 らないことも多かった。 とりわけ「幕末三舟」「東叡山寛永寺」「栄一と成一 郎」の章。

 徳川慶喜が上野の寛永寺に謹慎した後、恭順の意を伝えるために、側近の高 橋泥舟に相談し高橋の義弟山岡鉄太郎(鉄舟)が、勝海舟の屋敷に江戸攪乱の罪 で捕われていた薩人益満休之助を伴い、官軍が江戸に迫り来る中、駿府の大総 督府の西郷隆盛の所に赴く。 山岡は六尺二寸、二十八貫(187センチ、105キ ロ)という巨漢、剣の達人だった。 西郷は山岡に降伏条件を提示、後日の江戸 城無血開城を決めた西郷・勝会談の道筋がつく。 三遊亭円朝の墓があり、こ の時期、円朝忌が催される谷中の全生庵は、明治16年、その山岡鉄舟が戊辰 の際の国事殉難者のために建てた寺であった。 明治になって、子爵となった 山岡鉄舟は「喰て寝て働きもせぬ御褒美に か族となりて又も血を吸ふ」と狂 歌を詠んだという。

 「東叡山寛永寺」という寺の江戸と幕府における位置、輪王寺宮という存在、 そして天皇家、水戸徳川家、有栖川宮家の複雑な縁のからまりあいを知った。  「彰義隊」の時の輪王寺宮(十三代、公現法親王)の前三代の輪王寺宮は、有栖 川宮家から出ている。 十三代輪王寺宮が、山岡鉄舟より前に慶喜恭順の意を 伝えるために、駿府の東征軍大総督有栖川宮熾仁親王のもとに赴くが、けんも ほろろの扱いを受ける。 輪王寺宮の側近、寛永寺執当の覚王院義観がそれを 怒り、のちに江戸城に入った東征軍の要求を再三跳ねつけたことが、上野の山 の戦争につながるのだ。

    渋沢栄一と彰義隊<小人閑居日記 2005.7.28.>

 森まゆみさんの『彰義隊遺聞』、「栄一と成一郎」というのは渋沢栄一と渋沢 成一郎の話である。 成一郎(喜作)は、渋沢栄一の従兄で、栄一が例のまだ攘 夷倒幕の過激派で高崎城襲撃・横浜居留地攻撃計画をした頃から行動を共にし、 一転、幕府方の一橋家に雇われた時も、一緒だった。 成一郎は、一橋慶喜が 徳川宗家を継ぎ、将軍となると、陸軍奉行支配調役、奥右筆格に取り立てられ た。 慶喜が謹慎する事態になって、担がれて彰義隊の頭取になる。 幹事の 須永於莵之輔、参謀として関わった尾高新五郎藍香(惇忠)も、栄一の身寄りの 者だった。 栄一の養子平九郎も隊列に加わっていた。

 だから渋沢栄一が、日本にいたなら、かなり高い確率で彰義隊に加わってい ただろう、と森さんはいう。 栄一は、その前年慶應3(1867)年に慶喜の弟、 民部卿徳川昭武が幕府からパリ万国博覧会に派遣されたのに従って渡欧してい て、日本にいなかった。 帰国したのは上野戦争の半年後、明治元(1868)年11 月3日のことである。

彰義隊の頭取渋沢成一郎派と、副頭取天野八郎派の間で、路線の対立が生じ る。 渋沢は日光へ退却してたてこもることを主張し、天野は諸隊を率いて上 野の山に入った。 慶喜が水戸に退くと、渋沢成一郎は彰義隊を脱退する。 成 一郎は同志とともにあらたに振武軍千二百をおこし、5月15日の当日には、隊 士四百余人を率いて援軍にむかったが、田無にいたるころ、彰義隊の潰滅を知 った。 成一郎は飯能戦争を戦い、箱館へも転戦、榎本軍の一員として捕えら れたが、明治5年大赦にあって、有能をみこまれ大蔵省七等出仕となる。 再 び名を喜作に戻し、欧米巡視に赴き、横浜で生糸貿易にたずさわることとなる。  平九郎は飯能での戦いに敗れて、大宮へ落ちる途中の黒山村で、官兵と遭遇、 腹切って死ぬ。 尾高新五郎は、辛うじて郷里に帰り着いた。

