「青木功一著『福澤諭吉のアジア』」読書会に参加して(3)〔昔、書いた福沢124-3〕2019/10/10 07:25

          『三田評論』書評のパラフレーズ

 福沢の国際政治論が、初期の理想主義的な立場から、後年のパワーポリティ ックス「権道」論へと地殻変動したという戦後初期の丸山の理解は、どうか。  福沢の東洋連帯論(『時事小言』)は地域連帯論だが、勝海舟や岩倉具視の伝統 的な東洋連帯論と異なり、日本が明治維新で旧体制を倒し、国民国家形成の道 を選んだのと同様の変革を清や朝鮮に求めた。 日本の対外的独立を担保する ためには、そうした新政府下の文明化された中国や朝鮮との連帯が必要と主張 している。 つまりまず革命を求めている(内政干渉の一歩手前だが)。 この ようにして東洋連帯が出来れば、そこでの国交際の原理は理想主義的なものに なると予想される。 だから福沢に理想主義がなくなったとはいえず、権道と 並んで多元的な見方が後まであったと考えるべきだろう。 なお福沢の東洋連 帯論に対する丸山の捉え方は、「近代的ナショナリストとしての福澤先生」 (1950年速記稿、東京女子大学『丸山眞男記念比較思想研究センター報告』第 九号復刻、2014年3月、松沢弘陽校注)に立ち入った分析がある。 青木が弱 いのは、伝統的な東洋連帯論と福沢のそれとの違いがきちんと捉えられていな いことだ。

 アジア主義的傾向を福沢にみる見方は、竹内好の「アジア主義の展望」(『現 代日本思想大系[9]アジア主義』の解説、筑摩書房、1963年。『竹内好評論集』 第三巻)が代表例で、青木もその影響を受けている。

 列強によるアジア侵略の激化に伴う福沢の危機感の昂進。 同時に福沢には 清の軍事大国化への恐怖も存した。 福沢の『兵論』(1882年)が重要だ。 西 洋文明の導入による旧体制の革命か、植民地化されるか、という二者択一以外 に第三の道の可能性に気づいたことが大事だ。 清国が旧体制のままでも、新 式の武器や軍艦を買って一気に軍事強国化することを懸念した。 それは幕末 の大君のモナルキ論(徳川幕府が軍事強国化し、慶喜が啓蒙専制君主になり、 各藩諸侯を抑える)を想起させる。 その懸念は、海軍拡張論に結びつく。 そ の為には増税、世論の理解が必要だ。 明治14(1881年)年の政変で、民間 に出された大隈重信、板垣退助一派も政府に戻して、増税を実施するという官 民調和論に結びつく。 福沢は弱腰だとする批判は、とんでもない。 そのよ うにして、実質的に議院内閣制的なものをつくっていく。 行政権掌握の苦肉 の策だ。 井上毅は、伊藤博文らの知能として、それを見抜いていた。 そこ を見ないと、内政外交を連動させたこの時期の福沢の戦略構想を正当に評価で きないと思う。 清国がベトナムで清仏戦争に敗れ、福沢は安心した。 脅威 は西洋列強だけになった。

 質疑応答の中で、平石さんが、その時々の状況を丁寧に分析する必要がある、 それをやらないと読み間違える、と言われたのが、印象に残った。 また、儒 学に関する質問があり、こんな興味深い見解が述べられた。 勝海舟は本物の 儒学者ではない、福沢は本物の洋学者。 日本に近代を樹立したのは荻生徂徠 で、人類史、文明史全体を括弧に入れ、人類の文化の外に出た。 儒教的枠組 みをとっぱらって、事物そのものを見た。 陰陽五行説は、聖人が作り出した もの。 蘭学(福沢のやった)も、国学も、学問の方法としては、徂徠学から 出ている。 最近の中国でも戦略家は『春秋左史伝』を参考にしているのでは ないか。 福沢は『春秋左史伝』が得意で全部通読し、十一度も読み返して面 白いところは暗記していたと『自伝』にある。

