なだいなださんの『江戸狂歌』を探して ― 2025/02/12 07:00
「福沢諭吉の「新作落語」「漫言」ジョーク集『開口笑話』」で福沢のユーモアの話をし、大河ドラマ『べらぼう 蔦重栄華乃夢噺』を見て思い出したのが、なだいなださんの『江戸狂歌』(岩波書店「古典をよむ-24」)という本のことだ。 書棚を探したのだが、見つからない。 代わりに、井上ひさしさんの『戯作者銘々伝』(中央公論社・1979)、田中優子さんの『江戸はネットワーク』(平凡社・1993)が出てきたのだが…。 なだいなださんの『江戸狂歌』について、「等々力短信」に「笑いを忘れた時代」というのを書いていた。
笑いを忘れた時代 「等々力短信」第399号 昭和61(1986)年8月5日
7月9日の朝日新聞「天声人語」は、この7年間に「しゃれや冗談をいうのが好き」な人が、激減したという、NHKの「ことばの意識調査」を紹介して、「黙々人間の大軍が粛々と行進する世の中になってきたのだろうか」、「しゃれや冗談をおもしろがる精神の衰弱を、おもしろがるわけにはいかない」と、言った。
作家の「なだいなだ」さんは、戦争が終わった時、「やれやれやっと、これから、笑ってもいい時代がくるのだな」と思ったという。 16歳の少年のこころにも、笑いたいのに笑えない時代が、けっしてよい時代とはいえないということが、ハッキリと分かった。 しかし、戦争が終わっても、笑いのほうは、おかしなことに、期待したほど戻ってこなかった。 「日本人にはユーモアが欠けている」、「日本人は、過去からずっと、くそまじめで笑いを知らない人間だった」、それは「日本的」なもの、日本人の「国民性」だという話を、たくさん聞かされて、ほとんど信じこみそうになった。 そんな時、ケストナーの「一眼の文学」というエッセイを読んで、目からうろこが落ちるということを、実際に体験した。 うろこばかりか、目まで落ちては大変と、目を押さえたほどだった。
ケストナーは、その中で、ドイツの近代文学は、生まじめで、笑いを忘れてしまっていた、と指摘した。 さらに踏み込んで、その笑いぬきの生まじめさが、プロシャとナチの軍国主義を作ったのだと、推論する。 ケストナーは、軍国主義者が笑いを禁じたのではなくて、近代ドイツの笑いを忘れた生まじめさこそが、軍国主義を生んだ根本だといったのだ。 また彼は、この生まじめさは、決してドイツの国民性によるものではない、近代ドイツが、一時的に笑いを忘れただけだ、中世ドイツは、とほうもないスケールの、大きな笑いを含んだ民話を、いくつもいくつも残した、ともいった。
なださんは、ケストナーに刺激されて、日本の過去に目を向けた。 そこには、ドイツとまったく同じような風景が見えてきた。 「日本人だって、決して、笑えない人間でも、笑わない人間でもなかった。けっこう、けたたましく、あるいは豪快に、声をあげて笑っていたのだ。生まじめさは、少しも日本的といえるようなものではなかったのである。笑いは、かつては、高く評価されていた。」 なだいなださんの『江戸狂歌』(岩波書店「古典をよむ-24」)の、この前置きは、長々と紹介する価値が、十分にある。
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