『母べえ』、治安維持法違反の投獄 ― 2023/09/23 06:51
治安維持法違反による投獄<小人閑居日記 2010. 2.7.>
映画『母べえ』、治安維持法違反の投獄で、まず思い浮かべたのは、野呂栄太郎と三木清の名前と、『岩波茂雄への手紙』(岩波書店)という本のことだ。 「等々力短信」第935号『岩波茂雄への手紙』に、こう書いていた。 「1928(昭和3)年頃から、岩波書店とその執筆者である学者や文化人が、苦難の時代を迎える。 茂雄あてのそれぞれの手紙の前に、差出人の略歴が付けられている。 それを見ると、主に治安維持法によって逮捕、投獄されているのは、河上肇、久保栄、柳瀬正夢、吉野源三郎、中野重治、久野収、玉井潤次、大塚金之助、小林勇、羽仁五郎、大内兵衛、三木清(獄死)。 辞職を余儀なくされているのが、恒藤恭、美濃部達吉、末川博、矢内原忠雄。 刊行停止や発禁にされたのが、天野貞祐、津田左右吉。 ごく普通の学者や文化人が弾圧の苦難に遭う、それらの手紙を読んで、言論出版の自由の有難さ、貴重さを感じ、何としてもそれを守らなければいけないと思わずにはいられない。」
『岩波茂雄への手紙』巻末の飯田泰三さんの解説によると、三木清と小林勇の場合はこうだ。 1945(昭和20)年3月27日、岩波茂雄が貴族院議員選挙に当選した。 翌日、選挙の応援活動をしてきた三木清と、選挙事務長をしていた小林勇が事務所で話しているところへ、警視庁の特高刑事が二人来て、三木を逮捕した。 警視庁を脱走して逃亡中の高倉テルが三木の埼玉鷲宮の疎開先を訪ね、三木は一晩泊めた上で、靴や外套を与え、青森までの切符を買って逃がしたことによるものだった。 三木は小林に「子ども(洋子)のことを頼む」とだけ言って引かれていった。
小林勇も、5月9日、鎌倉の自宅に中谷宇吉郎といるところを特高六人に踏み込まれ、治安維持法違反の嫌疑で検挙され、横浜の東神奈川署に留置された。 前年1月『中央公論』『改造』の編集者が逮捕された、いわゆる「横浜事件」(拷問で三人の獄死者を出した)関連という名目だったが、要するに前年解散させられた中央公論社、改造社に続いて、岩波書店をつぶそうということだった。 小林は毎日竹刀でなぐられながら、まず、「岩波新書」が反戦的であり、共産主義思想によって編集されているのではないかとして追求された。 同じ頃、岩波茂雄の秘書役などをしていた藤川覚も検挙され、『日本資本主義発達史講座』について、同様の追求を受けた。 小林が釈放されたのは、敗戦後二週間経った8月29日だった。
「横浜事件」に実質無罪判決<小人閑居日記 2010. 2.8.>
実は昨日の日記用に「横浜事件」のことを書いた4日、たまたま横浜地裁が「横浜事件」実質無罪の判決を出した。 1945年に治安維持法違反で有罪とされた元被告の、無罪判決を求めた再審請求は1986年から4次にわたって行われ、3次からようやく再審が認められたが、4次とともに「すでに治安維持法が廃止されている」などの理由で、有罪、無罪を示さない免訴の判決が出ていた。 刑事補償法は、法の廃止や大赦などの免訴となる理由がなければ無罪判決を受けたと認められる場合には、補償金を支払うと定めているので、今回の判決は実質的な「無罪」ということになるそうだ。
朝日新聞4日夕刊の記事。 「決定は、神奈川県警特別高等課(特高)の当時の捜査について「極めて弱い証拠に基づき、暴行や脅迫を用いて捜査を進めたことは、重大な過失」と認定。検察官も「拷問を見過ごして起訴した」、裁判官も「拙速、粗雑と言われてもやむを得ない事件処理をした」としたうえで、「思い込みの捜査から始まり、司法関係者による追認により完結した」と事件を総括した。」
