湊川の戦いから、四条畷の戦いまで12年2024/04/23 06:57

「あらすじ」に、楠木党がついに決起する「正平2年8月10日」が出てきたので、実際の歴史を少し見てみたい。 楠木正成が、九州から東上した足利尊氏の軍に、兵庫湊川で新田義貞らとともに敗れ、正成が戦死したのが、1336年(建武3年)のことだった。 南北朝時代は、この1336年(建武3年・延元元年)後醍醐天皇が大和国吉野に入ってから、1392年(明徳3年・元中9年)後亀山天皇が京都に帰る明徳の和約(南北朝の合一)までの57年間。 南朝(大覚寺統)と北朝(持明院統)とが対立抗争した。

南朝の正平2年は、1347年で、北朝の貞和3年である。 湊川の戦いから、11年、楠木多聞丸正行は21歳だった。 後村上天皇が即位したのは、8年前の延元4(1339)年で、11歳(数え12歳)だったから、天皇は正行の二つ下の勘定になる。

「人よ、花よ、」となる四条畷の戦いは、翌1348年、正平3年・貞和4年である。 南朝・楠木正行と、北朝・高師直の戦いで、正行は師泰と戦い、『人よ、花よ、』では描かれなかったが、正行は弟正時と刺しちがえて自害した。 楠木多聞丸正行は、なんと22歳の若さだった。

建武(けんむ。けんぶ、とも)…後醍醐天皇朝の年号。元弘4年1月29日(1334年3月5日)改元、建武3年2月29日(1336年4月11日)延元に改元。北朝では建武5年8月28日(1338年10月11日)まで用い、暦応に改元した。

興国(こうこく)…南朝、後村上天皇朝の年号。延元5年4月28日(1340年5月25日)改元、興国7年12月8日(1347年1月20日)正平に改元。 なお、後村上天皇の即位は、延元4年8月15日(1339年9月18日)、吉野の行宮(行幸の仮の宮)で。 興国元年は北朝の暦応3年、興国3年は北朝の康永元年、興国6年は北朝の貞和元年にあたる。

正平(しょうへい)…南北朝時代の南朝、後村上・長慶天皇朝の年号。興国7年12月8日(1347年1月20日)改元、正平25年7月24日(1370年8月16日)建徳に改元。

貞和(じょうわ。ていわ、とも)…北朝、光明・崇光(すこう)天皇朝の年号。康永4年10月21日(1345年11月15日)改元、貞和6年2月27日(1350年4月4日)観応に改元。

「細川家の存続を願った細川ガラシャ」2024/04/20 07:01

 「本能寺の変」とキリシタン教会、細川ガラシャの関係については、2020年に浅見雅一著『キリシタン教会と本能寺の変』(角川新書)を読んで、詳しく記したことがあった。 その内、細川家や細川ガラシャの関わりについて書いた、「明智光秀は、なぜ謀反を起こしたか<小人閑居日記 2020.8.4.>」を再録する。 その後、一連の記述をリストしておく。

    明智光秀は、なぜ謀反を起こしたか<小人閑居日記 2020.8.4.>

 浅見雅一さんは、第四章「光秀の意図」で、周辺の動きを考察する。 光秀は、6月3日に細川藤孝に援軍を要請したらしい、藤孝の息子、忠興の妻は光秀の娘・玉(のちのガラシャ)という姻戚だから、当然期待したところ、藤孝は突如家督を忠興に譲り、剃髪した。 忠興と交渉してくれという返事だったが、忠興も剃髪してしまった。 光秀は、かなり状況が逼迫していたのだろう、9日に二度目の要請をして、政権を自分の息子の十五郎と娘婿の忠興に譲りたいと申し出たが、細川家はこの要請も断っている。

 浅見雅一さんは、光秀は、オルガンティーノが高山右近に、光秀に与しないように促すであろうと推測していた可能性があるとする。 それでも教会に危害を加えようとしていないのは、息子たちのことが念頭にあったからではないか。 本能寺の変のあと、右近は、光秀に与しなかっただけでなく、光秀を討つ側に回っている。 しかも、坂本城の攻略では、右近が先鋒を務めており、明智秀満が率いる籠城側は戦うことなく自刃しているのだ。