 私はかねてより、福沢が朝鮮の独立と近代化に尽力しながら、現在、韓国や 北朝鮮で伊藤博文や豊臣秀吉に次いで嫌われていると聞いて、さぞや福沢は無 念だろうと思っていた。 そして、アジア諸国の独立と近代化に少なからぬ影 響を与えながら、アジア侵略論の創始者と誤解されている福沢の名誉回復に努 めたい、と。 今回の読書会に参加して、その考えを強力に補強していただい て、大変嬉しく有難かった。  また、福沢が『兵論』で、清国の一気の軍事強国化を懸念していたことを知 り、現在の中国の動向を連想しない訳にいかなかった。

※青木功一『福澤諭吉のアジア』慶應義塾大学出版会、2011年6月刊。 A5判上製、512頁、本体8500円。

「青木功一著『福澤諭吉のアジア』」読書会に参加して(2)〔昔、書いた福沢124-2〕2019/10/09 06:54

     「福沢=アジア侵略路線の元凶」説の起源

 「福沢=アジア侵略路線の元凶」説の起源はどこにあるか。 丸山眞男は「明 治国家の思想」(公刊は1949年だが、講演は46年10月、東大での歴研の連続 講演、のち岩波『丸山眞男集』第四巻)で、次のようにのべた。 福沢は民権 論と国権論が同時的課題であることを古典的に定式化したが、明治14年の政 変以後、民権論と国権論は離れ始め、日清戦争で完全に分裂した。 そしてこ の戦争の勝利で福沢は、長年の対外的独立の危機感から解放されて一時的錯覚 に陥った。 日本の近代化には、その先にますます大きな困難があるはずなの に…。 この講演を遠山茂樹が聴いていたのはほぼ間違いなく、そこから遠山 は、福沢には日清戦争論の源流としての「脱亜論」があるではないかと「日清 戦争と福沢諭吉-その歴史的起点について」(1951年『福沢研究』第六号、の ち『遠山茂樹著作集』第五巻、岩波書店)を書いたと、推測される。 服部之 総は「福沢諭吉」(1953年12月『改造』、のち『服部之総著作集』第六巻、理 論社、1955年)で、福沢がナショナリズムの悪しき伝統にとらわれたという遠 山を批判して、逆に福沢こそその伝統をつくったタフな絶対主義者だったとし た。 この遠山、服部の流れが、安川寿之輔の『日本近代教育の思想構造』1970 年10月、新評論、などの所説につながる。

 遠山、服部の考え方は、歴研メンバーに広がる。 一方岡義武の「福沢先生 とその国際政治論」(『三田評論』573号、1957年9月、のち西川俊作・松崎欣 一編『福澤諭吉論の百年』慶應義塾大学出版会、1999年6月に再録)は興味深 い論説だが、「脱亜」の「脱」の字も出て来ない。 それが岡義武「国民的独立 と国家理性」(1961年4月、『近代日本思想史講座[8]世界のなかの日本』、 筑摩書房、のち『岡義武著作集』第六巻)になると、「脱亜の時代」という言葉 を表題にして、日本が対外政策として西洋帝国主義の行動様式で突き進む時代 に使っている。 1960年代になると、岡のような実証的な学者でも、「脱亜」 を近代日本の歴史を指す言葉として使っているわけだ。 竹内好(よしみ)「日 本とアジア」(1961年、同上書。『竹内好評論集』第三巻収録、筑摩書房)、松 本三之介「国民的使命観の歴史的変遷」(1961年、同上書)も、「脱亜論」に触 れている。

 「脱亜論」に関する研究史的関心は、橋川文三の「福沢諭吉の中国文明論」 (『順逆の思想 : 脱亜論以後』勁草書房、1973年)に始まる。 のちに植手通 有が平凡社『世界大百科事典』(1988年3月)に「脱亜論」の項目を書いた。

丸山は誰が福沢「脱亜論」、近代日本史=脱亜史という見方を流行らせたのか、 別個の研究を要し、戦後の研究史を跡づける必要があると断りつつ、竹内好の 名をあげている(『丸山眞男回顧談』下巻)。 しかし実は丸山にも論文「日本 の思想」に「脱亜」の使用例があり、近代日本の歴史的コースをいっている。  岡義武は先に見たように61年論文で帝国主義と関連させて「脱亜」の時代を いう。 現在でもこうした拡張的用例が良書中に見受けられる。 例えば、油 井大三郎『なぜ戦争観は衝突するか-日本とアメリカ』岩波現代文庫、歴史的 背景を踏まえて日米の違いを書いたいい本。