1945年から65年、被告はみんな亡くなり、訴訟は遺族である息子さん娘さんたちの世代に引継がれていた。 その一人、小野新一さん(63)が掲げた「雪冤(せつえん)なる」の文字が、深い思いを伝えて、印象的だった。
映画『母(かあ)べえ』のユーモア ― 2023/09/22 07:07
山田洋次監督の『こんにちは、母さん』と共に、「母」三部作といわれる 『母べえ』(2008(平成20)年)、『母と暮せば』(2015(平成27)年)も、『母べえ』はテレビで、『母と暮せば』は映画館で見ていた。 それぞれ、いろいろ書いていたので、順次再録することにする。
映画『母べえ』のユーモア<小人閑居日記 2010. 2.6.>
10月30日の日記に書いた山田洋次監督の『おとうと』の公開に合わせ、31日にテレビ朝日が「地上波初」放送していた『母べえ』(2007年・松竹ほか)を見た。 吉永小百合、坂東三津五郎、浅野忠信、檀れい、笑福亭鶴瓶。 黒澤映画の記録係として知られる野上照代さんのドキュメント作品を映画化したもの。 太平洋戦争へと進んでいく暗い時代に、治安維持法違反で投獄された夫“父べえ”野上滋(坂東三津五郎)を信じ続け、“初べえ”“照べえ”(これが照代さん)の姉妹を守って、懸命に生きた女性の姿を描く。 その苦境に、夫の教え子“山ちゃん”(浅野忠信・好演)が現われ、“父べえ”の妹(檀れい)と共に、一家を支える。 ドイツ文学者・野上滋は、実際は野上巌(筆名・新島繁)といい、映画と違って獄死はせずに戦後も左翼運動をした人だそうだ。
暗く、悲しい、絶望的な時代を描いた物語なのだが、それを救っているのが山田洋次監督のユーモアだ。 ○真面目だが、ぶきっちょで、カナヅチの“山ちゃん”が、先生の検束連行を聞いて、駆けつけて来る。 正座して、丁寧な口上を述べていて、足がしびれ、ひっくりかえると、靴下には大穴が開いている。 ○獄中の先生に代わり、姉妹を海水浴に連れて行った“山ちゃん”だが、溺れてしまい、浜辺で見ていた“母べえ”が洋服のまま飛び込んで、颯爽としたクロールで助けに行く。 ○隣組の寄り合い。 最初に「宮城遥拝」、天皇陛下は葉山にお出かけ中というので、葉山はどの方角かとか、「宮城遥拝」というのだから宮城だろうとか、あっちを向いたり、こっちを向いたり。
NHK『知る楽』「こだわり人物伝」1月、立川志らく「小津安二郎は落語だ!」で、山田洋次監督は小津安二郎監督のユーモアを語っていた。 山田作品には、小津安二郎を元祖とする松竹(大船調)ホームドラマの伝統が、受け継がれている。 それは小津が、サイレント時代のハリウッドのドタバタコメディに憧れて、撮り始め、チャップリンの作品を見て、とてもかなわぬとホームドラマに転進したからだと、立川志らくは指摘していた。
「結婚契約書」と福沢諭吉 ― 2023/09/16 07:06
「結婚契約書」と福沢諭吉<小人閑居日記 2016.10.19.>
「結婚契約書」が出てくると、『ざんぎり頭の高崎』から少し離れて、福沢諭吉に触れない訳にはいかない。 明治7(1874)年10月、富田鉄之助と杉田お縫の結婚に際して、「結婚契約書」が取り交わされ、男女それぞれが署名したあとに、福沢諭吉が「行礼人」として署名し、森有礼が「証人」として署名したということがあった。