このとき、渋沢栄一が日本にいたら、どうなっていたか。 その後の日本の 会社や経済社会は、おそらくいろいろ違っていただろう。 ごく身近な小さい 例では、私が第一銀行に勤めることはなかったであろう。

富岡製糸場と渋沢栄一、尾高惇忠2017/06/17 07:16

 富岡製糸場へ行く途中、バスは深谷を通った。 渋沢栄一の出身地である。  富岡製糸場でのガイドでは、渋沢栄一やその従兄で初代場長を務めた尾高惇忠 (あつただ)の話が出た。 前に引いた『写真集 富岡製糸場』の今井幹夫富岡 市立美術博物館館長の論考では、「器械製糸場設立の目的」のところで、明治6 年の中ごろに尾高惇忠自身が書いたと思われる公の記録『富岡製糸場記 全』が 引用されている。 明治新政府は明治3(1870)年2月、生糸の輸出に大量の 粗悪品が出たことや旧来の製糸法を改善するために、指導者を海外に求め、一 大製糸場を設立して模範を示すことが肝要だという結論に達した。 設立の命 を受けたのが、大蔵少輔伊藤博文と租税正(そぜいのかみ)渋沢栄一だった。  伊藤、渋沢らは、政府顧問のフランス人ジブスケや生糸貿易商の紹介で、ブリ ュナを雇い入れることにした。 ブリュナや玉乃正履らは、製糸場の適地を求 めて武蔵・上野・信濃を巡視し、最適地に富岡を選定した。

 『写真集 富岡製糸場』巻末の座談会に、岩本謙三さんと共に出席している森 まゆみさんが、なぜ富岡になったかという事情を語っている。 地元の深谷に 近いということで、渋沢栄一がかなりかかわっていたらしい。 深谷の辺りも 養蚕が盛んで、本人の家も蚕糸関連の仕事をしていた。 松浦利隆群馬県世界 遺産推進室長も、渋沢栄一が一橋家に仕えていたときに、一橋家の領地がこの 近くにあったので、もともと富岡を知っており、もし近在の農家だけで繭を調 達できなかったら、元の領地から持ってこられるということもあったらしい、 と言っている。

 森まゆみさんは、彰義隊のことを調べたことがあるが、尾高惇忠はその一員 で知恵袋だった。 従弟の渋沢栄一も幕臣だから彰義隊にかかわったはずなの だが、ちょうど徳川慶喜の弟の昭武に随行して渡欧していて、その間にご一新 になってしまった。 西洋の様子を実見し、近代化を進めて銀行や株式会社な どの新しいシステムをつくろうとした一つである、富岡製糸場に尾高惇忠を登 用した。 そういう意味では、明治維新の負け組の人たちがかかわって、薩長 の人たちとは違う形で明治をつくっていく、富岡製糸場はその象徴的な建物だ ということが言えると思う、そこが個人的に富岡に惹かれるところだと、森ま ゆみさんは言っている。

 松浦利隆さんによれば、製糸業の経済史を研究した石井寛治東大名誉教授が、 モデル工場ということについて、日本と中国で差があったことを指摘している。  日本の場合、富岡製糸場も新町屑糸紡績所も、民間に教えるから見に来いとい う、どんどん民間が真似をして、民間の資力が足りないから国の工場を払い下 げる。 中国では、模範工場をつくると民間が真似するのを禁止して、国家で しかやらなかった。 アジアの産業革命には、そういう二つのやり方があった が、わりと最初から自由経済主義的だった日本は成功した。

