蔦重の仕事で、𠮷原と遊女は「江戸文化」そのものに2025/03/30 08:03

 蔦重は安永3(1774)年、北尾重政の画で遊女を花に見立てた『一目千本』を刊行した。 田中優子さんは、この本は明和7(1770)年に高崎藩士で洒落本作家の蓬莱山人が出した、江戸の有名人を生け花に見立てた『抛入(なげいれ)狂歌園』の踏襲であり、遊女は花に見立てられる江戸の著名人の仲間入りをし、𠮷原と遊女は蔦屋の仕事を通して、「江戸文化」そのものになって行った、とする。 「花魁(おいらん)」は、花のさきがけという意味だ。 1760年代に、「太夫」という位が消滅し、「おいらん」はその後に出て来た言葉だが、「花魁」の字が当てられたのは明和7(1770)年より後で、花に見立てるということが出版上でおこなわれ、その結果として「花魁」という文字が出現したと考えることも可能なのではないだろうか、と言う。

 『一目千本』は「出版物に付加価値を付ける」ことの延長線上にあり、さらに、吉原を文化的な天上世界に押し上げる意図を持って編纂された、と思われる。 吉原では売春が行われていた。 これが現実だ。 しかし、吉原では同時に、吉原芸者という、日本の芸能史上にその実力を刻む芸人たちがいた。 さらに、巷では次第に軽視されてゆく日本の年中行事が、吉原独特のかたちで継承され守られていた。 また、吉原と芝居町には茶屋という「もてなし」の最高峰が形成された。 日本の「もてなし」は、これらの茶屋を通して今日に至るまで受け継がれ、それは他国の追随を許さない。 蔦谷重三郎は吉原の醜さも素晴らしさも知り尽くしていた。 だからこそ、出版によってそれを江戸および日本文化の代表となし、さらには芝居も、それに並ぶ日本文化の象徴としたのではないだろうか、と田中優子さんは書いている。

 『一目千本』には、これから刊行される本の広告が載っている。 現在でも日本の書籍ではよく見られる、本に別の本の広告を載せることが、蔦屋から始まった新しい戦略であることはすでに指摘されているが、田中優子さんは管見では世界でも初めてのことではないだろうか、本を広告媒体とした世界初の事例かも知れない、と。

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