「青木功一著『福澤諭吉のアジア』」読書会に参加して(1)〔昔、書いた福沢124-1〕2019/10/08 07:17

『福澤手帖』第163号(2014(平成26)年12月)の「青木功一著『福澤諭 吉のアジア』」読書会に参加して」。

 本年7月5日慶應義塾大学三田キャンパス南校舎445号室で開かれた青木功 一著『福澤諭吉のアジア』(慶應義塾大学出版会・2011年)の読書会に参加さ せてもらった。 講師の東京大学名誉教授、平石直昭さんは、『三田評論』2013 年8・9月合併号でこの本の書評をしている。 この読書会では、まずその書 評で取り上げられなかった論点五つにふれ、後半は書評中で上げた七つの論点 を敷衍した。 レジュメと、書評では紙幅の関係で明示できなかった参考文献 の詳細なリストが配付された。 お話を、以下にまとめてみる。

 青木功一『福澤諭吉のアジア』は、簡単に読み進むことも、料理することも できない。 それは、(A)福沢の東洋政略論自体の展開を客観的にどう理解す るかという問題と、(B)その問題に対して今までの研究者がどういう見方をし てきたかという研究史・学説史をどう跡づけるのか、その両方が交差するとこ ろに、この本が成立しているからだ。

 福沢の東洋政略論は、『時事小言』(1881年)の「東洋連帯」論、「脱亜論」 (1885年)、その後の清国との協調論と変幻自在に変化した。 青木が、福沢 の著作や先行研究と格闘し、暗中模索し、自分なりの見方を打ち出そうとする 苦労、根気強さ、土性ッ骨に打たれた。 そこにこの本の意義があると思う。  七つの論点は本書と格闘する中で自ら浮かび上がった。 書評は、青木が目の 前にいるかのように、理解に努め、敬意を持って書いた。 個々の論文につい ては、青木の見方が揺れ、解釈の矛盾がみられるところもある。 青木が生き ていたら、それらを総合するリライトの作業をしただろう。

 最晩年の丸山眞男が福沢について面白いことを語っていた。 丸山著・區建 英訳「『福沢諭吉と日本の近代化』序文」、1992年10月『みすず』379号。 戦 前の偏った福沢像として「拝金宗」(内村鑑三)や江戸町人の実利主義と変わら ないという見方(和辻哲郎)をあげ、戦後は日本帝国主義の思想的イデオロー グといわれるようになったとし、後者について二つの疑問を出している。  (一)近代日本の歴史を「脱亜」の歴史として捉える見方の妥当性如何。 近 代日本は本当に「脱亜」したか。 実際には国家神道、国体論など、アジア的 なものが強く残った。 だから「脱亜入欧」で近代日本を捉えるのはおかしい。  (二)福沢の「脱亜論」をどう理解するか。 「脱亜入欧」は福沢の言葉では ない。 また「脱亜論」は甲申事変後の時局的な政策論にすぎない。 つまり 「脱亜」は福沢理解のキーワードにはならない。

中津・小倉・下関・萩の旅(3)〔昔、書いた福沢120-3]2019/10/03 07:26

          萩で吉田松陰の史蹟を巡る

 最終日の9日(月)、降っていた雨も、萩に入って松陰神社に着いた頃には ほぼ上り、やがて晴れてきた。 萩への途中、画家・香月泰男さんの愛したい わゆる「私の地球」、絵やテレビ番組で見慣れた山陰三隅の風景が車窓を流れた。 萩で吉田松陰の史蹟を案内してくれたボランティア・ガイドの弘長久美子さ ん、吉田松陰の人と業績を伝えたいという熱意にあふれ、その「至誠」は真っ 直ぐに聞く者の心に通じたのだった。 松陰神社と、その中の松下村塾の建物 を見た後、松陰の誕生地と墓のある、城下町全体と日本海を見下ろす高台(田 床山麓)へ行った。 もうすぐ日本海という松本川の河口近く、雁嶋(がんじ ま)別荘で昼食。 食後、服部禮次郎理事長は、天保元年の吉田松陰と天保5 年の福沢諭吉の生れ年の4年の違いが、両者の運命と日本近代化に対する役割 の明暗を分けたと、今回の中津から萩への旅行を、短いスピーチで見事に総括 して下さった。