富田鉄之助は仙台藩士で、安政4(1857)年藩命で高島流砲術修業のため江戸に出、文久3(1863)年勝海舟に入門、慶應3(1867)年7月には、庄内藩士高木三郎とともに海舟の子息小麓に随行してアメリカに留学した。 幕府公認の留学第一号でもあった。 幕府の瓦解と東北の争乱で一時帰国したが、明治2年2月に再びニューヨークに戻り、商業学校で学び、明治4年2月ニューヨーク在留領事心得を命ぜられ、結婚当時は副領事で賜暇帰朝中であった。 杉田縫は、杉田玄白の孫で蘭学者の杉田成卿の長女。 森有礼は、初代駐米公使。 富田鉄之助は、後にイギリス公使館在勤、大蔵省勤務、日本銀行創設に関与し、副総裁を経て明治21年には総裁に就任。 さらに東京府知事、貴族院議員、富士紡績社長、横浜火災海上保険社長等を歴任した。
森有礼も、結婚は男女対等の立場で行なわれるべきであるという持論を有していて、翌明治8(1875)年2月、自身の広瀬阿常との結婚でも、東京府知事大久保一翁(いちおう)の面前で、男女互いに「結婚契約書」に署名し、最後に「証人」として福沢諭吉が署名している。
『福澤諭吉全集』第21巻295-6頁に、この「婚姻契約書二件」が収録されていて、註に「その契約書の文面も或は福澤の筆に成つたかと思はれる節があると昭和七年刊行石河幹明著『福澤諭吉傳』第二巻四六六頁に記してある」とある。
富田鉄之助と杉田お縫の「婚姻契約」は、こうである。
一、男女交契、両身一体の新生に入るは上帝の意にして、人は此意に従て幸福を享る者なり。
一、此一体の内に於て、女は男を以て夫と為し、男は女を以て妻と為す。
一、夫は余念なく妻を禮愛して之を支保するの義を務め、妻は余念なく夫を敬愛して之を扶助の義を行ふ可し。
森有礼と広瀬阿常との「契約結婚」は、当時の新聞でも報道されて大評判になったというから、慶應義塾出身の小暮篤太郎(武太夫)はもちろん、東京女子師範学校を出た堤清も、よく知っていたのだろう。
「明治の世に男女対等契約結婚」 ― 2023/09/15 07:10
堤克政さんの『ざんぎり頭の高崎』<小人閑居日記 2016.10.15.>
県庁所在地が高崎でなく前橋になった事情<小人閑居日記 2016.10.16.>
楫取素彦県令の食言で県都争奪騒動<小人閑居日記 2016.10.17.>
明治の世に男女対等契約結婚<小人閑居日記 2016.10.18.>
「結婚契約書」と福沢諭吉<小人閑居日記 2016.10.19.>
市民が支えた明治高崎の発展<小人閑居日記 2016.10.20.>
明治の世に男女対等契約結婚<小人閑居日記 2016.10.18.>
「明治の世に男女対等契約結婚」というのが、堤克政さんの『ざんぎり頭の高崎』の第25話である。 ほぼ全文を引いて、紹介したい。 堤さんの祖父・寛敏の妹・清(きよ)は、父の金之亟が下仁田戦争で討死した時は母の胎内にあり、半年後の慶應元(1865)年に誕生、父親代わりの長兄寛敏に「これからも女子でも新しい学問を」と送り出され、数え14歳で群馬県選抜生として東京女子師範学校(現お茶の水女子大)に入学した。 同期に信州松本藩士多賀努の娘春子がいて、清は大変可愛がられた。 五歳年長だった春子は、卒業後早々と鳩山和夫(早稲田専門学校長、鳩山一郎元首相の父)と結婚。 春子との縁から、清は卒業後鳩山家に寄寓して幼児教育を研究。 明治17(1884)年に帰郷し、次兄辰二が校長を務める高崎第一尋常小学校(現中央小学校)に赴任。 児童教育の傍ら開誘室(高崎幼稚園の前身)創設に尽力、開室と共に幼児教育に専念する。
清は明治20(1887)年、22歳の春、鳩山和夫の媒酌で小暮篤太郎と結婚した。 小暮家は伊香保温泉で「子(ね)の小暮」と呼ばれる安土桃山時代以来続く名門旅館で、代々武太夫を襲名し、篤太郎は二十四代目だった。 万延元(1860)年に生れ、12歳の時に東京へ出て新しい学問習得に励み、福沢諭吉の家僕として慶應義塾に学んだ。 福沢の諭しにより家業に戻り、温泉街の改革発展に尽くす。 一方、25歳の若さで県会議員に当選し、在任中廃娼論を唱え、先ず伊香保温泉の湯女(ゆな)廃止を断行し、日本最初の廃娼県とした。 結婚後、衆議院議員として活躍する。
