慶應義塾、上原三兄弟良春・龍男・良司の戦争 ― 2025/08/22 07:08
慶應義塾塾史展示館では、6月19日から春季企画展「ある一家の近代と戦争 上原良春・龍男・良司とその家族」が開かれている(8月30日まで)。 同じ『三田評論』8・9月号の巻頭「丘の上」には、元医学部病理学教室の青木貞章教授の長女横山房子さん(1954文学部卒)が「上原家の三兄弟の想い出」を書いている。 青木教授は松本出身で慶應医学部の三回生、遠縁にあたる安曇野の旧有明村の開業医だった三兄弟の父上原寅太郎とは「義兄弟」と誓い合った大親友で、両家は家族のようにお互い出入りしていたという。 青木教授が慶應に入ったのは、祖父が自分の戒名を「独立自尊居士」とつけた福沢先生ファンで、勝手に願書を出したかららしい。 その青木教授の影響で、上原家の長男良春、次男龍男は旧制松本中学から慶應医学部に入学し、房子さんが「良司兄さん」と呼んでいた三男は医学部に落ちて、一年間高円寺の青木家に下宿して予備校に通い、経済学部に入った。
青木教授は長く出征していて、昭和19年秋、房子さんが白百合の女学校1年生の時、青木家は父の故郷松本の寿村赤木に疎開した。 学徒出陣で陸軍にいた「良司兄さん」が訪ねて来てくれ、母と弟の三人で駅までの道を送って行った。 「ここでいいから」と言われ、見えなくなるまで、「さよなら」と言い合って別れた。 出撃するとも何とも言わなかったけれど、麦畑に三人でしゃがんで、声を上げて泣いてしまった。
上原良司は、翌月5月11日、鹿児島の知覧飛行場から三式戦闘機「飛燕」で特攻出撃して戦死した。 長男良春は医学部卒業後に陸軍軍医となり、終戦直後の9月にビルマの捕虜収容所で戦病死、次男龍男も医学部卒業後に海軍軍医となり、昭和18年9月ニューヘブリデス諸島沖で伊号潜水艦と共に戦死しており、上原三兄弟はともに戦争で亡くなった。
上原良司の特攻出撃前夜の遺書「所感」は、『きけわだつみのこえ』で有名になった。
「自由の勝利は明白な事だと思います 明日は自由主義者が一人この世から去ってゆきます 唯願はくは愛する日本を偉大ならしめられんことを国民の方々にお願いするのみです」
「栄光ある祖国日本の代表的攻撃隊とも謂ふべき陸軍特別攻撃隊に選ばれ身の光栄之に過ぐるものなきを痛感致して居ります 空の特攻隊のパイロットは一器械に過ぎぬと一友人が云った事は確かです 操縦桿を採る器械 人格もなく感情もなく勿論理性もなく、只敵の航空母艦に向って吸ひつく磁石の中の鉄の一分子に過ぎぬのです 理性を以て考へたなら実に考へられぬ事で強ひて考ふれば彼等が云ふ如く自殺者とでも云ひませうか 精神の国、日本に於てのみ見られる事だと思ひます こんな精神状態で征ったなら勿論死んでも何にもならないかも知れません 故に最初に述べた如く特別攻撃隊に選ばれた事を光栄に思って居る次第です」
わが家も、三兄弟が慶應義塾で学んだが、平和な時代で、のんべんだらりと育って暮らすことができたのは、有難いことだったと、思わずにいられない。
コメントをどうぞ
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。
※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。
※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。