         萩の夏みかんと福沢のマルマレット

萩城の城下町周辺を自由散策。 武家屋敷に夏みかんが生っている。 夏み かんは萩の名物・特産品で、維新後、生活に困った武士の庭に植えさせたもの が発端だそうだ。 三本植えると子弟の教育費になるということで…。 それ で山口県の県花は夏みかん、県道や国道の県管轄部分のガードレールは、白で なく、オレンジ色に近い黄色で塗られている。

昼食後の服部さんの話にも出てきたが、福沢は夏みかんでマーマレードを作 っていた。 明治26(1893)年7月2日付、長州阿武郡萩下五間町五十三番 屋敷、松岡勇記宛書簡。 松岡勇記は『福翁自伝』で真っ裸になって物干に涼 む女中をどかしたという適塾の同窓生で、茨城県病院長も務めた医者。 松岡 が送ってくれた夏みかんの礼を述べ、マーマレードの作り方を教えている。

「…夏みかん到来、子供打揃ひ喜び候て毎日\/いたゞき居候。又かの皮は裡 面の綿のやうなる処を去り、表面の方を細に刻み、能くうでこぼして大抵苦味 を除き、一夜水にひやして、更に砂糖を入れて能く\/煮詰めし後ち、所謂マ ルマレットと為り、之をバンなどに付けて用ひ、誠に結構なり。マルマレット とはジャムの一種、西洋にてはヲレンジの皮にて製するものにして、舶来屋に て買へば〔此処に直径一寸七分高さ二寸五分ぐらゐの円筒缶の略図が描いてあ る…『全集』の注〕此位の鑵にて二十五銭位の小売なり。馬鹿に高きものに御 座候。其価は兎も角も、試に御製し被成度、宅にては昨日作りて甚だ評判宜し。 但し砂糖は思切て沢山に用、凡そ皮のうでたるものと当〔等〕分位に致し、或 は水飴を少し混ずるも可なり。随分面白き調理に御座候。」

福沢の中津から始まり、福沢とは無関係かと思われた萩で終ったこの旅に、 福沢のマルマレットという素敵な落ちがついた。

「福沢学・「耳学問」のすすめ〔回顧 土曜セミナー〕〔昔、書いた福沢119〕2019/09/30 07:14

『福澤手帖』第135号(2007(平成19)年12月)の「福沢学・「耳学問」のすすめ〔回顧 土曜セミナー〕」。

 福澤諭吉協会の会員として私が自慢できることといえば、1973(昭和48) 年11月10日に三田の塾監局会議室で開かれた第一回の「土曜セミナー」を聴 いていることだろう。 卒業してまだ8年しか経っていない時で、当然参加者 の中では一番若い方だった。 芳賀徹さんが「福澤諭吉の文章」について話さ れたが、その5年前に中公新書『大君の使節―幕末日本人の西欧体験』を出し た芳賀さんはまだ東大の助教授で、若手バリバリの研究者が資料を博捜した名 講演という感想を持った。 しかし講演後コメントした高橋誠一郎先生の「少 年時代、福沢家の広くて静かな書庫に一人入り込んで、手当たり次第雑多な本 をぬき出して読んだものだ。福沢先生が時折顔を出して『何か面白いものが見 つかったか』と声をかける。実は先生に見せられない黄表紙を読んでいた」と いう経験談には、さすがの芳賀さんも苦笑するしかなかった。 三田の台に黒 髪を風に薫じさせていたその頃から、頭が光を放つようになった現在まで30 年余、「参加することに意義がある」というオリンピックの精神で、ずっと「土 曜セミナー」を拝聴してきた。 鈍重に継続するというのが、私のやり方だ。  どういう人だかわからないけれど、いつもいる人ということで、この原稿も依 頼されたのだろう。 芳賀徹さんは、あと二回講師を務められている。 第三 十五回の「福澤の『西航手帳』をめぐって」と、平成15年の総会記念講演「福 澤諭吉と岩倉使節団―彼らは西洋文明をどうとらえたか―」である。 三回以 上講師をなさったのは、もうお一人、福沢の西航巡歴の実証研究で知られた山 口一夫さんの四回である。 福沢研究が自治省の事務次官までされた山口さん の余技だったことは、研究者でない協会会員に勇気を与えるものだった。 あ のご温顔が懐かしい。 「土曜セミナー」には、素晴しい方々が講師で来られ たし、参加していらっしゃる方々も素晴しかった。 質問すれば何でも分かる 「歩く福沢事典」の富田正文先生のお話を伺えることも楽しみだったし、おそ らくセミナーの企画も担当されていたのだろう土橋俊一さんの名司会ぶりも忘 れられない。