 浅見雅一さんが「本能寺の変」に興味を持ったのは、妻で青山学院大学准教授の安廷苑(アンジョンウォン)さんが『細川ガラシャ―キリシタン史料から見た生涯』(中公新書)を執筆中、ガラシャが変を起こした父をどう思っていたのか、右近を恨んでいなかったのかと、訊かれたのがきっかけだったそうだ。 安廷苑さんによれば、ガラシャに洗礼を授けることを決めたのも、司教(信徒を導くこと)を担当したのも、オルガンティーノであった。 浅見雅一さんは、オルガンティーノは、父光秀のこと、坂本城で自刃した妹や弟十五郎たちのことをガラシャに伝えたのではないか(直接会ったことはない、書翰や伝言でやりとりしていた)、とする。 ガラシャと明智家を結びつけたのは、オルガンティーノ、キリシタン教会だった。

 浅見雅一さんは、光秀がなぜ謀反を起こしたか、明智家の存続が脅かされるような事態が発生し、それは信長との関係によるものなので、信長を殺害すれば回避できるからであった、と推論する。 明智家を、もっとはっきりいえば、嫡子十五郎を守ろうとしたのではないか。 そして光秀が、謀反を起こしてまで守ろうとしたものは、娘ガラシャの死に反映されている、とする。 (ガラシャは、1600(慶長5)年関ケ原の戦いで忠興が出陣中、石田三成から大坂城に入り人質になるよう命じられるが拒否、玉造の細川邸を包囲され、家老に自らを斬らせて果てた。) 父光秀の仇である豊臣方の人質になることなど、光秀の娘として到底受け入れられなかったはずである。 彼女が自らの命よりも優先したのは、細川家の存続であり、彼女の息子が家督を継ぐことだった(三男、忠利が継いだ)。

 「本能寺の変」という歴史的大事件をめぐって、キリシタン史料を再検討していくと、光秀と子供たちとの親子関係、キリシタン教会がつなげた親子の絆が伝わってくる、と浅見雅一さんは結論する。

浅見雅一著『キリシタン教会と本能寺の変』を読み始める<小人閑居日記 2020.7.29.>
フロイスの報告書「信長の死について」<小人閑居日記 2020.7.30.>
信長の自己神格化、摠見寺建立<小人閑居日記 2020.7.31.>
信長の中国大陸征服計画と秀吉の朝鮮出兵<小人閑居日記 2020.8.1.>
「本能寺の変」当日の動き<小人閑居日記 2020.8.2.>
オルガンティーノの逃避行と光秀、右近<小人閑居日記 2020.8.3.>
明智光秀は、なぜ謀反を起こしたか<小人閑居日記 2020.8.4.>
織田信長のつくった城<小人閑居日記 2020.8.5.>
久秀・光秀の城、信長の城との違い<小人閑居日記 2020.8.6.>
信長の安土城と、光秀の坂本城<小人閑居日記 2020.8.7.>
領主光秀の優しさ、信長への我慢の限界<小人閑居日記 2020.8.8.>
城とビジョンの違いから「本能寺の変」へ<小人閑居日記 2020.8.9>

細川ガラシャの辞世と、『人よ、花よ、』2024/04/18 06:59

 静岡県の川勝平太知事が10日、辞任を発表した際、心境として細川ガラシャの辞世の句を引いた。 「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」。 これをテレビのニュースで見て、私は3月末で大団円を迎えた今村翔吾さんの朝日新聞連載小説『人よ、花よ、』の題名が、なぜ『人よ、花よ、』なのか、遅まきながら気付いたのだった。 川勝平太元知事、以て瞑すべし。

 細川ガラシャは、明智光秀の娘たま(珠・玉)、天正6(1578)年父の主君織田信長の発案で、細川藤孝(幽斎)の嫡男・忠興に嫁いだ。 二人の子は、天正7(1579)年長女於長(おちょう)、同8年長男忠隆(後の長岡休無)、同11年次男興秋、同14年三男忠利、同16年次女多羅(たら)が誕生している。 後に、忠隆は廃嫡されて、家督は忠利が継ぎ、不満を抱いた興秋は大坂の陣で豊臣側に与することになる。

