蔦屋重三郎のサロン<等々力短信 第1189号 2025(令和7).3.25.>2025/03/25 07:03

 本能寺の変の前、明智光秀は連歌の会で「ときは今あめ(天)が下知る五月かな」と、詠んだといわれる。 中世から日本詩歌のベースに「連」でつくる「俳諧の連歌」があった。 複数の人間の集まる場、「座」「連」でつくられるものは、それ以前から和歌、狂歌、物語、小説、絵画、演劇、音楽におよぶ日本文化の特徴であった。 それは基本的に、神の降り来たる「神座」だった。 複数の人間によって「ノリ」が生じると、個々が一人でおこなう場合の数倍の力を発揮する。 労働には早くからこの方法が取り入れられ、田植えからはじまる農耕では節目節目で、鳴り物を鳴らし、唄を唄い、踊った。 船頭も、馬子も、唄を唄った。 「連」の場のもう一つの機構は、「連なり」であり、サロンを構成する全員が集まらなくても、互いに影響を受け合い、連なりの中で才能を発見し、発見され、それを磨き、文化が形となっていく。 ここにも、時代の空気を濃厚に受けた「ノリ」が存在する。 その一例が、蔦屋重三郎のサロンであると、田中優子さんは『江戸はネットワーク』(平凡社)の「連の場」で指摘していた。

 蔦屋重三郎は吉原に生れ育ち、ガイドブック『吉原細見』を独占刊行していた鱗形屋の「改め」(編集)となって、小売取次商となる。 鱗形屋が海賊版事件で没落すると、『吉原細見』を独占、吉原大門口に書店・蔦屋耕書堂を開く。 その店に、地の利と蔦重の人柄で、吉原を使う作家や画家が集まり、サロンになっていく。 まず鱗形屋専属だった武士で黄表紙作家の朋誠堂喜三二、挿絵画家の北尾重政。 蔦屋のサロンから輩出した天才、山東京伝は当初、重政の弟子の挿絵画家、北尾政演(まさのぶ)だった。

 蔦重は、北尾重政の画で遊女を花に見立てた『一目千本』を刊行した。 吉原は江戸詰め武士の社交場でもあり、妓楼で生け花の会が開かれていた。 生け花は茶の湯に関連した武士の世界のものだろうが、その武士が江戸文化に狂歌師や戯作者として乗り出してきて、彼らの担った文化は江戸で町人文化と交叉する。 町人の版元が経営する出版業界に、多くの武士たちが、その深い教養と文化ごと入って来たのである。

 蔦重は、蔦唐丸(つたのからまる)の名で狂歌連に積極的に入り、狂歌を刊行するようになる。 天明2(1782)年秋、無名の喜多川歌麿は上野で宴席の主催者となった。 出席者は大田南畝、朱楽菅江(あけらかんこう)、恋川春町、志水燕十(しみずえんじゅう)、南陀伽紫蘭(なんだかしらん・絵師の窪俊満)、芝全交(しばぜんこう・大蔵流狂言師・山本藤十郎)、竹杖為軽(たけつえのすがる・蘭学者の森島中良)、北尾重政、勝川春章、鳥居清長など、名だたる狂歌師、絵師たちである。 おそらく蔦重の戦略で、この後、歌麿はこの狂歌連衆と組んで仕事をするようになり、「大首絵」を描くことになる。

コメント

_ 轟亭 ― 2025/03/28 10:30

当初、「太田南畝」と書いたのを、3月28日に「大田南畝」と訂正しました。

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