私事を申せば、父の創業した零細なガラス工場を、塾出身の兄と経営してき た。 零細企業だから「土曜セミナー」のある土曜日は当然会社があったのだ が、私のいわゆる「福沢さんの会」は特別で、次男坊のわがままを許してもら ったのは有難かった。 「福沢さん」の名は、大手を振って外出する黄門様の 印籠のようなものだった。 高校生だった1958(昭和33)年、慶應義塾創立 百年の年に出版された甲南大学の伊藤正雄教授の『福沢諭吉入門―その言葉と 解説』(毎日新聞社)によって、私は福沢諭吉に出会った。 福沢に興味を持っ た私に、父はちょうど刊行され始めた『福澤諭吉全集』を買ってくれた。 そ して『福澤諭吉全集』の読者に送られて来た案内によって、私は福澤諭吉協会 に参加させてもらうことになったのだった。 伊藤正雄先生は第二回に「『福翁 百話』に見る福澤晩年の思想」を話され、その後も「土曜セミナー」できちん と背筋を伸ばしたお姿をお見かけしたが、ついにお声をかけて、福沢入門のそ も馴れ初めについてお話することが出来なかった。 いま思えばまことに残念 で、その伊藤正雄さんが7月に亡くなったことを知ったのは、1978年9月16 日の第十六回「福澤諭吉と子供の本」での桑原三郎先生のお話からだった。

慶應志木高校で英語を教えていただいた野口福次先生にはいつも「土曜セミ ナー」でお目にかかった。 「よくいらっしゃいますね」とご挨拶すると、「耳 学問で」とおっしゃった。 これはいいと、私もそれを頂戴して、「耳学問」を 決め込むことにしたのである。 昨年12月9日、坂野潤治さんの「幕末・維 新史における議会と憲法―交詢社私擬憲法の位置づけのために」(『年鑑』33号 の一覧表記載の題は、当日こう変更された)で第百回を迎え、総会記念講演三 十一回を加えた百三十一回のほとんどを「耳学問」することによって、私の福 沢諭吉像、福沢学は形作られてきた。 本で読んだものの歩留まりは怪しいけ れど、文字通り謦咳に接し、肉声で語られる「土曜セミナー」は、血となり肉 となったように思う。 なんとも有難い機会なのであった。 ついでに「土曜 セミナー」は福澤諭吉協会の会員が対象だけれども、慶應義塾には福沢の時代 の三田演説会以来の伝統だろう「広く一般の方々を対象として」公開されてい る講演会がある。 慶應義塾が主催する福澤諭吉誕生記念会、三田演説会やウ ェーランド経済書講述記念日の講演会、福澤研究センターの講演会、小泉信三 記念講座や創立百五十周年記念事業の「復活!慶應義塾の名講義」シリーズも、 だれでも聴くことができる。 せっかくの良い講演に、集まる人の数はけして 多くはないのだ。 もったいない限りである。 自由な時間を獲得しつつある 友人たちに、私はもっぱら「耳学問」をすすめている。

