蔦重と平賀源内、出版物に付加価値を付ける2025/03/29 07:01

 2010年にサントリー美術館で開催された「歌麿・写楽の仕掛人 その名は 蔦谷重三郎」展の図録に、田中優子さんが「蔦谷重三郎は何を仕掛けたか」を書いている。 蔦谷重三郎は満24歳になった安永3(1774)年、版元・鱗形屋孫兵衛の吉原細見の「改め」(調査・情報収集・編集)および「卸し」「小売」の業者となり、その立場で『細見嗚呼御江戸』の仕事をした。 その序文を福内鬼外(ふくうちきがい)こと平賀源内が書いた。 しかし源内は吉原に出入りしない、鱗形屋で仕事をした形跡もない。 なぜ鬼外の序文を入れたのだろうか。

 明和7(1770)年、平賀源内が福内鬼外の名前で作った浄瑠璃『神霊矢口渡』が初演された。 これは人気浄瑠璃となり、今日に至るまで上演され続けている。 『神霊矢口渡』は須原屋市兵衛と山崎金兵衛が刊行した。 福内鬼外は、つぎつぎに浄瑠璃の新作をつくり、浄瑠璃界の人気作者となった。 それは山崎金兵衛が刊行し、鱗形屋は関わっていない。 小説家、エッセイスト、本草学者であり、鉱山開発や工芸品を手がける産業指導者でもあった平賀源内を、版元が放っておくはずがない。

 源内は、幕臣の大田南畝が明和4(1767)年に刊行した『寝惚先生文集』の序を書いている。 この刊行で南畝は、出版界の寵児となる。 しかし南畝が吉原大門口の蔦屋を訪れるのは、もっと後のことだ。 朋誠堂喜三二が気になる。 喜三二が蔦屋で刊行するのは、安永6(1777)年からだが、その前から鱗形屋と関係があった。 平賀源内は、『細見嗚呼御江戸』刊行の前年、長期にわたる秋田出張をおこなっている。 秋田藩と密接な関係があったのだ。 朋誠堂喜三二は、秋田藩士平沢常富(つねまさ)のことである。 また、『神霊矢口渡』以降、福内鬼外の浄瑠璃本を刊行した山崎金兵衛は、後に蔦屋と『青楼美人合姿鏡』を提携出版する。 山崎金兵衛は鱗形屋と親しい関係にあったのかも知れない。 あるいは重三郎が貸本業者として関わっていたか、どちらにしても、『細見嗚呼御江戸』の序を福内鬼外と発想したのは重三郎であろう。 出版物に付加価値を付ける、という行為は鱗形屋には見られず、蔦屋のそれ以後の仕事に頻繁に見られるからである。

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