名門を継ぎ旧弊の改革を成し遂げる新進気鋭の武太夫と、家老家格の家に生れたが父を戦で失い、秩禄奉還で厳しい生活を強いられていた清。 二人の立場は、客観的には玉の輿の様ながら男女同権の約束を交わしての結婚であった。 結婚契約書は、互いに配偶者になることから始まり、結婚は終身継続すべきことで共に離婚を求めない。 旧来の「七去(しちきょ)」という些細な理由で夫が一方的に追い出す離婚は、今日の法律・道徳上許されないと周囲に宣言。 夫婦の関係は最も親密であることを要し、親族その他何人からも干渉させないよう努めること。 婦権尊重の約束を取り交わし、契約項目の対等に加え、互いに署名捺印し二通作成して各自が所持するという、進歩的な知識人の契約で当時の新聞紙上を大いに賑わしたという。
「結婚契約書」の写真を見ると、鳩山和夫は「証人 鳩山和夫」と署名捺印した「証人」の横に“witness”と書いている。
「国政の椅子を争う昔の主従」 ― 2023/09/14 07:03
そこで、堤克政さんの『ざんぎり頭の高崎』の「国政の椅子を争う昔の主従」の、脱藩と衆議院議員選挙の件である。 明治23(1890)年の第一回衆議院議員総選挙で、西群馬郡の高崎町は群馬県第四区に編入され、伊香保の木暮武太夫が当選。 明治25年の解散総選挙は矢島八郎が、その後は毎回木暮が当選していた。 明治35年の第七回から高崎は独立選挙区となり、無所属の大河内輝剛48歳と帝国党の宮部襄55歳が立った。 二人は高崎藩の主従だった。
輝剛は、高崎藩最後の殿様輝声公の弟。 宮部は高崎藩家老を務めた宮部氏の一族。 自由党に加わり自由民権運動の闘士として活躍、政府密偵謀殺教唆の容疑で検挙され6年間も収監された。 特赦で放免され、憲政党を経て帝国党結成に創立委員として参加。
脱藩一件は、明治3(1870)年に宮部は藩の若手幹部と謀り、知藩事輝声公を引退させ輝剛を擁立するために密かに高崎から出奔させ、自分たちも三条実美や岩倉具視など新政府の有力者に意見書を提出した。 このとんでもない事件は不成功に終り、輝剛は捜索の末に発見され説諭されて帰藩。 宮部たちも廃藩置県直前の不安定な時期のため不問となる。
問題の明治35年の第七回衆議院議員総選挙である。 大河内輝剛派は主に実業界の支持、宮部襄派は旧自由党から帝国党員まで幅広い政党人の支持。 しかし、二人は共に高崎藩の首脳だったため旧藩士の間は二分された。 堤克政さんの祖父・寛敏の日記には、両者は互角の戦いで、僅差の予想だったが、282票対179票で、維新時に担がれた方が担ごうとした方に勝った。 祖父は日記に「吾党勝利」と記しているそうだ。
大河内輝剛は、当選したものの、桂内閣と議会が対立し議会はすぐに解散。 翌年の総選挙では、高崎城下の町年寄の跡を継いだ関根作三郎が打って出て三つ巴の争いとなり、再び輝剛が勝った。 が、またもや解散となり、翌年の第九回では無所属の一騎打ちとなり、242票対184票で宮部が雪辱した。 第十回では、高崎の有力者に推薦された落下傘候補〝天下の成り金〟鈴木久五郎が当選、宮部は一期で終わってしまった。 一方の輝剛は、明治39年に歌舞伎座社長に就任し立候補せず、二人とも僅かな時間の国会議員であった。
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