「土曜セミナー」で学んだ一例を紹介しておく。 森鴎外や日本銀行につい てのご本を愛読していた吉野俊彦さん(当時、山一證券経済研究所理事長)は 第六回で「福澤諭吉と富田鉄之助」を語った。 富田鉄之助は仙台藩の出身、 勝海舟門下で、その長男小鹿の米国留学に付き添って渡米し、経済学を修め、 外交官を経て、日銀総裁、東京府知事を務めた。 大童信太夫にひきたてられ た富田は、仙台藩や大童と関係のあった福沢とは幕末から知り合っていたらし く、富田が杉田玄白曾孫の美人と結婚するに際しては福沢が媒酌人を務め、日 本最初の夫婦契約書が作られた。 三田演説館の設計についても、在米の富田 が材料を提供している。 私が吉野俊彦さんの講演で初めて知って驚いたのは、 三多摩は八王子も三鷹も明治前半まで神奈川県だったということだった。  1891(明治24)年からの富田の東京府知事時代、多摩川は上流の三多摩が神 奈川県に属し、水道として使っている東京府では上流の管理の悪さからチフス やコレラが流行したりしていた。 今でも縄張り問題は大ごとだが、富田は抜 身を下げた相模の壮士に狙われたりしながら、命をかけて三多摩の東京府併合 に成功し、東京の水源を確保した。 水道をひねって、ふと思うことがある。  先人は便利なものを考え、よく作っておいてくれたものだ、と。 その先人に 富田鉄之助や長与専斎、W・K・バルトンといった名前があり、バルトンにつ いては後に福沢とその父親との関係を私が知ることになったのだった(『福澤手 帖』132号)。

深く印象に残っている講演を、十だけ列挙しておきたい。 第三回・池田彌 三郎さん「日本語の近代化と福澤諭吉」。 第十回・飯沢匡さん「ユーモリスト としての福澤諭吉」。 第二十四回・正田庄次郎さん「田端重晟(しげあき)日 記より見た福澤と北里」。 昭和57年記念講演・武見太郎さん「福澤諭吉の『帝 室論』をめぐって」。 昭和60年記念講演・丸山眞男さん「福澤における「惑 溺」」。 昭和61年記念講演・永井道雄さん「福澤先生とその時代」。 昭和62 年記念講演・江藤淳さん「福澤先生と三田文学」。 第六十四回・辰濃和男さん 「福澤諭吉の文章」。 それらは古い交詢社の大食堂の、いささか暗い重厚な雰 囲気とともに記憶に残り、つぎの二つは日本橋室町三井本館の明るい横長の部 屋とともに思い出に残っている。 平成14年記念講演・阿川尚之さん「トク ヴィルの見たアメリカ福澤諭吉の見たアメリカ」。 第九十回・橋本五郎さん「ジ ャーナリストの学ぶ福澤諭吉」。

「土曜セミナー」は、最初に書いた塾監局の第一回と桑原三郎先生と梅渓昇 さんのお二人が講師だった大阪新阪急ホテルの第五十八回の二回を例外として、 すべて交詢社で開かれている。 3月交詢社から刊行された竹田行之さん執筆 の『交詢社の百二十五年―知識交換世務諮詢の系譜』に、『福澤諭吉全集』に収 録されてはいないが福沢の文体的特徴が濃いという「交詢社設立之大意」が収 録されている。 交詢社の目的は、知識を交換し世務を諮詢(世の中の諸事を 相談)することにあるとして、「抑も学問の道は学校のみに在らず、又読書のみ に在らず。学校に入て諸科の学を学び、家に居て百家の書を読むも、限ある一 人の力を以て千緒万端この繁多なる世の中の事に当らんとするは、迚も叶ふ可 きことに非ず。(中略)人々雅俗の別なく、其知る所を人に告げて、知らざる所 を人に聞くは最も大切なることにして、譬へば我が一つ知る事を十人に告げて、 十人の知る事を我に聞けば、一を以て十に交易する割合なり。之を活世界の活 学問と云ふ。即ち知識を交換するとは此事なり」。 「土曜セミナー」の場とし て交詢社ほど、ふさわしい場所はない。 講演後の鋭いコメントやスリリング な質疑応答も「土曜セミナー」の大きな魅力の一つである。

かつて松永安左エ門さんは、福沢桃介の言葉を引き、人間を一つのダンゴに まるめて一番大きいのは福沢先生で、まるめようとしても、それは至難の業だ といった(『人間 福澤諭吉』)。 これからも福沢諭吉という巨大な人物に、各 方面の講師がいろいろな角度から挑んでいく「土曜セミナー」を「耳学問」で きることは、この上もない楽しみである。