 天正10(1582)年6月、本能寺の変が起こり、たまは光秀の娘として連座を免れなかったはずだが、忠興は離縁せず、丹後国の味土野(現、京都府京丹後市弥栄町)に幽閉した。 天正12(1584)年、信長の死後に覇権を握った羽柴秀吉の取り成しもあって、忠興はたまを細川家の大坂屋敷に戻した。 たまは、忠興が高山右近から聞いたキリスト教の話をすると心を魅かれていった。 そして、侍女を通じて教会とやりとりをし、書物を読むことで信仰を深め、受洗した侍女から密かに受洗し、ガラシャという洗礼名を受ける。

 慶長5(1600)年7月、忠興は徳川家康に従い、上杉征伐に出陣する。 その留守に石田三成が挙兵、大坂屋敷にいたガラシャを人質に取ろうと大坂城へ入るように命じたが拒絶され、翌日実力行使に出て兵に屋敷を囲ませた。 ガラシャは、屋敷内の侍女・婦人を外に出した後、自殺はキリスト教で禁じられているため、家老の小笠原秀清(少斎)がガラシャを介錯し、遺体が残らぬように屋敷に火を点けて自刃した。 この時、ガラシャが詠んだ辞世が、「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」(『細川家記』)だという。

「ボール表紙本」、福沢の女性論を批判2024/03/29 07:07

林望さんは、明治20年を中心に前後7、8年に出版された、「ボール表紙本」を多数蒐集しているそうだ。 和装本から洋装本にきりかわっていく過渡的な本の形で、内容は、林望さんの話した評論や自由民権運動などの演説本から、実録小説、人情小説などの通俗本、伝記、翻訳本などまで、いろいろあったようだ。

林望さんが例に挙げた、福沢の『日本婦人論』『男女交際論』などの女性論を批判する「ボール表紙本」。

〇丹霊源『国母論』(明治25年・和合社)。 「近来或る論者が専ら女子教育を説くに男女交際をせざるべからざることを主張すれ共、余輩は到底之に服する能はず(中略)余輩は是に於てか云ふ女子教育は専ら有用なる婦女を出す様に為さざるべからず。有用とは他なし、能く夫に事へ能く其子女を教育し能く家政を調理せば女子の業務は足れりと断言すべし」

〇骨皮道人笑閲、頑々居士戯著『頑固理屈 女権の反對』(明治19年・東京共隆社刊) 「扨(さて)貞とは、心を正敷(ただしく)して品行(みもち)を慎み、我亭主を敬ひ、真実を以て丁寧に仕(つか)へ、我亭主の為には身躰(からだ)も命も惜まず、其身を亭主に打まかせて、只一筋に亭主を大切に思ひ、我亭主の外に仮(たと)ひ業平・丹次郎・時次郎・伊左衛門の様な美男子があらうとも決して之を省(かえり)みず、又た我亭主が何様(どん)な馬鹿でも怪面(ひょっとこ)でも野呂間でも東変朴でも御短珍でも屁固助でも出額助(でこすけ)でも、少しもあなどらず、尻の下に敷ず、能く心を尽くして之をもりたて、万(よろず)何事でも亭主の心附(づか)ない事は気をつけ、縦(たと)ひ自分の腹から考へ出した事でも、場合によつては亭主の腹から出た様に取りなして、亭主の行届かない処をおぎなひ助くるを道とし、亭主が荒ッぽい性質(たち)の男で、此畜生と云ふが早いか、直(すぐ)に拳固が頭へ飛で来る様な乱暴でも、必らず其心に背かず、縦(たと)ひ何様(どん)な目に逢はうとも決して腹を立ず、ドウかして亭主の心柄(こころがら)を直し度(たい)ものだと夫(それ)ばかりに心を尽し、行ひの悪ひ事があれば、親あるひは子供などの身の上を引合に出して是々では私(わたく)しが誠に心苦しいとか世間へ対しても私しの顔が出せませんとか何とか、其処を旨く亭主の癪に障らない様に亭主の機嫌の宜時(よいとき)を見計らつて、意見を加へ、兎にも角にも亭主の気に背かない様に大事にかけて思ふのを貞と云ふのである。」