 全国から糸繰りの仕方などの技術を習いに来た女性は「伝習工女」と呼ばれ ていたが、工女募集の通達を出しても、最初の内はなかなか人が集まらなかっ た。 人々がフランス人の飲むワインを血と思い込み、「富岡製糸場に入ると外 国人に生き血をとられる」というデマが流れたためだった。 尾高惇忠は、率 先垂範で自分の娘「勇(ゆう)」(14歳)を工女第一号として入場させ、その後、 井上馨の姪二人とか、いろいろな華族や士族の人たちが娘や姪を、何人も連れ て駆けつけた。 女性がかなりプライドを持って工女として働いた。 婦女教 育を最初からやっていて、国家がつくったところに行くというのは、幕府に行 儀見習いに行くのと同じで、糸をひきながら行儀見習いをするということだっ たようだ。 明治初期の工女は、後年の『ああ野麦峠』の暗いイメージとはだ いぶ違う。

『写真集 富岡製糸場』2017/06/15 07:14

 富岡製糸場には、世界遺産に決まる前、富岡市が2007(平成19)年4月に 公開を開始した半年後の10月27日、福澤諭吉協会の旅行で訪れたことがあっ た。 それを富岡製糸場の見学<小人閑居日記 2007. 11.3.>ブログに書いた。

http://kbaba.asablo.jp/blog/2007/11/03/1887175

 ブログを読んでくれた当時の片倉工業社長の岩本謙三さんから、豪華本の『写 真集 富岡製糸場』を頂いていた。 2007(平成19)年8月12日、片倉工業 株式会社発行、上毛新聞社出版局制作、吉田敬子撮影。 改めて今回、その写 真集を見直した。

 「歴史考/文化考」に、今井幹夫富岡市立美術博物館館長の「富岡製糸場の 超近代性とその使命について」があり、その「はじめに」が設立事情をよくま とめているので、引用紹介したい。

 「官営富岡製糸場は、明治5年(1872)10月4日に、石炭を燃料とするフ ランス製の蒸気エンジンと製糸器械によって操業を開始した。ポール・ブリュ ナを首長としたフランス人技術者の指導で稼働した「300人繰り繰糸機」は当 時、世界最大の規模を有する製糸器械で、わが国の近代産業発祥の原点となっ た。

 富岡製糸場設立の背景には安政6年(1859)の横浜開港に伴う生糸の輸出で 大量の粗悪品が出回ったのを正すことと、西欧に劣らない生糸の大量生産や、 外国資本の国内投資を防ぐなど、多様な要因があった。

 これらに対応した明治政府は、直営で富岡製糸工場を設立。時代を超えた近 代的な施設・設備を整え、西欧の製糸技術や管理(検査)の生産組織と工場制 度を導入した。そして全国の「模範伝習工場」として、その役割を果たさせた のである。」

 夜明けの赤い空をバックに、妙義の山並みがブルーグレイに浮び、手前に黒 く富岡製糸場がまだ眠っているかのような写真がある。 「曙光――近代の出 発」と題した、詩のような一文が添えられている。 「城郭でも寺院でもない  消長をくりかえす工業建築のなかで 一世紀余の星霜を超えて動きつづけ 閉 鎖を余儀なくされてもなお 草創のありようをとどめて遺存することに 我々 は瞠目するのである 愛すべきは巨大さである まだこの国が産業革命の洗礼 さえ受けていないころ 西洋の水準を遥かに凌駕する製糸場を創ることに 人 びとは心をかたむけた 近代化への夢というほの明るい光を照射して まだ明 瞭でない国家のかたちを 構造物の大きさに投影しようとしたのである。 奇跡といい偶然という しかしおそらくは時が移ろうともこの建物を 守り 遺したいと願う人びとの想いが 存亡の機に際して凝集し あるいは日常の光 景の中で揺曳(ようえい)し 連綿と受け継がれてきたのではないか 利害や 打算ではない その思いは愛着に似ている」