〇望月誠(長野県士族)『女房の心得』(明治11年・思誠堂)

〇痩々亭骨皮道人著『滑稽教育演説』(明治23年)

〇羽成恵造編輯『(文明実地)演説討論集』(明治21年2月・大阪安井兵助刊)

男女の交際、肉交と情交を論ず2024/03/28 07:09

 明治19年の『男女交際論』にはまた、こうある。 「元来男女の交際には二様の別あり。之に名を下(く)だせば、一を情感の交(まじわり)、一を肉体の交とも云うべきものならん。肉体の交とは文字の如く両生の肉体直接の交にして、人間快楽の中にても頗(すこぶ)る重きものなり。然りと雖も爰(ここ)に一歩進めてその交際の全体を視察し、裏より表よりその微細の事情を吟味するときは、男女の間柄は肉交を以て事を終るべきものに非(あら)ず。殊(こと)に人文漸(よう)やく開進に赴き、人の心志(しんし)を用る区域漸く広まりて、心事漸く多端なるに至れば、情感の馳(は)する所も亦(また)広く且(かつ)多端にして、男女の交際単に肉交の一事に止まるべからず。双方相互(あいたがい)に説を以て交(まじわ)り、文事技芸を以て交り、或(あるい)は会話し或は会食する等、同生相互の交際に異(こと)ならずと雖も、唯その際に微妙不可思議なるは異生相引くの働(はたらき)にして、双方の言語挙動、相互に情に感じ、同生の間なれば何の風情もなき事にても、唯異生なるがために之を聞見(ぶんけん)して快く、一顰(いっぴん)一笑の細(さい)に至る迄も互に之に触れば千鈞(せんきん)の重きを覚えて、言うべからざるの中(うち)に無限の情を催(もよ)うすその趣(おもむき)を形容すれば、心匠巧(たくみ)なる画工が山水の景勝に遇(あ)うて感動し、一片の落葉、一塊(いっかい)の頑石(がんせき)も、その微妙の風韻は他人の得て知らざる処に存するものゝ如し。即ち是れ男女両生の間に南風(なんぷう)の薫ずるものにして、之を名(なづ)けて情感の交とは申すなり。扨(さて)その情交の濃(こまやか)なること斯(かく)の如くにして、一方の肉交は如何(いかん)と云うに、固(もと)より重んずる所のものなれども、肉交必ずしも情交に伴うを要せず、両様の間甚(はなは)だしき距離あるものにして、各(おのおの)独立の働を為すのみならず、その性質を吟味すれば、肉交の働は劇(げき)にして狭く、情交の働は寛(かん)にして広く、而して人間社会の幸福の根本として両様の軽重如何を問うものあらば、我輩はその孰(いず)れを軽(かろ)しとして容易に答ること能(あた)わず、唯両様ともに至大至重(しだいしじゅう)にしてその一を欠くべからずと答えんのみ。」

 福沢の『男女交際論』は、よく売れた本で、海賊版も四つ出ている。 批判する本も多数出た(明日、触れる)。 森有礼は、青年の時、薩摩藩の密航留学生として西洋を見ており、契約結婚もしているのに、文部卿の立場としては、明治20年秋「第三地方学事巡歴中の演説」(『森有礼全集』第二巻)で、こう述べた。 「女子教育(上略)今夫(そ)れ女子教育の主眼とする所を要言せは、人の良妻となり人の賢母となり一家を整理し子弟を薫陶するに足る気質才能を養成するに在り、女子教育にして宜(よろし)きを得さる間は教育の全体鞏固(きょうこ)ならさるなり、国家富強の根本は教育に在り、教育の根本は女子教育に在り、女子教育の挙否(きょひ)は国家の安危に関係す、忘する可(べか)らす、又女子を教育するには国家を思ふの精神をも養成すること極て緊要なりとす、今国家の為めに要する女子教育の精神を言顕(いいあら)はさん為めに想像の例を挙くれは、母か孩児(がいじ)を養育する図、子を教ふる図、丁年(ていねん)に達して軍隊に入るの前母に別るゝの図、国難に際して勇戦する図、戦死の報告母に達する等の額面七八枚を教場に掲くること是なり。」                               (つづく)